七月七日は七夕。毎年の恒例行事を一週間後に控えたMANKAI寮では、今年も大きな笹が中庭を飾っていた。
今はまだ殺風景な笹だが、日を置かずに色とりどりの飾り物や短冊で彩られるであろう。仕事から帰った茅ヶ崎至は、自室に戻る途中でさらさらと音を立てて揺れる笹を眺める。その手には、ブルーの短冊が一枚。
劇団員全員に配布される七夕用の短冊。至が手にしているのは自分のものではない。自分の願いごとはさっさと短冊に書き、談話室にいた皆木綴に預けた。綴は至の短冊を一瞥し、ブレないっすね、と半笑いで応える。
『ガチャでSSR神引き』
毎年変わらない願いごと。監督に渡しておきます、と綴は受け取り、空の短冊をもう片方の手に取る。
「えっと、千景さんにも書いてもらいたいんすけど、……」
「今日は遅くなるって。預かっておくよ」
はい、と手を出した至に、綴は安堵の色を浮かべてブルーの短冊を差し出した。至は眠たげな瞳で、空っぽの短冊を見つめる。
そんな遣り取りの後の、中庭にて。
つまり、今、至が手にしているのは千景用の七夕の短冊だ。毎年、願いごとがないだの何だのとごねる卯木千景に、とりあえず何でもいいから適当に書いてください、と押し付けるのはすっかり至の役目と化している。
今年も、至の願いごとと、千景の願いごと――毎回内容が控えめすぎて、そんなのは神社で賽銭を投げて祈ったほうがいいんじゃ、と至は思うのだが、とにかく、一週間後には二人の短冊が中庭の笹を飾る、はずだ。
部屋に戻った至は流れるようにパソコンデスクでゲームの準備を始め、ヘッドセットを装着して気持ちを切り替える。ゲームに集中すれば時間の感覚は消える。あっという間に日付を跨ぎ、気が付いた時には深夜と朝方の中間地点に到達していた。
「……そろそろ寝るか」
まだ寝ないの。いい加減に寝ろ。朝起きれなくても知らないよ。そんな台詞を投げる者は今この部屋にいない。向かって左側のベッドが空なのを確かめて、至は綴から預かった短冊をソファ前のローテーブルに置いた。
『今年の宿題です。願いごとを書いておいてください』
手書きのメモを添え、くあ、と至は身体を伸ばしながら欠伸を洩らす。眠たげに目を瞬かせつつ、もう一度千景のベッドを見た。
「ていうか、今日、帰ってくるのかな」
遅くなる、と勝手に綴に返事したが、もしかすると出張と答えたほうがよかったのかも知れない。今朝はいつも通り至より先にスーツを着て出掛けた千景だが、職場のスケジュールには「出張」と書いてあった。当然の如く、職場では千景と顔を合わさずじまいだ。
スマートフォンを確認するが、千景からのメッセージは届いていない。代わりに天気予報アプリを起動して、至は一週間後の天気を確認する。
「うわあ」
大きな傘マークが一つだけ表示された天気予報。催涙雨ってやつか、と至は呟いた。織姫と彦星の年に一度の逢瀬。今年は残念ながら会えそうにない。
「大体、年に一度のチャンスなんて少なすぎるだろ」
ぶつぶつ呟きながら、至は自分のロフトベッドの梯子を上がった。雨天中止なら候補日は他に用意して然るべき。運を天に任せたくなる気持ちは、自らの運命をガチャに託す至としては分からなくもないが、七夕の場合は自分だけでなく相手の運命も左右する。
至は布団に潜り、部屋の照明を落とした。瞼を下ろす前に天井を睨み、だって、と小声で洩らす。
「……俺と先輩なんて、同じ部屋にいてもこんなに会えないんだから」
朝一瞬だけ顔を見た。いってくるよ。いてら。そんな短い会話だけ。一昨日だって帰宅したのは至の就寝後だった。至の知り得ない千景の「仕事」。この先千景がもっと忙しくなって、もっと二人は会えなくなって、とうとう年に一度きりのカササギの橋を頼りにしないといけなくなって。
でも、七夕の夜は雨だ。催涙雨。夜空を埋め尽くす厚い雲。空から絶え間なく降り注ぐ雨に自らを晒し、そこに自分の涙を混ぜるなんて真似を――。
「馬鹿馬鹿しい」
頭を振って妄想を払い、至は布団に頭まで潜り込ませた。
それは、とある昼下がり。至のスマートフォンの画面に表示された一件のメッセージ。千景だ。一年ぶりの、千景からの連絡。至の胸が弾み、すぐに萎む。
『今、空港にいる。二時間後のフライトで出発するよ』
そのメッセージを目にした至は、MANKAI寮を飛び出した。空を見ればどんよりと濃灰色の雲で覆われている。母屋を抜けて、真っ直ぐ駐車場へ。自分の車に乗り込みエンジンをかけようとするが、空回るような音が鳴るばかりで一向にエンジンがかからない。もしかして、故障か。
え、と至は戸惑いの声を洩らし、他の移動手段を、と考えた直後にスマートフォンがないことに気付いた。落としたか、部屋か。慌てて一〇三号室に戻ると、ソファに残された至のスマートフォン。寝る時だって手放さないのに何で、と至は舌打ちし、スマートフォンを握り締めて再び部屋を出た。
車で向かうのは諦め、今度は天鵞絨駅へと向かう、否、向かったはずだった。
「……は?」
息を切らし、曲がり角を曲がる。このまま真っ直ぐ進めば駅前通り。そのはずなのに、眼前に広がった光景に至は呆然と立ち尽くした。
まるで知らない光景。道を間違えたのか、と至は即座に踵を返そうとするが、振り返った先にあるのも見知らぬ景色だった。
天鵞絨町で暮らしてもう数年。この街で知らない景色なんてないはずなのに。至は周囲を見渡しながら出来るだけ大きな道を探す。何とか車通りの多い道に出て、タクシーを拾って「羽山空港まで」と告げる。
全身に汗が吹き出し、肩で息をする。呼吸を少し落ちつけてから、至は窓の外の景色を見た。そして、ぎょっと表情を凍り付かせる。
空港があるのは臨海地区。それなのに、タクシーは真っ直ぐ山へ向かって走っていた。至は運転席の背凭れを掴み、身を乗り出して声を上げる。
「ちょ、運転手さん。行き先は羽山空港ですけど」
「ええ、分かってますよ」
「いや、全然違いますよ」
初老の運転手は至の言葉をまともに取り合わない。スマートフォンで時刻を確認すれば、出発時刻は一時間後に迫っていた。ああ、先輩が出発してしまう。いなくなってしまう。せっかく一年ぶりに会えるのに。
至がそう思った直後、ぽつり、と窓に大粒の雫が落ちた。続いて、灰色の雲から雨粒がぼたぼたと降り注ぐ。催涙雨だ。一年ぶりの逢瀬は叶わない。至は奥歯を強く噛み、もう一度運転手に声を掛ける。
「運転手さん、もういいからここで下ろして」
この運転手と話しても埒が明かない。別のタクシーを拾って空港を目指そう。
「ははは、大丈夫ですよ、お客さん」
「いや、大丈夫じゃないって」
「大丈夫ですから」
「もう、俺は」
降ります、と至は言いながら手をドアへと伸ばす。減速したタイミングで車を飛び降りて、と普段の至なら絶対に考えないような発想が過った、その時。
「茅ヶ崎」
聞こえるはずのない声が、頭上から聞こえた。
目を開けるが、視界が暗い。あと、若干息苦しくて暑い。至は眉根を寄せてから、布団を頭まで被って寝たことを思い出した。
布団から頭を出すと、千景が隣のベッドから柵越しに身を乗り出して至の顔を覗き込んでいる。こちらを見つめる薄花色の双眸に、あれ、と至は寝惚け眼で呟いた。
「あれ、先輩は空港じゃ」
「は?」
「いや、何でもないです」
夢か、と至は大きく息を吐き、首と額に浮いた汗を拭った。碌でもない夢を見た。夜が冷える時期でもないのに頭まで布団を被って寝たせいだろう。
至が布団を除けてゆっくりと上体を起こすと、千景は少し身体を引きながらも視線は至から剥がさない。部屋の照明は落とされたまま。しかし、闇なんて存在しないかのように、千景の瞳は至の様子を追った。
「随分うなされていたよ」
「変な夢を見ちゃったんで」
でも、大したことないです、夢だし。至は軽い調子で付け足そうとするが、言葉が乾いた喉に貼り付いて声が上手く出てこない。相変わらず千景の視線は外れず、至は話題を切り替えようと僅かの間だけ口を噤んだ。
「……あ、七夕の短冊をテーブルに置いておきました」
「見たよ」
「見るだけじゃなくてちゃんと書いてくださいね。年に一度の宿題です」
「はいはい」
千景はおざなりに返事して、自分のベッドに戻って寝ようとする。至の様子に問題がないと判断したのか、はたまた、話を自分に向けられて逃れようとしているのか。
二人のベッドを隔てる木製の低い柵。今度は至がそこに手を置き、先輩、と口を開いた。
「先輩って」
「ん?」
「もしも、俺と年に一度しか会えなくなったらどうしますか」
「は?」
「いや、やっぱりいいです」
何言ってんだろ、と至は唇を歪め、あはは、と誤魔化すように笑った。
「俺も、もう寝ます」
今度は頭まで布団に潜らないようにします。至は千景に背を向けてベッドに横たわろうとして、しかし、背後から伸びた両手にその身を捉えられて身動きが取れなくなった。
千景は柵越しに伸ばした手に力を籠め、ぐいと至の身体を手前に引き寄せる。ベッドの柵が腰と背中に当たり、少しだけ痛い。けれど、そんな些細な痛みよりも、ずっと。
(……胸が、ずきずきする)
直接触れられたわけでもないのに、至の胸の奥に痛みが生まれた。否、触れられているのかも知れない。千景の声に、体温に、心に。
「俺が、もしも、茅ヶ崎に年に一度しか会えなくなったら」
「はい」
何だその話ですか。至は自身の戸惑いを見せまいと、へらりと緩んだ笑みを浮かべた。千景は至の耳裏に唇を寄せ、声と吐息で肌を撫でる。
「狂う」
その声に、ぬるい息に、ぞくりと至の背筋が震えた。鼓膜から伝わる千景の声が脳髄を痺れさせ、全身に熱を伝える。至はきゅっと唇を噤み、千景の次の台詞を待った。
不意に、笑いを混ぜた吐息が、至の耳に触れた。
「いくら待っても『なんてね』って言わないよ」
「……ずるいですね」
「ずるいよ、俺は」
「知ってます」
笑いの色を残した千景の言葉を、至は突き放すように敢えて硬い声で斬る。
密着した二人の身体。心に触れられるくらいの距離。そう、だから、ほんの少しだけ距離を作らなければならない。俺は、と至は淡々と言葉を続けた。
「俺は『ひとり』に慣れているんです。むしろ、ずっと『ひとり』を選んで生きてきたんで」
「そう」
「だから、もしも、年に一度しか会えないなんて、今よりももっとずっと先輩に会えなくなったりしたら」
「会えなくなったら?」
どうなるの、と先を促す声。僅かに混ざった焦りの色に、至は唇をそっと笑みの形で象った。
「俺は、先輩のことを忘れます」
「……茅ヶ崎もずるいな」
「知らなかったんですか」
「知っていたよ」
ふ、と千景の吐息が至の耳裏に触れる。笑いを混ぜた息。笑いに混ざる苦い色。お前は、そうだろうね。千景は夜の空気に紛れそうな平淡な声を吐いた。そして、さらに腕に力を籠めて、自身の胸を至の背中に押し当てる。
「じゃあ、忘れられないように、今夜はこうして茅ヶ崎の傍にいよう」
あまりにも一方的な台詞と共に、熱を帯びた吐息が耳裏をやわらかく撫でる。至を捉える千景の手に、さらに力が籠る。痛いくらいだけど、やっぱり胸のほうがずっと痛い。
至は自身を閉じ込める千景の手に、自分の手を重ねた。千景の白い手と、同じくらい白い至の手が触れる。繋がった手は、まるで、川を渡すカササギの橋の如く。この橋ならば、もしかして、大粒の雨が降っても流されないだろうか、なんてことを考える。
「ちなみに、この願いごとは短冊に書いちゃだめですよ、先輩」
「俺が叶えないと意味がないからね」
分かっているよ、と告げた千景の声。吐息に混ざる熱の濃度が増す。そんな千景の熱が移ったかのように、至の身体の芯に火がともった。
翌朝、至が目覚まし時計に叩き起こされながらベッドに身体を起こすと、千景の姿は既に一〇三号室から消えていた。早っ、と呟き、至はロフトベッドの梯子を下りる。
今日は帰ってくるのかな。独り言ちながらソファ前のテーブルを見遣れば、昨夜ブルーの短冊に添えたはずの至のメモ書きが消えていた。ちゃんと書いたのか、えらいえらい。至は緩んだ表情で千景の短冊を手に取る。
『不安にさせませんように』
誰が、誰を、不安にさせないのか。肝心な情報が抜け落ちた千景の短冊。これって誰が書いたの。この字はもしかして千景さんかな。不穏の間違いじゃねえのか。そんな劇団員たちの声が、至の頭を過る。
「……やっぱり、先輩の方がずるいな」
ふっ、と至が吐息に笑いを含ませれば、手にした千景の短冊が笹の葉のように揺れた。
【白き橋の先には】おわり