【アンダンテ・スピアナート 3】春組第六回公演『春ケ丘Quartet』は盛況のうちに千秋楽を迎えた。
満員御礼の客席、土砂降りの雨のような拍手。かつて夢にすら描けなかった光景が、確かに至の眼前に広がっていた。
そんな夢よりも現実離れした時間は過ぎ去り、おじいさんは山へ芝刈りへ、お父さんは川へ洗濯へ――ではなく、卯木千景は海の向こうに出張へ、そして、茅ヶ崎至は社畜として残業の日々を送る。
ぴんぽんぱんぽーん。
天井の高い建物に響く音色。間もなく搭乗手続きを締め切ります、と続いた女性のアナウンスに、至は何となく頭上を見上げた。その間にも旅行客や出張客が至の両脇を忙しなく行き交う。
空港の出発ロビーにひとりで突っ立っていた至は、視線を保安検査場へと向けた。窓の向こうの、飛行機の出発時間を待つ旅行客のさらに向こう側。窓の外を、ごおお、と音を立てて飛行機が飛び立つ。この間はあれを海から見たな、と至の頭の片隅を在りし日の景色が過った。
そして、あの時、俺の隣にいたのは。思考があらぬ方向へ向かいそうになり、至は慌てて手元に軌道修正する。
「……まあ、なかったこと、なんだけど」
くるりと踵を返し、至はぽつりと呟いた。
今日は職場の上司に頼まれ、空港まで車で送り届けた。急ぎの仕事はないし、空港のカフェでソシャゲのスタミナを消費してから会社に戻ろうか。至がレストランフロアへと繋がるエスカレータへと向かおうとした、その時、視界の端に見慣れた白のスーツケースが映った。まさか、と思いながらそろりと視線を上げれば、薄花色の瞳とばちりと目が合う。
「あ、れ……?」
「俺達はどうしたってこの街で出会う運命みたいだね」
「運命なんてまったく信じてなさそうな先輩が昼間から寝言言ってるワロ」
穏やかな声を投げた千景に、あはは、と至は乾いた笑い声を零した。そりゃあ、笑いだって込み上げる。だって、先輩が出張から戻るのは二日後の予定ですよね。この間の二の舞過ぎる。本当にどうして会うんでしょうね。そんな気持ちを、至は全部曖昧な笑みに混ぜた。
海の玄関口で遭遇した次は、空の玄関口。旅行客が絶え間なく通りすぎる空港の出発ロビーで、千景と至だけが足を止めて見つめ合う。
浅い笑みを浮かべた千景はそれ以上話そうとしない。はあ、と至は溜息を零し、へらりと緩んだ笑みを見せた。
「寮に帰ってきたら、またちゃんと先輩を見てあげますよ」
じゃあ、俺はここで。見なかったこと、見なかったこと。唱えながら立ち去ろうとした至に、しかし、千景は腕を掴んで引き留めた。顔には相変わらず秀麗な微笑――ただし、すこぶる胡散臭い。
「何か用ですか」
やさしい後輩がせっかく気を利かせてあげたのに、と至は軽く睨んでみるが、千景は表情を一切変えずに受け流す。そして、まるで関係のない台詞を投げ返した。
「美味いうどんが食べたくない?」
「……食べたいって言ったらどうするんですか」
「お前と一緒にこれから四国に飛ぼうかなって」
思って、と千景はチェックインカウンターを指差して話す。そんな千景を前にして、なるほど前回と同じパターンか、と至は即座に察して、察してしまう自分に少し嫌な気分になった。
きっと先輩は、俺が意図を察するところまで読んでいる。ここで「え、何で」と真顔で質問できる天然さが欲しかった。唇を軽く噛んだ至の目の前に、二択のダイアログボックスが表示された。行く、行かない。さあ、どっち。
口を噤んだ至から手を離さず、千景は滔々と話を続ける。
「オズ公演が終わってすぐに山の展望台に行っただろう? ナイラン公演の後では船に乗った」
陸海空、あとは空を制覇するだけだ。さあ、行こうか。手に力を籠めようとする千景に、至は呆れた眼差しを送った。
「船って何のことですか。ナイラン公演の後すぐに先輩は出張に行って、あれは『なかったこと』になってるはずでしょ」
「『なかったこと』にしてほしくないって言っているんだよ」
「はあ……」
ワケワカラン、と至は呟き、保安検査場手前の案内用ディスプレイを見た。画面にずらりと並ぶ、本日のフライトの情報。
「……四国行きの便まで、あと三時間はありますけど」
「それは残念だ」
じゃあ、ここでお別れだね。千景は至を掴む手を緩め、身体を空港の出口に向けようとする。グレーのスーツに包まれた千景の背中を見て、むかつく、と至は舌打ちした。
(なかったことにしてほしくない、って言ったくせに)
背を向けた千景は、白のスーツケースを引いて出口へと向かう。至は大股で歩いて千景を追いかけ、背後から千景の腕をむんずと掴んだ。
千景は足を止め、肩越しに振り返る。何、と問い掛けた表情はゾッとするくらいに冷たい。至が知らない「はず」の千景の仕事。おそらくそちら側へ切り替えた直後なのだろう。至は構わずに口を開く。
『如月先輩、今日のプレゼン頑張りましょうね」
「は?」
怪訝そうに顔を顰めた千景に、至は外用の笑顔で綺麗に微笑んでみせた。
「エチュードなら先輩に付き合うってことですよ」
「え?」
「商談で大阪に出張したサラリーマンが、プレゼンを終えてたこ焼きを食べるエチュードっていうのはどうですか」
「ああ、悪くないね」
唇の片端を歪めて問い掛けた至に、千景は視線を緩めてこくりと頷いた。そのまま互いに何も言わず、航空会社のカウンターへと向かう。関西方面の便は多い。一番早い便を取り、千景と至は保安検査場へと向かった。
スーツを着た成人男性が二人。多少顔が整っているが、サラリーマンご用達路線の利用客の中に千景と至に気を留める者はいない。
千景が先に保安検査場に入り、金属探知機のベルトコンベアにスーツケースを置いた。あの中身、絶対やばいものが詰まってるよな。至は金属探知機を通過する千景のスーツケースを、何となくじっと見守ってしまう。
ぼんやり見ていると、榊原、と千景が金属探知機の手前で声を掛けた。榊原って誰。至が眉根を寄せれば、千景が至の頭を軽く叩く。ああ、俺か。そういえはエチュードの最中だった。千景に続き、至も金属探知機のゲートを通過する。
『榊原、事務所に仕事を残しているんじゃないのか』
『明日の俺が頑張るんで大丈夫です。先輩の「仕事」には支障がないんですか』
『ネットが繋がれば、どこにいても問題はないよ』
締め切り時間寸前に保安検査場を通過した二人は、そのまま出発ゲートへと向かう。優先搭乗を案内する係員。千景と至はゲートの列に加わった。一時間程度のフライトなのに、千景が勝手にビジネスクラスを取ってしまった。
千景に促され、至は窓側の席に座る。当然、隣は千景だ。
『せっかくだから、離陸したら何か飲もうか』
メニューを手に取った千景に、至は眉間に皺を寄せて声を投げた。
『いつもそんなに出張をエンジョイしてるんですか』
『今日は特別』
隣から意味ありげな視線を送る千景に、ソウデスカ、と至は棒読みの相槌を打った。まともに受け取れば馬鹿を見る。全身を包み込むようなビジネスクラスのシートに、至は力を抜いて身体を沈める。
ボーディングブリッジから離れた飛行機が滑走路をゆっくりと進み、のち、一時停止する。ごおお、とエンジン音が一際大きくなり、速度を上げた飛行機がテイクオフ。全身が持ち上げられるような浮遊感と共に、機内の景色が傾いた。
窓越しに外を見ると、いつも自分が溶け込むはずの街があっという間に遠ざかる。いつか千景と一緒に山の展望台から見た景色。それよりも遠く、小さくなる。
『世界で二人きりになったみたいだね』
千景が顔を寄せ、至の手を握った。おいおいおい。至は引き攣った笑顔のまま心の中で盛大につっこみをいれる。
如月と榊原。こんな風に手を握ったりして二人は一体どんな関係なんだ――って、まあ、千景さんも普通に俺の手を握ったりしますけど。何ていうか、ほら、先輩って普段塩対応全開のくせに、こういう時だけ手を繋いだりするんですよね。胡乱な眼差しを向けながらも、今はエチュード中だから許してあげます、と至は半ば言い訳のように締め括る。
至の胸の内に構う様子もなく、千景はさらに顔を寄せて窓の外を指差した。至の心臓がどきりと跳ねるが、何とか顔に出すのを堪える。
『あの街で、俺達は出会ったね』
千景がそう告げる間にも飛行機の高度は上がり、やがて、白い雲に隠れて二人の街は見えなくなった。
『同じ会社、劇団、寮の部屋。二人の生活はあまりにも重なっている。だから、出会うのは偶然ではなく必然なんだよ。行動範囲や生活パターンが似れば、どうしたって出会いやすくなる。運命なんてものは存在しない』
『ノーロマン、乙』
やっぱり運命なんて信じてないじゃないですか。胸の内でぼやいた至の傍らで、千景が間を置かずに声を出した。
『でも、その必然の縁がお前に結ばれるのは、正直、悪くない』
『……そうですか』
そんな台詞を、たとえエチュードだとしても、至近距離で言わないでほしい。至は唇を歪めつつ、できるだけ素っ気なく返事した。そうだよ、と言って、千景はさらに至に顔を寄せる。もう吐息すらも触れそうだ。
「茅ヶ崎は、どう思う?」
「訊いちゃうんですか、それを、俺に」
茅ヶ崎、と呼ばれた至は、こみ上げそうになる感情の波を誤魔化すように緩んだ笑みを滲ませた。エンジン音に消されないぎりぎりの音量。間近で囁かれた声が、至の頭の中を反響する。
エチュードだから。そんな言い訳はもはや通じない。名前を、呼ばれてしまった。いまや、芝居の魔法はとけた。如月と榊原は、卯木と茅ヶ崎に戻る。
至は唇を開き、すぐに閉じる。そして、千景から視線を外して窓へと顔を向けた。眼下には、綿菓子のような厚い雲。都会の濁った大気を覆うとは思えないくらいにどこまでも白い。
「曇って、こんなに白いんですね」
「茅ヶ崎も飛行機は仕事で割と乗るほうだろう」
何を今さら、と言わんばかりの声色に、至は窓の外から視線を外さずに続きを口にした。
「いつもは離陸したら即寝るか、ゲームするかの二択なんです」
だから、こんな風に。至は話しながら、ようやく隣の千景を見た。
「ちゃんと起きて、話したり、景色を見たり、あとは、芝居したり。そんなのは全部、先輩が隣にいる時だけですよ」
それが答えです。早口で告げて、頬に集まる熱を気取られまいと至はふたたび窓へと顔を向けようとする。が、そんな至の視界を、突然縦長の厚紙が覆った。押し当てられた機内メニューに、うぷ、と至は呻き声を洩らす。
「今、無性に乾杯したい気分だ。茅ヶ崎はどのワインがいい?」
メニューに並ぶのは、古今東西のワインの銘柄。至はメニューを少しだけ見て、すぐにそれを千景の手に押し付けた。飲まないの、と不満げに瞳を細める千景に、今は、と至はにやりと笑む。
「あっちに着いたら、たこ焼きを食べながら生ビールで乾杯しましょ」
ついでに街を歩いてみてもいい。自分たちの街の陸海空は制覇できたから、今度は別の街を、少しずつ、二人で。
「それに、そんなに大袈裟にしなくても、まあ、多分、俺達はまたきっと何度も必然的に出会いますし」
至は音量を落とし、らしくない台詞を付け足す。エンジン音に混ぜてしまおうという至の魂胆とは裏腹に、隣で千景が嬉しそうに微かな笑い声を零した。
【アンダンテ・スピアナート 3】おわり