ある日、ガイが店の常連客に頼まれて弁当を作るという話になり、常連客と同じく会社員の卯木千景と茅ヶ崎至は弁当の中身についてアドバイスを求められた。
思うがままに回答した結果ガイの参考になった気はしないが、それでも、ガイは何かを得たような顔で「助かった」と丁寧にお辞儀した。普段あまり痛まない至の良心が少しだけ痛む。
そんなMANKAI寮の日常の一幕から、一時間ほど過ぎた頃。
「それで、茅ヶ崎はいつ俺の弁当を作ってくれるの?」
「はあ?」
唐突に、一〇三号室に響いた千景の声。至がパソコンデスクから「何言ってるんですか」と思いきり怪訝な顔を向ければ、ロフトベッド下の椅子でノートパソコンを操作していた千景が顔を上げる。完全なる真顔。冗談を言っているようには見えないが、この男はこんな顔で平気で嘘を吐くから油断は禁物。
千景は眉ひとつ動かさず、淡々と言葉を口にした。
「明日から俺は出張だ」
「知ってますよ。海外に一週間の予定ですよね。ちな、具体的な地名は秘密」
「会社にはフランスって報告しているからフランスでいいよ」
「『でいいよ』って何ですか。あまりにも不穏すぎる」
ていうか、それよりも、と至は二人の会話を軌道修正する。
「弁当って何ですか。海外出張なら機内食の出番でしょ。空港にだって店は沢山ありますし」
「機内食は口に合わないし、空港は好きな店がないんだよ」
「先輩の地獄の舌に合う味なんて出されたら、先輩以外は全員大惨事ですよ」
至極真面目な顔で語る千景に、至はそんざいな口調で言葉を投げ返す。まともに取り合っては馬鹿を見る。年下で、職場の後輩。一応敬語は使っているが、態度は横柄そのもの。最初の頃はそれでも一応気を遣っていたような気もするが、今となっては遠い昔だ。
「で、茅ヶ崎は俺の弁当を作らないの?」
「作る理由がありません」
「理由があればいいのか」
なるほど、と千景は口元に手を当て、首をほんの少し傾げた。ノートパソコンの蓋を閉じ、部屋中央のソファ越しに真っ直ぐな視線を向ける。ビーム光線の如く、千景の眼差しが一〇三号室を貫いた。
「茅ヶ崎の手作りの味に見送られて、俺は日本を出発したい」
というのでは駄目かな。千景は声を弱めて最後に付け足し、唇に浅い弧を描く。そんなの駄目に決まってるでしょ。昼間から寝言言わないでください。弱気っぽく見せてもドヤ顔でバレバレですから。一気に溢れ出すはずの台詞は、しかし、すべて至の喉奥で詰まって外に出てこない。
「だ……っ」
半開きの口をぱくぱくと開閉するだけで、だめ、とすらも言えず、至の圧倒的敗北によって二人の試合はあっさり終了した。
そんなこんなで、楽しいゲームタイムを終えた午前三時。
至は忍び足で母屋のキッチンに向かい、冷凍庫からラップに包まれた米飯を取り出す。劇団員が腹をすかした時のために、伏見臣が用意してくれたものだ。ありがとう、オカン。心の中で御礼を言って、至は米飯を電子レンジで解凍した。
ぐおんぐおん。静寂に包まれたキッチンに、電子レンジの低い音だけが響く。至は仁王立ちで腕を組み、親の仇のように電子レンジの窓越しに米飯を睨んだ。
(あー、もう、くそっ)
ラスボスめ、こっちの弱点を的確についてくる。これはあくまで、俺が必殺攻撃を食らってしまった結果で、別に、先輩が俺の手作り弁当を食べたいと言ったのが嬉しかったとかじゃない。まあ、ちょっとは嬉しいけど。
しかし、何よりも。
(真面目な顔して嘘吐く癖に、逆パターンも仕掛けてくるのがさあ……)
冗談に見せかけ、素直な気持ちを籠める。真実は弱さだと言って嘘ばかり口にする千景にとって、自分の気持ちを口にするのは果てしなくレアケースだ。至には分かる。あの先輩は、割と本気だ。そして、素直な千景に、至は滅法弱い。
とはいえ、至が作れるのはおにぎりくらいだ。それは千景も分かっているようで「弁当箱だと荷物になるから、おにぎりはアルミホイルに包むだけでいいよ」と言われた。至が気を利かせておかずを作るという発想は、千景にはないらしい。当然、至も千景のそんな予想を裏切るつもりはない。
水で濡らした手に軽く塩をつけ、至は電子レンジで解凍したご飯に手を伸ばす。自分の夜食を作る時と同じようにそのまま米飯を握ろうとして、至はふと手を止めた。
「あ、具があったほうがいいか」
普段は焼きおにぎりにしてしまうので具は入れないが、今回は千景が食べるまでに少し時間が空くから焼いていない、いわゆる、ノーマルおにぎりを作るつもりだった。塩にぎりでもいいが、おにぎりの具程度なら特に調理技術は必要としない。
千景は今から数時間後にMANKAI寮を出て、朝一番のフライトで日本を発つ。臣に頼めば朝食くらい作っておいてくれただろうに、わざわざこうして至に頼んだりして。
「……先輩の好きな具、かあ」
何を入れようかな、と至はキッチンをぐるりと見渡した。
大きめのおにぎりを二個作り、ラップとアルミホイルで包んで一〇三号室のテーブルに置く。
深夜というよりも、もはや早朝に近い時間帯。至は欠伸しながら自分のベッドに入り、一瞬で眠りに落ちた。夢の中で、千景の気配を感じたような、そうでもないような。次に目を覚ました時には、隣のベッドに千景の姿はなかった。
けたたましく鳴り響く目覚まし時計を止め、俺も会社に行かないと、と至は独り言ちて母屋の洗面所へと向かう。
一〇三号室のドアを開けば、眩しい朝日が至の角膜に突き刺さった。ううう、寝不足の身に健康的な光がしみるぜ。至が顔を顰めつつ目を慣らそうとしていると、中庭の端から高遠丞の声が聞こえた。九十五、九十六。カウントの声と共に、丞は汗を流して腕立て伏せする。
「朝から頑張ってるね」
「茅ヶ崎もランニングとは言わないから、ストレッチくらいしておけ」
「はいはい」
至が声を掛ければ、丞は腕立て伏せしながら返事した。あまりにも超人過ぎる。もちろん、ストレッチなんてするつもりはない。至が適当に往なしてさっさと立ち去ろうとすると、百までカウントを終えた丞が腕立て伏せを止めて立ち上がった。
「茅ヶ崎、今日から卯木は海外出張だったな」
「そうだよ」
「お気に入りの土地にでも行ったのか、卯木は」
「は?」
タオルで汗を拭きながら問い掛けた丞に、至は目を丸くして訊き返した。行先はフランス――あくまで表向きは、だが、とにかく、特別好きな土地に出掛けるとは聞いていない。
「今回はフランス出張のはずだけど、この間もフランスだったし、特に好きってことはないと思うけど」
「そうなのか。今日、ランニングに出る時にちょうど出発する卯木と顔を合わせたんだが」
丞は首を傾げて眉根を寄せ、妙だな、と話を続けた。
「卯木は鼻歌を歌いながら寮を出ていった。あんなに分かりやすく機嫌がいい卯木は珍しい」
余程、今回の出張が嬉しいらしい。真面目な顔で話す丞に、至は中途半端な笑顔で凍り付いた。唇がぶるぶると震えそうになり、慌てて口を固く閉じる。
「え、あ、そう。そうなの。先輩が機嫌がいいとか、うん、ちょっと怖いよね」
あはは、と至は乾いた笑い声を零し、踵を返して早足で洗面所へと向かった。頬に集まる熱を冷まそうと、至は水を勢いよく顔にかける。
(……くそ)
また弱点を攻撃された。しかも、遠隔攻撃。性質が悪いにもほどがある。至はぶんぶんと頭を強く振り、にやつかないように頬に力を籠めつつ爆発した癖毛を整える。
スーツに着替えて、朝ご飯を急いで食べて、さあ出発だ。今日も一日頑張って働こう。至は気合いを入れるふりをして千景に引っ張られた思考を手元に戻し、駐車場にとめた自分の車のドアに手を掛ける。
その時、スーツのポケットの中でスマートフォンが振動した。液晶画面を確認すれば、千景からのメッセージが一件。時刻を見て、成程そろそろか、と至は唇を歪めて運転席に腰を下ろす。
LIMEアプリのトークルームを開けば、暢気な効果音と一緒に千景のメッセージが出現した。
『どうしておにぎりに鷹の爪を入れようと思った』
『先輩、鷹の爪好きでしょ』
至はもう一度時計を一瞥し、時間に少し余裕があるのを確認してから千景に返信する。そうすれば、またもや千景のメッセージがトークルームに現れた。
『好きだけど、おにぎりの具にするなら話は別だ』
『口に合わないなら捨ててもいいですよ』
『もう全部食べた』
あまりにも短い返信文。千景の憮然とした顔が見えるようだ。至はとうとう、ぷっ、と噴き出し、くっくっく、と肩を揺らして笑い声を零した。ああ、車でよかった。こんな緩んだ顔を他の誰かに見せられない。
『じゃあ、次におにぎりを作る時は先輩が具を指定してください』
『へえ、また作ってくれるんだ』
『先輩が出発前に俺のおにぎりを食べたい気分の時限定ですけどね』
至はにやにやと笑いながら千景にメッセージを返信する。つまり、俺のおにぎりが食べたいならちゃんと言ってくださいね、先輩。ささやかな攻撃を食らわせれば、間髪入れずに千景のメッセージが到着する。
『初めて次の出張が楽しみになった。じゃあ、行ってくる』
ラスボスの遠隔攻撃、キタコレ。あー、と至は呻き声を吐き出し、ハンドルに思いきり突っ伏した。派手に鳴り響くクラクション。うわあ、と飛び起き、至は舌打ちしてスマートフォンを助手席に放り投げた。
【こうかは、ばつぐんだ】おわり