からん、と音がした。
それに誘われた気がしてハセクラがグラスを手に取ると、手の中でまた同じ音が鳴った。
半分以下になった琥珀色の液体と、角が取れて丸みを帯びてきた氷をかき回すように揺さぶる。
から、からん、と響くそれが耳に心地よくて、口に含まずに繰り返していると、不意に隣に重みを感じた。
「……向井?」
そんなに広くないソファだから、二人で座れば寄り添うのも自然だ。むしろそういうことを目的に作られているような形状だ、とハセクラはぼんやりと思った。
返事はないまま、左半身にかかる体重は増す。
それは向井の甘えなのか、眠気に寄るものかは咄嗟に判断がつかない。
こういう関係になってから知ったことだが、ハセクラよりも向井はアルコールに弱いらしい。
本人がそれを語ることはないので、あくまでもハセクラの憶測ではあるが。
普段はきはきとした物言いで冷静に物事を判別していく彼が、酒が入ると徐々に揺らいでくるのは、今となっては微笑ましく思えている。
口に出すときっと反論されるので伝えたことはないけれど、酔いで蕩けた瞳に合わせて小柄な体型のせいでハセクラを見上げてくるシチュエーションでは、どうしても可愛らしいと感じてしまう。
そんなハセクラの気持ちを煽るように、左腕に柔らかい頬が擦り付けられた。
「…………眠いのか?」
親睦を深める目的とされた立食での食事会は、色々な意味で疲弊する。
経費による飲食と宿泊で、半日程度の研修以外の大幅な自由時間がある出張は、どちらかというと福利厚生に近いご褒美的な形態だ。
指名される社員は簡単な報告書を書き上げるだけで観光旅行に行けるのだからと大抵は喜ぶが、ハセクラの心情は真逆だった。
自分以外に当たればいいと思い続けて出来る限り避け、指名された場合でも部屋は当然一人部屋を希望して、出来る限り穏便に逃げ切る。
そんな過去のハセクラが今の彼自身を見たら、きっと理解できないだろう、とたびたび思う感慨に浸る。
今までのハセクラなら、なんとか今日の食事会を終わらせたことに安堵し、一人の部屋で何で自分なんだろうと考えながら眠りについていたはずだ。
「ん……」
閉じそうになる瞳に時々抵抗して、それでも抵抗しきれずに負け始めている向井に触れたくなって、弄んでいたグラスをテーブルに戻す。
ハセクラを大きく変えた存在は、彼のその動きに合わせるようにして、さらに重心を傾けた。
隣から伸ばされた腕はハセクラの腰より少し上の辺りで落ち着き、とくとくと彼の鼓動を伝えてくる。
窓の外に広がる夜景は、それを構成している明かりの一つ一つに人がいるはずで、こちらから見える以上、向こう側からも同じかもしれない。
ハセクラはカーテンを閉めようか一瞬、迷う。
二人の関係性は公にはしていない、あくまで同僚、仲のいい同僚だと思われている。
報告書を書くのに話しやすいから、向井なら気が置けないから、と、言い訳を重ねて二人一部屋を申し出た時も、仲がいいの一言で済まされている。
恐らく、ハセクラの下心は露見していないはずだ。
だからこそ、隠しておくのが無難だ、と、名残惜しい体温に軽く合図のように触れてから、ソファから立ち上がった。
酔っていても意図を容易く理解した向井は、素直に従う。その物分かりの良さが、ほんの少し惜しくも感じた。
レースのカーテンを引き、無地のチョコレート色のそれは、隙間がないようにぴったりと閉める。
不思議なもので、晩酌のきっかけになった景色が隠されてしまうと、それだけで酒への興味が目減りする。
氷が溶けて味が薄まったそれを味わうことなく一気に喉の中に流し込んでから、元の位置に腰掛けた。
「……はせくらせんぱい」
ハセクラが座り直すまで大人しく待っていた彼は、先程のように眠気を眼差しに纏いながらも、距離を縮めては来なかった。
一度外されたことを恨めしく思っているのかもしれない、と、今度はハセクラの方から小柄な体に腕を回す。
体型の違いはそのまま明確に反映されて、ハセクラの手は向井の肩に近い部分に触れる。
抱き寄せた体は僅かな時間で育った寂しさを、音もなく埋めていく。
「向井」
互いの名前を呼び合うだけで十分だった。
抵抗しない体勢も、とろりとしながら外れない視点も、閉じ切っていない唇も、全てがハセクラを引き寄せようとしている。
まるで蜂を呼ぶ大輪の花みたいだ。
言葉では伝えきれない雰囲気は、ハセクラにとって怖さでもあった。
圧倒されるものや、疎外感を思わせるもの、期待に応えられない不安も、全て言外で読み取っていた。
それを一言の刀で振り払って、ハセクラを鼓舞してくれていたのは向井だった。
以前のことを思うと、何もかも反転した現状が夢のようにすらハセクラには感じた。
どうせ夢に浸るなら、もう少しだけ、と、じわりと欲が広がる。
広がったそれはハセクラの体を乗っ取って、更なる甘美を吸おうと向かっていく。
「……しごと、ちゅう、……ですよ?」
甘い甘い蜜を湛える場所から、咎める言葉が零れ出すのを聞いても、ハセクラの動きは鈍らなかった。
ここにいる理由は出張だから、確かに彼の言う事は正しくもある、とは思う。
けれど、向井の一言は言外を切り捨てるためのものではなく、むしろ後押しする力にしか感じなかった。
「……ん」
戸惑いなく重なった場所は、それまで触れ合っていたどこよりも熱い。
共に飲んでいたはずの酒の味は、彼の唾液の甘さに完全に上書きされていて全く分からなかった。
ただ、ハセクラの舌先を蕩けさせ、喉の奥まで焼いていく。
興味をなくした酒とは違い飽きることが無いそれを、もっと味わい尽くしてしまいたい。
口腔を貪り、綺麗に並んだ歯列を辿り、都度生まれてくる蜜を啜り上げる。
「ん、……はぁ……んんぅ」
隙間で呼吸をして、出来る限り長い間続けられるように、そう模索することができるくらいにはこの行為に慣れ始めていた。
いつの間にか覆いかぶさるように傾いていたせいで、ソファの縁に挟まれた腕が痛みを訴えてくるまで、長いキスは続いた。
二人分の体重が掛かっていたハセクラの腕はじんじんと痺れるように感じていたけれど、離れた唇の淋しさがそれを凌駕する。
アルコールに侵食された脳内が、飢餓の声を上げている。
もっと、もっと、と叫ぶ内なる声を、抑え込むのはかなりの理性を必要とした。
「仕事、中……、だな」
無理矢理絞り出したハセクラの一言を聞いた向井が、小さく息を吐く。
つまらなそうに、不機嫌な顔を隠すこともなく、彼は不満をその溜息に乗せている。
かつてのハセクラならそれを聞いただけで反射的に謝りそうな状況だったが、変われば変わるものだ、と自身の変化にまずは感嘆した。
「ええ、仕事中です」
それまでの恋人の時間を塗り潰すような声色を作って、瞬く間に息を整えた向井が、ふいっと今は見えなくなった外の景色を覗くようにカーテンに視線を移す。
断ち切られた眼差しも、不服が明らかな声も、離れろという意図を持ってハセクラの胸板を押す掌も、すべてが拒絶の形をとっているというのにハセクラの口元を緩ませる。
明日になれば、また他の社員とも会うのが確定しているし、向井を一人この部屋に残しておくわけにもいかない。
一夜を過ごした後に彼が纏う、残り香のような艶を知っているのは、ハセクラだけでいい。
素直に見せかけて時にひどく天邪鬼な向井に気付いてから、彼の心の機微を探るのはひとつの楽しみになっている。
自分から誘い、その上で拒み、従うと拗ねる。その行動だけ見れば付いていくのは難しい。
けれどそこにひとつの絶対を付け加えることで、向井の求めるものを見出すのは容易くなっていた。
「今度は、二人で来たいな」
「……! 僕、もう寝ますね。明日もありますし」
明確な同意は言葉ではない。半音ほど上がった声色と、ソファから立ち上がる前にちらりと合わせられた視線と、室内を移動する足取りから滲み出る彼の心情を想定する。
バスルームに消える後ろ姿を見送ったハセクラは、半分以上が水になった氷だけが残ったグラスを持ち上げた。
愛されている実感はハセクラの胸の中を常に熱く焦がし続けている。
本当なら何もかも無視してその熱に浸りたい。うだつの上がらない自分をここまで変えてくれた彼に、与えられる特別に溺れてしまいたかった。
からからと音を立てているグラスの中身をそのまま口に含み、嚙み砕く。
零度の欠片は慰め程度にハセクラの理性を呼び戻す。
向井が戻ってくる前に、と、アイスペールに残った氷を指先で摘まんで口に放り込む。
がりがりと音を立てて齧りながら、それだけで収まるはずがない熱をハセクラは享受する。
冷えていく唇を自分の舌先で辿ると、失った温度を思い出してどうしようもなく寂しくなった。
こんな僅かな抵抗で、いつまで抑えが効くか、ハセクラ自身にもわからない。
次からは同室の出張は止めようと脳裏に強く刻み込んで、ハセクラはもうひとつ氷を摘まみ上げた。