この夏一番したいこと 炎のように燃え盛る、真っ赤な太陽。透き通るように澄み切った、どこまでも青い空。
季節は、輝く夏真っ盛り。……なのに。
「何で火鍋?」
本日も例に漏れず、猛暑日だった。都心部の最高気温は三十六度。宵闇が空を支配した今でも、日照りの名残は強く、しぶとい。
なのに、志保の本日の夕食は火鍋のようだ。向かい合った、小さな個室のテーブルの上。真っ赤に煮えたぎっているのは、灼熱の太陽ではなく、麻辣スープで。晴天の青空は、目の前に座る彼の瞳、とでもしておこうか。
「こんな暑い日だからこそ、だよ。実は最近、ここの火鍋にハマってるんだ」
その空色の瞳を細め、彼が笑う。彼、降谷零がこの店を選んだ張本人だ。右手に持った菜箸で、スープをくるくると回している。菜箸の先にはラム肉。火鍋に欠かせない具材の一つである。
「火鍋って中国の薬膳料理でさ。このスープには数十種類の漢方が入っていて、血行促進、滋養強壮、疲労回復などの効果が期待できるんだよ。整腸作用もあるし、夏の暑さで弱った今こそ食べるべきだと思うよ」
「ええ。体にいいってことぐらいは知ってるわ。そのお肉、もらってもいい?」
「ああ。どうぞ」
まるで店員顔負けの解説っぷりだ。まだまだ続きそうな予感がしたので、志保は取り皿を差し出した。
たっぷりの具材とともに、麻辣スープが惜しみなく注がれていく。降谷から返された皿を、両手で受け取る。
ラム肉と、じっくり煮込んだ鶏のつみれ。さっと火を通したレタス、オクラ、ミニトマト。旬の夏野菜も満載だ。
ふう、ふうと息を吹きかけ、まずはレタスから味わう。染み込んだ赤いスープが、口内にじゅわっと広がる。
続いて、ラム肉。スープの効果もあるのだろう。特有の臭みはなく、とろりと蕩けるように柔らかい。
「ん、美味しい」
「ほんと?」
「このスープもクセになりそう。コクがあるし、箸が進んじゃう辛さね」
「それはよかった」
志保の感想を聞いてから、降谷は自らの箸を手にした。その唇には、ほっと安心したような、緩やかな笑みが乗せられていた。
実は、スープは二種類ある。もう一方は白湯だ。鶏ガラスープがベースとなっており、優しくすっきりとした味わいが特徴的だった。
そのスープを交互に食べ進めていく。具材は他にも、定番のもやしやきのこ類など盛りだくさんだ。特にきくらげは、ぷりぷりと歯応えがあって美味だった。
「夏休みはどう?」
近況を尋ねる、至極曖昧な質問だ。しかも、それを貴方が聞くのか。そう思い、志保は眉根を寄せた。
「どうも何もないでしょう。誰かさんのお陰で、仕事だらけの夏休みを過ごしてるわ」
「その“誰かさん”ていうのは、誰のことかな?」
ゆったりとした口調で、降谷は質問を重ねてきた。わざととぼけているのか? これ以上眉は寄せられないのに、どうしてくれようか。
「降谷さん、貴方よ。あ、な、た。最近、貴方にしか会ってないのよ、私」
やっぱりわざととぼけていたらしい。降谷は、ははっと愉快そうに声をあげて笑った。
「ごめんごめん。君のお陰で、僕は随分と助かってるよ」
「そうよね。じゃないと、こっちが困るわ」
ジョッキを持ち、志保は二杯目の生ビールを呷った。先程受け取ったばかりのビールはキンキンに冷えていて、火照った喉に心地良かった。
降谷は、公安に所属する警察官だ。志保は時折、彼から捜査の協力依頼を請け負っている。依頼内容は、証拠物質の成分解析、映像データのノイズ除去など、多岐に渡っていた。
それらの仕事に加え、修士課程の一年生である志保には当然ながら学業もあった。最早夏休みなんて、名ばかりのものになりかけている。
「夏なのに、夏らしいことなんて何もできてないわよ。来月末には学会もあるし。先月の花火大会にも行けなかったし」
たっぷりの恨みを込めて、真正面から降谷を見つめる。今度はとぼけたって無駄よ、と言わんばかりに。
「……それは悪かったと思ってる。だから、ほら。そのお詫びも兼ねて、こうして今飲んでる訳だし」
降谷は苦笑いを浮かべながら、右手のジョッキを掲げた。半量ほどになっている黄金色のアルコールは、降谷にとって三杯目の生ビールだ。
その花火大会は、先月夏休みに入ったばかりの土曜に堤無津川で行われた。
志保も、ゼミの仲間たちと行く筈だった。浴衣を着て、美容室でヘアスタイルもバッチリ決めて、集合時間に間に合うように集合場所にも向かっていた。……が、花火は見られなかった。降谷に呼び出しを食らったせいで。
あの夜を皮切りに、夏休みだからいいだろうとでも思っているのか、降谷からの依頼量は増えた。先日それを指摘したら、今夜この店で労ってくれることになった、という訳だ。
「夏らしいことか。僕も何もできてないなぁ」
降谷のような生活を送っていたら、当然できていないだろう。その忙しさは、志保の比ではない。
「貴方の言う、“夏らしいこと”って?」
「花火大会もそうだし、海とかプールとか。夏祭りとか」
「それって、貴方が夏にしたいことなの?」
「いや。一般論だな」
「やっぱり」
追加注文したパクチーを山盛りのせて、ラム肉を頬張る。トッピングなんて不要な美味さではあるが、これはこれで味変もできて面白い。
「そういう志保さんはどうなんだ? 花火大会以外には、何かあるのか?」
「さあ。どうかしら」
こくんと少し首を傾げ、右手を箸から離し、軽くなったジョッキを握る。二杯目の生ビールが、底を尽きようとしている。
***
二杯目。三杯目。四杯目。一体何杯飲んだんだっけ。ビール以外も注文したような気がする。
旨辛の麻辣スープは箸をどんどん進めたが、それ以上に酒をじゃんじゃん進めてしまった。
いや、確かに美味しい辛さだった。が、志保にとっては、本当は結構辛かった。アルコールは水ではないと分かっていたのに、ペースを考えず飲んでしまった。
だから、知らぬ間に体が揺れていた。規則正しい、心地の良い揺れ。
ゆらり、ゆらり。意識が浮上するのと同時に、ここが車の中であると、志保は気がついた。
それから一呼吸置いた後だった。何だか、左の側頭部が温かい。そのことに疑問を感じたのは。
「はい。風見か?」
思わず声をあげそうになってしまったのを、寸でのところで堪えた。そして、ようやく思い至った。
ここは車は車でも、タクシーの後部座席。志保の左側に座っているのは、先程まで一緒に飲んでいた筈の降谷だ。……先程? 先程かどうかは分からない。どうやってタクシーに乗り込んだのか、全く覚えていない。
ここまでは、百歩譲って良しとして。記憶がないだなんて全然良くはないんだけど、とりあえずは良しとして。問題は、志保の頭がどこに乗っかっているのか、ということで。
「……ああ。それで?」
降谷の声は、志保の耳元で響いていた。どうやら電話をしているらしい。相手は、志保の顔見知りでもある、降谷の部下のようだ。
ぎゅ。閉じた両目に、不自然に力が入ってしまう。完全に起きるタイミングを逃してしまった。
肌に感じる、ワイシャツの感触。降谷の、広い肩。降谷は今日、長袖のワイシャツにネクタイを締め、ジャケットを片手に提げて現れた。こんなに暑いのに何故かと問うと、ちょっとね、とだけ返ってきた。
火鍋を食べ進めるにつれ、彼はネクタイを緩め、緩めたそれを外し、ワイシャツの袖を捲り、次々と着崩していった。額に滲んだ汗が、滴り、流れ落ちていく。こめかみ、首筋、開かれた襟から覗く鎖骨。
駄目だ。思い出せば思い出すほど、心拍数が上がってしまう。降谷の電話はまだ続いている。耳元で聞こえる彼の声より、自らの心音の方が大きい気さえしてしまう。
今すぐ、彼から離れなければならない。でも、まだ離れたくない。こんな時くらいじゃないと、私は素直になれない。
今日、彼に対して自分が口にした言葉を思い起こしてみる。プラスの言葉なんて、「美味しい」ぐらいしか言っていないのではだろうか。こんなの、全然可愛くなんかない。
貴方にしか会ってない、って。ため息混じりに言ってしまった。本当は貴方にいっぱい会えて、すごくすごく嬉しかったのに。
素直になりたいのに、なれない。可愛くいたいのに、できない。だから、本当の気持ちなんて、きっとずっと届かない。
……だから。今はもう少しだけ、この目を閉じて。
どうか、どうか、このままで。
……なんて願ったところで、束の間はあくまで“束の間”なのだ。降谷の声が聞こえなくなった。どうやら電話は終わったらしい。
目を開けるなら、今しかないのではないか? まさに、今起きましたって感じを装って。ちょっと身じろぎなんかしてみたりして。
車はあまりスピードを緩める気配がない。きっとまだ環状線を走っているのだろう。まだまだ自宅に着きそうにない中、この夢のようなひとときを終わりにしてしまうのは惜しいけれど。いつまでも肩を借りたままでいるのも、彼に申し訳ないし。
よし、と息を吸う。いや、吸おうとした。吸おうとしたところで、志保は息を止めてしまった。
ぬくもりと、確かな重みを頭部で感じた。志保の額に何かが触れた。くすぐったくて、柔らかい髪。……髪?
あれ。……な、え?
息を止めたままだから、声にはならなかった。というか、とても声なんて出せる状況ではない。
降谷も眠ってしまったのだろうか。電話を切って、ほんの数十秒で?
目を開いて確かめたい。けど、開くことはできない。今、私に寄りかかっているのは、間違いなく彼よね?
「呑気なモンだな、君は」
……は?
一瞬、起きていることがバレているのかと思った。が、どうやら違うようだ。志保に答えを求めてくる気配はない。
呑気って、何? 好きなだけビールを飲みまくって、隣の肩を借りてぐっすりと寝こけている、今のこの状況のことを言っているのだろうか。
おまけに、ため息まで聞こえた。はあ、と呆れ返ったような息の音。
「こっちの気も知らないで」
付け加えられたのは、吐息みたいな囁き声。
今度こそ、何も分からなくなってしまった。
……こっちって、どっち?
***
ゆらり、ゆらり。そっと両の瞼を閉じて、今夜は電車に揺られている。
心地の良い揺れに身を任せていても、うたた寝すらできそうにない。思い起こすのは、既に二週間前のこととなった、あの夜のことだ。
あの夜。結局、降谷に起こされるまで、寝たふりを続けてしまった。既に起きていたのだから、起こされるという表現は正しくない訳だが。志保が瞼をゆっくり開くと、タクシーはちょうど志保の自宅マンション前に停車しつつあるところだった。
彼が口にしたあの言葉が、いくつ夜を越えても、頭の中をぐるぐる回り続けている。
こっちの気も知らないで。どういう意味だろうか。
そんなふうに自問自答し続けていたら、そういう意味しかないような気がしてきた。この言葉だけならば、そんな答えにはたどり着かないと思う。が、それだけではないのだ。肩に寄りかかる志保を振り払うでもなく、そのままにするでもなく。あんなふうに、あんな声音で、彼は。
甘く、優しく、それでいて焦れたようにも聞こえた。決して、志保の都合の良い解釈なんかじゃない。
けれども、俄には信じられなかった。志保に言えたことではないが、降谷にはそんな素振りなど、今まで微塵も見られなかったから。
たとえば、例の花火大会の夜。迎えに行くと言われたから、どんな用件なのかも聞かず、慌てて合流地点まで駆けつけた。浴衣のまま、下駄を鳴らして現れた志保を見て、降谷は何も言わなかった。
いや。何も、は語弊がある。いつもの「すまない」という謝罪の言葉が、「こんな日に申し訳ない」と丁寧にはなっていた。「似合うね」までは期待しすぎだとしても、「その格好、どうしたんだ?」ぐらいは言ってもらえるかと待っていた志保に、彼は告げた。「早速本題に入ってもいいか?」と。
今夜も、降谷に呼び出されていた。花火の日を発端とし、志保が関わっていた案件が終息を迎えたらしい。実は、二週間前のあの夜の翌日にも、この件の関係で降谷には既に会っていた。
「昨夜はごめんなさい。迷惑かけちゃって」
タクシーを降りる際にも謝罪したが、当然この日も謝罪を重ねた。
「私、貴方に起こされるまで、ずっと寝ちゃってたみたいで」
ずっと眠ってしまっていたから、タクシーの中の記憶はありません。このことを強調したくて、志保はそう付け加えた。
「いや、気にしなくていいよ。玄関先まで送れなかったから、ちょっと心配してたんだけど。とりあえず、よかった」
このくらい、いつも心配してくれている。微笑みかけてくれたその表情も、いつも通りだった。
けれど。その“いつも”が、本当はいつからか、違っていたのだろうか。
タクシーを降り、一人足早にマンションのエントランスへ向かおうとする志保に、降谷は言ってくれたのだ。無事に部屋に入るまで見届けたい、と。なのに、志保は強く首を横に振り、断ってしまった。
あの時、素直に甘えていたら。玄関先で、ありがとうと言えていたら。
帰ろうとする彼の腕を捕まえて、さっきの何? って、聞けていたら。
そうしたら、彼と私の関係は変わっていたのだろうか。
花火大会の夜だってそうだ。私、貴方だから来たのよ、って。彼の言葉を待つばかりじゃなく、自分からちゃんと言えていたなら。
そうしたら……貴方と、私は。
そっと、瞼を持ち上げる。ゴトン、ゴトンと揺れる電車は、大学の最寄駅を出て、順調に走っている。もうすぐ地下鉄へ乗り換えなければならない。向かう先は警察庁だ。
盆を過ぎ、陽が落ちるのがさらに早くなったような気がする。広い窓から差し込む西陽が、ちょうど真正面から志保の顔を照らしている。
じゃあ、今夜二人で打ち上げしない?
降谷から呼び出しを受けた電話口で、ありったけの勇気を振り絞り、彼を誘った。打ち上げなんて、今までだって何度もしている。大丈夫、大丈夫。そうやって、何度も何度も自分自身に言い聞かせて、彼に問いかけた。
今夜か。予定もないし、いいよ。
彼がそう答えた瞬間。たったそれだけのことで、体中の血液が沸き上がった。
今夜、会えたら。志保には決めていたことがある。
心のままに、素直になろう。ほんの小さな一歩だとしても。
燃え盛るような茜空が、志保の背中を押している。
***
「何でまた火鍋?」
問いかけてきたのは、降谷の方だった。本日の最高気温も三十六度。まさか今日の夕食に、志保が火鍋を選ぶとは思わなかったのだろう。
「降谷さん、ハマってるって言ってたでしょう? 私も、この前食べて美味しかったから」
早速、一つ素直になれた。テーブルの上では、先日と全く同じ、麻辣と白湯の二種のスープが煮えたぎっている。
通された個室も、偶然だろうが同じ部屋だ。革張りのソファに、小さなシャンデリア。中国の文様があしらわれた、漆黒の引き戸。
メニューを変更したから、鍋の具材は少し違う。定番のラム肉はそのままに、海鮮は海老のつみれ。野菜は紅芯大根、かぼちゃに豆苗など。まずは麻辣スープの方を志保が取り分け、皿を降谷に手渡した。
「ありがとう」
降谷の一口目は、やはりラム肉だった。その時点で表情は変わっていたが、続いてスープを一口。
「辛さ、電話で予約した時に、一段階下げてもらったの」
降谷に指摘されるよりも前に、志保は白状した。元々、バレないとは思っていなかった。
志保もラム肉を頬張った。確かにピリリと辛くはあるけれど、前回よりもその刺激は抑えられている。
「ごめんなさい。口に合わないかしら」
「いや。辛さは、普段から気分によって変えたりしてるからさ」
降谷はすぐに首を振った。麻辣スープの辛さは、大辛、中辛、小辛の三段階から選択できる。
「それより、前回の中辛、辛かったんじゃないか? 言ってくれればよかったのに」
「大丈夫よ。美味しい辛さだったもの」
事実ではあるが、ちょっとだけ見栄を張った。……それに。
「それに、せっかく貴方が選んでくれたお店だから。……辛さも具材も、全部貴方が決めてくれたから」
「え?」
その先は口にはできなかった。けれど、きっと伝わった。
「そうか。ありがとう」
丸めた両目をすっと細め、降谷は笑いかけてくれた。
途端、顔中が熱くなってしまったのを、スープのせいにしたくて。「やっぱり辛いわね」なんて言って、志保は両手で顔を扇いだ。
三杯目の生ビールが空になると同時に、二人分のデザートとジャスミン茶が届いた。前回は〆の中華麺で満腹になってしまい、デザートにはたどり着かなかった。
目の前には、念願の杏仁豆腐がある。赤いクコの実が飾られた、真っ白でぷるぷるな杏仁豆腐。
「今回はデザートまでいけたね。この前は志保さん、飲み過ぎて食べれなかったもんな」
「そ、そうだったわね」
にやにやと口元を緩め、降谷が笑っている。志保は中華麺のせいにしたかったが、飲み過ぎたことは紛れもない事実だ。
「もう絶対、あんな醜態は晒さないから」
「醜態ってほどじゃないだろ。別に、たまにはいいと思うけどな」
降谷の手元にも、同じ杏仁豆腐がある。早速一口含んだ彼の顔からは、にやにやとした笑みは消えていた。
「駄目よ。二度としないわ」
志保は左手に杏仁豆腐のガラスの器、右手に銀のスプーンを持ったまま、強く首を横に振った。
「僕は迷惑だなんて思ってないよ」
二口目の杏仁豆腐が、降谷の口の中へと入っていった。
迷惑をかけたくない。それも当然ある。しかし、理由はそれだけではない。
「それもあるけど、それだけじゃないから」
「それだけじゃないって?」
思ったことをそのまま口にしたら、そのままに聞き返された。降谷は不思議そうに目を瞬かせ、志保を見ていた。その視線から逃れたくて、つい俯いてしまった。
これ以上、そのままを口にすることは憚られた。けれども、自らと交わした約束が、自らに問いかけてくる。
言わなくていいの? 素直になるって決めたでしょう?
素直な気持ちを声に出したら、素直な言葉が返ってくるかもしれない。秘められた彼の素直な気持ちに、触れられるかもしれない。
すう、と。志保は深く息を吸った。
「降谷さんと過ごす時間は、全部大切にしたいの。寝ちゃうとか、記憶が飛ぶとか、もう絶対嫌なの」
ああ。言ってしまった。まだ顔は上げられない。俯いたまま、一口、二口と杏仁豆腐を食べ進めていく。
「でも、この前はずっと寝たふりしてただろ」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。が、次の瞬間には、何を指摘されたのか、即座に理解した。
さらに次の瞬間に、志保は勢いよく顔を上げた。
「えっ、ど、どうして……っ」
「気づいてたよ。君が途中から起きてたことくらい」
「と、途中って?」
「んー……僕が風見と電話してる最中、だったかな」
まさか、そんな。つまり、ほとんど最初からバレてたってこと?
嘘泣きには自信があるし、狸寝入りだって自信満々のつもりだったのに。
志保が、赤へ、青へと顔色を忙しなく変えている中、降谷はテーブルに頬杖をつき、ただじっとこちらを見据えていた。彼のガラスの器の中は、いつの間にか空になっている。
あれ。待って。それって、つまり。
つまり、ほとんど最初から気づいていたのに、彼は。
「あの、聞いてもいいかしら」
「どうぞ」
ようやく、降谷は一つ頷いた。その唇には、余裕綽々と言わんばかりに、穏やかな笑みが乗っているだけ。志保は、まだ中身が残っている器をテーブルに置いた。
「じゃあ、どうしてあんなこと言ったの?」
「あんなこと?」
「……こ、こっちの気も知らないで、って」
この問いも、降谷にとっては予想されたものであったらしい。驚いた素振りなども、全く見せなかった。
「ちょっと意地悪したくなったんだよ」
「えっ、どうして?」
志保にとっては、予想外のことばかりが続いている。
どうして、どうして、どうして。何を尋ねても、予想外の言葉ばかりが返ってくる。
「だってさ。志保さんが、心にもないことばっかり言うから」
「え?」
「せっかくの夏なのに、僕にしか会えなくてつまんない、とかさ」
ついに、降谷の表情が変わった。じとり、とした目つき。拗ねたみたいに、尖った唇。
最大級の予想外が、今、志保の目の前にある。
「ご、ごめんなさい」
志保は、反射的に謝っていた。……いや。予想外の言葉と仕草のせいで、つい謝ってしまっていた、と言うべきか。確かに、心にもないことばかり口にしたし、寝たふりをして嘘をついたのはこちらだけど。
それに、だ。こちらはほぼ告白みたいなことを言ったのに、彼からはそこに対する返答がない。
「……でも、仕方ないでしょう」
なら、こっちだって、ちょっとくらい意地悪してもいいんじゃない?
そう結論づけて、志保は無意識に下げていた頭を上げた。
「分からないのよ。私は貴方と違って、鋭くないから」
「え?」
「こっちの気って、どっちの何? 貴方の気持ちなんて、言ってくれないと分かんないわ」
降谷は両目を開き、両眉を持ち上げた。
なるほど、そうきたか。その顔には、分かりやすくそう書いてあった。
さあ、どう答えるのかしら。……なんて思ってはみたものの、志保は余裕綽々とはいかなかった。どく、どく、どく。胸の鼓動は早くも騒いでいる。
「そっちに行っていい?」
「へ?」
「志保さんの隣。そっちの方が話しやすいから」
降谷の人差し指の先は、志保が座るソファへと向かっていた。
「だっ、駄目よ!」
「何で?」
「て、店員さんが来たらどうするのよ」
「別にどうもしないし、注文したものは全部来たから、誰も来ないよ」
しどろもどろになっている志保を他所に、降谷は引き戸を開き、廊下へ出た。と思ったら、今度は志保の真横の戸が開いて、あっという間にこちらへ入ってきた。
「ちょ、ちょっと」
近い、近い、近い。思わず奥へと後退りしてしまったが、隙間はすぐに埋められた。
二人で横に並び、左隣に降谷が座っている。志保は一度も目にできなかった、真夜中の環状線が見えたような気がした。
疎らに残った街明かり。すれ違う車のヘッドライト。あの夜が、呼び起こされる。
とん。不意に志保の肩に触れた、彼のぬくもり。柔らかな髪。爽やかで、優しい香り。
「酔っ払った君に、いきなりこういうことされてさ。正気を保つのに必死になるくらいには、僕は君のことが好きだよ」
それは志保が予想していた答えでもあり、想像なんて遥かに超えた、彼の秘められた心だった。
「遅くなってごめん。分かってくれたかな?」
「……はい」
どき、どき、どき。最高潮に高鳴った鼓動の隙間で、頷くだけで精一杯だ。
「僕も、志保さんと過ごす時間は大切にしたいと思ってるよ。今日、誘ってくれて嬉しかった」
すり。彼の額が、志保の首元に摺り寄せられる。さらり、と、蜂蜜色の髪が揺れる。
彼がくれる言葉の一つ一つが、じわり、じわりと胸の中に広がっていく。熱くて、熱くて、温かい。
「好き。……私も」
言わなくちゃ、と思う前に、ごく自然に零れ落ちていた。
「うん」
頭を上げ、目と目を合わせ、くしゃりと顔中を綻ばせて、彼は笑った。
「ねぇ。いつから気づいてたの?」
「ん?」
「……その、私が貴方のこと好きだって」
視線の先はテーブルの上。少しだけ残っている杏仁豆腐に、手を伸ばす気には今はならない。
嘘泣きよりも狸寝入りよりも、気持ちを悟られないことの方が、自信があった。だって自分は、全然、全く、これっぽっちも素直じゃなかったから。
「いつだったかな。何となくもしかしたら……ぐらいは前から思ってたけど、はっきりと確信したのは花火大会の日だな」
「え、花火大会の日?」
知らず、聞き返す声が大きくなってしまった。予想だにしなかった、非常に意外な返答だ。まさにその日は、志保にとっても忘れられない日だった。
「どうして?」
「君が、僕のところに来てくれたから」
ふわり。降谷の口元が、柔らかく緩んだ。
そうか。そうだったんだ。ちゃんと、分かってくれてたんだ。
あの日言えなかった言葉が、志保の胸に蘇る。何だか、一瞬で頬が熱を持ってしまった。
「実は、僕が自分の気持ちを自覚したのも、あの日だったんだよ」
「え?」
「君の浴衣姿、ゼミの男たちに見られなくてよかった……とか思っちゃったからさ。君のこと、可愛いなって。そう思ったから」
降谷の顔に浮かぶ笑みが、照れくさそうなそれに変わった。と同時に、志保の頬を温める熱は、体中に広がってしまった。
やはり、降谷の気持ちを推し量ることは、志保にとってはかなり難易度が高いようだ。
「そういえば、志保さんがこの夏したいことって、結局何だったんだ?」
ふと思い出したように、降谷は問いかけてきた。
「この前、教えてくれなかっただろ。今年はもう、花火は連れて行ってあげられないけど」
そういえば、そんな話もしていたっけ。結局、話は途中で終わってしまっていた。
「その話、気にかけてくれてたのね」
「ああ。僕にできることなら、叶えてあげたいと思って」
思わず、目を丸くしてしまう。まさか、そんなふうに言ってもらえるとは。
「ありがとう。でもね、もう半分くらいは叶ってるのよ」
不思議そうに首を傾げた降谷に向かい、クスリ、と得意げに微笑んでみせる。
今度こそ、自信がある。どんなに鋭く聡い彼だって、きっと答えにはたどり着かない。
この夏一番したいこと。一人ではできないこと。
たとえば、想いを伝え合って。隣に並んで、肩を寄せて、触れ合って。
そんなふうに貴方と二人、きらりと輝く夏みたいな、熱く眩い恋をすること。