清河を濁す 牛鬼ノ章 椿萱並茂・前ーーーあの冬の日、運命に出会った。
山陰の牛鬼の一族は古くより人間に神として崇められている。
奥宮の後ろに結界で隠された広い邸で一族は暮らしており、長の妻である玉依姫が巫女として長の託宣を一族だけでなく人間にも伝え代わりに供物を貰う。
表の社では眷属達が人間に紛れ神職として一族に仕えていた。
ある時結界から出て雪が積もる表の神社を雪を踏み締めながら散歩していた時、鳥居の前で青い雪の模様が描かれた白の着物を着た少女が雪遊びをしているのを見つけた。
少女がこちらに気づき振り向いた時、我は息を呑んだ。
腰までの美しく艶やかな黒髪に水木の花の髪がざりを着け、雪のように白い肌を寒さからか赤く染めた、海のような美しい青の瞳をした…まるで水木の花の精のような美しい少女だったからだ。
少女はしゃがんでいた体勢から立ち上がると我に近づいてきて首を傾げた。
「お前も誰かを待っているのか?」
凛とした鈴のような声をしていて愛らしい顔だちなのに男みたいな口調だなと驚いていると、おい?と顔を覗きこまれる。
それに思わず仰け反ると少女は目を瞬かせコロコロと笑った。
「わ、我はここに住んでおる」
「へえ、そうなのか。変わった口調だなあお前!俺はばあちゃん待ってんだ。…と、俺は水木」
名も水木だった。
名も体を現しているのじゃな……。じゃが……。
「我は……、我の名は、ない。山陰の牛鬼の一の若君と呼ばれておる。それに其方、女子だろう。女子がそのような口調は良くないじゃろう」
「あ?……ああ、俺は男だ!身体が弱いから次の誕生日、8つになるまで女の格好してんだ」
「おのこ……男子なのか其方!?見えなかったぞ!」
「……ちぇっ、良く言われるよ。にしても山陰の牛鬼の若君だなんて変な名前だな!俺が名前を付けてやるよ!」
「いや、それは……」
水木はどうしようかな……と考えると鳥居の傍に咲き誇る椿を見つけた。
そして少年を見ると、そうだ!と目を輝かせる。
「お前の事は椿と呼ぶ!」
「椿……」
水木に名付けられた瞬間、椿の心臓がどくりと脈打った。
見惚れた子供に名付けられた名前。
ドキドキとしていると背後から声がかけられた。
振り向くとそこには両親がいて。
白く美しい雪のような膝裏までの髪を腰の辺りから緩く三つ編みをして満月のような金の瞳と豊満な胸をもち、顬から生えた角に雪を模した飾りを着け牛の耳をもつ緋袴に千早姿の美しい母。
毛先の方が緑になっている腰までの赤髪に血のように赤い瞳をもち、顬から雄々しい牛の角が生え牛の耳をもつ鳥居程の長身の黒い着物を着た父。
水木は両親、特に父を見てぽけっと口を開け呆けていた。
「おっきい……」
「ほう、儂が見えるのか。それに倅に名付けたのはおぬしか?」
「え?」
「はい、父上。椿という名をもらいました」
「父上って……お前のお父さんか?大っきいな!」
「ほう、男子だったのか。見えんな。……白玉依姫(ましらたまよりひめ)」
「ええ、御前様。其方の名は?なんと言うのです」
「水木!」
「そう、水木。長子に名を付けてくれた礼です。其方に特別な呼び名をつけさせておくれ」
「??いいよ」
「ありがとう」
白玉依姫はニイ、と口が裂けたように笑った。
「では、萱[カヤ]と」
キン、とその場の空気が固まり水木の周りに鎖が巻き付けられたのが椿には見えた。
名という呪で母が水木を縛ったのだ。
水木はぼんやりと牛鬼の家族を見つめている。
白玉依姫は水木の頭を優しく撫でる。
「萱、其方はこの辺りの子ですか?」
「いいえ、白玉依姫様。祖母の家に遊びに来ているだけです。春には東京に帰ります」
「そう。萱、其方は我が長子の玉依姫となるのです。8つになったら家を出て此処で暮らしなさい」
「はい、白玉依姫様。萱は椿の玉依姫となります。8つになったら家を出て此処で暮らします」
「は、母上……!」
「長子、其方も感じたのでしょう?この子が其方の妻……玉依姫だと」
「それは……、ただ、愛らしい子だとしか」
「ほほ、まだ愛が分からぬらしい。其方はこの子を見初めたのです」
「男子でも関係ない。儂らは孕ませることができる」
「愛……見初め……」
確かに母の言う通り自分は一目見た瞬間恋に落ちていた。運命だと感じたのだ。
それに父の言う通り男だろうと関係ない。
椿はごくりと息を呑むと魂を縛られぼんやりとしている水木に声をかけた。
「萱、東京に帰らないでくれ。8つの祝いを共にしよう」
「分かった、椿。萱は此処に残る。共に祝う」
その時水木の名を呼ぶ祖母の声が聞こえ水木は正気に戻った。
目を瞬かせ、不思議そうに首を傾げる。
既に牛鬼の長夫婦の姿は消えていた。
残った椿は水木に言う。
「水木、我と友になってくれ。毎日此処で遊ぼう」
「んー……春になったら東京に帰るから、それまでならいいぞ!」
「約束じゃぞ」
「ああ、約束だ!」
2人は指切りをする。
次の瞬間には椿の姿は消えていた。
水木は首を傾げると鳥居を潜り戻ってきた祖母と共に祖父母の家へ帰って行った。
その背を牛鬼の家族はずっと見つめていた。
水木は約束通り毎日神社に遊びに通っていた。
初めは鳥居の前、次は鳥居を潜って直ぐの境内、奥宮のある深い森、そして。
今は牛鬼の一族が住む領域で遊んでいた。
萱、萱、と呼ばれる度に頭がぼんやりする。
牛鬼の眷属と言う使用人のような人達には小姫様と呼ばれ、椿とは飯事ばかりする。
何度か小姫様じゃない俺は男だ、これは女の遊びだから他の遊びがしたいと訴えたが聞き入れられることはなかった。
それに膨れ面をしつつ、今は将来義母になる白玉依姫様に裁縫を習っていた。
嫁入りする為の大事な準備だ。
「萱は飯事が嫌い?」
「嫌いじゃないけど女の遊びだもん」
「萱は将来我が長子の妻となるのでしょう。飯事で夫への尽くし方、次代の玉依姫として一族を率いるための勉強をしなければなりません」
「分かった、ごめんなさい白玉依姫様」
「良いのです。……ああ、萱は裁縫が上手ね。素敵な手巾にですよ」
「椿、喜んでくれるかな?」
椿が刺繍された手巾を掲げ、首を傾げる。
少し歪だが、上手に出来ている。
本当に良い嫁になると白玉依姫は微笑んだ。
「勿論ですよ、萱。ほほ、噂をすれば」
「母上、萱」
襖を開けて入ってきた椿に水木は立ち上がり抱きついた。
「椿!」
「萱は元気じゃな。花嫁修業は順調か?」
「うん、まだまだだけど」
「そんな事は無いですよ、萱。其方はよくやっています」
白玉依姫に褒められ水木は頬を染めた。
「そうだ、椿、これ」
一旦離れた水木から渡された手巾に椿は頬を緩める。
そして水木を抱きしめた。
「ありがとう、萱。大切にする」
「ああ!」
優しく口づけてくる椿を嬉しそうに受け止める。
その時襖越しに声がかかった。
「白玉依姫、一の若君。そろそろ小姫様お帰りのお時間です」
「もう?帰りたくないな」
「我も帰したくない。じゃが、8つの誕生日を祝ったら二度と帰らないのじゃから」
「それもそうだな。……早く8つにならないかなあ」
水木は拗ねた様に呟くとそのまま帰って行った。
春。
東京に帰りたくない、此処にいると泣き叫び動かない息子に困り果てた家族は祓い屋でもある子守りの婆さんを呼んだ。
子守りの婆さんは水木を見て険しい顔をした。
「坊ちゃん、自分の名前が分かるかい?」
「萱。椿の萱。椿は父だから、母である萱の名を貰ったんだ」
「いいや、違う。坊ちゃんの名は萱じゃない。水木、水木清太郎(せいたろう)じゃ」
「違う、ばあさん、違う!萱は次代の玉依姫。椿の妻になるんだあ」
険しい顔で子守りの婆さんを睨みつけた後、うっとりと宙を見る。
子守りの婆さんはパンッと柏手をうつ。
きょとんと自分を見た水木の額に人差し指と中指を当て呪文を唱える。
虚ろとしていた水木の目に光が戻る。
それを見て子守りの婆さんは溜息を吐くと家族を呼んだ。
「坊ちゃんは妖に魅入られていました。記憶を封じたので大丈夫ですが、二度とこの地に立ち入ってはなりません。次は逃げられないでしょう」
「……分かりました」
家族が重々しく頷きそのまま水木は東京へ戻った。
全てを忘れて。
「父上、母上。萱が……水木が来ないのじゃ」
「小癪な祓い屋め……!」
「ああ、我が長子。大丈夫ですよ。次はお前が探すのです。その為には立派な長にならないと」
「はい……母上」
椿は頷き決意した。
必ず立派な長となり、自らの玉依姫を迎えに行くと。