オクジーくんはご飯を作りたい「オクジー君」
食卓の向こう側。いつものように食前の祈りを終えて、マッシュポテトを取り分ける俺の手元を眺めていたバデーニさんは、おもむろに言った。
「は、はい?」
「前から思っていたが」
と言って、食卓の上の料理を一瞥する。鶏肉と野菜のグリルとマッシュポテト、そして具材をたっぷり入れた真っ赤なビーツのスープ――これはバデーニさんの故郷の料理だと聞いて俺が特によく作るようになったものだ――俺は何か嫌いな食べ物でもあったかと、咄嗟に詫びる構えで肩を縮める。
「な、何か……?」
「いつもこんなに料理に手を掛けなくていいぞ。私は少食だし、美食家じゃない」
「あぁ、」
俺は少しホッとして、笑みを作る。
「それは、気にしないで下さい。俺が好きでやってるんで……」
「それが理解できないと言ってるんだ」
バデーニさんは苛ついたようにスプーンで俺を指した。
「君は睡眠時間を削って勉強してるし、勉強時間を削って労働してる。食事なんかに時間も金も掛けてる余裕はないだろう」
「それは、」
と俺はおずおずと反論する。
「食費は二人で出してる生活費で賄えてますし、料理や買い出しはいい息抜きになってるんで。低コストな趣味だと思って貰えませんかね。はは……」
「理解し難いな」
バデーニさんは気に入らなさそうに、腕組みして俺を睨んだ。
「そもそも私は美食家という連中が嫌いだ。食事など栄養がとれればそれでいいだろう、味や見た目を弄り回して何になる」
「はは……ですからまあ、趣味です」
と答えつつも、俺は二人で暮らすようになる前のバデーニさんの食生活を思い出して苦笑する。最低限のカロリーを摂るためのパンと水、カフェイン、後は数種類のサプリメントで構成された食事と呼ぶにはあまりにも殺伐としたそれ。こんな人に食生活の豊かさとは何たるかを訴えても無駄だ。だから、全面的に俺の趣味だと思って貰った方がいいのだ。
「なんかスイマセン、面倒ですよね。でも、いつも一緒に食べて貰えて嬉しいです」
できる限りの低姿勢を取ったつもりだったが、なぜだか逆鱗に触れたらしい。バデーニさんは舌打ちして背を反らした。彼の座った椅子がガタンと鳴った。
「それだ、私が気に入らんのは」
「な、何がです?」
「君の趣味なら勝手にすればいい。だが、私が巻き込まれている」
「はぁ……だから有難いなぁと」
「どう考えても君の一方的な労力だろうが、これは。しかも私の命令でやらせているなら見返りの提供しようもあるが、君が趣味だと言う以上どうすることもできん。そのくせ、成果物だけは分け前にあずかるなどというのは不快だ、毎日毎日。かと言って分担するなど絶対にごめんだしな。私の時間の使い方は私が決める」
「はぁ……」
俺はビーツのスープに視線を落とす。すこし考えて、バデーニさんの言ってることを理解しようとする。
「つまりバデーニさんは、俺が作った料理を食わされるのが嫌だってことですか?」
目を上げて顔を見ると、なぜかバデーニさんは怯んだような顔をした。いつもすらすらと罵倒が出てくる口が、何か堪えているように結ばれて動かない。
「そ、そうは言ってない」
「じゃあどういうことですか?」
まっすぐに疑問を返すとバデーニさんは眉間にきつく皺を寄せる。俺が馬鹿すぎて呆れているのだろうか。申し訳ない。
「…………だから、」
バデーニさんは壁を殴りたいのを必死で我慢しているような声で言った。実際、我慢しているのかもしれない。この部屋の敷金のことを考えてくれて助かる。
「心苦しいと言ってるんだろう、君の善意に甘えるのが! いつも目の下に隈が出来てる男に毎日毎日手の込んだ家庭料理を出されてみろ、良心が痛むんだ! 私を何だと思ってるんだ!」
「……はぁ?」
「それに趣味だとか言ってるが、君、一人の時は全然こんな料理作らないじゃないか。私と似たり寄ったりのくせに。知ってるぞ」
「あー……そうですね、つい面倒で。はは」
「ほら! だったらつまり私のためにやってるんじゃないか。私に好意を持つのはわかるが、オクジー君、きみは、」
バデーニさんは勝ち筋を掴んだような顔つきになって俺の顔を覗き込み……それから顔をゆがめた。
「……どうしてそこまでするんだ」
「あー……えっと、」
俺は俯いて頭を掻いた。
「正直に言うのはちょっと恥ずかしいんですけど……言わないと駄目ですか?」
「言え。この私がここまで正直に心情を吐露してるんだぞ」
「ですよね……すいません」
俺はもう一度頭を掻くと、深く息を吸った。
「……子供のころ好きだった絵本があって」
「…………は?」
「どこで読んだのかよく覚えてないんです。色んなところを転々としてたので……それに内容もうろ覚えで……作者名すら言えないのが申し訳ないんですけど」
「何でもいい、要点を言え」
「スイマセン」
苛立たしそうに言われて背筋を伸ばす。
「なんか、熊の子供が冒険の旅に出るような話だったと思います。かわいいファンタジーですよね。で、冒険の内容はうろ覚えなんですけど、それはまあ良くて。熊の子供が最後に家に帰ってくるんですけど」
バデーニさんの顔をちらと伺うと、彼は色の薄い瞳でじっとこちらを見ている。真剣に話を聞いてくれているようだ。俺のくだらない思い出話なんかを、このひとが。
「……そしたら……こぐまの家は灯りがついてて暖かくて……白いフリルのエプロンをしたおかあさんグマが待ってて……温かい食事を出してくれるんです。ほかほか湯気のたってるシチューとか、そういうものを」
うろ覚えの絵本の一ページを思い出しながら懸命に言葉を紡ぐ。バデーニさんに聞かせるにはあまりにも相応しくない話で、言ってるそばから恥ずかしさで消えたくなる。
「……子供のころ、そういうおうちに憧れてたんです。でもずっと忘れてたんですけど、最近……、」
食卓にめり込むように俯くと、間近でビーツのスープがまだほのかな湯気を立てていた。俺の頬がこんなに熱いのがそのせいだとは、さすがに思えなかったが。
「……バデーニさんと暮らすようになって、思い出したんです。……ああいう家族が俺、ほしかったんです…………」
「…………。」
バデーニさんは何も言わない。笑われるかと思ったが笑いもしない。それはそうだろう。彼は下らない冗談で笑ってくれるほど優しくないので。……気まずくて顔が上げられない。
がたん、と席を立つ音がした。あっ、部屋に行っちゃうのかな。ごめんなさい。俺が悪いんですけど、でも飯は食って欲しかったな。バデーニさんに栄養とってほしい。でも、俺が悪いから。
――と思っていたら、額に何か触れた。
バデーニさんの指だった。彼はそうして俺に少し顔を上げさせると、
「……バデーニさん、すいませ、」
彼は小さく、しーっと言った。子供を寝かしつけるような調子で。それからテーブルごしに身を乗り出して、俺の額にキスをした。
「えっ」
「ずいぶんデカい子熊だな」
「えっ」
「よく帰ってきたな。食事にしよう」
戸惑いながら顔を上げると、バデーニさんはスプーンを手にとって、俺の作ったスープをすくっているところだった。
ぽかんとして見ている俺の前で、彼はスープを口に運び、ゆっくりと味わって飲み込む。
「早く食べなさい。スープが冷めてしまう」
「は、はい」
彼に倣ってスープを口に運ぶ。バデーニさんはそんな俺をじっと見ていた。
「……君の作った食事で悪いし、今後も私は料理などするつもりはないが」
「えっ、いやそんな、それはもちろん」
「よければおかあさんグマのようなエプロンでもつけてやろうか」
「えっ」
バデーニさんは、くっ、と笑った。
「冗談だ」
「……ちょっと! からかわないで下さいよ!」
暫し笑い声が響く、食卓の上。
あの頃の俺を思い出す。
君が憧れ、やがて目を逸らしてしまったものは本当にあって、美しいよ。
君が思ってたのとは、ちょっとちがう形だけど。
了