HOME SWEET HOME(2)【スミス、引越し蕎麦を食す】
山の中腹に建つ築三十年の山小屋風別荘。そこがイサミの新しい住居だった。一昔前、ここに別荘を立てて季節レジャーを楽しむのが日本人の『息抜き』とされていた頃に建てられた。格別な富裕層だけでなく、そこそこの稼ぎでも第二の家を持つことはそれほど難しくは無かった時代だ。
だが時代は変わる。あれほど湧いていた日本の景気は悪くなり、まず余分なものとして別荘から売りに出された。そうして一時期は小さなコミューンのように栄えていた一角は今ではほとんどの家が空き家で、住んでいるのはペンションを経営している二軒だけとなった。イサミとスミスは三軒目の住人になる。
外からチチチと小鳥の鳴き声がして、荷物を片付けていたイサミはふと顔を上げた。遠くから車のエンジン音がする。
「イサミィ!着いたよぉ!」
しばらくすると家の庭に一台の軽トラが停り、運転席からは朗らかなヒビキの声が響いた。
「おお、悪ぃなヒビキ!休みの日まで手伝わせて!」
「今度一杯奢りね!」
そう言いながらもヒビキは休日に友人の引越し手伝いをすることを楽しんでいるようだった。最初はあまり知らない外国人親子と突然同居することになったと聞いて驚いたが、紹介されたスミスはフレンドリーないい奴だった。何よりイサミがこんな短期間に親しくなっているという事に驚いた。イサミがそれほど気に入る奴なら悪い人間ではなかろう、というのがヒビキの見解だ。あと、娘のルルちゃんが可愛かった。
「おーい、ヒビキ!荷物降ろし始めていいか!?」
荷台から叫ぶのはもう一人の助っ人ヒロである。
「ヒロもありがとう!荷物どんどん降ろそうぜ」
イサミも袖を捲りあげて荷降ろしを手伝い始めた。
「いやー、二人は引越し屋に転職した方がいいよ!」
花屋で力仕事をしているイサミとスノースポーツをしているヒロは鍛え上げられたいい体をしている。とはいえヒビキも普段スーパーで荷運びをしているから、パワフルにダンボールを運んでいた。荷台いっぱいの荷物はあっという間にエントランスに積み上げられていった。
「で、これどうするんだ?」
「ああ、振り分けはスミスが来ないと……」
その時目いっぱいのエンジン音を鳴らして一台の赤いハイトワゴンが山道を登ってきた。スミスが運転する軽自動車だ。いくら内部空間が広い日本の軽とはいえスミスが運転席に収まる姿はなんと言うか…『ギチギチ』という擬音が聞こえてきそうだ。だが彼はこれでルルの保育園送り迎えから営業まで毎日走り回っているのだった。
「おはよう、イサミ!」
「イサミーーー!」
チャイルドシートからルルも手を振っている。その後部座席にもたっぷりと荷物が積まれていた。スミスはポーチに綺麗に車を停めると、小さなコックピットからぬっと大きな体を現した。
「やあ、ヒビキ!こないだはありがとう!こちらは?」
「ああ、スミスは会ったこと無かったっけ!こいつはヒロ・アウリィ、スノーボードトレーナー」
「よろしくな、ブラ!アメリカ人は少なくて寂しく思ってたところだよ!」
紹介されたヒロは分厚い手のひらを差し出す。人懐っこいヒロとスミスはすぐに打ち解けた。
「ヒロはいつから日本にいるんだ?」
「一昨年からさ。雪の季節だけじゃもったいなくてね!どうせならこの町の一年を見てみたくて」
「じゃあ、先輩だな!」
「ヒロって、こんなに雪山に馴染んでるくせにハワイ出身なんだよ。笑えるよねー」
「ハワイ…?」
ふとスミスの顔が曇った。
「どうした?スミス。ハワイに知り合いでもいたのか?」
「あ、いや…そういうわけじゃ…」
いつでも快活なスミスの目が泳いでいる。その視線はルルを探していた。
「あれ?ルルは…?」
大人たちが親交を温めている間にルルの姿が消えていた。さっと皆の顔が青ざめた時。
「スミーーース!!!すごーい!」
庭の方からはしゃぐルルの声が聞こえた。全員が一斉に駆け出す。
「すごーい!高い!」
ルルの声は頭上から聞こえた。なんと木のかなり上までルルは登っていたのだ。木の根にはかつては白かったのだろう古びたベンチがある。そこを足掛かりにして木に取り付いたらしい。
「ルル!危ないから!メーーーッでしょ!!」
「そうだよ、ルルちゃん!降りておいで」
「でも、あんな高いところから降りられるのか…?」
「ハシゴ探して来る!」
イサミが駆け出そうとしたその時、ルルはいとも簡単にスルスルと木から降りて来た。最後は腕を広げたスミスの胸に豪快なジャンプを決める。
「す、すごい…。猿みたいな運動神経……」
「いや、お前もあんなもんだったぞ…ヒビキ」
そういや小学校の頃はヒビキと一緒に野山を駆け回っていたっけ。木から木へ豪快なターザンジャンプを決めていたヒビキを思い出してイサミは複雑な気持ちになった。
「ルル!危ないから勝手に登っちゃダメだぞ」
「じゃあ、スミス一緒に登る!」
「いや、俺が登ったら…枝が折れる……」
困ったように眉根を下げるスミスの顔に大人たちは思わず吹き出してしまった。
「いやー、確かに!これだけ元気良かったらマンション暮らしは窮屈だね!」
「お恥ずかしい…ほんと、その通りで……」
「ルルちゃんの面倒は私がみてるよ。その間に男どもは荷物の片付け!」
「Yes sir!」
ヒロがふざけて敬礼し、エントランスに向かって走り出す。スミスとイサミもそれに続いた。
大体の荷解きが終わったのは夕方近くだった。
「あーのねー!ここがルルの部屋!それで、隣がスミスの部屋とお仕事する部屋!イサミの部屋は下だってぇー!」
ルルが一つ一つのドアを覗きながらヒビキに家を案内している。ここはトイレ、ここはお風呂、ここは…。
「うわ、お前らこっち来んな!まだ何も片付けてないんだよ!」
一階の角はイサミの部屋で、イサミはそこで私物の片付けをしていた。
「相変わらず殺風景な部屋だねー、イサミ」
「そうか?こんなもんだろ」
「スミスの部屋見てきたけど、もっといろんな物があったよ。いや、あり過ぎる気もしたけど…」
「なんかあいつ、趣味多いらしいからな」
イサミの部屋はベッドと段ボールに入れたままの着替え、後はトレーニング器具がいくつか転がっているだけだった。自宅トレーニングがイサミの唯一の趣味なのだ。
「昔はもっといろんなもんあったじゃん。空手大会の優勝トロフィーとかゲーム機とか」
「そういうのは全部実家に置いてきた」
イサミの実家は今は長野市内にある。そこからわざわざイサミ一人だけがこの山の中に戻って来たのだ。大抵の若者が就職を機に都会に出てゆくこの町にわざわざ戻って来るなんて、とヒビキは驚いたものだ。その上さらにこんな山奥に住むなんて。
「リビングにおいでよ。みんなで引っ越しそば食べよ」
イサミが片付けを中断してリビングに行くと、既に大量の蕎麦が茹でられていた。地元スーパーの娘であるヒビキが段ボール一箱持って来たのだ。
「やっぱ引っ越しと言えば引っ越し蕎麦でしょ!」
「ヒッコシ…ソバ……?」
アメリカ人二人は大量の蕎麦を前にキョトンとしている。
「日本にはね、引っ越しの日には蕎麦を食べる習慣があるの!」
「そうなのか!」
いただきます!四人で手を合わせて蕎麦を啜り始める。あれだけ用意してあった蕎麦は見る間に減っていった。
「じゃんじゃん食べてねーーー、まだお代わりあるから!」
「スミス、箸の使い方上手いな」
「日本に来る前にも日本食を食べる機会はあったからね。ルルはまだちょっと…」
「やだ!ルルもお箸で食べる!」
子供用フォークを与えようとしたが、ルルは自分も箸で食べると聞かず、すぐに胸元とテーブルを蕎麦ツユでびしょびしょにしてしまった。
「あはは、まぁ後で着替えればいいじゃん!」
「イサミとヒビキは昔から知り合いなのか?」
「小学校が一緒だったからね。子供の頃はこの辺の野山が遊び場だったよ」
「そうそう、ヒビキなんてさっきのルルよりもっとお転婆だったからな。お転婆というよりもはや猿……」
「イサミだって!崖から川に飛び込んでリュウ兄にめちゃくちゃ怒られてたじゃん!」
四人で囲む食卓は賑やかだった。
「イサミはここから毎日花屋に通うの?」
「そうだ」
「大変だねー、朝早いのに」
「車ですぐだろ」
元々職場と住居が一体だったイサミが通いになってしまったのは、不動産屋の川田に売り言葉に買い言葉で自分が住む!と言ってしまったせいだ。そのことをスミスはずっと気にしていた。
「あ、もうこんな時間!」
「すっかり遅くなっちまったな」
外はもうすっかり日が暮れていて、ヒビキとヒロは慌てて支度をすると軽トラに乗り込んだ。
「今日中にこの車親に返さないといけないからさ!」
「ありがとうな、ヒビキ。おじさんにもよろしく」
「いいっていいって。まぁ、またうちで買い物してよーーー。スミスも!スーパーリオウをよろしくぅ!」
「ありがとう、ヒビキ、ヒロ!」
真っ暗な山道に赤いテールランプが消えてしまうと、あたりはすっかり静かになった。隣の家とも相当距離があるから、夜はまるで山の中の一軒家みたいだ。
「静かだな……あれはフクロウかな?」
森の奥から聞こえる鳥の声にスミスは耳を澄ませる。
「静か過ぎるか?」
「まさか。俺が子供の頃住んでいた家は隣の家と一マイル離れてた」
「へぇ……」
スミスはどんなところで生まれて育ったのだろう?そういえば俺は何もこいつのことを知らないな。とイサミは思った。そんなよく知りもしない相手と今日から一緒に暮らすなんて、世の中何があるか分からない。
「ルル、寝ちゃったか」
「今日一日中はしゃいでたからな。お姫様はお疲れみたいだ」
眠ってしまった子供の体はずしりと腕に重い。けれど逞しいスミスの腕はそんなことも物ともしないほど軽々とルルを抱え上げ、部屋のソファにそっと寝かせた。
「よし!俺が片付けするから、イサミは休んでて……」
「なんでだよ、一緒にやるよ」
それで、大人二人は引っ越し蕎麦の後片付けを始めた。
「蕎麦、美味しかった!」
「そりゃ、良かった。まだたっぷり残ってるから、棚にストックしとくぞ」
あれだけ茹でたのに流石に段ボール一箱は食べきれなかった。
キッチンは二人並んで洗い物をしても狭さを感じない広さで、カウンターからはソファで眠っているルルの様子にも気を配ることが出来た。
「あの…イサミ…なんだかすまない。君にはちゃんと家があったのに、付き合わせることになってしまって…」
濡れた食器を拭きながらスミスが大きな体を縮こませるようにして詫びた。川田との話し合いの後半は早口でほとんど日本語が聞き取れなかった。いつの間にかイサミと共に住むことになったと聞いて、スミスは何度も辞退しようとしたがイサミは今更川田に頭を下げるのが癪だと意地を張ったのだ。
「家ったって…所詮貸し家だし。どこに住んだって一緒だ」
「でも……」
「それなら、俺の分も飯、作ってくれよ。一人暮らしだと自分の飯っておざなりになりがちだからな」
「そんなことでいいなら!喜んで!」
一人でルルを育てているスミスは一通りの家事は出来る。任せろ!と胸を叩いた。
「よーし!イサミの胃袋を掴んでみせるぞ!」
「そんな日本語、どこで覚えてきたんだよ」
キッチンに笑い声がこだまする。大きな窓の向こう、広い庭の上には満点の星空が広がっていた。