力士は豊穣を願う 空は晴れ渡り、青々とした稲の上を初夏の風が渡ってゆく。最高の祭り日和だった。
「……の地に豊穣を願い、かしこみかしこみ……」
神社の境内に祝詞が響き渡る。だが、境内に集まった村人たちはほとんどそんなものを聞いてはいなかった。毎年その豊穣を願う由緒正しき祭りではあるが、それよりも彼らの楽しみはその後にあった。
神に捧げるという奉納相撲である。
神社の一角には常から屋根のついた土俵があり、土が盛られている。年に一度この日にそこは綺麗に整備され、縄が張り直される。奉納とは言っても優勝者には商店街や地域行進会から景品や賞金が出る。中には昔ながらの米俵なんていう賞品もあった。
「イ、イサミ…これでいいのか?」
日本伝統の衣装…MA WA SHIを締めたスミスが心許ない様子で立っていた。水着と思えとは言っても後の方はほぼ丸出しで日本人でも自分がつけるのは躊躇う者が多いだろう。スミスもSUMOのことは知っていたが、まさか自分がやることになるとは思ってもみなかった。話は一ヶ月前に遡る。
スミスの部屋から何か英語で話している声が聞こえる。こちらは夕食時だがアメリカはちょうどビジネスタイム。書斎にした二階の部屋でスミスは一人仕事中だった。
「That’s why we still need more time to coordinate with the local authorities──」
オンラインでの会議は白熱しており、なかなか終わりそうもない。
イサミが用意した夕食を前にルルはいい子で待っている。けれどそろそろ食い気より眠気が勝り始めたらしい。その頭はこっくりこっくりと船を漕いでいた。
「まだ時間が掛かりそうだな。ルル、先に食ってようぜ」
「スミス、食べないの?」
「後でまたあっためてやるよ」
本当は腹が減っていたのだろう、ルルは可愛いアヒルの描かれた茶碗を持つと掻き込むように食べ始めた。
「ルル、ちゃんと噛んで」
「はーい」
イサミもすっかりパパ業に慣れてしまった。まだ結婚もしてないのに先にパパになってどうすんの!?とよくヒビキに揶揄われる。イサミはスミスの分のおかずにラップをかけ、自分も山盛りに白米をよそってテーブルについた。
今日から鮎漁が解禁されて、初物を商店街の仲間に貰った。骨の多い鮎はルルにはちょっとハードルが高いかと思ったが、身をほぐしてあらかじめ塩だれと和えて出せば美味しそうに食べている。他にも季節野菜の天ぷらや味噌汁、全部この辺りで採れた地物野菜だ。
「野菜か…庭で少し作ってみるかな」
作付け用の苗は専門の業者が各農家に卸しているからイサミの店では扱っていないが、頼めば個人宅用の少量でも分けてくれるだろう。この家の庭なら一部を畑にしても十分広さは取れそうだ。いや、広過ぎると片手間で世話が出来なくなるからある程度面積は絞って…。とイサミがあれこれ考え事をしていると、上からスミスが降りて来た。
「sit…!頭の固いやつらだ!」
「家で悪い言葉を使うな。ルルが覚えたらどうする?」
「あ、ああ…ごめん!」
眉間に皺の寄った厳しいビジネスマンの顔から、スミスは瞬時に優しいパパの顔に戻った。どっちみちルルはすでに茶碗を空にして寝落ちていたが。
スミスがルルをソファに運ぶ間に、イサミはおかずを温めご飯をよそってテーブルに並べた。
「どうした?難航してるのか?」
「そうなんだよ…。まだここに来て三ヶ月しか経ってないってのに、本社の連中は『いつ施設に着工するんだ?』って、注文住宅じゃねぇんだ!」
もうルルが聞いていないと知ったからか、スミスの言葉はいつもより少しだけラフだった。
「建物だけ建ったってそこに来る人がいなかったら意味が無い。観光ってそういうもんだろう?それに一回で満足しちまうような観光名所じゃ意味がないんだ」
「まぁ、ここら辺は有名な寺も無いし、観光するような場所ってあまり無いだろ?」
「名所を回るだけが観光じゃないよ!その土地に触れて、普段の生活とは違う空気を感じることだって十分観光だ。むしろそのためには巨大なスキー場があるよりこの町の方がずっと可能性があると俺は感じてるんだ!ところでこの魚、美味いな?これ、何?」
「鮎だ」
「鮎…Ayu…?」
早速スミスは手元のスマホで鮎について調べ始め、目を輝かせた。
「wow!この魚は日本にしかいないんだね!清流でしか生きられない…友釣り…へぇ、面白い───こういう文化を俺は伝えたいんだ!」
「食事中に行儀悪いぞ、スミス」
「oh、sorry」
スミスは素直に詫びると、スマホを消してテーブルに放り投げた。
「お前、結構地元行事とか好きだよな。こういうの興味あるか?」
「SUMO?」
イサミが一枚のチラシをスミスに見せた。小学生くらいの少年たちがまわしを締めて相撲を取っている臨場感のある写真を全面に使ったそれは、この間川田に渡されたものだ。地元の神社で行われる小さいが伝統のある祭り。そこで地元の人たちと交流を深めてはどうか、とイサミは提案した。
「毎年飛び入り参加の観光客もいるし、外国人が出るのは初めてじゃない」
「pretty cool!素敵なアイデアだ、イサミ!でも俺にSUMOが出来るかな?」
「あんた、ハイスクールでボクシングやってたって言ってたろ」
確かにどちらも一対一でやる格闘技だがだいぶ違う。けれどスミスはそんなイサミの一言で俄然やる気になってしまった。
奉納相撲は原初、普段の農耕作業で鍛えた体で村一番の力持ちを競う行事だった。豊穣を神に願うという神事である反面、娯楽の少ない山奥の村での数少ないイベントの一つだ。過疎化した今では飛び入りの旅行者の参加も許されている。
「それに、鍛えてるあんたなら結構いいとこいけるかもな」
イサミがこの家に持ち込んだ器具で二人はよく一緒にトレーニングしていた。アメリカではジムに通っていたと言うが、この村にそんな洒落たものは無い。あったとしてもルルから長い時間は目を離せないから通うのは難しいだろう。ルルも交えてだだっ広い庭で二人組になって自重トレーニングを行う。それが二人の日課になっていた。ルルを背中に乗せたまま軽々と腕立てをしてみせるスミスに対抗して、俺も!と言えばルルは喜んでイサミの背中によじ登った。
「よぅし…競技に勝って、一気に地元の人たちと距離を縮めてみせる!」
スミスの雄叫びで眠っていたルルは目を覚ましてしまった。
その日からスミスは庭に描いた円の中でイサミに相撲の手解きを受けることになった。流石に砂は入れられないから下は芝生のままだ。
「相撲の基本は四股だ。重心を下げ体幹を鍛える」
「スクワットみたいなものか?」
「ちょっと違う。やるから見てくれ」
イサミは腰を落とし両膝を掴むと、片足を高々と上げた。宙を切る足の先は真っ直ぐ空に伸びている。そのままゆっくり上げていた足を下ろすと大地を踏み締め、もう一度最初の体勢に戻った。
最初は片足を上げるくらい簡単だと思っていたスミスも、何度もやるうちにバランスが取りにくいこと、膝を伸ばせないことに気付き始めた。
「これは…思ったよりキツいな…」
「体幹使ってるの、分かるか?鍛えるところに意識を置いた方がいい。これを一日二十回」
「二十回ーーー!?」
「何言ってんだ、普通は最初に五十回ずつだぞ?不慣れなうちは他の筋肉を痛めるからまずは二十回」
「イサミは…?これ、何回出来るんだ?」
「数えたことないな」
確か酒を奢るとか下らないことを賭けてやった四股踏み対決の時で200回位か?そう言うとスミスはヒュ〜っと口笛を吹いた。
次の日からは基本的な突き出しや、まわしの取り方を教えた。
「一度にたくさん教えても体が覚えきれない、今日はこのくらいにしておこう」
イサミがそう言う頃には二人とも汗だくになっていた。山とは言っても初夏の空気は暖かい。その中で体を動かせば自然と筋肉も温まる。相撲の動きは地味だが、全身の筋肉を目一杯使うなかなかハードなスポーツだった。
「ルールは大体分かってると思うが…。膝をついたら負け、土俵の外に出たら負け。けど、外っていうのはあくまで足が出たら、ってことだから、体勢が崩れても足が残っていれば先に外に足をついた方が負けになる」
「うんうん」
ルールについてはネットで見て覚えた。
YouTubeには有名な力士の動画がたくさん上がっていて、元々格闘技が好きなスミスはすぐその魅力にハマってしまった。
「この猫騙しってどうやるんだ?」
「この選手は押し出しがいい!」
いつの間にか各力士の名前や得意技まで覚えてしまっている。
「選手じゃなくて、力士な」
「イサミも上手いよな。やっていたのか?」
「この辺の子供らは大体一度はやってる。俺は中学高校は空手だったけど、こっちに帰って来てからまた始めたんだ。消防団員は全員強制参加だからな」
「消防団員?」
「地元の災害救助を担うボランティアみたいなもん」
「イサミはそのメンバーなのか!?」
スミスは目を丸くした。普段は花屋で黙々と働いて、家では幼子の世話をし、朝はまた早くから市場に出る、そんなイサミが夜には町を巡りながら人々を見守っていたなんて──それはまるで。
「ヒーローみたいだ!」
しかしイサミはその言葉に照れるでもなく、下を向いてしまった。
「イサミ?」
「ヒーローなんかじゃない。ほんの手伝い程度だよ」
消え入りそうな細い声だった。さっきまで相撲でぶつかり合って身も心もホットになっていたと言うのに。不思議に思いながらもスミスはイサミの手を取り、ぎゅっと握りしめた。
「それでも、とってもcoolだ!」
「はは…ありがとな……」
イサミは適当にその情熱的な賛辞を受け流すと、この話はもうお終い!というように四股踏みに戻って行った。
そしていよいよ祭りの日。空は晴れ渡り、青々とした稲の上を初夏の風が渡ってゆく。最高の祭り日和だった。朝から準備のために境内を慌ただしく人々が行き交う。
「wow!すごい!動画で見たのと同じだ!」
駐車場から入った境内裏には新しく盛り土をした土俵があり、そこでは既に地元の相撲クラブの少年たちが練習をしていた。
「みんな早いな」
「おはようございます!」
イサミが話しかけると、少年たちは練習を止めて礼儀正しく挨拶をした。
「すごい…あんな小さな子が…!」
それを見たスミスは驚いた。まだ小学生くらいの子供もまわしをつけて稽古をしている。股割りからの四股、ぶつかり合い、家の庭でイサミが教えた通りの練習だ。
「外人さんだ…」
「すげぇ、外人さん…」
「あの女の子も…外人?」
子供たちの方もチラチラとこちらを見ている。外国人の多い地域とはいえ、子供たちが直接話をする機会はあまり無い。白い肌に青い目の大人はやはり珍しいのだった。
「あ、かわちゃん!」
ルルが突然名前を呼んで走っていった。少年たちの中でも一番小さい、まだまわしもつけていない少年がルルの友達のようだった。
「ルルちゃん!どうしたの?」
「スミス、相撲する!」
「スミス?あ、ルルちゃんのパパか」
園ではお迎えの時にスミスに会う機会もあるから少年はスミスのことも知っているようだった。
「こんにちは。佐竹先生はいるかな?」
少し屈んで少年と目線を合わせながら、イサミが問う。知らない大人に話しかけられて少年は恥ずかしそうにモジモジして、「まだ来てない!」と言い捨てると走って仲間たちの方に戻ってしまった。
さすがに幼稚園児では事情は分かるまいと、集まった子供たちの中でも比較的年齢が上の少年に聞こうとイサミが砂利を踏んで歩き出すと、遠くからバイクのエンジン音が聞こえた。その音はどうやらこちらに近付いて来るようだった。
「佐竹先生だ!」
少年たちが一斉に走り出す。駐車場の入口に一列に並び、バイクが入ってくるのを待つ。やがて大型の赤いバイクが鳥居の下に停り、エンジンを止めた。
「おはざっす!」
「おねがしゃっす!!」
「おう。お前ら、危ないから離れてろよ」
少年たちの真ん中を赤いバイクを押しながら入ってきた男はイサミに目を止めると手を上げた。
「おう、イサミ。そっちの彼が噂の同居人か」
「うっす」
「Hello how are you?」
英語で話しかけられてスミスは少しホッとした。
「ハジメマシテ。ルイス・スミスです」
「日本語出来るのか」
「チョットダケ」
「イサミから話は聞いてる。佐竹隆二だ。今日はよろしくな」
バイクを停めた佐竹はそう言って片手を差し出した。
佐竹はイサミの先輩で消防団の団長をしている男だった。消防団の活動の一環で子供たちに色々なスポーツを教えたり行事の手伝いをしたりしている。普段はこの辺りで昔から営む電器屋をやっていた。
「だが、初心者だからって手加減はしないぞ」
「え?」
「隆二さんはここ数年毎年奉納相撲のチャンピオンなんだ」
そう言うイサミの顔はなぜだか険しい。
「そうか?今年は分からないかもな?」
「今年は…負けませんよ……」
イサミがギリリと佐竹を睨むのでスミスは少し驚いた。家でそんな感情剥き出しの表情を彼が見せたことは無かったからだ。イサミにとっての佐竹はそれだけ気安い間柄なのだろう。そうと察したがそれが少し寂しくもあった。
「とりあえず中に入ろう」
佐竹に連れられて社務所に向かう。
「荷物はこっちに置いてくれ。もうすぐ子供の部が始まる。行くぞ」
「あ、はい!」
スポーツバッグを置いたスミスは慌てて後を追おうとしてルルの姿が見当たらないことに気付いた。そういえばさっき友達の方に駆けていったきりだ。小さな神社だ、そんなに遠くには行っていないと思うが。
ルルはさっきのお友達と土俵の横で相撲をとっていた。いや、相撲とは呼べないような組み合ってふざけているだけのことだが。
「ルル!もう行くよ!」
「ヤダァ、ルルもっとおすもうする!」
ルルがやりたがるから庭での稽古の時に基礎は教えてある。元々運動神経がいいルルは綺麗に四股を踏んでみせた。
「へぇ。あの子も出るのか?」
「いや、ルルは女の子ですから…」
「そうか?女子も出られるぞ?」
「え!?」
イサミも初耳だった。確かイサミが子供の頃には奉納相撲は女子禁制、子供であっても土俵に立ち入ることすら許されなかったのに。
「今年から性別不問になったぞ。チラシに書いてあったと思うが…」
佐竹にぎろり、と睨まれてイサミはヒュッと息を呑んだ。毎年の祭りだし要項についてはそこまで読んでいなかった。
「すいません、読んでませんでした」
「おーい、ルル!ルルも出られるって!どうする?」
「出たい!」
もちろんルルは大喜びである。
「何も準備してきてませんが…」
「子供用のまわしなら余分がある。下は…その服のままでいいんじゃないか?」
スモックの下に黒いスパッツを履いたルルが嬉しそうにぴょこぴょこと跳ねた。
「かわちゃん!ルルもおすもうサンになる!」
「うん。がんばろ?」
どうやらお友達も出場予定だ。また後で、と手を振るとルルはスミスと手を繋ぎ社務所に入って行った。
「はっけよーい!残った残った!」
行司が軍配を振ると場内から笑い声が巻き起こった。未就学児の児童の部はまだまだ相撲と言えるものではなく、まるで組み合ってダンスを踊っているようだ。けれど、子供たちのそんな様が可愛くて、土俵を囲んだ大人たちはやんやと囃し立てた。親たちはずっとカメラを回している。
「ルル、大丈夫かなぁ?」
「まぁ、勝ち負けってほどのものでは無いし。参加することに意義があるんじゃないか?」
急に飛び入り参加を決めたルルのために、イサミとスミスも土俵脇でスマホを構えていた。
「こんなことなら家にある一番いいカメラを持って来るんだった!」
「それに関してはすまん…俺がちゃんと読んでいれば…」
「い、いや、イサミを責めてるわけじゃないよ!」
「代わりに撮りましょうか?」
「ミユ!?」
いつの間にか二人の背後にはミユがいた。立派な一眼レフカメラを構えている。その隣にはヒビキもいる。
「今日は園の子もたくさん出ますから」
「そうか保育園は今日休みだもんな。ヒビキ、お前は仕事どうしたよ?スーパー休みじゃ無いだろ?」
「仕事仕事!うち、出店出してるんだよ、何か買ってよね!」
境内にはテントが立ち並び飲み物や軽食を売っている。その中にリオウスーパーの出店もあった。
「へぇー、ルルちゃん出るんだ?」
「今年から女の子もOKになったらしい」
「いいなぁ。私の時は出られなかったもんね」
ヒビキはクラスで一番相撲が強かったのに、当時は男児しか出場出来なかった。田舎町も少しずつではあるが、確実に変わりつつある。
「あ、ルルちゃんだ!」
いよいよルルが登場した。スパッツの上からまわしを締めたルルが口をへの字に曲げて土俵に立っている。動画で見た相撲取りたちの表情を真似ているのがすぐに分かった。
「すごい…ルル、本物の力士みたいだっ!」
スミスはスマホで何枚も写真を撮っている。まだ土俵に立っただけなのに親バカここに極まれり、だ。
「はっけよーい…残った!」
勝負は一瞬だった。低い体勢から突進したルルは体当たり一発で相手を倒してしまった。ころん、と転がった相手の女の子はびっくりしてすぐに土俵を駆け降り、親の元に戻ってしまった。
「やった……!ルルが…!ルルが勝ったぁぁぁ!!!」
スミスはまるで自分が勝ったような喜びようだった。行司の勝ち名乗りを受け、ルルが意気揚々と戻って来る。
「すごいな、ルル!」
「ふふん、ルル、強い!」
「強い!Pretty cool!」
「早過ぎて何も撮れなかったですよぉー」
カメラを携えたミユがそうぼやくほど、取り組みは一瞬で終わってしまった。だが、トーナメント戦なので勝てばまた出ることになる。スミスは自分の準備も忘れてルルに水を飲ませたり汗を拭いたり忙しかった。
次の取組はさっきのかわちゃんだった。呼び出しも兼ねた行司が高々と名前を呼び上げる。
「にぃしぃぃぃーーーー、かわぁだぁーーー」
「ん?かわちゃんって…」
イサミが何か言い掛けたところでまたしても勝負は一瞬でついた。ルルの時と違い、ちゃんと相手と組んだかわちゃんはどんどん相手の体を押して、土俵の外に出したのだ。
「あの子は川田さんとこのお孫さんだ」
「隆二さん!やっぱり…」
この辺で川田は珍しい名字では無いが、同じ名前で相撲が強いと言うことはやはり。イサミにはすぐに分かったが、隣ではスミスがそれだけでどうして分かるのかと不思議な顔をしている。
「川田さんってあの、不動産屋の?」
「そうだ」
イサミの苦々しげな顔に思わず佐竹はくすり、と笑った。
「お前、川田のじいさんとやり合ったらしいな」
「まぁ…なんかスミスのこと、誤解してるらしくて」
「誤解かどうかは関係ない。ここじゃどう見えてるかが重要なんだ。狭い町だからな」
何が真実かは関係ない。地元の者が白と言えば白だし、黒と言えば黒なのだ。そう言う田舎ならではの慣習がここいらにはまだ色濃く残っている。佐竹の言葉にはそういう苦さが籠っていた。
「だとしてもあんな言い方…!」
「イサミ、座れ。もう始まるぞ」
行司が川田とルルの名前を呼び、二人は土俵の上で睨み合った。
「かわちゃん…ルル、本気でやるよ…!」
「うん。ぼくも」
二人はぐぐっと睨み合う。良きところで軍配が風を切った。
「うわあぁぁ!!」
幼児らしくない激しいぶつかり合いに観客たちから歓声が湧く。幼児とはいえ経験者の川田(孫)とルルの力は拮抗していた。ルルの顔はすぐに真っ赤にのぼせ上がり汗を滴らせる。それでも決して引かないルルは相手のまわしをなんとか掴もうともがいた。
「頑張れーーー!ルル!」
土俵際からスミスとイサミの声援が飛ぶ。観客たちも飛び入りの外国人少女が思いの外頑張ることに感動し、笑いはなりをひそめ固唾を飲んで勝負の行く末を見守っていた。ミユがシャッターを切る乾いた音だけが境内に響く。
「はっけよーーーい!」
幼児にしては長い取組時間に行司の声が飛ぶ。次の瞬間ルルの体はコロン、と回転し土俵に転がった。
「あああああ…!」
スミスだけではなく、会場からはどよめきが上がった。土のついたルルが泣き出すのではないかと心配したが、彼女はグッと唇を噛み締めると自分の力で起き上がった。勝者の川田(孫)が手を貸して立ち上がらせる。
場内からは自然と拍手が巻き起こった。子供の部からこうなのだ、今年の奉納相撲は面白いぞ…誰もがそんな期待に胸を躍らせていた。
「ルル!大丈夫か?怪我してないか!?」
「大丈夫!」
ルルはぴょんっと土俵から降りるとスミスに抱き着いた。堪えていた涙が溢れ出す。
「ルル…負けちゃった……」
「また一緒に練習しような?」
そんな風にイサミも言ってルルを慰める。出られると分かっていたらもっと真面目にルルにも稽古をつけられた。自分のミスだ。
「でもとてもかっこよかったよ。ルルは最高のおすもうサンだ」
「ん……」
スミスに褒められてルルもようやく泣き止んだ。こうしてルルの初土俵は終わった。
その後も川田(孫)が危なげなく未就学児の部で優勝し、小中学生たちの取組があり、午前中が終わった。昼休憩を挟んでいよいよ大人の部だ。
「いらっしゃいいらっしゃい!冷えたビールあるよーーーー!かき氷あるよーーー!」
スーパーリオウの出張店も盛況だ。初夏の境内にレジャーシートを広げて、それぞれが持ってきた弁当や出店で買ったものを食べている。ルルはイサミの作ったおにぎりを食べるとすぐに遊びに行ってしまった。さっきあんなに泣いたというのにもうかわちゃんと遊んでいる。相撲が強く可愛らしい外国人少女に大人たちもメロメロで、色んなレジャーシートに行っては美味しいものをご馳走になっていた。
「ルル!食べ過ぎるなよ!」
一応そう声をかけるが多分無駄だろう。駆け回る子供たちの数はいつの間にか増えている。
「おう、やってるか?」
その時、社務所の方から声がした。かわちゃんが「じいじ!」と呼んで駆け寄ってゆく。行事の装束を身につけた初老の男性はスミスにも見覚えがあった。
「川田さん。今日はよろしくお願いします」
イサミが軽く会釈するのに倣ってスミスも頭を下げる。川田本人に会うのは最初に交渉が決裂したあの日以来だった。
「外人サンも出るんだってな。相撲出来るのか?」
そう言って川田はニヤニヤ笑った。
「出来ます!イサミといっぱい練習しました!」
「外人サンは重心が高けぇんだよ。毎年参加するやつはいるが、面白いくらいコロンコロン転がされてるな」
「それは…試合を見て下さい!」
「試合じゃねぇよ、取組だ」
そう言う川田の腕をさっきの少年が掴んでぐいぐい引いた。
「じいじ!保育園のお友達!ルルちゃん!」
「おお、そうかそうか」
川田も孫には弱いらしい。スミスに向けていた厳しい顔もニコニコと崩れている。
「ルルちゃん!ぼくのじいじ!」
かわちゃんは誇らしげにルルを紹介する。それだけでこの少年がいかに祖父に懐いているのか分かる。
「あのね!ルルちゃん、相撲強いんだよ!いつも保育園でやってるの!」
「ガガピ!」
かわちゃんと一緒になってルルは無邪気に川田に抱きついてゆく。川田は二人を片手ずつ抱き上げた。
「おう、見てたぞ。お転婆なお嬢ちゃんだな。昔のヒビキそっくりだ」
「ヒビキ?」
「スーパーのお姉ちゃんだよ。お前もよくアイス貰ってるだろ?」
「アイスのお姉ちゃん!」
かわちゃんも『アイスのお姉さん』は記憶にあるらしい。
「ルルは……うちの娘です」
「ああ、知ってる」
「俺の取組も、どうか!ちゃんと見て下さい」
「俺は午後から行司だからな。嫌でも見るさ。さ、チビたちはあっちで遊んできな。じいじはそろそろ支度しなくちゃなんねぇ」
「うん!」
地面に降ろされた二人は仲良く手を繋いで走り出す。人種の壁など彼らにはまるで存在しないかのようだった。
ルルを町の大人たちに預けて二人は更衣室になっている社務所に向かった。そこにはすでに青年の部に出る男たちが揃っていて、柔軟をしたり体を温めている。浴衣姿の佐竹もいた。
「まわしの締め方は知ってるか?」
「俺がスミスのもやります」
「そうか、任せた」
一応自前のまわしは用意してあって、家での稽古の時もつけていたがその時はスポーツスパッツの上からだった。
「スミス、本当にスパッツ脱いでいいのか?」
「もちろんだ!俺だけ履いてるのは変だろう?」
外人サンだからって恥ずかしがる方がよほどおかしい。それに地元に馴染むために出る相撲大会だ。みんなと同じがいい、とスミスは言った。
「じゃあパンツ脱いで。俺が後で持ってるから前に回して」
勢いよくスミスがパンツを脱ぎ去る。ぶるんと飛び出た逸物はやはり日本人とはサイズ感が違っていて、あちこちで着替えている男たちの目も釘付けになった。
「デケェ…」
「さすが外人サン…」
ヒソヒソと聞こえるそんな声が聞こえる中、スミスは手際良くまわしを股に通すと位置を決めてぐるぐると回りながらまわしを体に巻き付けていった。イサミが後ろから緩まないように補助し、最後に残った端を立てまわしの下に通す。
まわし姿のスミスはなかなかの美丈夫だった。筋肉質な体が一般参加の町民たちとは一線を画している。スミスの腰の位置は高かったし決して相撲取りの体型では無かったが、鍛えられた大臀筋は逞しく、そこから伸びる大腿筋もしっかりと筋肉がついていた。腰回りに筋肉がつくのがイサミには羨ましい。人種の差かイサミは鍛えてもなかなかそこに肉がつかなかった。
「よし。緩みはないか?」
「ああ、大丈夫だ。ありがとう、イサミ」
イサミのまわしは佐竹が締めた。毎年やっているだけあって慣れている。佐竹は人々の間を縫って歩いてはあちこちで締め方を指導していた。
「いよいよだな」
「ああ…君と当たるのが楽しみだよ、イサミ」
「それはどうかな?」
お互い二勝ずつすれば対戦が実現する。付け焼き刃のスミスが二勝出来るかは正直怪しい。
だが始まってみればスミスの活躍はすごかった。力の強さもあるがスミスには勝負度胸がある。経験者にも臆せずぶつかっていって、何度か危ない場面はあったものの強運を引き寄せて勝ち上がった。
「あの外人、強いな!」
「今年は分からないぞ!」
あちこちから声が飛ぶ。境内の方で寛いでいた人たちも話を聞きつけて土俵の方に集まって来た。そしてとうとうスミスとイサミは土俵の上で相対することになったのである。何層にも取り巻く観客の中、イサミとスミスが土俵に上がった。
「イサミ…手加減はしないぞ…」
「そりゃ、こっちのセリフだ」
「両者、見合って見合って!」
川田の軍配が翳される。二人は気合の乗った眼差しで睨み合い、一瞬で立ち合いがなった。イサミは低い姿勢のまま落ち着いてスミスのまわしの位置に体をぶつけて行こうとする。基本通りの動きだった。その瞬間スミスの体が左に飛んだ。
「変化!?」
相撲の技の中では邪道とされることもあるが相手の意表をつく方法だ。うまくいけばバランスを崩した相手が勝手に転んでくれることもあるし、後ろ側に取り付くことも出来る。だがやはりイサミにそんな小手先の技は通用しなかった。
避けられてつんのめり掛けたイサミだったが縄の高さを利用してくるりと振り向くと、体勢を立て直していないスミスに取り付いた。横からまわしを取りそのまま押し出そうとするが、スミスも素早い反応で向きを変える。二人は正面で向かい合ったまま相手のまわしを取ろうと攻防を繰り返した。
「残った!残った!」
行司がまだ決着がついていないと告げる。
「いつの間に変化なんて覚えたんだ!?」
「ちょっとYouTubeで」
教えてもいない技を出されてイサミもさすがに焦った。けれど、それであっさり負けるイサミではない。少し捻った体勢からイサミのまわしを取ろうとするスミスとそれを阻止しようとするイサミ。しばらく二人の激しい攻防が続いた。しかし、最終的にはスミスはリーチの長さを生かしてしっかりとイサミのまわしを掴んでしまった。こうなるともうイサミも相手のまわしを離すわけにはいかない。
「ふぅ…っ…ふぅ…」
がっぷりと四つに組んだ二人の裸の胸と胸がぶつかりあっている。相手の体を押し返そうと後大腿筋から脹脛が限界まで張り詰めた。
「はっけよーーい!!」
動かない二人に行司から発破がかけられる。二人の体から吹き出した汗がぽたり、ぽたりと土俵に落ちて砂の中に吸い込まれていった。少しでも力を抜いたら相手に攻められる。全身の力を使ってそれを阻止しながら新たな手をかけるのは至難の業だった。お互いそうと分かっているから力は緩めないまま相手の疲れを待つ。
「す、すげぇな今年の相撲は…」
「まさかあんな強い外人サンがいるなんて!」
観客の中で小さなどよめきが広がる。町民によるレクリエーションのような奉納相撲でここまで切迫する展開は珍しかった。
「イサミーーー!」
「スミス、がんばえーーー!」
観客席からルルやヒビキの声援が飛ぶ。最初に動いたのはスミスだった。
「おお!?」
少しも力を緩めていないのに、イサミの体が押され、足裏が砂の上を滑ってゆく。押し出しを狙っているのだろう。地力に任せてじり、じりとイサミの体を押してゆくスミスの動きはまさに重戦車のようだった。
「すんごい、スミス。全然重心上がらないじゃん」
ヒビキが感嘆の声を漏らした。低い重心のまますり足のように前に進む。腰の位置が高いスミスには辛い動きのはずだ。相撲の基礎から稽古して来たのだと一目で分かった。
「残った!残った残った!!!」
川田の声も枯れ始めている。それほど力の入った一番だった。
ジリジリと押されてイサミの体もほんの少し浮いてしまった。その瞬間スミスはグッとまわしを掴んだ腕に力を込め、一気に腰を入れて持ち上げる。
「吊り出し!?」
スミスの長身を活かした技だ。イサミの身長なら完全に持ち上げられることは無いだろうが、踵が浮いてしまえば力が入らなくなって簡単に土俵の外に投げ出されてしまう。
「うおおおお!」
吊り上げられながらイサミはまわしを掴んでいた片腕を離して差し返すとスミスの腕を外側から絞めた。どれだけ筋力差があっても関節は鍛えられない。肘の関節を逆に締め上げられてさすがのスミスも力が緩んだ。
既に土俵際であったがイサミが踵を付けたのはちょうど縄の上だった。そのまま体重を相手の方に乗せかけ、力任せに横に振る。ここまでで相当体力を使っていたスミスは踏ん張れずに投げ飛ばされた。ぐるんと反転しバランスを崩したスミスは尻から土俵に崩れ落ちる。その上にもんどり打ったイサミの体も振ってきた。一瞬だった。
「やった!イサミの勝ちだ!」
ヒビキが思わず叫んだ後に、行司からもイサミの名前が呼ばれた。だが力を使い果たしたイサミはすぐに立ち上がることが出来なかった。二人とも全身汗だくで、折り重なったまま荒い呼吸を繰り返している。ぬめる肌と肌が重なった場所から早鐘のような互いの鼓動が伝わってきた。お互い死力を尽くしたのだ。
観客席から自然と拍手が巻き起こる。
「すごいね、あの外人さん」
「いやぁ、いい勝負だった!」
若い二人の勢いのある相撲に集まった人々からは惜しみない拍手が送られた。ようやく二人は起き上がると四方に礼をして土俵を降りた。
「スミス、負けちゃった…」
「いやぁ、イサミは強いよ。さすがだ!」
土俵の下ではルルとヒビキたちが迎えてくれた。稽古の時だって一度も勝てたことはない。けれどここまで肉薄した取組が出来たのは初めてだったのだ。
「危なかった…」
イサミはまだぜいぜいと肩で息をしている。相撲を始めて一ヶ月の、しかも自分の弟子みたいな男相手に負けるわけにはいかないが、途中は何度かヒヤリとする場面があった。
「イサミ、冷たいお水あるよ!それともビールいっちゃう!?」
「いや…水くれ……」
ヒビキからペットボトルの水を受け取り一気に飲み干す。それでようやく人心地がついてきた。筋トレよりスタミナ作りが今後の課題だとイサミは決意を新たにするのだった。
日が落ちるとようやく境内の中にも涼しい風が吹き始めた。出店のテントは畳まれ、撤収作業が始まっている。そんな中でも社務所には煌々と明かりが灯り、奥からは賑やかな人の声が響き渡った。
玄関に大勢の靴やサンダルが雑多に脱ぎ捨てられ、土間の隅には空になったビール瓶の空き箱がうず高く積まれている。広間にはロの字型に簡易テーブルが並べられ、その上には婦人会が持ち寄った料理や、出前の寿司が並べられていた。参加自由の打ち上げには多くの町民が参加していた。
「いやぁ、今年の相撲は面白かった!」
「いつぞやの佐竹と川田の取組以来だ」
コップ酒を煽りながら大人たちが盛り上がっている横をいまだ元気いっぱいの子供たちが走り抜けてゆく。
その中にイサミとスミスの姿もあった。町民たちと同じように畳にあぐらをかき、コップに注がれたビールを飲んでいる。
「イサミ、佐竹さんと川田さんはそんなにすごい人なのか?」
「若い頃の川田さんは負け知らずだったらしい。うちの親も言っていたよ。そろそろ引退かって年に隆二さんが青年の部に出るようになって、一度だけ直接対決が実現したって」
名勝負であったと今でも町民の思い出話に出るほどだ。ちょうどイサミは町から離れていた時期で見ることは敵わなかったが。
「そうだ。結局勝ち逃げで引退しやがった」
二人の傍に佐竹がやって来た。イサミは黙って佐竹のコップにビールを注ぐ。
「ってことは佐竹さんは負けたんですか?」
「しっ!スミス!」
「ああ、そうだよ。まだあの頃は俺も若かったからなぁ…真っ直ぐぶつかっていくことしか出来なかった」
そう言って遠い目をする佐竹はしかし今では負け知らずのチャンピオンだ。
あの後、スミス戦で力を使い果たしたイサミは佐竹にあっさりと負けて、今年も優勝杯は佐竹の物になったのだった。
「くっ…来年こそは…!」
「はは、頑張れよ、イサミ。まぁ、お前は持久力がなぁ」
「分かってます!」
筋トレより重要なのは有酸素運動、と二人が盛り上がっていると、歳の近い町民たちが同じテーブルに押し寄せて来た。
「ダメだよぉ、優勝者がこんな隅っこにいたら!」
「そうそう、佐竹関の優勝に乾杯ダァー!」
すでにいい塩梅に酔っ払っている。商店を営む者、農家、役所勤めと職業はバラバラだったが祭りが好きなことは共通している。多くの若者が町を出て、都会に就職してゆく中でこの町に残った人々だ。大抵の者は消防団に所属していて、佐竹やイサミとは顔見知りだった。
「外人サンも!良かった!良かったよ!最盛期の琴欧州を思い出した!」
無類の勝負強さと白熱した取組を見せた外国人力士に町の人たちも一気に魅了されてしまった。我先にとスミスのコップにビールを注ぐ。
「あの…ワタシ、ルイス・スミスと言います」
「スミス!スミスさんか!日本語上手いねぇ?」
「あ、保育園によく迎えに来てるよね?何度か会ったことあるわ」
ようやく『外人サン』ではなく、スミスという個人として町の人に認められた瞬間だった。
「タイタンコーポーレーションに勤めてんだよね?うちのかみさんが言ってた」
「ああ、三丁目のばあさんが土地売ったとこ?」
「あそこももうボケててなぁ。息子夫婦が一人で置いとくのは心配だってんで町の老人ホームに入れたんだと」
「先祖代々の田畑なんて持ってたって、もう誰も耕せないしな。買い取ってくれるなら有難いや!リゾートマンションでも何でもしていいからさ!」
酒が入ってみんな少々口が軽くなっている。この辺りに昔から住む者にとっては家族の高齢化、遺産相続、固定資産税の話は挨拶代わりの日常会話なのだった。
スミスはコップを置くとスッと畳の上に正座した。
「我が社は…いえ、ワタシは皆さんの土地をただ物のように売り買いすることはシマセン。世界中の人にこの国やこの町の良さを伝えたい。そして訪れる人と住む人が分離せずに暮らせる方法を探したい。お年寄りも町の人も。そのために私はここに来マシタ」
テーブルを囲んでいた町民たちがしんと静まりかえる。辿々しい日本語ではあったがスミスの気持ちは十分に伝わった。
「おいおい。こんな席で仕事の話はよせ」
「川田サン!」
スミスの隣にドカッと川田が腰を下ろした。手には一升瓶を抱えている。
「まぁ、飲めよ。今日は祭りだ」
さっきまでビールが入っていたコップに川田はドボドボと日本酒を注ぐ。
「イタダキマス!」
スミスは小さなグラスを両手で恭しく捧げ物と一息に飲み干した。
「おい、これはいい酒なんだぞ!もっと味わって飲め!」
「はい。とっても美味しいデス!」
イサミやヒビキに勧められて日本酒も飲むようになったスミスはちゃんと味も分かっている。夏のひやおろしはこの時期にしか出回らない酒だ。
「お前さんの取組…悪くなかった……」
川田もグビリと日本酒をやりながら、ポツリと言った。
「ちゃんと稽古したんだな」
「はい…はい!」
川田の言葉にようやく少し認められたかとスミスは満面の笑みで応える。日本式に倣って、酒瓶を受け取り川田のコップに返盃した。これでもう酒を酌み交わした仲だ。
「じいじ!お顔、真っ赤だぁー!」
広間を何周も駆け回っていたかわちゃんとルルが雪崩れ込んで来る。二人して川田の膝によじ登るのでスミスは慌てて止めた。
「ルル!降りなさい!」
「いいって。うちの孫は男の子ばっかりでな。こんな可愛い孫が欲しかった…」
川田はそう言ってすりすりとルルに頬擦りをする。
「じいじ、お酒くさい!」
呼び方もいつの間にかかわちゃんに倣って『じいじ』になっている。反対側からかわちゃんも抱き着いた。
「じいじずるい、ぼくも!」
「おお、こうか?」
伸びかけた髭をすりすりすると子供二人は痛い痛いと言いながら大喜びだった。
「なんだ、すっかり仲良しだな?」
隣でイサミも思わず笑ってしまった。川田の外人嫌いに反抗して意地を張っていたのがバカみたいだ。人はちゃんと話せば分かり合えるのだ。
「いいや、君のお陰だよイサミ」
そう言ってスミスはイサミの目を真っ直ぐに覗き込んだ。立て続けに飲んでいるせいか、酒は強いはずだが少しばかり酔いが回っている。トロリと蕩けた日本人には無い青い目がじっとイサミを見つめていた。
「この町に住めるようになったのも、相撲のことを教えてくれたのも…みんな君だった」
「俺は…何も……」
「この国に来て一番のHappyは…イサミ。君に会えたことだ」
騒がしい社務所の中、一瞬二人の回りの時が止まる。その静けさは消防団の仲間たちによって破られた。
「ねー、ねー、スミスさん!スミスさんも消防団入りましょうよ!」
「そうだそうだー!」
「ほら、もっと飲んでー!」
そろそろ畳の上で潰れる者、帰り始める者もいる中でこの一群はまだまだ元気だった。
「スミスさんがさっき言ってた、分離しない暮らし方、だっけ?俺もそういうの憧れるんだよなー」
町には外国人の姿も珍しくなくなっている。かわちゃんの幼馴染は相撲の強い外国の女の子だし、彼が大人になる頃にはもっとこんな風景が当たり前になればいい。そんな話をスミスを囲んで町の若者たちは熱く語った。もう誰もスミスを『外の人』とは思っていない。
宴は遅くまで続いた。遊び疲れたルルはいつの間にかスミスの膝の上で眠っていた。