君が待つ部屋に姉の千速を無事、ライブ会場で友達に合流させ萩原研二は先に家へと帰ってきた。玄関の鍵を開けると自分のものと同じ、だけど少しだけ小さいサイズの通学靴が乱雑に転がったままそこにあるのを見て自然と頬が緩んでしまう。
足音を立てないように階段を昇り、自室の扉も静かに開く。自分の部屋に入るのに気を遣うのもおかしな話だが、ベッドの上の膨らみを見ればやはりその行動は正しかったようだ。
家の者は誰もいない萩原家に当たり前のように一人で居座り、人のベッドだろうとお構い無しに眠る幼なじみで親友兼恋人の顔を覗き込む。大きくて強い光を宿す瞳は閉じられ、いつもより幼さが増して見える。身体を少し丸めて眠る姿はまるで猫そのもので普段の男らしい口調とヤンチャな行動からは想像もつかない程可愛らしい。ペットがいたらこんな感じなのかなぁ、と萩原は苦笑いを浮かべながら柔らかいくせ毛にそっと指を通せば「んー……」と、むず痒そうに顔を歪めたが、小さな口が少しだけ開き再び寝息を立て始めた。
「……いや、猫相手にはこんな気持ちにならないよなぁ」
むらむらと腹の底から湧き上がってくる欲情を抑える事はできず、吸い寄せられるようにそのまま松田の唇に自分のものを重ねる。角度を変えながら啄むように何度か小さなキスを落とせばゆっくりと開いた大きくて綺麗な紺色の瞳に自分の姿が映り、萩原は満足そうに微笑む。
「おはよ、じんぺーちゃん。ただいま」
「……人の寝込み襲ってんじゃねぇよ」
「あんまりにも可愛かったからさ。それに自分のベッドで恋人が寝てたら食べてもいいよって事でしょ?」
「アホか」
言葉とは裏腹にさして気にする様子もなく、ふぁあ、と大きな欠伸をかいて上半身起こした松田の髪を撫でて整える。そのまま指を滑らせ指先で頬をなぞってもされるがままで本当に猫みたいだなぁと萩原は再び苦笑する。ローテーブルの上にはすっかり元通りになった姉のスマホが置かれていて「おつかれさん」と労いの言葉をかける。唇の端にまだ少し血が滲んでいて指先でそっと触れれば染みたのか「ヤメロ」と手を払われる。
「目元もまだ腫れてるね。ちゃんと冷やした方がいいよ?」
「……ったく、千速の奴、ちったぁ加減しろってんだ。容赦なさすぎだろ」
「そりゃあ手加減したらじんぺーちゃんに全部避けられちゃうからでしょ」
姉が本気で殴りかかれば普通の男なら今の松田以上にボコボコにされているだろう。とは言え松田だって本気になれば姉の攻撃を躱せないはずがない。それをしなかったのは姉に対して手加減した訳ではなく、少なからず悪かったと思っているからだ。口は悪いが根は真っ直ぐな松田らしいなぁとは思うが実の姉弟以上に本気で喧嘩して怪我までされるのは萩原としてはどちらに対しても複雑な気持ちになる。
「ちょっとスマホバラしたくらいで怒り狂いやがって、心狭すぎだろ」
「そりゃあ自分のスマホがいきなりバラバラに解体されたのを見たら怒るって。ちゃんと言えば良かったのに」
「はぁ?聞いたところであの千速がバラしても良いなんて言うはずねぇだろーが!」
「そうじゃなくて、直したんだろ?姉ちゃんのスマホ、時々調子悪そうだったからなぁ」
「……っ、別に俺は元に戻しただけだっつーの」
最近、姉のスマホに雑音が入ったり音声の調子が悪い事に気付いた松田が姉の隙をついて修理するつもりがタイミングが悪すぎたようだ。素直に言えば良いものを、天邪鬼な性格が邪魔をしたのか、はたまた初恋の相手にはカッコつけたい気持ちがまだ松田の中に残っているのか……
「松田は姉ちゃんの事、大好きだもんな」
思わず口から出てしまった言葉に自分で傷付く。殴られるのを甘んじて受けるのも、どれだけ改めろと言われ続けてても「千速」と名前呼びをするのも、やっぱりまだ松田の中で姉の存在は特別だからじゃないのか?自分と付き合っているのも姉に似ているから……なんて自虐的な事まで考えてしまう。
こんな事を言った所で松田を困らせるだけなのはわかっていても時々、どうしようもなく不安になるのは姉が女性で松田の初恋の相手だから……なのだろう。もし何かの拍子にどちらかが相手に本気になったら松田と同性の萩原には成すすべがない。
「そりゃまぁ、俺にとっても姉貴みたいなもんだしな」
だが、萩原の心配を他所に松田の答えはシンプルだった。松田の中で姉への気持ちはとうに身内への愛情に落ち着いていて、それ以上でも以下でもないのだと。萩原の不安を知ってか知らずか、どちらにしてもさっきまで渦巻いていた嫉妬や不安は松田の一言で消え去ってしまうのを感じながら我ながら現金だよなぁ、と萩原は思わず笑ってしまう。
「じゃあ俺の事は?」
欲張って松田の言葉を引き出そうとするのは狡いと思いながらも顔を寄せて視線を合わせる。松田の瞳にもう一度自分の姿が映るのを確認するよりも早く胸ぐらを掴まれ、驚いた隙に唇を奪われていた。さっき自分がしたじゃれ合うようなものではなく、互いの舌と唾液が交じり合う恋人同士のキス。そのまま身体を引き寄せられ、二人でベッドに倒れ込んだ所で松田の少し濡れた紺色の瞳に萩原の色が重なると、松田は満足そうに微笑む。
「俺がこんな事するのはお前だけだ。何か不満か?ハギ」
「ないけど、俺の事は名前で呼んでくれないの?」
「呼ばねぇよ。俺はお前の家族じゃねぇからな」
家族と同じ呼び方なんてしない。してやらない。お前だけは特別だからなと恥ずかしげもなく言い放つ松田に一生勝てる気がしない萩原は心の中で白旗を挙げながら「俺もだよ、陣平ちゃん」と応えてもう一度キスをした。家族じゃなくてもいつでも当たり前みたいに自分の部屋に松田がいる幸せを噛み締めながら。