ディノ・アルバーニという人間は、とにかくよく笑う。よく一緒にいたブラッドとキースが目に見えて表情豊かというわけではないことが、よりそれを際立たせているとも思う。その何もかも照らしてしまえるとも思う太陽の如き笑顔はきっとキースやブラッドだけでなくもっとたくさんの人にとって大事な物であるはずだし、まだ知らない人もいつか救うことがあるだろう──そんなものを傷つけて損なわせることなんてあってはならない。だから、ディノには笑っていてほしい。
(っつーのは建前、なんだよな。たぶん)
キースが単純に、親友たるディノを大切に思っているから理不尽な目に遭って欲しくない、傷ついて欲しくない。彼にはただ幸せでいてほしいというだけの欲をそれっぽい大義名分に包んだだけだ。
だから、とにかくいろんなことがあった──死んだとされていたディノが生きていて、かと思えば敵だのスパイだの言われて、疑われ利用されて踏みにじられて、ディノ自身も苦しんで苦しみ抜いてやっと帰ってこられた今、その男が以前と同じように笑っているのを見た時にどれだけキースが安心したか。今でもまだそのことを思うと胸が詰まる思いだ。この気持ちのことを言うつもりはないが、きっともうバレているんだろうな、という自覚もある。
そんな彼はいずれヒーローとして復帰予定だ。だが、もう彼を戒めていたものはないにしても万が一ということがあるから、とやっと戻ってこられたのに24時間監視されているストレスは如何程のものなのかキースには計り知れない。更に(ブラッドが走り回っているとはいっても)これから自分がどうなるか分からない現状もまったく彼に影響を与えないなんて能天気なことは思えなかった。そもそも、ディノが──というよりディノの身体がスパイ行為を働いていたのは事実なのだから、そのことを気に病んでいるだろうことも分からないではない。再三ディノは悪くない、責任もないと伝えたし本人も頭では理解しているようだが
──そう簡単に割り切れたら苦労はないのかもしれない。いや、本当に悪くないのだけれど。
そんな状況でも、その中で楽しいことや嬉しいことを見つけて笑顔でいられるのがディノという男だ。そういうところが好ましいと思うのだが、変に伝えて気にされても困るしこれからも言わない予定だ。
『また戻ってこられて嬉しいんだ!』
その言葉に嘘はない。
だが、キースは見逃さなかった。おそらくブラッドも気付いているのだろうが、何故か彼はそれに手を打つつもりはないらしい。
ディノが笑った後、時々きゅ、と口を引き結んで笑顔を押しとどめているその姿を。
──何億歩譲って考え込むことがあっても仕方ないとしても、せめて楽しく笑っている時くらい素直に笑っていてほしいのに、すぐにしかめっ面になってしまうディノをどうしても放っておけなかった。
とにかくディノが目に届く範囲にいる、それだけで自分はそれなりに落ち着けるらしい。きっとほんの少し前の自分ならばこんなに穏やかに詰問なんて出来なかっただろうと、凄まれているのにゆるい空気を乱さない目の前の男の様子を見て思う。いや、この男はこう見えてこのHELIOSに長い間関わっているのだから肝が据わっているはずだ、あまり参考にならないか。ともかく──。
「うん、ディノくんの洗脳は解けている。このおれとヴィクが処置をしたし、その後の検査も経過観察も続けていてそう判断した」
「……だよな」
「これは自信があるよ。太鼓判を押そう」
「そいつはまあ、大層な自信なこって」
「はは、まあね。ただ……完璧に確実に、と言いたいけれど万が一ということもなくはないからね」
「……」
「その為の今の監視だ。何もないのを確認する為のね。ああ、あとは彼の復帰を進言するに当たってお偉いさんをコテンパンに言い負かす材料にもなるだろう……ってブラッドくんが」
「物騒だな……。つかそれ絶対言ってないだろ」
あの男の綺麗で涼しい顔からコテンパンとかいう言葉が出てくるのをあまり想像できないが──もしかしたら言うこともあるかもしれない。ブラッドはたまにそういう事をする。聞きたい気持ちもないではないから、今度本人に聞いてみようか。
物騒とはお前には言われたくないな、とブラッドがこの場にいたら言われただろうが、生憎彼は不在である。セーフ。
「……ディノくんに何かあった?」
そう言ったノヴァの瞳に、ちらりと剣呑なものが見えた。それはキースへの警戒でもなければ、ディノへの不信感でもない。ディノを心配する気持ちと、研究者としての意地のような気持ちからキースの言葉の奥を探ろうとしている目だ。生憎ノヴァに凄まれてどうなるキースでもないのだが、その目には感心した。剣呑な空気があるのに、敵意は感じられないなんて。
「……いいや、オレの方でもう少し探る。洗脳が解けているなら、多分ディノの気持ちの問題だ」
そう言うと、目の前のグレーの瞳はふっと緩みいつものだらりとした空気を再び纏った。
「……それならキースくんやブラッドくんの方が適任かもね」
「おう。もし何かあれば報告する」
報告してもディノの安全は保証され続ける、と判断できた場合に限り、だが。
「あっ、キース! こんにちは! 久しぶり……ではない?」
「よー。……2日振りはギリ久しぶりじゃねえだろ、たぶん」
まだ安静と言われているディノがブンブンとベッドの上から手を振ってきたのに、片手を上げるだけして応えた。ディノの太ももの上には今年の春に発行された新しいHELIOSのパンフレットがちょこんと乗っており、ぱっと見てみればそこにはブラッドのお綺麗なすました顔やジェイの人当たりの良さそうな笑顔の写真が載っていた。爽やかなフォントで大きく『第一線で活躍するヒーローたち』だなんて書いてあって、キースは思わず笑いそうになるが、ディノは素直に感動しただろう。おそらくHELIOSについて、自分の知っていることと知らないことを照らし合わせていたのだろうが、キースが椅子を引っ張ってきて側に座れば、それの端に折り目をつけてぱたんと閉じ、すぐ側のラックに置いた。そういえばキースはこの新版には目を通していないが、そんなことわざわざ言わなくてもいいだろう。
「いやあ、いろいろする事はあるし皆よく来てくれるけど……やっぱり1人でここにいるってのは寂しいものなんだよ? 時間の流れが早いんだかゆっくりなんだか」
「あー……。もう少し来れるようにするか」
「……いやいや! それは悪いって! こう言ってみたけど、本当にみんな凄く気を遣ってくれてるし、よく来てくれるし……ノヴァさんにキースやブラッドはもちろん、ジュニアくんとか。フェイスくん……は本当にたまーにだけど。あとアキラくんとウィルくんも実は。2人はオスカーかブラッドが一緒じゃないと来れないんだってさ。で、オスカーと一緒にブラッドの話をよくしてるよ」
「す、すげえな……」
オスカーがいなければ来られない、というのは裏を返せばオスカーがいれば来てもいいという事だ。2人はほぼ部外者ながらもうディノの事情を知っているから来ても問題はないだろうが、なかなか思い切った奴らである。ウィルはとばっちりだろうが。
ディノの記憶が戻って事態が大きく動いたのはアキラのおかげだ。何をしているんだとブラッドだけでなくキースも言いかけたが、そんな事どうでもいいくらい目の前の事にいっぱいいっぱいだった事を覚えている。そんなアキラとディノが既に何度か話したらしい、その事実とコミュ力に恐れ入った。ブラッドの話という事は弱みでも聞き出そうとしたのだろう。あの赤毛の勝負好きはキースの耳に入るほど有名になっていた。
「で、どんな話をしてやったんだ?」
「そうだな……例えば……。……あ、じゃあ今日は懐かしい話でもしてみようか。なあキース、覚えてるか? アカデミーの2年の時だったかにさ──」
・・・
「っはは、懐かしいな。そんな事もあったあった」
「だろー!? あの時は本当にどうなるかと思ったけどさ、ブラッドが先生にうまく掛け合ってくれてどうにかなったんだよな。俺たちだけなら退学──は行かなくても謹慎処分くらいはあっただろうな」
「でもそのブラッド様の威光を借りても反省文は免れなかったよな……」
「あー書いた書いた。反省文はなかなか書き慣れなかったな」
「慣れてたまるか。不真面目はともかく問題児にはなりたくねえよ」
「それはまあまあ説得力なくないか……?」
「……うるせえ」
「っはは! ──……っ、と……。あ、そういえばこのパンフレットさ──」
その時、今のキースを悩ませるもの(のうちのひとつ)が顔を出した。楽しそうに笑ったディノが、すぐにその笑みを引っ込めてわざとらしく話題を逸らしたのだ。──やっぱり、気になる。気にならない方がおかしいだろう。パンフレットに手を伸ばすその手をがしっと、気持ち優しく掴み少しばかり厳しめに問うた。だが、ディノ自身は本当に心当たりがないのかきょとん、と首を傾げた。なんでこんなあざとい仕草が似合うんだこいつは。
「お前、なんかあるのか?」
「ん? なんか?」
「……あー……」
まあそんな簡単に話してくれるわけがない。勢い余って聞いてみたはいいものの、少し言葉を選んだ方がいいのかもしれないと今更気付いて急遽脳内で語彙の捜索に出た。黙ってしまったキースにじわじわと不安な気持ちが出てきたのか、ごくり、とディノが息を飲んだ音が聞こえた。さっと顔を青ざめてキースに掴まれていない方の手で自分の体をぺたぺたと触り始めたディノは、空の色をした瞳を揺らしておそるおそるキースに問う。
「……俺、なんかしたか……? っ、まさか、まだ、っ」
「それはねぇ!」
「うわ声大き!」
「わ、悪い。……あー、そうだな。気になることがあるっつーか。いや、別にお前が不穏な動きしたとかじゃねえから安心しろ。お前の洗脳は完璧に解けてる。監視カメラも見たし博士に確認しまくったし」
食い気味に否定したキースに驚きながらも、続く言葉に目に見えて安心した表情になった。これは重大な問題じゃないと判断したのか、わざとらしく顎に手を添えてううん、と考える素振りを見せる。あと手がちょっと痛いぞ、と言われたので大人しく離してやった。
「うーん、それならいいんだけど……じゃあ何だよ。今更気にする関係でもないだろ? 事情も知ってるし、あんな大立ち回りしておいて今更隠すこともないし」
「大立ち回りって……ちょっと恥ずかしいんだからあんまり掘り起こすのやめろよ……」
「ええっ!? そんな……! 俺すっごく嬉しかったのに……! およよ……」
「わざとらしい泣き真似すんな。あの言動に後悔はしちゃいねえし必要だったとも思ってるが、オレらしくなかったとは思ってんだよ。自堕落で通ってんだオレは」
「……いや、キースってかなり情に厚くて熱い奴って俺もブラッドも、ジェイも知ってるぞ……? きっとウエストのルーキー2人も気付いてるんじゃないか」
「そういうのいいから……」
「あはは! っ、……」
呆れと照れの中間のようにぼやいたキースを見て、何がおかしいのかディノは笑う──が、ちょうどそれにも再び、今キースの頭を悩ませている『それ』があった。ディノのことを明るいだけの男とは思っているわけではないが、それでも出来るだけ笑っていてほしい、その笑顔は損なわれてはいけないと思い続けているキースにとってはやはり見逃せない問題だ。
「ってそれ! それだよ!」
「どれだよ!?」
「お前、今もそうだが笑った後こう……しかめっつらになる時あるだろ」
「……? ああ! え、見えてた……?」
「すげー見えてる。……なんか、気に病むことでもあんのか」
ずいっとキースが顔を近づけると、ディノは自分の頬を両手で挟み込む。それをもにもにとマッサージするように動かし、眉をハの字に下げて戸惑った表情を見せた。
「もしかして、俺がすぐ笑うのをやめるから、心配してくれてる、みたいな……?」
「……ざっくり言うとそうだな」
「……そっか。そっかぁ! はは、ありがとうキース、こんな何でもないこと気にしてくれて」
「……おう」
「何でもないんだ、本当に。ただ……ちょっと痛くて」
「……見た感じ傷はないが、まだ──」
体に傷があるのか。心の傷はまだ膿が出ているのか。様々な可能性に思いを巡らせたが、返ってきた答えは──。
「表情筋がさ」
「……は?」
「いやあ、もうほっぺが痛いのなんの!」
「…………」
「イクリプスにいた時、笑ったこと……ない……うん、ないな。そりゃ4年もむすっとしてたら顔の筋肉ガッチガチになっちゃってさ。多分それだと思うんだけど、最近笑いすぎて本当顔が痛いんだ。この辺とか」
そう言って、次は自分の頬を人差し指でぷに、と押した。そのままぐりぐりと押しているのはマッサージのよう、ではなくて本当にほぐしているのだろう。悩んでいたことが本当に何でもないことで安心したと同時にどっと疲れた。
「……はぁ〜……」
「……な、なんかごめんな……? 斜め上だったろ」
「いや……いいよ。安心したから」
「えらく素直だな、キース」
「茶化すな。いいだろ、たまには」
「うん。嬉しい」
そう言ってまたディノはにぱっと笑った。それもすぐに引き攣って引っ込んでしまったけれど、事情を知った今ならそのもにもにと動かされる頬も微笑ましいだけだ。
──ディノが今、笑えているという証。
裏を返せば向こうでは笑えてなかったという事だが、もうそれはそれで仕方ないとして、これからいくらでも取り戻して行けたらいいだけだ。もしこれからこの傷が膿んで本当に笑えない事があっても、助けてやればいいだけだ。
「じゃあお前にはガンガン笑ってもらって、頬の筋肉を鍛え直さねーと、だな?」
「……! ああ、頑張るよ。お手柔らかに……しなくていいか!」
・・・
「お前は知ってたのか?」
「直球だな。結論しかなくて意味がわからない。順序立てて話せ」
「お前の好きな効率だぞ。大事なとこだけ話した」
「それは効率ではなく怠慢だ」
「へーへー」
「で、何を知っていたと?」
「……ディノが表情筋痛てーって話」
「……見ていればわかるだろう」
「…………マジか」
「最初は俺も驚いたがな、状況を見れば──」
「あー! 悪い悪い! まあよかったよ! な!」
説教の気配を感じて早めに切り上げた。