「キース! キース! 起きて!」
ゆさゆさと強く体を揺らされれば、流石のキースも目を覚ます。眩しい電気から目を守り、心底嫌そうな声で返事をした。
「……んだよ……」
「なんか変なんだよ! テレビが壊れた!」
「通販の見過ぎなんじゃねーの」
「いいから見てよ!」
ゆさゆさを通り越してぐわんぐわんと揺さぶられ始め、流石にこれ以上は勘弁だと目と耳に注力してみれば、確かにおかしいことが起こっていた。
『今日の運勢、ナンバーワンはおうし座のあなた!』
テレビの中では、可愛らしいキャラクターのアニメを背景につらつらと意味のわからない文字が踊っている。ここまでの文字化けは放送事故レベルだろうに、テレビの向こうでは焦った様子のひとつもない。
「なんて?」
「朝起きた時からこうなんだよ。……あ」
「あ?」
ディノがおそるおそるキースの部屋にある酒瓶を指差した。そこには変わらずキースの気に入っている銘柄の名前が書いてあるはずなのだが──それも、全く読めない何かに変わっていた。2人してきょろきょろと見渡してみれば、目に入る限りの文字という文字が全て意味を持たない文字列に変貌していた。
「これ、おかしいのは……」
その時、ギュィィンと思いギターサウンドが鳴り響いた。
『メンター共起きろ! 今日は朝一の研修があるって話だっただろ!!』
ばあん!と扉を開けて入ってきた眩しい金髪の男は、朝から元気にキャンキャン吠えていた。その後ろから、同じく叩き起こされたのだろうフェイスが欠伸をしながら覗き込んできている。ものすごく眠そうだ。
朝からこんなに騒がしくどうしたんだ、テンション高すぎて何言ってるか聞き取れなかったぞ──と考えて、そういえば今日の研修は朝早かったことを思い出した。だから昨日は酒も飲まずに、ディノも通販を見ずに(自分たちにしては)早寝したのだ。なのにこの寝坊、今回は流石に自分に非があるのだから謝罪だけして、あとは非常に面倒だが準備をしないといけない。
「おー、悪い悪い。けんしゅーな、わかってるわかってる」
「ごめんな!すぐに支度するから!」
「……」
「…………」
ぽかん、とメンティー2人が同じような顔をして固まってしまった。驚きというよりは、ただの処理落ちのようにも見える表情はすぐに崩れた。
『っは、あははははーー!?』
『っ、ふふ……ん、っふっ』
ジュニアはこちらを指差して大笑い。フェイスは口どころか綺麗な顔全てを隠して笑い崩れてしまった。
「な、なんだ……?」
「あの、ジュニア〜……?フェイス……??」
『2人とも、その喋り方っ、どうした、っふ、の……っ』
「えーと……??」
『……うんなるほど? これじゃあ今日の研修は中止だね♪』
『……嬉しそうなのはともかく、確かにこれじゃどうにもならねえな……』
「……」
『…………』
「ジュニア? フェイス? もしかしてこれさあ」
『──っはは……あ、ごめんね、笑っちゃいけないのは分かってるんだけど、つい』
「なんて?」
『…………………』
あ、これ意思疎通できてないな?4人がきゅぴーんとひらめくのは早かった。そして、ニューミリオンの住人が不思議なことに出くわした時にすることはひとつである。
やっと笑い終えたフェイスが親指を立てて、クイっと背にある扉の方を指す。
『はー……っふふ。じゃ、行こうか』
それが何を示すのか──そして、自分たちはどこへ向かうべきなのか、もう分かりきっていた。
🦔🦔🦔🦔
『サブスタンスですね』
『ですよね』
『性質としては、言語能力と認識の歪み──といったところでしょうか。案外メジャーなものですよ』
そう言いながらヴィクターは、所在なさげに椅子に座っているメンター2人に目を向けてきた。早朝だというのに全く眠そうな雰囲気も感じられないこのドクターは、至って冷静になにかを2人に説明しているようだ。
なんだ、何か言っているのはわかるが、内容がちっともわからない。不思議の国に迷い込んだようだ。ヴィクターはまず紙芝居のようにノートに大きく文字を書いて見せた。が、やはりそれも伝わらない。
ノートを置き、次にコンコン、と机を叩いた。独特のリズムで奏でられたそれはモールス信号だが、今の2人にはそれも届かない。何かを伝えようとしていることだけは伝わったので、『わからない』の意思表示のために大袈裟に首をすくめた。
ふむ、と、次は無言でジェスチャーをしてくれた。
(右手を挙げろ)
エリオス内で使うハンドサインで伝えられたその指示ははっきりと読み取ることができ、2人してぴ、と控えめに右手を挙げた。その光景を見たヴィクターたちは、ひとまず安心したのか息をついたようだ。
『意識と記憶ははっきりしてますね。ただ、言葉や文字による意思疎通ができないだけで』
『だけというか、大問題なんだけど』
『昨日あなたたちが回収したサブスタンスですが、相性が良かったらしく……今日1日はこの調子でしょうね』
そう言いながらヴィクターは手早くディノとキースにも状況を教えてくれた。曰く。
(サブスタンス)(1日)(問題なし)(待機)(安静)
ここまで示されれば流石に2人も分かった。そもそも、まあサブスタンスのせいだろうなとは思っていたのだ。でないと、わざわざこの状況下でドクターの元には来ない。
「いつものやつだな」
「いつもこんなことがあってたまるかよ」
🦔🦔🦔🦔
戦闘時や緊急事態のために覚えたジェスチャーがこんな形で役に立つとは思わなかった。いや、ある意味緊急事態ではあるのだけど。今日は部屋で1日おとなしくしているよ、と2人に伝えると、心配そうな素振りを見せながらもどこかへ行った。フェイスがどうするかはともかく、ジュニアは誰かに指導を仰いだり、トレーニングにいったりするのだろう。真面目なのだ、あの子は。
喋らずに1人でトレーニングも出来ないことはないのだが、こんな状態でトレーニングルームに行けば何が起こるか分からない。そもそもジュニアもフェイスもあんなに笑っていたのだ、ディノとキースが発した言葉は、さぞかし面白くなって彼らの元に届いていたのだろうから、それを晒す可能性がある場所へ赴くのも勘弁願いたい。ヴィクターはそんなに笑ってはいなかったが、そもそも彼はそういった意味の笑いはあまりしないタイプなのだろうし。
ということで、この暇をどう潰すか。結局、何度も見て内容を覚えた映画を見て1日過ごすことにした。何を言っているかわからないが、記憶と照らし合わせたらなんとなく楽しむことはできるのだが──それにも限界はあった。
「……飽きるな……」
「ぐー……」
「寝てるし」
「……仕方ねえだろ、映画も飽きたらする事がねえんだよ。こんなんじゃ書類も書けないしな♪」
「嬉しそうにして……というか、起きてたんだ」
「あー、悪夢見そうで……」
たしかに、身の回りは奇妙な記号──おそらく文字ではあるのだけれど、意味のわからない模様だらけで少し不気味である。こんな中眠ればたしかに悪夢のひとつやふたつ見るだろう。
ヴィクターのラボから戻ってすぐに、できることはないのかとノートパソコンを開いてみたが、キーボードの上に乗っている記号がそもそもよく分からなかった。記憶を頼りにタイピングしようとしても、初歩的な単語の綴りすら思い出せない。さすがに少しばかり恐怖を覚えたが、とジュニアがてきぱきとしたハンドサインを駆使して、ぎこちなく『そんなもんらしいぞ』と何とか伝えてくれた。先程笑いすぎたことを流石に申し訳なく思ったのかしおらしく優しかったが、やはり時々肩が震えていたのを見逃さなかった。一体自分たちはどうなっているのだ。
🦔🦔🦔🦔
どうにも集中できず映画を飛ばしながらいくつか観ていると、いつのまにか正午になっていた。時計の文字は読めないが、長針と短針が上の方で重なっている。
朝日が昇ると同時にジュニアに叩き起こされてから半日しか経っていないのに、もう気分は夕方だ。模様たちは絶対に知っているはずなのに、それを理解できないという事象がじわじわとディノとキースの心を蝕んだ。まだ昼なのに、既に妙な疲れが体中にまとわりついて心と体が重くて仕方ない。
休日にダラダラ部屋で過ごすこともしたことないわけではないのに──中途半端な緊張感の中落ち着かず眠れない上に、まともに言葉に触れられないのはこんなにしんどいことなのかと初めて知った。
かしゅっ、と今日何度目かの缶が開く音を聞いた。テーブルの上には、先ほど開けたビールの缶が横になって転がっている。まだ昼になったばかりなのに2本目か、と少しばかり心配にもなったが、このなんとも言えない疲労の中、キースが昼間っから飲むことを咎めることもできなかった。今日くらいは良いだろう、飲まなきゃやってられない気持ちは分からないでもない、それにたまたま今日はチートデーだし──そもそもディノも少し飲んでいるのだからお互い様だ。
「……俺たち、お互いしか会話できないんだよな」
「らしいな」
「こう言うのは良くないけど……正直キースも一緒でよかったって思ってるよ。1人だったら心細かったと思う。悪いな」
「……それは、まあそうだな。オレとしちゃあ、サボる口実ができて万々歳だし……ラッキーって思ってるから気にすんな」
「キース……」
半分本音だろうが、もう半分はディノのための言葉だろうことは分かる。嬉しくなったディノはいつも通り思ったことをそのまま素直に伝えた。
「ありがとな! 愛してるぞ、にひっ☆」
「おー。オレもオレも」
さらり。なんでもないことのようにキースは応えたが、それを受け取ったディノはわなわなと震えた。
いつも通りまっすぐなディノの言葉に、いつも通り彼は照れ隠しに憎まれ口を叩くと思っていたのに、案外素直な言葉が返ってきたのだ。キースは少しは酔っているのだろうが、この程度ならまだ余裕はあるはずで、泥酔はしていないはずだ。もしかしたら、キースもこの状況に少し参ってしまっているのかもしれない。傷の舐め合いといえば聞こえは悪いが、今同じ疲労と気持ちを分かち合えるのは2人しかいないのだ。
「キース……!」
「おー」
珍しく素直なキースの返答に喜んでいるディノの反応はキースからすると大袈裟に見えるらしく、少し引きつつも笑われてしまった。
その時、ぱしゅん、と扉が開く音がして、2人して音の方向を見ればミラクルトリオの最後の一辺であるブラッドがそこにいた。ディノは喜びの勢いのまま、心からの気持ちを彼にもぶつける。キースもどうせ伝わらないのだから、と悪ノリと酔いのままディノの言葉に乗っかった。
「ブラッドも愛してるぞ!」
「オレも〜」
「それはありがたい限りだな」
「はは、どういたしまして! いらっしゃいブラ……ッド……?」
隣でへらへらと笑っていたキースの時が、ぴき、と止まったのを感じた。
ディノもキースも今、ハッキリとブラッドの言葉が意味のあるものとして聞き取る事ができたのだ。つまりは逆も然り。今の言葉はしっかりと、ブラッドに届いたのだ。
もしかしてブラッドもこちら側なのだろうか? そう思いながら周りを見回すと、先ほどまで君の悪い模様でしかなかった文字たち意味のある言葉や文章として一気にディノに話しかけてくる。まてまて、順番に頼む。
きょろきょろと見回すディノと固まってしまったキースに、ブラッドは手のひらサイズのラジオのような機械を見せた。
「ノヴァ博士から預かってきた。どうやら過去、同じような事例があったらしくてな。その時の対策用に作られた翻訳機だ。俺からもお前たちの言葉がちゃんと聞き取れている」
「うわあ! ありがとうブラッド、助かるよ! すごい! 読める! 話せる!」
「……………………」
「……キース?」
「……昼飯、なんか食いたいもん作るから言ってくれ……」
ディノもブラッドも、キース本人ももちろん、今1番思考の比重があるのは先ほどのキースの言葉に関してであり、それをお互いに分かっているはずなのにあえてそれに触れずに話題を移行させた。──これ以上触れてくれるな、ということだ。ブラッドはふ、と笑ってその言葉に対する返答を寄越した。
「……昼時だな。頂こう」
「──お、珍しいな! 今日は時間があるのか?」
「色々重なって全体がずれ込んでしまったんだ。少し空きができた」
「じゃあ昼食べてから、キャッチボールしよう! いや、ブラッド疲れてそうだし昼寝も必要だな……あと、」
「すまない、さすがにそこまでの時間はない」
「ごめんごめん! ……とりあえずゼンハイソゲ、だな! 俺はピザを焼くから、他はキース頼んだ!」
「おー」
「というかお前たち、昼間っから飲んでいたのか……」
「こんなの飲んだうちにはい……るが、まだジャブだろ」
妙に生温かい空気が漂ったものの、ディノがからりと吹き飛ばした。
なかったことする気は(少なくともブラッドとディノには)さらさらないが、悪ノリと酔いの結果の産物とはいえキースが先程の言葉を否定せず、嘘だとも言わなかった、その事だけで十分なのだ。
🦔🦔🦔🦔
後日、フェイスがこっそり録音していた音声を聴いて、2人で頭を抱えたとかなんとか。
「……この声なんだっけ……」
「あれだ……オスカーんとこのハリネズミ。あいつこんな鳴き声だわ……」
「えっなに? 俺たちの言葉こんなきゅいきゅいしてみんな聞こえてたの?」
「もちろん」
「……フェイス、それ消してくれ……」
「アハ、やだ♪」