ジトジトじめじめな話『今日はありがとう、助かったよ!』
『これで描画作業は片付いた。これから編集作業に入るから、きみはしばらくお休みだ』
『お疲れ様、ゆっくり休んでくれ』
テキストファイルに打ち込まれた文章に拍手で応えるのは、輪っか頭のオレンジ色の棒人間。彼は正面に向き直り、液晶モニターの向こうにいる“アニメーターの男性”に向かって両手をブンブンと大きく振った。
微笑を浮かべた男性が棒人間に手を小さく振り返しながらモニターの縁に手をかけると、プツリと音がして眼前が真っ黒な壁で覆われた。――棒人間にパソコンを住まいとして提供している“彼”が、モニターの電源を落としたのである。
「……お腹すいたぁ」
腹がグーと音を鳴らすのを聞いて、オレンジ色の棒人間はため息をついた。
時間は昼飯時をとっくに過ぎている。アニメの制作作業は午前中に終わる予定だったので昼食は持ってきておらず、おやつ代わりに用意していたニンジンも食べきってしまった。
「家のチェストに何かあったかな……。うぅ、辿り着く前に倒れそう」
「おーい、オレンジ!」
オレンジの棒人間が輪っかのような見た目の頭を上げると、画面端から赤色の棒人間が両腕を大きく振りながらトテトテと駆け寄ってくる。オレンジ、と呼ばれたオレンジ色の棒人間が片腕を上げてそれに応えた。
「やぁ、レッド」
「いま帰ったとこか? おつかれさん」
赤い棒人間――レッドは、オレンジと共に“アニメーター”のパソコンで日々を過ごしている仲間の一人だ。
いつもなら不在にしていた間にあった事を聞くのだが、腹の虫が音を立てて主張しているのでそれどころではない。
「ちょうどよかった、食べれる物を持ってない? お腹ペコペコなんだ」
「食べ物かぁ……」
オレンジの縋るような視線を受けながら、レッドが頭上にマインクラフトのインベントリを開いて操作する。だが、ツール類とモブを生成する卵ばかりで食べ物は見当たらない。
「残ってないな、動物のみんなと一緒に全部食べちまったみたいだ。ブルーに聞いてみろよ、あっちにいるはずだから」
「ブルーか、彼なら間違いないね」
オレンジは脳裏に青い棒人間のブルーを思い浮かべた。
仲間の一人であるブルーは植物や農業に強い興味関心を持っており、最近ではポーション作りや料理にも挑戦している。確かに、彼なら何かしらの食べ物を持っている可能性は高いだろう。
「早速聞いてくる、ありがとう!」
「あっ! 待てオレンジ!」
善は急げと礼の言葉と共に踵を返すオレンジを見て、レッドは何かを思い出したかのように声を上げた。
「え、何?」
今にも駆け出しそうな体勢のままオレンジが振り返ると、レッドは眉間にシワを寄せて呆れと困惑が入り交じった顔をしていた。
「急いでないなら後にした方がいいぜ? めんどくせーのが引っ付いてるから」
「……面倒くさいの?」
「そっか、オレンジは見たことねーのか」
首を傾げるオレンジの様子に、レッドが困った様子で頬を掻く。
「見たら分かると思うが……あんま相手にすんなよ? ジトジトじめじめが伝染っちまう」
「よく分からないけど……気をつけるよ」
珍しく歯切れの悪い物言いをするレッドの様子に疑問符が浮かぶが、せっかちな腹の虫を宥めるべくオレンジはブルーがいる方へと急ぐのであった。
※ ※ ※
「お手伝い終わったんだね、お疲れ様」
駆け足でやって来たオレンジに対し、ソファーの端に座ってスマートフォンを見ていたブルーが声をかけてきた。
「随分慌ててるみたいだけれど、何かあったの?」
「レッドから君がここにいるって聞いて探してたんだ。食べ物持ってるかい、お腹ペコペコで倒れそうなんだよ」
「あるよ。特に指定はない?」
オレンジがコクコクと頷くと、ブルーがインベントリを開いた。中にはニンジンやジャガイモといった野菜類がズラリと並んでいる。
その中からリンゴを幾つか選び取って差し出されたのを、半ば引ったくるように受け取ったオレンジはガツガツと夢中になって食べきり、ホッと安堵の息をついた。
腹が満たされて冷静になり、気配を感じてブルーが座っているソファーへオレンジが目をやり、目をまん丸に見開いた。
「ブルー? ……その、聞いてもいいかい?」
「何?」
オレンジから見て“異様にしか見えない事態”が起きているのに、まるで関心がないブルーに困惑しながら“そちら”を指した。
「あのさ、そこにいる――」
「今まで最高にイケてる旋律が無限に湧いていたんだ、それが急に途絶えちまった……。インスピレーションの泉が枯れ果てたに違いない! 調子に乗ってお前たちを馬鹿にしてきた天罰が下ったんだ、俺はもうおしまいだぁぁ!!」
オレンジの言葉を遮る、大きな嘆きの声。声の主はどこにいるかといえばソファーの上。端に座っているブルーの腰にしがみつく緑色の棒人間――グリーンが体を震わせている。
「…………グリーン、どうかしたの?」
「オレンジは見るの初めて? 不定期に来るスランプ期だよ。ここ二日くらい、ピンと来るフレーズが出てこないんだって」
とうとう声を上げて泣き始めたグリーンに全く気をかける様子もなく、ブルーがサラリと答えた。他人を気遣う優しい性格の彼らしからぬ様子に困惑したが、それ以上にグリーンの事が気がかりであった。
「平気なの? 何か、僕に出来ることは?」
「特に何も。強いて言えば、気が済むまで話を聞いてあげることかな。ただ、ずっとこの調子だから真剣に聞いてると鬱々しい気分になると思う。話を聞いてあげるなら程々に聞き流してね」
「……動じないなと思ったら、そういうことだったのか」
このパソコンに住む五人の棒人間のうち、オレンジ以外の四人――レッドとブルーとグリーン、そして黄色い棒人間のイエローはネット上の動画「Fighting Stick Figures」のキャラクターである。
動画を見つけたオレンジが彼らと接触してから二年。今ではすっかり苦楽を共にする大切な友人同士だ。
毎日一緒に遊ぶ仲ではあるが、オレンジがアニメーターによって描かれた頃には動画投稿されてしばらく経っていたようで、彼らしか知らない事はまだまだ多い。
グリーンの頭を指先でつついてもこちらを見ようともしないので、オレンジはブルーに視線を戻した。
「自己肯定感の塊みたいなグリーンが、まさかここまでネガティブになっちゃうなんて……なんだか意外だなぁ」
「グリーンは完璧主義な所があるから、思い通りにできないと物凄くストレスを感じるみたい。それが積もり積もって『ネガティブモード』のスイッチが入っちゃうらしいよ」
「彼らしいね」
「そう。多才で器用なグリーンらしい悩みだ、ド平凡な僕が理解できる日は来ないだろうね。……はぁ、自分が情けなくなってくるよ。ただでさえみんなの足を引っ張ることが多いのに」
そう自嘲気味に言って力なく笑うブルーの表情はとても暗い。マイペースな彼がここまで暗い表情をしているのを見るのは初めてだ。
「……レッドが言ってた、『ジトジトじめじめが伝染る』ってこういうことか」
ブルーが平然として見えたのは彼がそう努めていただけで、実際はグリーンのネガティブ思考の影響を受けつつあったようだ。このまま放っておけば、彼までブルーな気持ちに沈んでしまうだろう。“ブルー”なだけに。
暗い表情の友人の肩をオレンジが優しく叩き、顔を上げた彼に向かって頷く。
「僕が代わるよ。君までネガティブ思考になってるじゃないか」
「……ありがとう。レッドもイエローも避けてるみたいで、今朝からずっとこの状態だったんだ」
そう言ってブルーが立ちあがろうとするが、グリーンに腰をガッチリとホールドされて動けなかった。何とか緑色の腕を解こうとするが、今もまだ涙声で泣き言を連ねるグリーンは腕の力を抜こうとしない。
深いため息をついたブルーは、泣きじゃくるグリーンの頭をポンポンと優しく叩いた。
「ほら、いつまでそうしてるの? オレンジが驚いてるじゃないか」
「……オレンジ、お前のライバルを気取っていた俺を笑ってくれ。黒歴史すぎてお前の顔を直視できない……!」
そう言ってグリーンが鼻をすする。
このままでは埒があかないと、助けを求めるブルーの視線に応えるべくオレンジ泣きじゃくる親友の前に膝をついた。
「グリーン。君の気持ち、よく分かるよ。僕もアニメのお手伝いをする時、これだと思う線が描けなくなっちゃう事がある。いつも出来てる事が出来なくなるって……とてももどかしくて、物凄く嫌な気持ちになっちゃうよね」
「……」
オレンジが優しく語りかけると、グリーンのぐずりが収まった。
たった一言で泣き止んだのでブルーが思わず目を見張ったが、オレンジは気付いていない。
「僕の場合、その状態になるのは同じ作業が続いた後が多い。君、ウェブ上に自作曲のアルバムをアップロードするんだって、ここの所ずっと曲作りしてただろ?」
「……してた」
「調子が悪い時は、あえて作業から距離を置くんだ。釣りや手合わせで気分転換するとか、お昼寝するとか。何かやってみた?」
オレンジの問いにグリーンがようやく顔を上げた。悲壮感に満ちた表情で、頬には涙の筋が幾つも残っている。
「……試してない。何するのも億劫で、休もうにもネガティブな事ばかり思いついて……全然寝付けないんだ」
「それは辛かっただろうね、僕も経験があるよ」
グリーンは腕で涙を拭い、無言で頷いた。
ブルーに声を掛けた時に比べると、こちらの言葉にちゃんと反応している。ようやく落ち着きを取り戻したようだ。
「落ち着いたみたいだね。動けるようになったら、気分転換に海に行くのはどうかな。波の音にはヒーリング効果があるっていうから、真っ青な空と海を見ながら浜辺を歩いたり、日光浴するのもいいと思う。泳いで体を動かすのもいいね。――言えるのは、そこでグダグダ言ってても仕方ないってこと」
「……」
グリーンは差し伸べられた手をジッと見ていたが、ようやくブルーを拘束していた腕を解き、
「そこまで言うなら……。ちょっと出掛けてこようかな」
そう言って差し伸べられた手を取った。
* * *
「ネガティブモードのグリーンが外に出てった?!」
「凄いよオレンジ! ボクたちが何言っても絶対動かなかったのに」
レッドとイエローが驚嘆の声を上げた。
グリーンがネザーゲートをくぐって出掛けたのを見計らったかのように、イエローとレッドが現れたのである。そんな彼らにブルーが視線をやり、
「イエローもレッドも何処行ってたの……? オレンジが助け舟出してくれなかったら、今もまだ張り付かれてる所だよ」
そう二人に問いかける声はヘロヘロで、手摺りを枕にソファーの上でぐったりしている。数時間に渡ってグリーンの泣き言を聞かされたので、心身ともに疲れ果てたのである。
そんな彼の問いに、イエローとレッドはバツが悪そうな顔をした。
「絡まれたら面倒くさいもん。だって、あの状態のグリーンの話、聞いててイライラしちゃう」
「ブルーはもっと突き放さねーと。相手するの嫌だってハッキリ言わねーから、アイツも甘えてひっついてくるんだぜ?」
レッドの言葉にブルーは苦笑いを浮かべ、
「放っておくのも可哀想だから。……なかなか思い通りに出来なくて辛くなる気持ち、僕も分かるし」
「……」
ブルーの『何処に行っていたのか』という問いに答えない二人の発言に、鬱々しいグリーンの対応をブルーに押し付けた後ろめたさを感じ取ったオレンジ。けれどブルーは分かった上で尋ねたようだし、あのグリーンに近寄りたくない気持ちも理解できるので黙っていた。それより気になったのは、ブルーの回答の方。
「ブルー。君の寄り添って話を聞こうとする姿勢に、僕たちはとても助けられてる。ただ、あの状態のグリーンは他に任せて、なるべく距離を取るようにした方がいい。君は共感性が強いから、特に影響を受けやすいみたいだ」
アドバイスの内容に、レッドとイエローが驚いた表情で顔を見合わせた。ブルーのそういった行動は人一倍強い親切心から来るもので、デメリットになる可能性など考えたこともなかったからだ。
ブルーはというと、輪っか頭の友人の言葉にホッと安堵の息をつく。
「じゃあ、今度からオレンジを頼るね? 君のアドバイスにはグリーンも素直に従うみたいだし」
「……ん?」
困惑気味に声を上げたのはオレンジ。
ブルーは安堵の表情を曇らせ、レッドはあんぐりと口を開く。イエローは疑問符を頭に浮かべながら首を傾げ、
「オレンジ? なんでそこで『ん?』なのさ、他に任せろって自分が言ったのにさ」
「……えっと」
訝しげに投げかけられるイエローの眼差しを避けるように、オレンジは視線を反らしなが口を開いた。
「いやぁ、それはほら、僕はアニメのお手伝いとかあるし。確約は……その、しかねるというか何というか、状況次第というか」
「なんで急にしどろもどろになるんだよ」
レッドの指摘に、慌てた様子で言葉を連ねていたオレンジは思わず口を噤み、観念した様子で深いため息をついた。
「今日みたいに短時間ならともかく、何時間もあのウダウダを聞かされたら……グリーンを画面端までぶん投げちゃいそうで」
「……あー」
「オレンジならやりかねないなぁ」
ブルーとイエローの脳裏には、堪忍袋の緒が切れて暴れるオレンジの姿。カッとなると手がつけられない彼を怒らせて、レッドとグリーンがよくリスポーンさせられているのである。
そんな二人とは対称的に、レッドは目をキラキラさせながら大きく頷いた。
「分かるぞ、オレもそう!」
「レッドも? 僕たち、気が合うね!」
「……そこ、意気投合しないの」
笑顔で手を打ち合わせながらキャッキャとはしゃぐレッドとオレンジを横目に、げんなりしながらイエローがため息をついた。そして仕切り直すように咳払い。
「とにかく。あの状態のグリーンは気にかけるだけ無駄なの。気が済んだら何も無かったみたいにケロッとしてるじゃん。言ってる間にご機嫌で帰ってくるよ、いっつもそう!」
「そうそう。なんだったら『今ならどんな曲でも作れるぜ、なんてったって俺は天才だからな』とか言い出すんだぜ、きっと」
「心配してた僕たちなんてそっちのけでね」
「えぇ……? あんなにどんよりしてたのに、そこまで調子が変わるなんて信じ難いなぁ」
そんな事を言っていると、ソファーの上に開いていたウィンドウから奇妙な音。
四人がそちらを見上げると、ネザーゲートから出てきたらしいグリーンが手を振っていた。
「帰ったぞ〜!!」
その声は先程までさめざめと泣いていたとは思えないくらい活力に溢れ、暗い表情をしていた顔には晴れ晴れとした満面の笑みを浮かべている。オレンジが思わず他の三人に目をやるが、三人は揃って大きなため息をついていた。
ウィンドウを伝って下へ降りてきたグリーンにレッドが声をかけた。
「もう帰ってきたのか? 晩飯まで帰って来ねーと思ったのに」
「俺もそのつもりだったさ。けど、砂浜でぼんやり海を見ながら日向ぼっこしてたら……ポッと湧いたんだよ、最高のフレーズが!」
「おっ、オレンジが言ってたヒーリング効果ってやつ? 本当に効果あったんだな」
レッドの言葉にグリーンは大きく頷く。
「そうなんだよ! それで何となく展開させてみたら次から次へと思いついてさ、メモるのが大変だったぜ」
そんな会話をポカンとして聞いていたオレンジだったが、興奮した様子のグリーンに手を取られて我に返った。
「ありがとな、オレンジ! お前のアドバイスがなかったら、俺はソファーに根付いて一生動けずにいた……!」
「そ、そうなの? 役に立ててよかったよ」
「そうだ! お礼と言っちゃなんだが、お前の好みに合わせて一曲作る。リクエストがあったら言ってくれよな!」
「……大丈夫? さっきまであんなに辛そうだったのに」
オレンジの言葉にグリーンがニヤリと広角を釣り上げた。
「心配ご無用、今ならどんな曲でも作れるぜ……。なぜかって? 俺様は才能に満ち溢れた天才だからな!」
胸を張り、鼻高々に笑うグリーン。一方で他の面々はというと、
「……」
「……」
「……」
「……」
オレンジは呆気に取られ、他の三人は呆れ果ててツッコミを入れる気すら起きず、揃って無言。そんな四人の様子など目もくれず、グリーンは笑顔で片腕を上げた。
「それじゃ、今から部屋に籠もってくる。晩飯が出来たら呼んでくれ」
誰からの返答も待たず、グリーンは懐から取り出した数枚のメモを手に駆けて行く。
インスピレーションの泉から湧き出るメロディを取りこぼしたくないんだろうな、とオレンジは分析したのだが。やけにアッサリと元気になったグリーンの様子に気疲れを起こし、深々とため息をついた。
「……確かに、毎回これだと気にかけるのも馬鹿馬鹿しくなるね」
「でしょ? けど、次からはオレンジも注意した方がいいかも」
「僕も?」
イエローの言葉にオレンジは首を傾げた。それに対し、レッドとブルーが揃って首を縦に振る。
「アイツがブルーにくっついてたのは、コイツが文句も言わずに話を聞いてたからだ。あの調子だと、オレンジも相手にしてくれるって思ったに違いない」
「なんなら、身のあるアドバイスをしたオレンジを頼るようになるかも。僕は気が済むまで話を聞いてあげるだけだから」
「……まぁ、その時はその時だ。なるようになるさ」
二人の意見にげんなりとしながらも、オレンジはそう締めくくったのであった。
※ ※ ※
後日、グリーンは無事に全ての収録曲が完成。そして完成祝いにとオレンジが作成したジャケットイラストと共に、グリーンのファーストアルバムはネット上に公開されたのであった。
ポツポツとだが順調にダウンロードされ、終始ご機嫌なグリーン。だが、ダウンロード数は伸び悩んで『バズった』とは到底言い難い状態が続き、ついには二日に一人ダウンロードするかどうかにまで落ち込んでしまった。
自慢の楽曲ばかりだっただけに、とてもショックだったのだろうか。自身の最短記録を大幅に更新する形で、グリーンは再び『ジトジトじめじめ』なネガティブの塊となってしまった。
そんな彼がオレンジに縋り付いて一時間半ほど延々と泣き言を喚き続けた結果、我慢の限界に達したオレンジによって画面端まで放り投げられる事になるのだが……それはまた別のお話。