白い箱で見る夢7 驟雨「テニスの話をしないでくれと言ってるんだ!!もう帰ってくれないか!!」
意気揚々と、順調に勝ち進んでいる関東大会の報告をしに行った俺たちに突きつけられた幸村の悲痛な叫びは、青天の霹靂、いや、それと共に急変して降り始めた土砂降りの豪雨のようだった。
そして、その雨は今も降り止まず、しとしとと音を立てて俺たちの心を濡らし続けている。
「傘を忘れたのか弦一郎」
隣からの声にハッと我に帰ると、
「蓮ニか」
灰色の空から、バラバラと音を立てながら勢いよく落ちてくる雫の粒を睨むことしかできずにいた俺とは違い、しっかり常備しているらしい折りたたみのシンプルな傘を手に持った立海の参謀が佇んでいた。
「今日は大気の状態が不安定だと天気予報で言っていたのに弦一郎が手ぶらで来ているとは。嵐にならなければ良いが」
「出かける前まで傘を持って行かねば、と思っていたのに靴を履いたら忘れてしまっていたようでな。」
「そうか、中々にたるんでいるな。」
「全くだ。たるんどる。」
俺にしては珍しい、と少し揶揄いが入った軽快な口調だった蓮ニが、突然黙った。
これは気を遣われているに違いない。
つまり今の俺は
「そんなに酷い顔をしているか?」
「さすが弦一郎、自覚があるようだな、眉間の皺がいつもより多い。」
「むう」
やはりそういうことらしい。
「まぁ無理もない。あれを聞いてしまっては、な。」
さすが立海の参謀と呼ばれる男だけある。
俺は否定も肯定もせずただ黙っていた。
平静に見えて、彼もまた、自分と同じように痛みを抱えていることはわかっていたからだ。
そして、それに対する慰めや事態の打開に至るような言葉も今は持ち合わせていなかった。
あの時、怒りと悔しさと悲しみとが入り混じったような幸村の慟哭を、病室の外でレギュラー全員が聞いていた。
恐らく俺たちは、あの日から皆、言いようのない気持ちを抱えている。普段通りに過ごしているつもりではいるが、実のところそうではないのは俺自身も自覚している。
何しろほぼ毎日行っていた見舞いの習慣を、梅雨らしい天気を理由に躊躇してしまう始末。
幸村にかける言葉が見つからないからなのだが、このままで良いはずはない。しかしどうしても足がすくんでしまうのだ。
その思考を読んでいたかのように、蓮ニが言った。
「今日も行かないのか?」
「傘を忘れてしまったからな、面会時間が過ぎてしまう」
言い訳だ。わかっている。勿論そういう理由にしてしまいたいがために忘れたわけではないが。
ーテニスの話をしないでくれと言っているんだ!!ー
あの言葉が、悲痛な響きが、ずっと頭から離れない。
幸村があんなことを言うなんて思いもしなかった。
だが、よく考えてみれば無理もないことかもしれない。
どんなに強く望んでも、何より大切に思っていたテニスが出来ない幸村が、部活の話を聞いてどう思うかなんて、あの時まで考えもしなかったのだ、俺は。
そんな自分に腹が立つ。
だが、だからといって、趣味も得意なことも違う俺たちを繋ぐ共通の話題を、他でもない本人から、生まれて初めて封じられてしまうだなんて思いもしなかったのだ。
勿論、互いの興味について話を聞いてもらうことは何度もあったが、盛り上がる話題というのはやはり限られる。
どんな時だってテニスの話をすれば、課題を共有し、意見をぶつけ合い、気持ちは高揚し、声を上げて笑い合えた。
ずっと俺たちはテニスと共に生きていたのだ。
その話をするなと言われた俺は、今、
手足を縛られたかのようになす術がない。
そして、今日もまた幸村の見舞いに行くわけでもなく、すごすごと家に帰ることすら出来ずにいるという、我ながら何とも情け無い状態であった。
「ならばこれを使うといい」
ため息をついただけの俺に蓮ニが差し出したのは、そのシンプルな折りたたみ傘。
「む?」
「これは予備だ。俺にはもう一本傘がある」
それを使えばお前が濡れるのではないか?と俺が言う前に、蓮ニは心配ないとばかりに口角を上げ、ある方向を指差した。
そこには、中学生の持ち物としては中々お目にかかれないだろう和傘が、傘立ての横で、そろそろ拙僧の出番でしょうか?とばかりに頭を覗かせて佇んでいる。
「こんなどんよりとした天気を一人きりで見ていたら、さすがの精市も心が弱ってしまうだろう?ましてやあんなことの後ではな」
「しかし」
「こんな雨の日に、わざわざテニスの話題を出すのは難しいのではないか?」
「...」
「それとも精市に会いたくないか?」
「いや」
会いたい
だが、
「先に延ばせば延ばすほど、行きづらくなるぞ」
そのとおりだ。
だが、
「お前が精市の立場ならどうして欲しい?」
「!」
「いや、お前なら、精市の口から出る言葉が全てではないことくらいわかるだろう?」
「ー!!」
「あれは八つ当たりではないのか?それに、日が経って、少し落ち着いているかもしれない今ならどうしてあんなことを言ったのか、話が聞けるかもしれないぞ?」
「!!!」
しかしああなった幸村は頑固だから
「精市のことだから、素直に話してくれるかは分からないが、お前は黙ってそのままにはしておけないだろう?顔に書いてあるぞ?」
「!!!!」
蓮ニは頭が回る。
正論がグサグサと突き刺さり、次々に逃げ道を塞がれていく。怖いくらいだ。
だが、この感覚は嫌いではない。
俺を責めているのではない。口を挟めば言い訳をしようとする軟弱な今の俺を鼓舞しようとしてくれている、と分かるからだ。
そうだ、真田弦一郎、何を迷っている!
「わかった、お言葉に甘えさせてもらおう、助言に傘まで、痛み入る。」
「いいや、俺は精市と弦一郎、2人に早く元気になってもらいたいだけだ。」
「そうか、ではまた明日な!蓮ニ!」
折りたたみ傘を渡され、それを差した俺は、バラバラ音を立てる雫の集団が暴れる空間へと駆け出す。
自分の意思では動けない場所にいる友に、
来るなと言われたから、
もうその話はしたくないと言われたから、
だからといって、その場はともかくそのまま引き下がったままだなんてどうかしていた。
幸村!お前があんなことを言うなんて今でも信じられない。
一体何があった?
何かあったのなら、俺に分かるように言葉にして教えてくれないか?
いや、どうしても教えたくないなら言わなくてもいい、気になるが、無理強いはできない。
ならば、せめて、気にいらないことがあるなら俺に全部ぶつければいい!
医者でも何でもない俺には病に対して何も出来はしない、だがお前の気持ちは受け止めてみせる!いや、受け止めきれるかもわからんが、それくらいしか今の俺に出来ることが思い付かんのだ!
地面から跳ね返る水滴にズボンの裾を濡らしながら全速力で駆けていく。
まだまだこの激しい雨は止みそうにない。
だが、
「全く、2人とも世話が焼ける」
肉眼で遠くの空に虹がかかるのが見えた蓮ニが、眉を八の字にしながらほんのりと笑って見送っていたことを、後に教えられたのだった。
24.6.23