吉良雛本・冒頭「その木、椿ではないのですか」
背中越し、やや舌ったらずな高い声に尋ねられ、庭師は鋏を下ろして振り向いた。
いつから後ろに居たのか、庭師の腰ほどの背丈の人影が、たった今手を入れていた植木を指差して立っていた。眉根を寄せて、何やら難しそうな顔をしている。
「ああ、坊ちゃん」
雇い主の愛息に、庭師は目尻に皺を刻んで朗らかに応えた。
ちょこんと佇んでいる少年の色素の薄い短髪は、暖かな彩りに華やぐ春の庭によく映えている。この時期に咲く花に準えるならば、さながら黄木香の色合いか、と庭師は連想した。
少年は指差した木をじっと見ていたが、やにわに目を見開いて、失態を恥じるように庭師を見上げた。
「あの、今、お話をしても邪魔ではありませんでしたか」
「とんでもございませんよ。坊ちゃんの気になることがあれば、いつでもお声掛けください」
庭師が穏やかに微笑むと、少年はほっとしたようで眉間の緊張を解いた。
位が高くないとはいえ貴族階級に生まれついた少年は、幼いながらも両親の薫陶を受けて、使用人であれ年長者への礼節を欠かさない。さりとて堅苦しさもなく、親の言いつけを守っている年相応に無垢な子どもである。行儀も愛想も良いために、屋敷に出入りする大人によく可愛がられているようだった。
少年が庭師と話すようになったのは、縁側であやとりをしていた少年に庭師が声をかけたことがきっかけだった。両親が構ってやれないときに一人で暇を潰せるようにと渡されたのであろう赤い紐を、黙々と繰っている姿がいじらしかった。そうしていれば寂しさを忘れられるとでも言っているようであった。
話し相手くらいにはなれるだろうかと、庭に植わった花について庭師が少年に尋ねると、嬉々として語り出した。学問に励んでいるらしく、少年は既に書物で見知った知識の答え合わせをしている風でもあった。庭師が「さすが」と言うと得意げにする一方で、未知の事柄を耳にすれば好奇心に瞳を輝かせ、あれこれ疑問を投げかけては無邪気に感嘆する。さらに感心なことに、一度聞いたことは必ず覚え、次に話に挙がった際には自分の習得したものとしてすんなり使いこなす。そんな小さな好学の士を、庭師は敬意と親愛を込めて「坊ちゃん」と呼んでいた。
「左様です。これは椿ですよ」
庭師のお墨付きを得たにもかかわらず、得心いかない面持ちで少年は言った。
「父上も母上もそのように仰いました。でも、よその子がそれは椿じゃあないって」
「おや。それはまたどうして」
「椿は雪の降る時期に咲くものだから、桜が咲く頃になっても花があるのはおかしいと」
ははあ、と庭師は髭の浮いた顎に手をやり、鷹揚に頷いた。
「まっさらな雪景色に大輪の赤い花は絵になる。印象が強いですからねえ。でも、坊ちゃんもお友達も、何も間違ったことは仰っていませんよ」
少しの間考えて、少年は口を開いた。
「では、椿は椿でも、冬に咲くものと、春まで咲くものがあるのですか」
「その通り。冬、春ときて夏に咲くものもあります。椿はたくさん種類があるのですよ」
「ふうん……」
それならここにある椿は何なのか、と今にも訊きたげにしている少年に、庭師は微笑で提案した。
「焦れったいかもしれませんが、少しお話の寄り道をしましょう」
庭師は先程まで鋏を入れていた葉だけ残している木の隣で、今も瑞々しく白い花を咲かせている木を手で示す。
「坊ちゃんはどうやって花が実をつけるかご存知でしたね」
「雄蕊から飛んだ花粉が風や虫に運ばれて、雌蕊に付いて実をつくるのでしょう」
一足すことの一は、と問われたような表情で少年は答えた。
「ご名答。けれども椿の咲く寒い時期に虫はいない」
「鳥が蜜を吸いに来ます」
そうです、と庭師は頷く。
「たっぷりと蜜を蓄えて、誘われて頭を突っ込んだ鳥に花粉を運んでもらうんです。暖かくなってしまえば、鳥は出てきた虫を食べに行ってしまって、蜜には見向きもしなくなる。だから寒い時期に咲いている」
庭師の指し示した先で花を揺らしている木を見遣って、少年は問う。
「それなら、どうしてこれはもう暖かいのに花をつけているんです」
「これは他の椿と違って、雄蕊がなくって花粉が無い。運んでもらう花粉がそもそも無いんです」
怪訝そうに少年は首を傾げた。まだ花をつけている木に近寄ると、しゃがんでその花芯を覗き込む。
「でも……ほら、ちゃんと真ん中に黄色い芯がありますよ」
「ああ、雄蕊はあるにはあるんです。けれどね、花粉をつくるという雄蕊としての役割を果たせない。それでは実が生りません。つまり、子を生せないんですよ」
少年は「えっ」と溢して、庭師を見上げた。
「椿は丈夫で長生きです。それはこの木も変わらない。ただ、こいつはちょっと特別なんです。人が助けてやらないとうまく育っていけないし、仲間を増やすこともできない」
少年は膝を抱えて再び白い花へ顔を向けると、それまで囀るように動かしていた唇を閉ざして黙り込んだ。
庭師からは少年の頭の後ろが見えるだけで、どのような表情を浮かべているのかわからない。急に静かになったのを案じて、庭師も少年の隣にしゃがんで様子を窺った。
暫くすると、少年は振り向いて庭師をきりりと見据えた。
「そのような仰り様は、あんまりではございませんか」
涙を湛えた濁りひとつない瞳で訴えられ、庭師は動転した。
何が気に障ってしまったのだろうか。咄嗟に「坊ちゃん」と呼びかけるも、後に続ける言葉が見当たらなかった。
唖然として少年の動向を見守るばかりの庭師に、少年はぽつぽつと言って聞かせた。
「こうして立派に綺麗な花を咲かせているのに。そのように仰ってはひどい。この椿が可哀想です」
庭師はやっと合点した。少年は「子を生せず独力では満足に生きてゆけぬ」と言われた椿を憐れみ、我が事のように胸を痛めているらしかった。
この令息は思いやりのある優しい性分で、他者を尊ぶ心のある子である。そして、聞き分けがよく滅多に年長者に物言いなどしない。その少年がこうまで言うとなれば、物言わぬ花に代わって、庭師の言葉に相当に憤っているようである。
子どもの純粋で繊細な感性を眩しく思いながら、庭師は頭を垂れた。
「相済みませぬ、坊ちゃん。確かに、惨いことを申しました」
「僕ではなくて、この椿に謝ってください。それに、これ、とか、こいつじゃなくて、この椿だからつけられている名前があるのでしょう。何という名前なのですか」
下げていた面をちらと上げて、庭師は告げた。
「侘助——と申します」