吉良雛本サンプル③ 二章冒頭 道すがら、花の香りを運ぶ暖かな風に髪を撫でられて並木を振り仰ぐと、桜の木々がほんのり色づいた枝先を、嬉しげに手でも振るように揺らしていた。霞んだ青空を背景に、綻んで赤みがかった蕾がよく映えている。
人目が無いのを良いことに、他隊へ書類を届けに向かう足を束の間止めて、見入る。
また、季節が巡った。
このまま順調に開花が進めば、今年度の新入生は満開の中で入学できるかもしれない。遠い日の自分達も、そうであったように。
桜に感傷を煽られるのか、毎年この時期になると、死神を志して霊術院の門戸を叩いた頃を思い出す。
無垢な希望に胸を高鳴らせ、その先に何が待ち構えているのかも知らず、新たな世界へ足を踏み出したあの日。
彼らと学び舎で同級生として出会ってから、気づけば五十年ほどの歳月が過ぎた。
もしも学院生時代の自分に会って、皆それぞれが副隊長に就いたこと、多くの事件や大戦を超えて、彼らと今も変わらず付き合いがあることを話したら、無邪気に驚き、喜ぶだろうか。
何とはなしに想像して、苦笑する。今日に至るまでの背景や紆余曲折について、そのくらいに端折って伝えない限り、そんな反応は返ってこないだろう。
厳密に言うなら、親しかった同期三人のうち、自分が以前とほぼ変わらない関わりを持っているのは、二人だけである。一人とは、疎遠とは言わないまでも、距離の空いた関係になってしまった。
人間とは違い、姿形は老いてこそいないものの、互いに随分変わった。変わってしまった、と思う。
振り返れば、鏡のような半生を辿ってきた。
同じ学級に在籍し、同じ実習班となってあの日を迎え、同じように救援に来た死神に憧れて鍛錬を積み、同じ部隊に卒業後配属され、異動はあれど、ほぼ同じ早さで昇進して副隊長に就任し——同じように信頼していた隊長に裏切られた。
実習時に藍染隊長と出会った時点で、恐らくそうなるように仕組まれていたのだから、似た経歴となるのは当然といえば当然ではある。
そうして隊長の思惑通りに対立し、以前の関係に戻る術を失った。真相が明らかとなり、和解に落ち着いたところで、一度壊れたものがそっくり元通りに直ることはなかった。
最後に一片の曇りもない心で笑い合ったのは、いつの日のことだったか。
職務上の接点はある。他隊とはいえ副官同士ゆえに、事務的なやりとりをすることは珍しくないし、疎通に障りもない。
ただ、仕事を媒介に会話することはできても、生身の自分達を話題に挙げて談笑することはできなくなった。
迂闊に口を開けば、優しいこの人をまた傷つける。
これ以上、この人の歩む道に自分が干渉してはならない。
副官同士らしい関わりはできているのだから、それ以上を望むべきではない。
——などと、もっともらしい口上を並べてみたところで、真実、自分は恐れているだけなのかもしれない。
心に傷を負わせた罪を。
自らが招いた事態の重さを。
自身へ向けられている感情を。
まざまざと突きつけられることが怖くてたまらないから、触れられずに立ち竦んでいるのかもしれない。
何かを逃すような湿った吐息が、不意に唇から漏れた。
騒ぐ胸を鎮めようと、蕾から焦点を遠く移し、日々復興の進められている瀞霊廷の街並みを眺める。
傷つき壊れた後に、癒えたもの、新たに築かれたものもあれば、そうではないものもある。
自分にとって、修復もされなければ風化もされ得ないものの象徴が、この関係性なのだろう。
過去に帰りたいとは、決して思わない。仮に帰ることができ、自分に成せることがあったとしても、それは傲りに過ぎない気がしてならなかった。
考えたところで詮無いことだと、わかりきっている。それなのに。
貴方のためにできることは何なのだろう、と。
空虚な言葉を交わす度、人伝てに近況を耳にする度、幾度となく自問した。似た境遇に置かれている者だからこそ、力になれることがあるのではないか。
答えはいつも決まっていた。
「何もしない方がいい」
向こうはこちらを必要とはしていない。既に手を差し伸べている人々だっている。であれば、薬になるかはわからないくせに、毒になる危険性だけは立派に備えている自分が、敢えてお節介を焼くことはない。自分が赦されているという安心感欲しさに、独り善がりな行動をとってはいけない。
この寂しさもきっと、罰なのだから。
見て見ぬ振りをしている間に、ぬるく凍った関係は置き去りに、月日だけが滔々と流れていった。
どう足掻こうとも、足掻かなくとも、時間は等しく進んでゆく。
先の大戦で、隊長格を含む夥しい数の死神が殉職し、街も破壊の限りを尽くされた中、我が身を顧みる暇なく次々季節を見送った。隊長離反時、未熟な自分が部下にかけた苦労を思うと罪滅ぼしにもならないが、自分にできることがあれば、片端から取り組んだ。
新しい上官や他の隊士からは、根を詰めすぎている、休め、と事あるごとに窘められたが、仕事は苦ではなかった。むしろ、職務に没頭することで初めて楽に呼吸ができる気さえした。
相応の対価を払い、副官として居続けるだけの価値を得られたような心地になって。いくら体裁を整えようと未だに散らかって片付かない内面を、直視せずにいられた。
他の何者でもない死神として、副隊長たる自分に課せられた役目を一心にこなしてゆけば良い。自分を支えてくれた人達へ恩を返すためにも、償うためにも。
そう言い聞かせて、私情に目を瞑ってきた。
——いい加減、業務に戻ろう。勤務中に物思いに耽っている場合じゃあない。
春を報せてくれた蕾に別れを告げ、再び歩を進める。
仕事仕様に頭を切り替えようとしていた矢先、はたと気づいた。
桜の開花が迫った時期の行事が、もうひとつあったことに。
そうだ、今月の末だった。
悩みのぶり返した額に、冷ますように手を当てた。