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    cho_kenjatime

    @cho_kenjatime
    吉良雛、🦆🐺、🥴🐺、晶♂フィとアレファを推して書くタイプのオタクです。

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    cho_kenjatime

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    吉良雛本のサンプル④です。二章本文です。大戦終結後三年目の吉良の誕生日を迎えた同期三人組の話です。
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    吉良雛本サンプル④ 二章「憧れは理解から最も遠い感情だよ」
     はっとして、まだ暗い部屋の中で目を開いた。太陽が昇ってくる気配はない。
     心臓はうるさいばかりで、布団の中で冷え切った手足を温めてはくれない。
     胎児のように縮こまって、震えて上手く出てこない吐息を指先に吹きかける。
     ああ、明日早いのに、今晩は眠れないのかな。
     ——未だに甦る、現実に起きた悪夢の記憶。
     血溜まりに沈み、いよいよ思考が止まる寸前、おぼろげに耳にした言葉。
     敬愛する上官の、馴染み深く穏やかな声音で読み上げられた、不穏当な言葉。
     この胸を刺し貫いた刃よりも、痛烈に深々と心を抉った言葉。
     痛覚が麻痺して最早何も感じられなくなった肉体の傷よりも、遥かに痛かった。
     耳を塞ぎたくなる言葉の数々が他でもない藍染惣右介の声で語られては、次々と意識と無意識の狭間を流れ去っていった。何も言えず横たわって終わりを待つだけの自分に代わって、怒りを剥き出しに立ち向かう幼馴染の声が、彼方に聞こえる。
     五感のうち、最期の最後まで残っているのは聴覚であると聞いたのをぼんやり思い出しながら、視界を埋め尽くした白い闇を、意識が絶えるまで見つめた。         
     たった今我が身に起きたことを認められず、「嘘」の一字が頭の中を埋め尽くした。
     嘘? 違う。どこまでも本当だった。否定のしようもないほどに。
     顔、姿、声、霊圧、雰囲気、どれもが藍染隊長そのもので、偽者と疑う余地など無かった。
     なのに、どう思い返しても、自分のよく知る上官と一致しなかった。
     暖い労いの言葉。慈愛のある抱擁。気遣わしげなやさしい瞳。
     短い告別の言葉。容赦のない刺突。何の感慨も見当たらない瞳。
     一瞬で世界がひっくり返ってしまったみたいだった。
     いくら願ったところで死んだ人は帰ってこない。有り得ないことを期待してしまったから、こんな悲しい結末の夢を見たのだろう。
     現実に在った彼の行いを否定し、あたしの願望の中にしか居ない藍染惣右介を肯定したからこそ、彼は雛森桃の命を散らすと決めたのだろう。
     今ならそう悟ることができる。
     自分如きが真に藍染惣右介という人物の理解を試みたところで、恐らく彼は何の感情も抱かなかった。
     彼が感じていたそのものではないと思うけれど、憧憬の眼差しを向けられ続けることの虚しさを覚えたのは、本格的に復隊してからだった。
     かつては藍染惣右介という絶対的な存在を追いかけることに必死で、後に続く人々に目を向けられていなかった。未熟な自分でも、藍染隊長に付き学び精進するうちに、一人前になれるのではないかと思っていた。 
     隊の皆は、こんなあたしを慕ってくれる。
     でも、彼らが思う雛森桃は、あたし自身の思う雛森桃という死神とは、乖離している。
     皆がそう望むのなら、そう在りたい。頼りない副官で居てはならないのは、重々承知している。ただでさえ隊長が不在だったのに、あたしは副隊長としての任もまともに果たせなかったのだから。
     だけど、本当のあたしは——。
     藍染隊長の背中を見失った世界に立って、あたしは自らの生きる理由すらも藍染隊長に依っていたことに初めて気づいた。
     藍染隊長の役に立つために、藍染隊長に必要とされるために生きていた自分。
     学院に入って間もなかった頃の、藍染隊長と出逢う前の自分のほうが、よほど主体性があった。
     助けを必要としている誰かが居るなら手を伸ばし、それを阻むものがあるなら立ち向かう。たとえ敵わない相手であったとしても。
     あの頃のあたしにとって、それは理屈ではないことだった。本能と言っても良い。理性がいくら不可能と訴えようと、体はひとりでに駆け出していた。そうせずにはいられなかった。
     そんな当たり前だったはずのことが、たったそれだけのことが、自分の意志ではできなくなっていた。
     藍染隊長に出会って、選択の必要に迫られては「どうしたら良いのか」と救いを乞うて。
     意思決定の悉くを藍染隊長に委ねた。自分の心を藍染隊長に捧げて、預けてしまっていた。
     それはとても楽だった。身軽だった。本来自分の頭で考え、歩いてゆくべき道を、すべて藍染隊長に導かれるまま進んでゆけば良かったのだから。たとえそれが、奈落の底に続く道だったとしても。
     彼から傷とともに返された自分の心は、ひどく重くて、不自由だった。
     支えを失い、衰えた脚で立つのはつらかった。
     知らなかった。それとも、忘れていたのだろうか。
     自分のために生きなくてはならないというのは、こんなにも苦しいことだったなんて。
     価値を感じられないもののために、生きていかなくてはならないなんて。
    「こうなっちゃうから嫌なんだよね……あの夢」
     観念して何か飲み物でも淹れようかな。
     でも、少しくらいは横になっていた方が体のためかな。
     余計なことを考えないために、余計なことを考えなきゃ。

     *  
          
     春の昼下がりの執務室は、日差しが差し込んで心地が良い。うららかと言い表すに相応しい陽気である。
     ぐっと背伸びをして、何の花かはわからないが、芳香を孕んだ春の空気を深く吸い込む。
     今しがた書き上げた午前の業務の報告書を縦置きの書類入れに差して、休憩に入る準備を整える。
     遅めの昼食を摂るべく、弁当の入った包みを執務机に載せたとき、仕切り戸の向こうから声が掛かった。
    「お疲れ様です。今、少しだけお時間頂戴してもよろしいですか」
     改まった口調で話してはいるが、霊圧と障子に映る小柄な影で、何者かは察しがついている。
    「何畏まってんだよ雛森。入ってこいよ」
     指一本ほどの隙間を開けて中を窺った後、軽く会釈して雛森が入室した。
    「一応仕事中だし、朽木隊長がいらっしゃるかもしれないし」
    「俺は午前の用事が押しちまって、隊長と入れ替わりで今さっき昼休憩貰ったとこだから気にすんな」
     言われて雛森は壁に掛けられた時計を確認した。
    「うわぁ、本当にお疲れ様……! お腹空いてるよね。ごはん食べながら聞き流してくれて大丈夫だから」
    「おお、おう」
     卓上に置かれた包みを掌で示され、阿散井は狼狽えた。
     躊躇している姿を見て、遠慮させてしまったと感じたのか、雛森はさらに念を押した。
    「ほんとに、遠慮しないでいいよ?」
    「あー、気にすんな。で、どうしたよ」
     ぎこちない阿散井を不思議そうに見つめつつ、雛森は応じた。
    「こないだの隊首会の議事録と、回覧資料を届けに来たの。確認終わったら署名をお願いします」
     通常、全隊隊長格の回覧を要する資料は十三隊の番号順に回ってくる。雛森は五番隊なのを良いことに、時折こうして六番隊の阿散井に相談事をしに来るのだった。
     雛森は資料を手にして、いそいそと阿散井に歩み寄った。            
    「阿散井くん、今年は何か考えてる?」
     壁に掛けられた暦のうち、ある一日を指して、雛森は声量を落として尋ねた。
     目だけを動かして日にちを確認し「あー……」と阿散井は冴えない声を漏らす。
    「俺も祝い酒でもと思ったんだがよ」
     頬を掻いて、決まり悪そうに阿散井は続けた。
    「吉良、当日瀞霊廷こっち、留守にするんだと」
    「留守?」
     予想外の答えに、雛森は目を丸くした。
     渋い表情で阿散井が「おう」と応える。
    「この間、用事ついでに三番隊の隊舎に寄ったら、ちょうど吉良が居なくてよ。鳳橋隊長に聞いてみたら、なんでも最近、現世で見廻り担当してた席官が怪我したんだと。厄介な虚に不意打ち食らってよ。そいつが復帰するまで時間かかるってんで、急遽代理で吉良が入ったって流れらしい」
     以前であれば、下位の席官だけでも回せていた業務内容である。傷病者が発生したとしても、上位の席官が助っ人に入って済む話だった。しかしながら、深刻なまでの人材不足に陥っている現在は違う。
     大戦から三年が経とうとしていたが、どの隊も未だに人事が落ち着かず、この春に漸く新隊長が就く予定の隊さえある。後進を育成しようにも、日々の復興業務に追われて満足に時間をとることが難しく、実戦にしろ事務にしろ、戦力となる者は限られているのが現状だった。
     とりわけ、三番隊は上位の席官の多くが大戦で殉職している。「腕利き」とかつての山本総隊長に称された吉良に白羽の矢が立つのも、道理ではある。
    「つっても、他の席官と交代しながら受け持ってるらしいけどな。流石にこの情勢で副官が現世に出突っ張りはできねえし。誕生日なんだから代わってもらえって鳳橋隊長が止めても『公私を混同しては下に示しがつかないので』ってバッサリだったらしいぜ」
    「そっか……吉良くんらしいね」
     阿散井は頷いて手元の湯呑みを呷った。
     件の真面目な友人がそのように答えている姿は容易に目に浮かぶ。寂しくはあるが、変わらない同期の一面に、二人はどこか安堵もしていた。
    「吉良くん、敢えて誕生日に予定を入れたのかもね」
     仕事に没頭して、考えたくないことを意識から切り離すのは、雛森自身も身に覚えのあることだった。
     昨年の誕生日に複雑そうな表情をしていた吉良を、阿散井と雛森は思い出す。
    「やりそうなことではあるな」 
    「当日は贈り物だけ置いていこうかな。阿散井くんとあたしで何かひとつの物を贈る?」
     少しの間考えて阿散井は答える。
    「いや、それぞれ用意して渡した方が良いんじゃねえか。日数も限られてるしよ、打ち合わせるにしたってお互いに予定合わすのも難しいだろ。今パッと決められるんなら構わねえけど、雛森は凝るだろ、こういうの」
     気恥ずかしそうに「ごめん」と頭を下げた雛森に「謝るところじゃねえよ」と阿散井は返す。
    「しっかしまあ、何十年と祝ってるとネタも尽きそうなもんだけどよ。よくこれまで被らずに贈ってきたよなあ。俺は悩んだらすぐ酒にしちまうけど」
    「そうだね……美味しいものとか、後に残らないものを、とは思っているんだけど」
    「邪魔になるからってか? 別に残るもんでも構いやしねえだろ。吉良の部屋ならいくらでも置き場所あるし、物は大事にする方だろ、あいつ」
     飲み会で潰れた吉良を送り届けたときの部屋の具合を思い起こして、阿散井は言う。
    「じゃなくて、恋人さんが居たら嫌な思いさせちゃうでしょ」
     思いも寄らない言葉に、阿散井はぽかんとする。
    「は? 恋人? 吉良に? いつから? 何奴どいつと?」
    「わ、わからないけど! あたし、暫く吉良くんとまともにお話できてなくて、近況も人伝てにしか知らなくて。そういう仲の人が居てもおかしくないから、配慮したほうが良いかなって思ったの」
     急な質問責めに遭い、雛森はわあわあと顔を隠すように両手を振って慌てだす。
     阿散井は雛森の返答に「なぁんだ……」と脱力した。雛森の懸念が十中八九取り越し苦労だろうことは、阿散井には察しがついていた。
    「配慮ねぇ……そんなもん要るか? 俺は別に雛森から何贈られようと気にされたこと無えけど」
    「朽木さんはあたしたちが友達ってこと、よくわかってると思うし例外だと思うよ」
     ふうん、と相槌を打って流しかけたところで、阿散井は硬直する。
     気を抜いてうっかり口を滑らせた自分への呆れと、思わぬ雛森の一言に驚愕して。
    「雛森、お前、なんで知って」
     片言しか出てこなくなった阿散井に、雛森はにこにこと陽だまりの笑みを向ける。
    「やっぱりそうだったんだ。阿散井くん、幸せそうにしてること増えたから。あとね、時々朽木さんから阿散井くんの匂いが」
     パァンと短く乾いた音とともに、言葉の先は阿散井の掌に吸われて消えた。
    「笑顔でなんてこと言おうとしてんだ! 婚前に妙なことをしたらわかっているだろうな? って散々釘刺されてんだよこっちは……! やましいことは何もしてねえ、断じてしてねえ、隊長に誓って」
     ドスを効かせて上官の声真似をしつつ、阿散井は雛森の口を覆い、周辺警戒の目を光らせる。
     鼻と口を密閉され、息苦しさと汗ばんだ掌の感触に耐えかねて、雛森は阿散井の胸を繰り返し叩いて解放を求めた。
     雛森は邪念なく純粋な事実を述べただけだったが、阿散井にとっては死活問題である。
    「女の勘ってやつはおっかねえな……」
     文字通りの口封じから解放され、雛森は久しぶりに吸った空気に咽せ込みながら、呼吸を整える。
    「はぁ、び、びっくりしたぁ。清いお付き合いなのはわかったけど、あたしにバレて困るようなことでもないんじゃないのっ?」
    「困りゃしねえけど、わざわざ言うほどの事でもねえだろ」
     阿散井は音を立てて額を叩き、そのまま髪を撫で付けた。それは雛森の目には、どこか恥じらいを紛らわせるような仕草に映った。
    「第一、周りが戦後処理でてんてこ舞いになりながら働いてるっつうのによ、俺たち付き合いました〜なんて浮かれポンチな報告できるかってんだ」
    「こんなときだからこそ、明るい話題が必要だってあたしは思うけどな……。自分が幸せなときにちゃんと周りのこと考えてる阿散井くんって、すごいね」
    「逆だろ。手前のことが一区切りついたから、ちっと視野が広くなっただけなんじゃねえの」
    「ううん。昔から阿散井くんはいつも周りを見ていて、その場に合った対応ができるひとだったよ。あたしはいつも自分のことでいっぱいいっぱいになって目の前しか見えなくなっちゃうから、尊敬していたもの……あっ、もちろん今も尊敬してるよ!」
     無邪気に称賛の影で自己卑下する雛森に、阿散井は何と声を掛けるべきか逡巡し、短く「そうかよ」とだけ返した。
     思ったことを素直に相手に伝えられることは、雛森の美点だ。阿散井はそう評価している。「良い」「素晴らしい」と感じたこと、「悪い」「間違っている」と感じたこと、そのどちらをも率直に他者へ伝えられるのが雛森だった。計算なしに自然体でそれができる雛森が、部下や他隊士から慕われるのも頷ける。一方で阿散井は、雛森が周囲を褒めるのは、自己肯定感の低さの裏返しのようにも思った。
     ふと阿散井は、藍染からルキアを庇って負傷した白哉の見舞いに訪ねた際、白哉から聞いた話を思い出した。阿散井が旅禍——黒崎一護との戦闘で重傷を負い、意識を喪っていたときのこと。敗北した阿散井を牢に入れろと指示した白哉に、雛森は阿散井の名誉を訴え、異を唱えて楯突いたのだという。
     決して雛森は物怖じしない訳でも、怖いもの知らずという訳でもない。平時の雛森であれば、他隊の隊長、それも厳格で知られる朽木白哉に意見しようなどという気は、先ずもって起こさなかっただろう。
     ただし、自分の流儀に反する物事には徹底抗戦を辞さないのが雛森桃という死神だった。それは相手が何であれ、一切揺るがない。
     霊術院に入学して二ヶ月が経過した頃。実習で虚の奇襲に遭った際の行動が、彼女の在りようを象徴している。阿散井が雛森を級友の女子生徒という以上に一目置く契機となったのが、その出来事だった。
     優秀な上級生が一方的に虐げられる様を目の当たりにし、自分達など到底敵うはずも無い事は火を見るより明らかな状況だった。上級生が敵の前に残されていたとしても、あの場において「逃走」は疑う余地無く最善の選択だった。特進クラスに籍を置くことを許された賢明な学院生に、それが分からない道理はなかった。そも、大多数は思考するまでもなく、恐怖に支配されて本能が命ずるままに安全圏を目指して疾走していた。
     そんな中、逃げる群衆に踵を返したのが雛森桃だった。
     雛森は刀を抜いて、たった一人で戦場に駆け戻った。
     阿散井は咄嗟に雛森を追いかけたものの、彼女の行動理念はまるで理解できなかった。
     危機に瀕している人物を救いたい。その想い自体は理解可能である。けれども、それを叶えられるだけの実力を備えておらず勝算などまるで無いのでは、実行に移すのは自殺行為でしかなく、いたずらに死体の数を増やしに行くようなものである。常人の感性をもって言えば、狂気の沙汰だった。
     入学して間もない頃、同じ努力家ながら、主席入学を果たして自信に満ちていた吉良と対照的に、特進学級に在籍している優越感や誇りといったものが傍目には感じられず、いつもどこか自信なさげにしている女子。明るく無邪気で人懐っこく、常識の枠からはみ出すようなことはできない、人畜無害な級友。阿散井がこの一件まで雛森に抱いていた印象はそうだった。
     授業中の様子から推し量るに、雛森の鬼道の腕前は悪くないようだった。しかし、その他の技術や身体的な利点は阿散井に到底及ばない女子が、六回生でも歯の立たない相手に善戦する姿など、阿散井には想像もつかなかった。雛森とて、それがわからないはずは無い。なぜ分かりきった負け戦に向かうのか。それも、敗北が即ち死を意味する場面だというのに。
     取り残された六回生が顔に斬撃を喰らったのを見て、雛森は戦意を喪失するどころか、それこそが起爆剤であったと言わんばかりに、渦中へ身を擲った。
     結果だけ見れば、隊長格が加勢したために事なきを得られたのだが、あの時の雛森は、恐らく増援など勘定には入れていなかった。一人で助けに入ったところで、戦況が好転する見込みは無きに等しいともわかっていたはず。
     絶望的な逆境でも諦めず、信念を曲げない姿勢は、誰にでも備わっているものではない。
    「お前も充分すげえよ、雛森」
     雛森はきょとんと阿散井を見つめた後、苦笑いとともに軽く頭を下げた。
    「ありがとう」 
     ときに向こう見ずに陥るほどの一途さに、藍染は付け入る隙を見出したのだろう。おかげで雛森は以前に輪をかけて、自分の長所を認められなくなっている。
     阿散井は舌打ちを堪えて、最低限の賛辞のみを伝えた。 
     雛森は随分回復した、心の傷が癒えてきたようだ——と周りは梅雨明けを迎えたように言う。
     けれどもそれは、見守る側の「そうであったら良い」という願望に過ぎない気がしてならなかった。あくまで露骨に表出しなくなったというだけで、消えた、癒えたと第三者が容易く判じられるものではない。
     藍染離反後しばらくは、以前の天真爛漫な表情は影を潜めていたが、平子が五番隊の隊長に就任してからは徐々に取り戻されていったように見えた。しかし、風に流された燻んだ雲が陽光を遮るように、今も時々影が差す。
     阿散井は翳った雛森にどう接すれば良いのかわからず、ただ触れずに置いておくことしかできない自分にやるせなさを募らせていた。
    「お弁当、せっかく作ってもらったんなら堂々と食べたらいいのに。朽木隊長公認の仲なんでしょ?」
     話に一区切りついたと見て、雛森は阿散井の手元の弁当を両手で示した。
    「……おう」
     阿散井は照れ臭そうに幾分不恰好な握り飯を頬張り、「話を戻すぞ」と仕切り直した。
    「吉良は干し柿でも押しつけねえ限り喜ぶから安心しろよ。難しく考えることなんざ何もねえよ」
     乱暴に聞こえる答えに、雛森は眉を顰めて笑った。
    「ええっ? 時々贈り物受け取りながらほっぺ引き攣ってることあるじゃない」
    「そりゃ十二番隊だの乱菊サンあたりから尖った趣味のモン渡されてる時だろ」
     お前から貰える物なら何だって喜ぶって意味だよ。
     阿散井は喉まで出かかった文句を呑み込み、鈍い同期を呆れ混じりに見遣った。
     六十年以上幼馴染を想い続け、やっと振り向かせた自分には及ばないが、吉良もなかなか根性がある。
     ——いや、そうか?
     阿散井は胸の内で呟いたそばから前言を撤回した。
     学院生時代から現在に至るまでの吉良と雛森を見守っている立場としては、煮え切らない同期二人の関係には焦れに焦れている。
     吉良には雛森を振り向かせるつもりが無いとしか思えない。そのくせ、いつまでも雛森を気にしているのが透けて見えて、傍から見ていると無性にやきもきさせられる。
     あれだけ想っていながら、たとえ雛森が他の男と結ばれたとしても「お幸せに」とでも言ってのけそうな一見涼しい態度をとっていることも、阿散井の癪に障る。
     眉間に皺を寄せている阿散井をよそに、雛森は「そうだ!」と話し始めた。 
    「贈り物と言えば、阿散井くん、あたしが療養してたときに早咲きの桜をくれたよね。嬉しかったの、とっても」
    「いつの話してんだ……改まって言うことでも無いだろ」
     阿散井は火照りかけた顔を湯呑みで隠すように茶を呷った。
    「自分が何を貰ったときに嬉しかったのか、思い出してたの。おかげさまで、ちょっとひらめいたかも」
    「そいつはなにより」
     他人に感謝し褒めるうちの半分ほどでも、自分を肯定する気持ちを持てないものだろうか。
     気の利いた言葉が思い浮かばない自分がもどかしかった。 
    「いつまでも油売ってたらいけないよね。休憩中だったのに長居してごめんなさい。ゆっくり味わって食べて……ってあたしが言うことでもないか」
    「へいへい。変な気回す必要はねえが、ルキアとの件は口外厳禁で頼むぞ」
    「肝に銘じます! ではではお邪魔しましたっ」 
     満面の笑みで手を振って、雛森は執務室から去っていった。
     あの明るさは本心からなのか、繕ったものなのか。
     障子越しに遠ざかる小さな影を、阿散井は溜息を吐いて見送った。
     雛森にかける言葉なら、自分などより数日後の誕生日の主役こそ豊富に持ち合わせているだろうに。
    「逆もまた然りだけどな……」
     難儀な友人二人を想ってごちた後、阿散井は静かな昼食を再開した。

       * * *




     今年も三月二十七日が終わろうとしていた。 
     吉良イヅルがこの世に生を受けてから、数え切れぬほど繰り返しこの日を迎えてきた。
     まさか、生命活動を停止してからも迎えることになろうとは思ってもみなかったけれど——と死後初めての誕生日にコメントし、場の空気を凍りかせたことを吉良は思い出した。
     フードを被って仰ぐ月は、刀疵に似て鋭利で白く美しい。
     地上で何が起きたとしても、夜空は変わらない。自分達が知らぬうちに星も生まれたり消えたりしているのだろうが、よほど大きなものでない限り日頃の暮らしに影響はない。 
     上司の影響を受けているようでなんとなく癪ではあるが、インスピレーションというものだろうか。今夜の月で良い句が詠めそうな気がしてくる。
     誕生日だからといって、特別なことなどなくていい。何気ない日常こそ尊いものだ。 
     明かりの落ちた三番隊隊舎に無事に帰投すると、吉良は執務室に向かった。
     
    「ハッピーバースデー、イヅル‼︎ おめでとう! そしておかえり!」
     夜の静寂を破った突然の炸裂音と高らかな声に、反射的に肩が跳ね上がった。
     ご丁寧に霊圧まで消していたことに、吉良は呆れ混じりの溜息を吐く。
    「驚かせないでください鳳橋隊長。心臓が止まりました」
    「サプライズってやつさ! でも、リアクションに困る冗句は止してくれよ! 謝るから!」  
     不意打ちへの意趣返しが成功して溜飲を下げると、吉良は被っていたフードを払った。
     せめてもの礼儀として、謝辞を述べる。
    「その、ありがとうございます。まさかとは思いますが、このためだけに残っていらしたんですか?」
    「勿論そのまさかだよ!」
     予想していた答えではあったが、吉良は絶句した。自分のために貴重な時間を割いてくれた上司に抱く感情ではないと頭では理解しつつも、物が言えなくなる。
     もう間もなく日付も変わるような時間帯である。そしてそんな時間にも関わらず、異様に上司のテンションが高いことにも戸惑いを禁じ得ない。これが俗に言う深夜テンションなるものか。
    「だってイヅルの一大イベントだよ? 年に一度しか来ない日なんだよ? しっかりお祝いしたいじゃない。イヅルなら、遅くなっても隊舎に戻って記録や明日の業務確認に来るだろうと思ってさ」
     ともに仕事するようになってから数年が経つ。お互いにある程度行動パターンは把握してきている。 吉良も鳳橋が今日残っているのでは、ということは薄々察してはいた。しかし、そう口にすると「期待してくれてたの?」から面倒な会話パターンに嵌まりかねないため、絶対に言うまいと吉良は心に決めている。
    「今日はイヅルの誕生日だと思うといつにも増してインスピレーションが湧き出てきてさ! 作曲に耽っているうちに夜が深まってしまったせいもあるんだけどね。それでは聴いて——」
    「お気持ちは大変嬉しく光栄の至りに存じますが夜間の演奏は近隣への迷惑になりますのでまた後日にお願いいたします」
     ノンブレス……と溜息混じりに呟きながら、鳳橋は構えた愛器を力無く下ろした。
    「せっかくイヅルと同じ日に生まれた曲なのに」
     吉良は自分の言ったことは間違っていないと確信しているが、罪悪感を覚える台詞だった。
     無邪気というのは、本当に厄介である。
    「まあ、ボクのプレゼントは音楽だからいつでもあげられるし、良いんだけれどさ。ボクが皆から預かったものはちゃんと受け取ってもらわなきゃね」
     鳳橋はおもむろに書類の山を脇に避けた。
     書類の影から、上質そうな紙や風呂敷で丁寧に包まれた品々が姿を現す。
     吉良は「あの書類は既に然るべき処理が為されたものなのだろうか」という疑念も横に置き、ひとまず鳳橋の言葉を待った。
    「他所の隊からもたくさんの人が来てくれたんだよ。眠八號ちゃんも『十二番隊代表で来ました』って届けに来てくれたし」
     嗚呼、あの山積している膨張した箱はそれか、と吉良は遠い目をした。また飲料の缶だろうか。
    「隊士以外にも阿万門のご令嬢がお忍びでいらしたんだ。君に会えなくて残念がっていたから、後で挨拶すると良いんじゃないかな」
     人と会わない誕生日は煩わしさから離れられて良いと思っていたが、厄介なことを先延ばしにしただけだったか。
     明日以降のことに思いを馳せ、吉良は嘆息する。無論、祝意を伝えられて有り難くない訳はなかったが。
     一年の中でもとりわけ感傷的になる一日ゆえに、心を鎮めてひとりになりたいとも思った。他方で、こうして自身を想う人の心に触れて、求めていたはずの孤独に浸りきれていなかった中途半端な己にも気付かされる。
    「同期の副隊長の面々もプレゼントを持ってきてくれているよ。君宛てにって預かっているんだ」
     平静を保っていたいのに、意に反して吉良の胸がざわついた。
     薄緑に透ける硝子の花瓶に生けられた、ほんのり赤みを帯びた白い花をつけた枝。瓶口下のくびれには、赤いリボンが結ばれている。分かれた枝のうち一本には、細く折り畳まれた薄桃色の紙が括られている。そこに見覚えのある筆跡で認められた、宛名たる自分の名前。
     吉良は背を屈め、何気なく枝先に綻ぶ花弁を見た。
     桜、いや、桃——?
     遠目に眺めた際は桜だと反射的に結論づけた。春分を過ぎた頃に咲く淡紅色の花といえば、真っ先に思い当たるのは桜である。しかし、目の前の花は見知った五枚の花弁ではなく、八重咲で桃に似たふわふわと嵩のある花弁をつけている。八重咲とはいえ、巷で見かける八重桜ほど派手な襞は持たず、色味もより淡い。
     その昔、この時期に咲く薄紅色の花達の見分け方を誰かに教わったはずだった。確か、桜ならば花弁の先に切れ込みがあるという。この花には浅いものの切れ込みがある。覚えている知識が正しければ、これは桜なのだろうか。もし桃だとしたら、それはどんな意図で贈られたものなのだろうか。
     吉良の内で春嵐が起こる。
     鳳橋は吉良の背中越しに花を見遣った。
    「その辺に咲いている桜とは違うよねえ。桜とか梅とか桃とか、似てると思ったらみんなバラ科だし、そもそも桜じゃなかったりするのかな」
     湧き出る恐れと期待を鎮めて、吉良は尋ねた。
    「雛森さんは、何て」
     鳳橋はふふ、と笑みを孕んだ吐息を溢して口元を綻ばせた。
    「彼女自身ずっと気になっていたそうだけど、自分では何の花なのかわからないから、イヅルに教えてほしいそうだよ」  
     先程軽口を叩いた通り、とっくに心臓は止まっているはずなのに、胸のあたりがきゅう、と締め付けられるこの感覚は、どんな機序に依って生じるのか。
     耐えるようにして、吉良は握り締めた左の掌に爪を立てた。
    「さあて、持ち帰るにはなかなか大変だろうけど、どうする? ここに置いておいてもいいよ?」
    「職場を私物で圧迫するのは気が引けますし、持って帰れるものは持って帰ります。十二番隊のは分配しようと思いますが」
     吉良が桜に手を伸ばしたのを見て、おや、と鳳橋が口を挟んだ。
    「桜っぽい子も連れて帰る? 彼女、イヅル宛のプレゼントがたくさんあるのを見て、荷物になったら申し訳ないからって、花束にしていたのを解いて生けてくれたんだ。イヅルは事務仕事している時間も長いし、ここに置いておけば仕事中の癒しになって良いかもってことで雛森副隊長とは意見が一致したんだけど」
     少しの間花を見つめてから、吉良は花弁を散らさぬよう、丁重に花器ごと抱き上げた。
    「持ち帰ります」                                                     
        
       * * *


     吉良は不恰好な出立ちになりながらも、宣言通り、運べるものはすべて自室に引き取った。肉体を改修されて膂力が増したことがこんな場面で活きるとは。何とも言われぬ思いになりながら、贈り物達を部屋に下ろしていく。
     元々整理整頓には気を配っている方ではある。酔い潰れた際に阿散井や檜佐木によって自室に運ばれることもままあるため、余計な物は極力置かないようにしているが、散らかるのは一瞬だ。
     人からの想いが形をとって目の前に並べられると、洒落のようだが重いものだ。
     品物達をひと通り置ける場所に置いてから、月の光を仄白く透かした花に向き合った。
     文机に置くと、微かな甘い香りが吉良の鼻をかすめた。
     吉良は万が一にも落とすことのないようにと、枝から外して懐に納めていた手紙を取り出す。 
     彼女の手で綴られた自分の名前を目にしただけで心が騒ぎ出すのだから、我ながら簡単で笑ってしまう。
     吉良は恐れと期待でうまく機能しない手を動かして、解いていく。
     薄桃の紙の上に、紫紺がかった嫋やかな筆致の文字が踊っていた。決して長い文章ではなかった。
     祝意、労わり、励ましの想いを、軽い文体で重荷にならないよう心掛けて載せていることが見てとれた。
     一語一語に言外に秘めた想いが含まれているようで、噛み締めるように何度も目を走らせる。
    『もしも何の花かわかったら、用事のついでにでも教えてください』
     雛森に気を遣わせていることへの罪悪感とともに、この手紙を書いている間、確かに雛森が吉良に想いを馳せてくれていたのだという事実が、幸せだった。
     彼女が自分のためだけに施してくれたというだけで、あらゆるものに特別な意味が付与されてしまう。
     職場に飾っておくのも悪くない。他者からすれば何の変哲もない春の花であり、それ以上でも以下でもない。
     けれど、自分以外の誰かの目に晒され続けるのだと思うと、どうにも堪えが利かなかった。
     せめて花だけでも手元に置いて独り占めしていたいだなんて。
     この想いは届かないし、届かない方が良いものだ。
     それでもせめて、想うことだけは赦されたかった。
     吉良は書棚に目を滑らせ、目当ての一冊を取り出す。花に関する言語表現に特化した辞典であった。句作の助けになる書籍を探していた折、季語にあたる花を調べられるほか、その花に関連する慣用句や花言葉も収録されているこの本が目に止まった。贈答の折にも役立つだろうと購入を決め、今も度々開いている本だった。
     まずは桜で引いてみる。桜も多くの品種があるため、そのすべてを網羅しているとは思えないが。
     次に桃の頁を捲る。
     花言葉の欄を見て、吉良は苦笑した。
    「有り得ない」
     たとえこの花の正体が何であったとしても、構わない。
     自分と話したいと言ってくれているのが、吉良は素直に嬉しかった。もしかすると、吉良が俳人で花にも通じている可能性を踏まえて、あえて深読みできない花を選んだのかもしれない。
     文机に据わった桜を眺め、手紙を掻き抱くようにして眠りに就いて、吉良は誕生日の夜を越した。
     二ヶ月少々先に待つ彼女の誕生日に、自分がどう振る舞うべきか。ひとつ悩みが増えてしまったと思いながら。  
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    sheep_lumei

    DOODLEサンポと星ちゃんが色々あって二人で買い物に行く羽目になる話 宇宙ステーションヘルタの「不思議なコーヒー」の話が少し含まれます
    作業スペースで書いた落書きなので誤字脱字とか普段より多いかも あとコーヒーがベロブルグにあるかは忘れたけど無かった気もする あるっけ ないか まあ知らん……
    コーヒーと服と間接キス「あ」
    「え」

    ベロブルグの街角で、星はブラックコーヒー片手に呑気に歩いていた。前に年上の綺麗なお姉さんたちがコーヒー片手に街を歩いていたのが格好良くて真似してみたかったのだが、星は開始十秒でその行動を後悔する羽目になる。

    ベンチでブラックコーヒーを堪能するために角を曲がろうとした瞬間、勢いよく角の向こうから出て来た人影とそれはもう漫画やドラマで見るくらいの綺麗な正面衝突をした。違う。綺麗な、というより悲惨な、が正しい。考えて見てほしい、星の手には淹れたてほやほやのコーヒーが入っていたのだ。

    「っ!? ちょ、あっつ、熱いんですけどぉ!?」
    「ご、ごめん……?」
    「疑問形にならないでもらえます!?」

    勢いよく曲がって来た相手ことサンポの服に、星のブラックコーヒーは大きな染みを作ってしまったのである。幸いにも何かの帰りだったのか普段の訳が分からない構造の服ではなくラフな格好をしていたサンポだが、上着に出来た染みはおしゃれとかアートとか、その辺りの言葉で隠せそうにはないほど酷いものになっていた。
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