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    Lfio

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    速村

    きみとたべごと 身体の熱が冷めた頃、微睡からもまた覚める。くるまったシーツから顔を出すと、いつの間にか隣には丸くやわらかな白くまの抱き枕があった。名はラッキーと云うらしい。もちろんあの男が買ってきたものだ。
     俺がいないときでも、先生がさびしくならないように。そう言って、両手でぎゅう、とくるみながら。いとけなくわらったその顔は、いままでに見た表情の中でも、際立ってうつくしいひとつだった。
     身を起こすと、部屋は肌寒かった。纏うもののなくなった肩が震えて、かちかち歯が鳴った。ベッドの横を見下ろすと、脱ぎ捨てた服が床で皺になっている。手を伸ばそうとして、やめた。
     もう一度シーツにくるまって裾を引きながら、幽霊みたいに床へと下りた。一人掛けソファの横のチェストに、昼に洗って干したばかりの浴衣が畳まれているのを思い出したのだ。袖を通して帯を締めると、南国みたいな柔軟剤の香りがした。最近切り替わったばかりのそれは、まるでずっとそうであったみたいに、知らぬ間に感覚に馴染んでいる。
     体温が少し戻ったら、思い出したように腹が鳴って、キッチンへ続く廊下を見た。僅かに開いたドアの向こうからオレンジの光が鋭角に差して、それと同時に誘うような食べ物のにおいが漂ってきた。
     まるで、見透かされているみたいだ。それが少し悔しくて、負けたくないと思うけれど。なにせ、足が勝手に歩き出していた。そういうことにしておいた。

     棺桶のような1LDKには、男が転がり込んできてから、少しずつ物が増えていった。ベランダで野菜を育て、玄関の一輪挿しに花を生け、リビングの壁に絵を飾る。男はそういう人間だった。
     モノクロがカラーになっていく感覚。それはそのまま、生活感と言い換えられた。同じ空間で、自分以外の誰かが生きている。それだけで、ささやかな活力が満ちる。野菜の売り場でたっぷり迷って、いちばん良いものを選び取る指先が、それを連れてきてくれたのだと思う。
     足音を忍ばせてキッチンを覗き込むと、濃藍のデニムのエプロンをつけて、真剣にまな板に向き合う姿がある。それが本職だからだろうか。普段はふわふわとしているくせに、キッチンに立つと、目に見えて空気が変わった。
     きびしい顔をするとか、とげとげしくなるとか、そういうことではなく。万華鏡みたいにくるくる変わる表情が、その時ばかりは凪いでいた。
     背筋をしゃんと伸ばして、目の前のものたちと真摯に向き合おうとする在り方。それは竹刀を構えて相手に立ち合う時の、あの感じに似ていると思う。
     磨がれたナイフのうすい刃が、流れるようにトマトを切っていく。同じ調子で乳白色の丸いチーズも等間隔にスライスする。白い陶器皿にそれらを交互に並べて、ベランダで育てているみずみずしいバジルの葉を添えた。つやつやと澄んだ緑のオイルボトルを手に取って、その上に慎重に傾けると、魔法みたいな軌跡を描いて、シンプルなその一品は宝石細工に似た彩りを帯びた。
     口許がふわりと緩んで、顔を上げた男と目が合う。
    「せんせー、起きたの」と、タオルで手を拭いながら、綿毛みたいな声がした。
    「ええ、少し肌寒くて」
     そう答えると、仔犬のように走り寄ってくる。育った文化圏の違う男は、抱きしめることに躊躇いがない。
     あっためてあげる。そうして与えられた温度に、背中に手を回して応えた。些細なふれあいに込められた機微がいまだに分からぬような身でも、それくらいは出来るようになった。けれど、必死に色恋沙汰の真似事をしている自分自身に、まだ戸惑うことのほうが多かった。
     それでも包み込むような腕を、正しくあたたかいと思う。甘えたように頬を擦り付ける男からかすかに上る、自分と同じシャンプーのにおい。これはきっと、いとおしいと表現するのにふさわしいものなのだと思う。
     その時、ぐう、とまた腹が鳴った。あまりの色気のなさに、我ながら苦笑してしまう。すると目の前の蒼い瞳が、知っていたみたいにわらった。
    「待ってて。すぐにできるからね」
     そうして、男は後ろを振り向く。オーブンに点るかすかな明かりと、くつくつと控えめに音を立てる小鍋。程なくして、計ったように、ピピ、と電子音が鳴った。

     川辺で初めて会った次の日の夕方だった。あおうね、と告げた言葉通り、男は私に会いにきた。他でもない、この家の玄関にである。
     背中のリュックと両手いっぱいの荷物とエコバッグを下げた男は、とびきりの甘い笑顔で、よろしくおねがいしますと言った。まるで訳がわからなかった。素人が書いた小説の導入だって、もっときちんとした段階を踏むのではないかと思う。どう考えても、まともではない。けれど、真っ向からはねつけるには惜しいと思った。日常から離れた物語を綴るのが常だから、こうして形を成して訪れた非日常には興味を惹かれてしまう性なのだ。
     さて、どうしたものか。そう悩んでいると男は、とりあえずごはんつくるね、と、すたすた家に上がり込んできた。ごはんをつくると言ったって、キッチンには何の器具も置いていない。据え付けのコンロと、中にミネラルウォーターと栄養ドリンクだけを転がした、ほぼ空の冷蔵庫があるばかりだ。慌ててそれを説明すると、男はだいじょうぶとウインクして、背中のリュックをからんと揺らした。
     男の荷物のほとんどは、丁寧に使い込まれた調理器具だった。それとエコバッグの中から次々取り出した彩り鮮やかな食材で、瞬く間にふたり分の夕食を作り上げてしまうと、男はがらんとしたダイニングをきょろきょろ見回して、それらの置き場所を探した。
     テーブルは?
     ありませんよ。
     面食らった様子の男が、まるく目を見開く。
     じゃあ、買いに行かなきゃね。
     当たり前の明日を語るようなことばと、漂う味噌汁のにおいにつられて、気づけば頷いていた。
     それから男はずっと、ここに住まい続けている。気ままに過ごして、料理をつくって、時折ふらりとどこかへ出かけた。仕事はしているらしいが勤め人ではなく、文字通りの自由業であるらしい。
     一度ブログの更新の際に興味本位で検索をかけてみると、六桁のフォロワーを持つ見栄えの良いインスタグラムのアカウントが出てきて、そこには日々食卓に上がる料理の写真が並んでいた。
     容姿も料理のセンスも、おまけに性格まで良いとくれば、舞い込む仕事には事欠かないのだろう。無名の物書きが住まう北向きの寒い部屋に収まる男には到底思えない。けれど何度聞いても男はここがいいと言って憚らず、いまも毎日少しずつ物を増やし続けていた。
     そんな男と過ごすうちに、暮らしぶりはかなり様変わりした。衣食住の食の部分において、それはとくに顕著だった。ひとりでいた頃は食べることに対してあまりに無頓着であったのに、食べる場所と相手ができてからは、ずいぶんと華やかにものを食べている気がする。
     そうした日々の中で実感したのは、食事とは命を繋ぐために必要な栄養素を摂取するだけの作業ではないということ。食べるものの見た目や味、食卓を囲む相手や交わす言葉で、何気ない日々を彩る幸福のかたちそのものになり得るのだということだった。
     だから、無駄のひとつと切り捨ててばかりいたその時間を、私は少しだけ好きになった。
     そして、それを教えてくれた男のことも、同じように好きになったのだと思う。

     男が来て真っ先に増やしたダイニングテーブルに向かい合う。あたたかな色の灯りが落ちる下で、いただきますと手を合わせた。
     色鮮やかなカプレーゼに、揃いのスープマグに満たされたコンソメのスープ。ふたりの間に置かれた木の大皿には、ざくざく切られてパセリを振った、ほんのりあたたかいバゲットが並ぶ。その横にはプロシュートとスライスして黒胡椒を振った林檎が添えられており、二つ置かれたガラスのココットにはオリーブオイルと、アンチョビのディップが注がれていた。そして、メインディッシュと思しき赤い耐熱皿には、ぱりっとした焼き目のついた手羽先の香草焼きが堂々と鎮座している。
     洒落たワインが似合いそうなものだが、あいにく男はまだ酒が飲める年頃ではない。だからかわりに薄切りのレモンを浮かべた水が、ピッチャーに満たされていた。
     文句のつけようがない、完璧な食卓だった。
     そう、ただひとつを除いては。
    「先生、どうしたの?」
     湯気の立つスープに口をつけながら、男は楽しげに頬杖をつく。分かっていて聞いているのだから、たちが悪い。
    「いえ、なんでもありません」
     精一杯涼しい顔をして、袖を肘まで引き上げる。裾を左手で押さえながら、少しばかり横着をして自分の箸で肉を取った。取り皿に乗せて睨み合ってから、結局そのまま箸を選んでおそるおそる持ち上げる。
     骨のついた肉だとか、皮をむいて食べる果物だとか、そういった食べ物が苦手だった。触れた場所すべてが、べたべたと汚れて煩わしい。それに加えてそうしたものには、まだどことなく生きた気配が残っているように思えた。生きることに然程頓着していないくせに、なにかの血肉を啜ることで生きながらえている自分。いのちの残滓に向き合って歯を立てる瞬間に、それを実感させられるのが、ほんの少しだけおそろしかったのだ。
     香ばしいにおいがして、口の中にシンプルな味わいが広がる。男が作ったものは、何だっておいしかった。しかし、それを上手く食べられるかと言われれば話は別だった。
     案の定、かりかりの皮だけを口に残して、肉がつるりと滑り落ちた。それは派手な音を立てて皿にぶつかり、着替えたばかりの浴衣に油が散った。
     思わず溜息がこぼれた。恨みがましく目の前の男を見ると、これ以上ないほどにこにこしている。そうして手本を見せるように、自分の取り皿に盛った手羽先を両手で掴んで持ち上げた。大口を開け、並びの良い白い歯が肉をかじり取る。それをゆっくりと咀嚼して、ごくりと飲み込む。それを繰り返して、きれいに残った骨だけがナプキンを敷いた籠に収められた。
     何から何まで、うつくしい所作だった。同じものを食べているのに、ここまで違うものかと驚く。この男にこうして食べられて、血肉の一部になるのであれば、誰だって何だって本望であるのかもしれない。そう思わせてしまうほどの凄艶さ。たしかな説得力が、そこにはあった。
     そういえば、歯を立てられたことはまだなかったような気がする。そんなことを思ってしまうと、急に心臓が速くなった。慌てて頭から振り払うと、腹を括って皿の上に横たわる肉を手で持ち上げた。
     食べることを教わったばかりの幼いけものみたいな心待ちで、男の動きをなぞってかぶり付く。オリーブとハーブと、スパイスのにおい。そうして口に含んだ肉は、少し冷めてはいたけれど、先程よりずっと芳醇な味がした。骨つきの肉はやはり、こうして食べるものなのだろう。いろんな場所を汚しながら、不本意ながらも納得した。
     少しずつ時間をかけて、骨から肉を削ぎ取る。ごりごりとした軟骨の食感を嫌って、その周りだけはどうしても残ってしまったけれど。それでも、見咎められないくらいには、きれいに食べられたと思う。
     やりとげたような気持ちで、骨をがら入れの籠に放り込む。男を見ると、ハムを乗せてオリーブオイルに浸したバゲットをざくざく齧りながら、一言「じょうず」と薄色の瞳を眇めた。いったい、年上の家主を何だと思っているのか。
     レストランみたいにケースに収められたテーブルナプキンを何枚も取って、丁寧に油を拭き取る。汗をかいたグラスに口をつけると清涼な柑橘の風味がして、ほんの少しだけ気持ちがほどけた。
    「おいしい?」
    「おいしいです。ありがとうございます」
     赤くきらめくトマトを取りながら礼を述べると、見つめる顔がほころんだ。自分が書いたものをほめられて、悪い気がしないように。この男も自分の生業をほめられることが、きっといちばん嬉しいのだ。
     ああ、でも、ひとつだけ。
    「次はもも肉とかがいいですね。出来れば一口サイズに切ったものを」
     何度目かもわからないリクエストを、さりげなく挟んでみる。思った通り「えー」と間延びした声がして「肉は骨がついてる方がおいしいんだよ」と真面目なトーンで返された。
    「そうですか」と早々に諦めて、バゲットを口に運ぶ。すると、男は手羽先の皿の下に敷かれた鍋敷きを、フォークの先でつつくように押し出した。
    「いっぱい食べてね」
     それはきっと、殺し文句だった。
     はいはい。そう二つ返事をして。私はこの後、また肉を頬張るのだろう。口のまわりも指先も、意地汚くべたべたにして。何度も何度も拭き直して、皿の横にナプキンの山を築いて。
     そうして、生きていくのだと思う。生きていたいと思える。永遠なんて望まないから、せめて、今度は、少しでも長く。
     ベランダに続く網戸から風が入って、あおいカーテンが翻る。ひかりの昇らない空を見ながら、反対側の世界を思う。
     今宵の月も、きっときれいだ。そのまま、溶けてしまいそうなほどに。
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