そして人魚は⬛︎⬛︎になったそれは朝から雨が降っていた日であった。無性にコーヒーが飲みたくなったが家にはインスタントコーヒーの予備すらなく、仕方なくテスカトリポカは近所の喫茶店へと向かうことにした。
雨は嫌いだ。湿度で自慢の金糸はうねるし傘を差すなんて手間がかかる。何よりも少し出かけるだけでも服やら靴やらが濡れるのが鬱陶しくて仕方がない。それに遠くで雷の音までしだした。
悪天候のせいで道にはほとんど人はおらず、マンションを出てすぐの国道を挟んだ先にある海はまるでこの世の果ての様に黒くうねっている。
なんて間の悪い。誰かに買ってきてくれと頼もうかと思ったが、運が悪いことに尽く誰も捕まらなかった。最寄りのコンビニより、スーパーより喫茶店の方が近い。とりあえずコーヒーが飲めればそれでいいし、他の誘惑に流されて余計なものを買うので出来れば近づきたくないというのが正解であろうか。
喫茶店に着く頃には家を出た頃より雨は強くなり、最初は遠くで鳴っていた雷もより強く辺りの空気を振動させる程になっていた。
「マスター、コーヒーをもらえるか。ホットでな」
帰宅するのは雨足が弱くなってからだな……案内された席で煙草に火を着けながらテスカトリポカは窓に打ち付ける雨粒を見つめていた。
(中略)
「……オマエさんがなんでココにいるんだ」
テスカトリポカが起き上がった際に驚いて腰を抜かしたらしい件の人物はベッドの端の方に居た。
明るいオレンジ色の髪に、蕩ける蜂蜜の様な琥珀色の瞳。紛れもない、昼間に海で遭遇した人魚の姿がソコにはあった。しかし彼女の下半身は人魚特有のソレでは無く、テスカトリポカと同じ人間の脚である。なぜ人間の姿なのかとか、そもそもなぜここにいるのかとか、ともかく疑問が多いが今一番言いたいことは別にある。
「服を着ろ」
(中略)
「こんな色気の無い小娘、こんなのに私が負けるはず無いのにっ!どんなずるい手を使って社長に取り入ったのよ!」
今この状態で全裸で寝床に忍び込んだとは流石に二人とも言えまい……。お互い視線を交わし合い、リツカとテスカトリポカはコクリと頷き合った。
「あの、私ここのお家で住み込みで家事をしているだけなんです。あなたが思っているような事は何も無いです」
この先二人の関係がどうなるかは分からないが、現状はリツカの説明は一切の嘘偽りの無い言葉である。しかし相手は納得する気配は微塵もなく、アバズレやバイタなどリツカが聞いた事もない様な言葉を叫んでいる。しかしながらテスカトリポカや事のあらましを見守っているデイビットの眉間におもいっきり皺が刻まれているのを見る限り自身が酷いことを言われているという事は理解できた。
「オマエ、自分が何したのかわかってるのか」
テスカトリポカがリツカを自身の後ろへと庇うように隠すのを見た瞬間、先程までのまるで業火の様な怒りに燃えていた様から一転して女の顔からは温度が消え失せた。それは何かを察したかの様であった。
「もういいですわかりました」
不気味な程単調に早口で呟かれたその言葉は意味だけをなぞればテスカトリポカのことを諦めたかの様にも思えた。力なく視線を落とすさまは失恋して傷害事件を起こした事を後悔しているのだろうか……そう考えていた彼らの耳に入って来た一言はまるっきり予想外のものであった。
「あなたを殺して私も死ぬことにします」
女が諦めたのはテスカトリポカでは無く生きること――そして後悔などする筈も無い、そもそも最初からソレを最悪の選択肢の一つとしてココに来ていたのだから。
女から出た予想外の言葉と、あんな声高に自身を好きだと言っていた相手がまさか本気で殺しにかかって来るなどテスカトリポカも思っていなかった――故に反応が遅れた。
「――ぐっ」
何よりも覚悟を決めてからの女の行動は素早く、テスカトリポカの腹部に包丁を突き刺すとそのまま非常階段の扉を開け外へと消えて行った。
「ポカさんっ」
「テスカトリポカ!」
(中略)
「私、ずっと嘘を吐いていたんです」
独り言の様な小さな声であったが、二人きりのリビングではその大きさで十分であった。嘘?何に対して?そしてずっと、とは?そうテスカトリポカが問いかける前に、窓側を向いていたリツカが振り返った。
「最初にここに来た理由です。海の神様に恩返しをする様に言われたってアレ、嘘なんです。本当は自分から神様に人間にして欲しいってお願いしたんです」
今宵空に浮かぶは満月。夜を明るく照らし出す月明かりで逆光になっている為リツカの表情を読み取ることが出来ない。しかし言葉を紡ぐ彼女の佇まいはまるで懺悔をしているかの様であった。
「その海の神様とやらに命じられたという訳では無いというなら、なぜオマエさんはオレの元にわざわざ来たんだ?」
「人魚は、夜にしか水面から顔を出せません。日中は人間に見つかってしまうかもしれないから。だから私たちの間で一番光り輝いているの物は月なんです」
自身の質問の答えとは違うがわざわざ人魚の話をしているという事はリツカが自身の元を訪れた理由と関係しているのだろうと判断しテスカトリポカは大人しくそのまま彼女の話を聞くこととした。
「助けてくれたあの日⋯⋯えっと、その。あなたの事を見て思ったんです、月より明るくてきっと太陽ってこんなに眩しいんだろうなって。だから⋯⋯ポカさん?」
リツカの言葉を聞いたテスカトリポカは口許が綻んだのを悟られない様に右手で押さえ込みながらその場にしゃがみ込んだ。
(中略)
そうとだけ言うとリツカの了承を得ることなくあっという間にショートパンツもその下の下着も剥ぎ取られてしまい、リツカの肌を覆うものは何も無くなってしまった。
「ポカさんも、脱いで?」
恥ずかしそうに自身の上着を引っ張るリツカの姿にそのまま自身の剛直を捩じ込んでしまいたいとテスカトリポカは思ったが相手は処女。ここで自身の欲求を優先すれば後々大変な事になるとわかりきっている。少し待っていろ、と上着を脱ぎ捨てると突如リツカが抱きついてきた。
「好き、あなたのことが……テスカトリポカのことが、好き」
「あぁ、オレもだよ」