静寂を歩く 【静寂を歩く】
どうしても眠れない夜というものがある。目を閉じても、すぐに寝れると言われた呼吸法を試しても中々眠気が訪れない。寝る前に刺激の強い物を食べたり、興奮するような映画を観た訳でも無い。ただ理由も無く普段はやって来るであろう眠気がどうして中々訪れてくれないのだ。
カルデアの大多数のスタッフが眠っているであろう深夜の静寂の中、まるで自分だけが独り取り残された様な……そんな気分だった。もう何度寝返りをうったのかも分からない。いっその事誰かベッドの下なり天井裏なりに潜んでいてくれないかと思ったが、なぜかこういう日に限って誰も居ないのである。話でもすれば少しは気が紛れて眠たくなるかもしれないのに。
早く寝なければ、という気持ちは焦りにしかならないしその焦りから余計寝れなくなる。言わば負の連鎖だ。
「……散歩でもしようかな」
日本でいう丑三つ時を回った時間ではあるがこのボーダー内ならある程度の安全は確保されてるであろうし、立香が悲鳴の一つでも上げればすぐに誰かが駆けつけるだろう。パジャマ代わりのTシャツとショートパンツという出で立ちの上にパーカーを羽織ると足元はサンダルだけという軽装で立香は部屋を出た。
パタパタとサンダルの音が深夜のボーダーに響く。静かに響く空調やエンジン音は少し心地が良い。
キッチンの冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを一本拝借するとすぐに部屋へと戻る。珍しくキッチンにも誰も居なかった。
でも少しリラックスは出来た気がするから、部屋に戻れば眠れるかもしれない――そう考えながら歩いていると突如目の前の喫煙所のドアが開いた。
「よう兄弟。こんな夜更けにどうしたんだ?」
中から現れたのは立香の想い人であるテスカトリポカであった。喫煙所から出てきたのもあってか、タバコの匂いが微かにしている。
眠れないからと部屋から出てみたが、思い切った行動をしてみて良かったと立香は思った。
「なんだか寝れなくて。散歩がてらキッチンでお水を貰って来たところなの。そういうテスカトリポカだってこんな時間に喫煙所に居たってことは何かしてたんでしょ?」
例え深夜でもタバコなら自室で吸えばいい。それなのに喫煙所に居たということは彼もこんな時間まで何かをしていたということだ。
「察しが良いな。新しい事業に手を出そうと考えていてな。クライアントと色々打ち合わせをしていたら随分話しが盛り上がって、気がついたらまぁとんでもない時間だった……っていうワケだ」
打ち合わせで盛り上がるとか、誰と何の話をしていたのが気になる所だが下手に首を突っ込まない方がいい事が世の中にはいっぱいあるという事を立香は知っている。だから――。
「そっかぁ、テスカトリポカもお疲れ様」
と労うだけにした。本当ならば彼との話を広げたい、気が有る相手ならばなおさらであったが残念ながらそれは今では無い。今立香が優先すべきは少しでも早く寝ることであるし、テスカトリポカもここでの長話は許さないだろう思った。
「部屋まで送ろう。ここでオマエさんを襲う、なんて命知らずは居ないだろうが突然の侵入者がいないとも限らない。それに、マスターとはいえお嬢も年頃の娘だしな」
会話無く歩く二人の足音が廊下に響く。先程は立香の履くサンダルの音だけだったが今度はテスカトリポカのブーツの音も混じっている。同じリズムで響く異なる高さの音はどこか心地好い。しかも立香の歩く速さに歩調を合わせてくれているので速度も比較的ゆっくりで、身体から緊張が解れていくのがよくわかる。
「ふぁ……。あっ、ごめんね」
「謝る必要は無い。そもそも今のオマエさんの仕事は寝て休息を取ることだ。睡魔がやって来たならそれに越したことはない」
どっと睡魔が押し寄せて来たらしく、先程まで普通に歩けていたのに身体が重たく少しふらつく様になった。欠伸をした事を謝る立香の頭をテスカトリポカが優しく撫でてくれた事が嬉しくて頬を赤らめたら『なんだ、発熱か?』なんて聞いてきたので、この神様は人の心が分からないらしい。
「熱じゃ無いです。でもこれならぐっすり寝られそう……」
先程まで寝れないことを恨めしく思いながら寝返りを繰り返していただけのベッドが今は恋しくて仕方がなかった。しかしマイルームに着くということはテスカトリポカとの時間が終わってしまうという事。ほんの少しでいいから、部屋までの距離がのびて欲しいな……横を歩くテスカトリポカをチラリと見上げる。やっぱりかっこいいな、と立香は睡魔に侵食されつつある頭で考えていた。
立香のマイルームに着くとすぐにルームキーを使って扉を開け部屋へと入る。明かりの着いていないマイルームは暗くて少し怖いけど、後はベッドに戻って目を閉じるだけでなので電気を付けることはしなかった。
「言う必要はないと思うが早く寝ろよ?明日も新たな戦いがオマエさんを待ち受けているんだからな」
「うん、遅くまでありがとうテスカトリポカ。あ、そうだ……一緒に寝る?」
そうは言ったものの、テスカトリポカが話に乗ってくるとは当然思っていない。そもそもマスターである自分は彼にとって若干の贔屓はあったとしても顧客の一人にしか過ぎないのだ……と立香は自分で思っていて悲しくなった。しかし事実は事実、そもそもこんな色気の無い誘いに乗ってくる相手とも思っていない。
「はぁ……お嬢さん、そういうのはもう少しばかり大人になってから言うんだな」
顧客どころか完全に子供として扱われた……確かに神様であるテスカトリポカからしたら人間である立香は子供かもしれないがまるで幼子に言い聞かせるかの様ではないか。
「子供扱いとか酷い」
「早く寝ろ。今だってまた欠伸しそうなのを我慢しているだろ。寝不足で不甲斐ない戦いを見せるようなら……わかってるよな?」
わかっています、と言わんばかりに立香が首をブンブンと縦に振るとテスカトリポカは満足気に笑いながら再び立香の頭を撫でた。やはり完全に子供扱いだ。
「遅くまで付き合ってくれてありがとう、明日……じゃないか今日もよろしくね。おやすみなさい、テスカトリポカ」
「……あぁ、おやすみ」
テスカトリポカがそう返すとマイルームの扉はすぐに閉められた。パタパタとサンダルの音が入口から遠ざかって行くのでベッドへと直行したのだろう。あの様子ならきっとそのまま朝まで起きることは無さそうだ。
静かな廊下に一人残されたテスカトリポカは大きく溜息を吐いた。
「ったく、あのお嬢さんは無意識なのかねぇ」
添い寝の誘いよりも最後のおやすみなさいの方がグッときたな――。先程の立香を思い返しながらテスカトリポカは髪をかき上げた。困ったもんだですよ、まったく……そう呟きながらテスカトリポカはもう一度タバコを吸うために元来た道を引き返すのであった。