あ「あ」
手から滑り落ちたそれは、床にぶつかって、あっけなく崩れてしまった。
私の手には、一瞬前までシャーレが乗っていた。その中には、体細胞核を移植した卵子から発生した小さな小さな胚。ある程度育ったそれを、培養液に移すところだった。足を滑らせた訳でも、何かに驚いた訳でもない。するり、と手からいなくなっていたそれは、床で悲惨にも飛び散っていた。
「あーあ、命、一個壊しちゃった…」
「早く拭きなよ。その汚れ、乾くと落とすの大変だからさ」
「分かってるよぉ」
私はkimタオルを何枚か取って、飛び散った細胞を搔き集める。胚を浸していた羊水か、細胞から出た液か、どちらか分からない液体が白い生地に染みる。ペーパータオル越しに触れる細胞は柔らかく、粘液が伸びてベトベトしている。私が不注意で落とさなければ、こんな姿にならずに、立派な生命でいられたのに。せっかく形になっていたそれは、半分つぶれて、べたついた塊になってしまった。細かく飛び散ってしまった細胞を、一つも漏らさないように、丁寧に丁寧に床から救い出す。
「ごめんね」
ここまで大きくなってくれたのに。次の培養液に行ける子は中々いないんだよ。大体、途中で発生を止めちゃうの。だから、君は、凄かったんだよ。ここの研究室じゃエリートだった。毎日、君が大きくなっていくのが楽しみで、凄く嬉しかった。君は、もっと大きくなりたかったのかな。分かんないよね。ごめんね。でも、私は、君がもっと大きくなって、君とお話するのを、とても楽しみにしていたよ。
一度今回収したものをゴミ箱へ捨てる。ネバネバと滑る体液は回収出来なかった。もう一度、大量のペーパータオルを持って、床を綺麗にしに行く。緩やかに床に広がろうとする液にペーパータオルを当てながら、今日の予定を頭の中で確認する。午後から会議があるから、胚の移動と核の仕込みを午前中に終わらせて…あ、恒温槽の温度も確認しなきゃ。最後の一掬いになった元胚を両手で丁寧に拾い上げる。
「ばいばい」
ゴミ箱に沈む白い塊。それを見届けて、仕上げに床をエタノールで綺麗に拭く。これで床に汚れは残らないだろう。
さて、別の胚を移す作業に戻らなきゃ。その前に、この子のことノートに記録しないと。あーあ、きっと怒られるだろうな。貴重なサンプルを不注意で、なんて気が重い。下手すると減給かも…。でも、まだ、数はいっぱいあるから、それで挽回しよう。
先ほど胚が散らばった床を踏みしめて、研究員は次のクローンの培養に勤しむ。