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    6wound

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    6wound

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     ◆


     このドアの前に立つのは初めてってわけじゃない。つうか、何度も何度も、つまりその、数えきれないほど立ってる。ストーカー? ああ、なんとでも言えばいい。その点については筋金入りだ。いまさら気に病むような俺じゃない。情けない音をたててドアを叩いたはいいが、中から返事があるなり踵を返した日があった。どうにかして振り絞ったなけなしの勇気が直前になってしょぼくれ、ノックすらできない日もあった。ピンポンダッシュよりかはマシだが、どっちも最悪っちゃあ最悪だ。ここへきてからの俺は、そんなことを毎日毎日、くり返していた。
     素っ気ないドアだ。チンケなドアだ。それでもこの中にいる人が誰かと考えるだけで、一気にドアに神々しさが帯びてくる。ドアは城門のように重く、固い。スカイア門に勝るとも劣らない。それを今から開けてやろうというんだから、まったく今日の俺は相当にヤバい。カリブ海の暑さで脳ミソが沸騰し蒸発したのかもしれない。だとしても、残りがどのくらいかは知らないが、俺の脳ミソはドアを開けるという選択のみを示している。だから俺はドアを開ける。大きく息を吸って、今日こそは――と。



     ◆◆


     カリブ帰りの俺たちを出迎えたのは、一言でいうと「キラキラした」ヤツらだった。
    「わ! おかえりなさいマスター! お土産ありますかぁ?」
    「チッ、教授の話ならもうお断りだぞ。あの浮かれた格好のバカに散々……聞かされたからな。まったくクソ面白くもない……俺はあいつよりも早く、長く教授といたんだ。あいつはそれを忘れてるんじゃないか? 先生はこうだから先生はああだからとうるさくてかなわん。ンなこと知ってるっつうの! それで? この私に渡すラム酒はどこだ? まさかとは思うが、のこのこ手ぶらで戻ってきたのではあるまいな?」
     ――眩しい。べつに金髪だからってわけじゃないんだろうが、なんでこうも眩しいんだ。服か? 装飾品か? 男神の寵愛ってやつか? なるほど俺にはそのどれも、ない。持ち主と同じ性質に違いない陰気な眼球を守ってやるため、俺は目を細める。このキラキラ眩しい二人とは、ギリシャでずいぶんと行動を共にしたらしい。らしいが、その俺はこの俺じゃあないわけで、つまりこの眩しさに対する耐性は今の俺にはゼロだ。丸い羊を撫でながらニッコリ、ピッカピカの笑みを浮かべるパリスと、物理的に眩しいイアソン船長。生前は絶世の美男子だったと名高きパリスだが、あれはもはや犯罪級だ。「パリスちゃんの全盛期は今だよ」と可愛さだけで現界時期を決めたっていうあの羊のセコム、かなりヤバいヤツだと俺は思ってる。で――船長のあれはいったい、なんだ? ゴージャスなアクセサリー類に加えて今日は頭に羽根までついてるが、俺にはちょっと理解できねえ。キラキラってギリシャのトレンドか? ったく、マジで何ワットあんだよこの二人――俺は二人が発する光量から逃げるようにして、マスターの後ろにこっそりと隠れる。盾にしてすまんマスター、こう詫びる気持ちが生まれんこともないが、コミュ力クソ高めのこの人はきっと、ダメージなんて食らわないだろう。強い。

    「この私にきて欲しかっただと? ふざけるな! 下品な海賊どもと船を並べるなど……」
    「なにを言っている。あの黒髭やマスターが出発した後、なぜ私を呼ばない、船長といえばこの私だろうと……飲んだくれていたのは汝だろう」
    「げっ、アタランテ」
    「セイバーだからなのか? と呪言のようにくり返していたな。それで結局……」
    「だああっ! 黙れ黙れっ」
    「あの船医に偉そうに演説をしてみせた結果があれではな。私たちは楽しませてもらったが」
    「……そういえば貴様ら、誰もあの看護婦から私を助けようとしなかったな」
    「へえ~……クリストファーくん、ですかぁ。え? けっこう可愛かった? あのコロンブスさんなのに?」
    「心配ないよパリスちゃん。世界で、いや宇宙で一番可愛いのは君だからね」
    「――宇宙イチ、か。たしかにお前さん、オリオンに宇宙までブン投げられたようだしなあ。パリス」
    「おや皆さんお揃いで。アキレウスはこのネタがお気に入りなのです。なんでも、自分の踵を射抜いた矢の放ち手が矢になった、これが非常に愉快とのことで。自分も見たかったといつも……」
    「ア、アキレウスー! 僕の大活躍をネタにするなっ!」
    「実際のお前じゃないだろ」
    「そ、そうだけど……」
    「ねえケイローン、アキレウスを軽率にパリスちゃんに近づけないようにしてくれる? 頼むよ。私たちってほら、親戚じゃん? そのよしみでさ」
    「ええ、そうですね。すみませんパリス。ひとつの物事に執着しないよう教えたのは間違いないのですが、ここまで割り切れる子に育つとは……正直想像できませんでした」
    「おう。先生の教えは今でも全部、覚えてるぜ! 一字一句漏らさずなァ!」
     マスター、パリス、イアソン船長の三人は、しばらく楽しげに談笑してた。もちろん俺は参加していない。つうか、できない。そのうちアタランテさんや渦中の師弟もやってきて、パリスの頭を撫でたり船長のケツを蹴ったりとまあ、大騒ぎ。よっしゃ、チャンス――この好機をみすみす逃してなるものかと、対魔力・騎乗と共に確実に備わっているはずのスキル(なんで備わってないのか、未だに理解できねえ)、気配遮断を発動してこっそりと輪の中から抜け出した。それに気づいたのはおそらくマスターだけで、あの人は一瞬「あれ?」という顔をしたものの、黙って俺を見逃してくれた。
     マスターのこの対応には、心底感謝した。コミュ障だから陽キャの集まりにいるのがしんどい、これはもちろんあった。だが、単純に俺は疲れすぎていた。サーヴァントだって疲れは感じる。おそらく。俺の場合は肉体的にというよりは精神的に、という感じだが、他のサーヴァントたちがどうかは知らない。なにしろ、そこまで突っ込んだ会話をしたことなんて誰ともない。一度もない。今度、マシュにでも聞いてみるか。や、あの子はデミ・サーヴァントだからちょっと違うか。つっても他に気さくに会話できるサーヴァントなんて俺には――こんなことを考えながら、じわりじわりと後退していく。
     ワット数かなり高めの輪の中から完全に抜け切り、ほっと一息つきかけたとき、またマスターと目が合った。俺は一瞬ぎくりとするが、マスターが短く片目をつぶって合図してくれた(あれはひょっとするとウインクってやつだ。初めて見た)ことで、肩の力を抜いた。
     なんでもギリシャで俺とあの人は、ト、トモダチになったらしい。「マイフレンド!」と泣きながら抱きつかれたときには面食らったが、後にマシュからギリシャでの出来事を聞かされ今度は絶句した。その、いろんなもの、すべてにだ。俺の驚きリスト、その項目すべてを並べ立ててたら丸三日はかかりそうだから、今はやめておく。それでもとにかく俺は――目玉が飛び出して二度と戻ってこないんじゃないかと思うくらい、驚いたんだ。ま、そんだけ。さっさと部屋に戻って寝よう。

    「ねえねえパリスちゃん? あのこと、マスターに言うんじゃなかったの?」
    「あのこと? うーん……あっ! そうでしたアポロン様! 危ない危ない、忘れるところでした」
    「ウッカリさんなパリスちゃんも当たり前だけど可愛いね。でもねパリスちゃん、私はね、べつにあの男のことなんてどうでもいいんだよ。どっちかっていうと苦手。なんか監視されてるみたいな感じしない? 私を見るアイツの目」
    「え~? そうですかぁ? 僕にはそんなふうには見えないです」
    「そうかなぁ。まったく、こんな姿じゃもう円盤投げなんてできないんだから、心配しないでいいのにね」
    「アポロン様、またそのネタですか……もう飽きましたよぉ」
    「そう? そんなに何度も言ったっけ? ま、とにかく、後で悲しむパリスちゃんを見るのはつらいでしょ。だから、こうして教えてあげてるんだよ。そのへんのところ、わかってるの? パリスちゃんは」
    「ハイ! ちゃんとわかってます! あのですねマスター…………兄上が、大変なんです!」

    「ハ……アァッ!?」

     三メートルほど離れたところから大声をあげる俺を、その場にいた全員が振り返った。



     ◆◆◆


    「……ヘ、ヘットール様!!」
     案の定やらかした。「ク」が抜けた。なんだよヘットール様って。とはいえ「ク」を発音すると吐く可能性があったから、仕方ない。「ク」ってのはなんつうか、言いにくい。こんなどうでもいいことを考えていた俺は、先を急ぎすぎるあまりまだ開いてる途中のドアに挟まった。ガン、とドアがぶつかり、俺の肩には想像以上の痛みが走る。
     いつもの恰好ならこれくらい、なんでもない。肩にくっついてる金属がドアを弾くだけだ。だが、今日は悪いことに、夏の浮かれた恰好だった。夏。スポーツ。カジュアル。どれも俺には死ぬほど似合わない言葉だが、いくら陰キャでも夏の思い出を作る権利ぐらいあるだろう、とよくわからない持論をもとに思いきって袖を通した。みんなの反応が意外と良くて心底驚いたが、似合うと言われるとやっぱり嬉――って、今はそれどころじゃない。

    「ヘクトー、ル、様……」
     今度はぶつ切りながらもなんとか、呼べた。肩の痛みに顔を歪めながら部屋の中に入り、ゆっくりとベッドに近づいていく。そこに横たわるのはもちろん、ヘクトール様だ。パリスの「兄上が大変」発言。それを食堂から退場ギリギリで耳にした俺は、食堂中の不審な眼差しを振り切ってここまでやってきた。あんなに走ったのは久しぶりだった。いやもちろん戦闘で本気で走ることはあるが、それとこれとは話が違う。どう違うか尋ねられても答えられないが、とにかく違う。まだ息が切れている。肩が激しく上下しているし、呼吸がどうも、うまくできない。それでも俺はベッドに向かう足を止めない。
    「どう、されたのですか」
     ヘクトール様はタオルケットを頭から被って、身体を丸めている。俺から見たらずいぶんと大きい身体を小さくたたんで、見るからに苦しそうな様子だ。顔はタオルケットで見えないが、それでもわかる。ヘクトール様が息つくたびに肩が揺れる。そのリズムが規則的なことだけが、俺にとっての救いだった。よかった、この人はちゃんと――生きてる。俺と同じく(いっしょくたにするのはおこがましいが)サーヴァントであるヘクトール様に対し生死の判断をするのはおかしいに決まってるが、それでもどうしても確かめずにはいられなかった。この人がちゃんと生きてて、息をしているという事実を。
    「ん」
     俺の呼びかけに反応してくれたのか、ヘクトール様はわずかに身じろぎする。それと同時に漏れた低いうめき声が、また俺の胸をかき乱した。強くて立派な俺の憧れの人。そんなヘクトール様の弱々しい姿に、俺はまた吐きそうになった。
    「答えてください。お願いですから」
     召喚されてから今まで、まともに喋ったこともない。理由は当然この俺が(こっそりとドアの前に立っているばっかりで)この人から逃げ回っていたからだが、今ばかりはこう、ハッキリと言い放つことができた。声は震えてた。語尾はかすれてた。それでも俺はこの人に、ヘクトール様に、ちゃんと話すことができたんだ。こんな状況でなければ自分を褒めちぎってやりたいところだ。誰かに褒めてももらいたい。だが今はそれどころじゃない。
     俺はヘクトール様の返事がないことに恐怖にも似た感情を覚え、ベッドの脇にへたり込んだ。軽装のせいか、床についた膝が痛い。いつも適温適湿に保たれているはずの部屋の中で、俺は滝みたいな汗をかいていたらしい。こめかみから流れてきた汗が首を伝わって、ティーシャツの襟を濡らすのがわかる。ついでに前髪から垂れた汗の一滴が、ヘクトール様が被っているタオルケットに落ちた。

    「……ッ……! ヘクトールさ、ま、ねえ……」
     汗が乾き始め、ひんやり冷たい感触を肌が感じるまでは、なんとか我慢した。「う」と唸ったっきりなにも言ってくれない、動いてもくれないヘクトール様の枕元で膝立ちになって、ずっと見守っていた。だがそれももう、限界だって思った。不安が胸いっぱいに広がって、頭ん中を良からぬ妄想が駆け巡る。
     霊核を砕かれない限りサーヴァントに死はないが、それでも再起不能に陥るほど衰弱することはあるという。パリスの言っていた「大変」という言葉の意味。それからあの、守護神からの忠言。それはひょっとすると――考えたくなんかない。ただ、考えずにいるのはもう、難しかった。ヘクトール様が「大変だ」と聞いたそのときは、パリスがいつも通り、明るく振る舞っていたことで、正直そこまで心配してなかった。なんかしらのトラブルが起こったんだろう、とまあ、この程度だった。ただ、ギリシャのサーヴァントたちはなんつうか、俺の理解の範疇を明らかに超えた、超えまくった振る舞いをすることがある。「死」や「別れ」に対して死ぬほど無頓着だ。どんなに凄惨なエピソードであったとしても、ヤツらは笑って酒のツマミにでもしかねないノリだ。特にパリスは酒こそ飲まないが、兄であるヘクトール様を喪い、敵討ちの末に見送った経験を持つ。つまり、うまく表現できないが、俺とは「大変」のレベルが違うのかもしれない。意味すらまったく違ってるのかもしれない。パリスにとって兄の喪失は当たり前のことであり、だからこそあんな平然と、忘れたとまで言って――その可能性に思い至った瞬間、俺は大きく腕を振り上げていた。自分でも驚くくらい高く、高く。

    「なんか言ってください、って……言ってるじゃないッスかぁ!」
     ――ようやく会えたのに。まだマトモに会話すらしてないのに。俺がアンタのことをどんなに好きか、伝えられてないのに。「ギリシャの自分」に抱き続けてきた感情が今、間違いなく炸裂した。それはたぶん、いやぜったい、嫉妬ってやつだ。いや羨ましすぎるだろギリシャの俺。いやいやズルすぎんだろあんなの。俺なんか毎日、この人の部屋をノックすることすらできず、今じゃ立派なストーカーだっつうのに。チクショウ、カンベンしてくれよ、こんなのってないだろ――情けないことに涙が込み上げてくるが、それを拭う余裕なんてなかった。俺は、相変わらず寝たままのヘクトール様の背中を思いきり、これでもかというぐらいの力で叩く。頼むからなにか言ってくれ、ほんの一言でもいいから――その他いろんな思いが合わさって、ぐちゃぐちゃに混ざり合って、俺をこんな暴挙に走らせたのだ。まだダメっす、ダメっすよヘクトール様。

    「――グ、ハアッ!!!」
    「……あ、え……?」
     ヘクトール様の背中にあてたままの俺の手が、びくりと跳ねた。はじめはトドメを刺しちまったのかと思った。俺ってやつはどうしてこうも失敗ばかりなのかと、サーヴァントになってもこうなのかと、絶望に絶望を重ねたりもした。しかし、「グハァッ」となんともいえない叫び声をあげたヘクトール様がむくりと、めちゃくちゃぎこちない動きで身体を起こしたとき。俺は即座にカチッと固まって、ヘクトール様のベッドに肘をついたまま、なにも言えなくなってしまった。
     ロボットみたいな動きで半身を起こしたヘクトール様は、真っ青な顔で俺を見る。その顔色に俺はまたびくりと全身を跳ねさせ、嫌な予感を強くした。こんな顔色のこの人、見たことない。――つっても遠くから見てただけだから、絶対と言い切ることはできないが。それに、髪。いつも、どんなときも大雑把にとはいえしっかり束ねられているはずのヘクトール様の髪が、肩に散らばっている。あの青いリボンは枕の上。何本かの長い毛と一緒にとぐろを巻いている。俺はおそるおそる視線を上げ、ヘクトール様の顔を見る。いや、見ようとする。すると、すぐにまた、ヘクトール様の「いつもと違う点」に気がついた。
     髭。髭の手入れが全然されてない。無精髭はヘクトール様の愛すべきトレードマークだが、無精髭とただ生やしっぱなしの髭は違う。ヘクトール様の髭は明らかに毎朝、きちんと剃刀で整えられているものだと、俺は知っていた。あれはたしか、食堂でヘクトール様とイアソン船長がメシを食ってるとき、その会話を盗み聴――いや、会話が聞こえてきたんだ。たまたまだ、たまたま。

    「あのねえ旦那、これでもちゃんと手入れしてるんだぜ。子どもみたいにつるつるのお前さんと違ってな、大人の男は手間がかかるってわけだ」
     あのとき俺は自分の顎に手をやって、俺もいつかあの船長のように親しげに微笑みかけてもらえるようになるだろうか、あの指が俺の顎をつかむ日は来るのだろうか――こう、真剣に考えたものだった。今思うとマジで馬鹿馬鹿しい。そんな贅沢な望み、叶うわけねえ。夢のまた夢。わかってる。わかってるに決まってる。ただ、贅沢な悩みだと、夢のまた夢だとわかってはいても、望まずにはいられなかった。ヘクトール様が「つるつる」の顎をつかむのを見て、その手から全力で逃れようと金髪が激しく揺れてるのを見ていたら、どうしても。
     こうして俺はまた、この人から逃げる。目を伏せ、顔を下に向けて。シーツの布目に視線を落とし、ただじっと、ひたすらにそれを睨む。

    「マ、ンドリ、カルド、くん……」
     そのとき、ヘクトール様が俺の名を呼んだ。
     ヘクトール様が、この――地味でマイナーで陰キャで気配遮断エープラスの――俺の名を呼んだ。つうか、知ってた。こんなことがあるのか? 世界。リアルにここはどこ、おれは誰状態だ。いやそりゃギリシャでは絡みがあったらしいし、その話をマスターやマシュから聞かされてはいるだろう。ヘクトール様はあの二人ともよく一緒にメシを食ってる。そこではきっと――絶対と言い切る自信はないが――俺の名前もきっと、一回ぐらいは出たはずだ。だけどそれをまさかヘクトール様が覚えていてくれるとは。その上こうして、呼んでくれるとは。

    「…………ハイ!」
     これは俺の全力の返事だ。生まれてこのかた、ここまで大きな声を出したことは――ないかもしれない。俺はゆっくりと顔を上げ、ヘクトール様の顔を見る。目を合わせる勇気はないから、ヘクトール様の口元に視線を合わせて、そこが動く瞬間をただ、待つ。名前を呼んでくれた次は、どんなことを言ってくれるんだろう。こんな、地味でマイナーで陰キャで気配遮断エープラスの俺なんかに、この人は、どんな言葉をかけてくれるんだろう。胃が痛い。でもそんなこと気にならないぐらい、期待がヤバい。今にも飛び出しそうな心臓を両手で押さえて、俺はヘクトール様の言葉を待つ。
    「あのねぇ、オジサン……ぎっくり腰なのよ」



     ◆◆◆◆


    「本当に本当に本当に本当に本当に申し訳ございませんでしたもう殺してください本当に本当に本当に本当に本当にごめんなさい」
     ヘクトール様のベッドに顔を突っ伏したまま、マットレスに向かってひたすら謝罪の言葉をくり返した。顔なんて見れるはずがない。そもそもちゃんと見たことなんて今日まで一度もなかった。いつも遠くから眺めているばっかで、ここまで接近したのは初めてだった。だからたとえ俺がこうして「やらかして」なかったとしても、どっちにしろ顔なんて見れなかった。とはいえ間違いなくおれは「やらかした」わけで、ヘクトール様に向ける顔なんてあるわけがない。ぎっくり腰で寝込んでる人の背中を思いっきりどついたんだ。しかもその相手はヘクトール様で、俺の、憧れの英雄で。や、もうなんつうか、死にてえ。
    「そろそろ顔を上げたらどうだ。オジサン、こう見えても一応はサーヴァントよ。お前さんの一撃ぐらいでくたばりやしない」
    「……無理です。一生かかっても償いきれない御無礼を、俺は……」
    「ハハハ……大げさだな、お前さん。ア、イテテ……」
    「ダッ、大丈夫ですかヘクトール様ッ!!!」
     ヘクトール様の苦悶の声を耳にした俺は、ほぼ反射で飛び起きた。俺にできることなんてなんにもないが、それでもなにか、して差し上げたかった。なにを? と尋ねられると困るが、とにかくなんでもいい。腰を揉めとかさすれとか湿布貼れとか、もう、なんでもいい。その一心で、ずっと仲良くしてたマットレスから顔を引きはがした。

    「お、ようやく顔が見られたな」
     ばさりと顔にかぶさった髪。その間から、ヘクトール様の瞳がのぞいてる。濃くて深い緑色。その瞳がまっすぐに俺を見つめていたことで、俺はまたすぐにベッドに突っ伏すハメになった。マットレスに思いっきり顔を押しつけて、叫び出してしまいそうになるのをどうにかして堪える以外、できなくなった。なんだこれ、無理だ。絶対無理だわ。マジでもう、今すぐ消えたい。
    「なあ」
     中途半端に身体を起こしたせいかもしれない。ヘクトール様の声はどこか、きつそうに聞こえた。それでも明るいトーンで(おそらく)笑いながら、俺に向かって呼びかけてくれている。そう思った途端、今度はこうして顔をマットレスに埋めて悶絶しているという状況が、めちゃくちゃ失礼なように思えてきた。この人が俺に、俺なんかに声をかけてくれてるっつうのに、俺はなんてザマだ。なんて失礼なヤツなんだ、俺は。
    「は……ハイ、ッ……」
     だから決死の覚悟で顔を上げた。よくよく考えてみれば、俺はヘクトール様の寝具に汗だくの顔をずっと押しつけてたわけで、それこそ死にたくなるほど申し訳ない。殺してほしい。
    「う……」
     顔を上げるとすぐ、当たり前のようにヘクトール様と目が合う。俺は唸り声をあげかける。ぎっくり腰だっつうのに余裕たっぷりに見えるヘクトール様の視線と、身体だけは健康そのものなのに余裕のヨの字もない俺の視線。それがぶつかると俺は、すぐに瞬きするのを忘れる。
    「オジサンね、君に頼みがあるんだけど」
     こうしてこんなに長い時間、この人と視線を合わせていられる日がくるなんて。いったい誰が想像しただろうか。
     ギリシャの俺なら――と思いかけて、すぐに首を横に振る。マスターの話によると、あのとき召喚されたこの人とギリシャの俺が共に過ごした時間は、まさしく刹那のことだったらしい。もっともギリシャの俺はこの人に向かってちゃんと自己紹介ができて、その上――いや、この話はやめておく。自分で自分に妬くからな。感情がややこしいことになる。簡単に言うと、悔しくて死にたくなる。
    「その辺りにホコリかぶった機械が転がってると思うんだが」
     なかなか返事ができない俺を気に留める様子もなく、ヘクトール様は言葉を続ける。そこで俺はハッと我に返り、大慌てで立ち上がる。俺はずいぶんと長い間同じ姿勢でいたらしく、立ち上がった瞬間、両足が痺れて思わず情けない声を出していた。
    「ンアッ!? え……あ、こ、これですか?」
    「ああ、それだ」
     ヘクトール様が指差した先には古ぼけた、でも高価そうなコーヒーメーカーがあった。ヘクトール様の言う通り。それは長い間使われてないようで、表面に薄くホコリが積もっていた。痺れる足で再びしゃがみ込んだ俺は、ふっと軽く息を吹き、ホコリを周囲にまき散らす。
    「それ、ある人からもらった……というかまあ、押しつけられたんだけどねえ」
    「え……」
    「オジサン、そういうマシン? 機械? には疎いもんだから」
    「……ある人」
     ほとんど無意識に言葉が漏れ出していた。だってこれ、見るからに高そうだ。コーヒーにも、機会にも詳しくない俺でもわかる。こんないいものを贈るなんて、それはいったい誰だ。イアソン船長あたりか? と思ってすぐに、俺は考えを改めた。あの人がヘクトール様になにかプレゼントをするなんて、どう考えても不自然だしあり得ねえ。だったらアキレウス――は、もっとないか。
     このとき俺は、ふいに真実にぶち当たった。俺はこの人の交友関係をほとんど知らない。もちろん史実に基づいたものであれば全て知っていると胸を張るが、ここでこの人がどんなヤツらと親しいのか、どんなヤツから贈り物をされるのか、もしくはするのか――俺にはわからなかった。
     ここで、距離は遠くとも「今」を共有してる俺の方が、ギリシャの俺よりもこの人を知っているはず。そう思ってた。さっきも言ったように、ギリシャの俺がこの人と過ごせた時間はめちゃくちゃ短かったんだ。その上状況が状況で、お互いをよく知る暇なんて――そもそもヘクトール様が俺なんかのことを知る必要はないが――なかったはずだ。それなのに、なんかちっとも勝った気がしねえ。やっぱり俺は、ギリシャの俺に勝てねえ。

    「それで、だ」
     コーヒーメーカーに手をかけたまま固まっていた俺の背中に、柔らかい声がぶつけられる。もう一人の敗北感から意識をどこかへ飛ばしかけていた俺は最初、その優しい、いや優しすぎる声が自分に向けられてると認識できず、振り向くことも返事をすることもできないでいた。もう考えるのはやめよう、こう思ってたはずなのになんでまた俺はギリシャの俺と今の俺を比べて凹んで――と自分をディスりながら頭を抱えたり、舌打ちをしたりしていた。
    「淹れてくれるかい? 二杯分」
     続くこの言葉に、俺は動きを止める。そして恐る恐る、ゆっくりと振り返ると、ヘクトール様が突き出しているブイサインに、両目が釘づけになった。

    「…………イ」
    「うん?」
    「ハイ!!!」
     ハッハッハ、こりゃまたいい返事だねえ――そう言って笑うヘクトール様を見ていた俺は、感じていた。みるみるうちに全身の力が抜けていくのを、顔の筋肉がゆるんでいくのを。間違いなく感じていた。



     ◆◆◆◆◆


    「サーヴァントも、なるんですね……その、ぎっくり腰」
     うまく淹れられたか自信はない。あるわけがない。それでも一応はコーヒーの色と味になった液体を飲みながら、俺は言う。まったくなんで俺ってやつはこう、クソつまんねえことしか言えないのか。せっかくこうしてヘクトール様と二人、向かい合ってコーヒーまで飲んでるっつうのに。さすがは陰キャ。コミュ障ここに極まれりだ。
    「そりゃなるさ。見りゃわかるように、オジサンはオジサンの状態で現界してますからね。腰痛とはお友達よ」
     枕と、俺が丸めたタオルケットを背もたれにして壁に寄りかかるヘクトール様は、マグカップを両手で包み込んだまま明るい声で笑う。その声が死ぬほど心地よくて、この人が笑ってくれてるって事実がめちゃくちゃ嬉しくて、俺はまたうつむいてしまいそうになる。ずっと聴いていたい――心の底からこう思う。けど面白い話のひとつもできない俺には、これ以上この人を笑わせることはできそうにない。そしてまた、落ち込む。
    「パリスちゃんが……」
     だから俺はヘクトール様が無条件に笑顔になりそうな話題を必死になって探し、こう切り出してみた。あの犯罪級のワット数で笑う、男神の寵愛を一心に受けている弟君の話なら、この人も笑ってくれるに違いない。そう思ったから。んで、一応、ちゃん付けしとく。
    「パリスゥ? なに、アイツまたなんかやらかしたの?」
    「い、いえ! そうではなく……」
     だが俺の予想に反してヘクトール様は眉間にシワを寄せ、難しい顔をつくる。その顔を見た俺は慌てて顔の前で両手をブン回し、持っていたコーヒーの中身をシャツにこぼした。白いシャツにできた茶色いシミ。それを目の当たりにし、げんなりと溜め息をつく。
    「……その、パリスちゃんが言ってたんです。ヘクトール様が“大変”だと」
    「大変? ああ、なるほどねえ」
    「それで俺、焦って……結果、あんな御無礼をですね、その」
    「お前さんも人がいい。パリスが大変って言った理由はな、オジサンに用事を言いつけられるからだよ」
    「用事、ですか……」
    「ああ。食堂から定食を運んでこいとかマスターに伝言持ってけとか煙草買ってこいとか……んま、そういうやつだな」
    「な、なるほど、でもヘクトール様……俺たちサーヴァントは食事をしなくても……」
    「お前さんね、そんな寂しいこと言わなさんな。この齢になると、飲み食いぐらいしか楽しみなんてないんだから。身体を鍛えるなんて面倒だしねえ」
    「……ッ、ハハ……そうか、そうですね」
     まーたつまんねえこと言っちまった。後悔するがもう遅く、こうなると自嘲の笑みしか出てこない。ヘクトール様の部屋の椅子を借り、そこに腰を下ろしていた俺は、頭を抱える代わりにこめかみを掻く。
     あ、ちょっと待てよ俺。まさか俺、もしかして俺、ヘクトール様に断りもせず椅子に座ってね? 勝手に座ってんじゃねえとか思われてる? うわ、最悪だ。今からでも許可をもらうべきか? や、でもいまさら切り出すのもおかしくね? つってもこのまま座り続けるのってどうなんだ? もうマジで俺、最悪だわ。
     最悪の予感に襲われ、椅子の上で縮こまっていると、膝を抱えたくなっていると、シュッと耳慣れない音が俺の耳に届いた。うつむきかけていた俺は視線だけを持ち上げ、音のした方を――つまり、ヘクトール様がいるベッドの方を見る。その瞬間、勢いよく椅子から立ち上がった。
    「ちょおッ……! い、言ってくださいよ! 俺、取りますからっ」
    「ん? ああ、すまんすまん。届くと思ったんだけどねえ。オジサン、意外と手足は長い方で……」
     俺が見たヘクトール様は火を点けたばかりの煙草をくわえ、ベッドの横に置かれたテーブルに向かって必死んなって手を伸ばしてた。腰痛いのに、まったくなにしてんだこの人は――俺は思わず叫んでしまいそうになる。テーブルの上には鈍い金色の、たぶん真鍮の灰皿があった。これもずいぶんと立派な品のようだが、誰かからのプレゼントだろうか――と余計なことを考えて呼吸が止まりかけるが、そんなことを考えてる暇はない。
     座り心地の悪かった椅子からケツを上げた俺は即座にその灰皿を手に取り、腕をプルプル震わせてるヘクトール様に手渡した。灰皿の中には煙草の吸い殻が軽く十本は投げ込まれていて、俺はこのときはじめて部屋に漂う煙草の匂いに気づき、ヘクトール様がヘビースモーカーであったという事実を思い出した。
    「だからつまり、アイツの言う“大変”ってのは、自分が“大変”ってことだ」
     俺から灰皿を受け取ると、ヘクトール様はそれを枕の上へと放り投げた。いかにも雑に、ポン、と。着地の衝撃で灰が舞い、枕に飛び散るが、ヘクトール様がそれを気にする様子はない。よくシーツに目を凝らしてみると、あちこちに灰が引き延ばされたような汚れや焼け焦げの跡がついている。
     ったく、案外だらしないんだな――と思うと同時に、強烈な満足感が襲いかかってくるのがわかった。それからあれだ、優越感もだ。だってそりゃそうだろ。ギリシャの俺はこの人のこんなとこ、知らないんだから。知らずに喪い、散っていったんだから。まだまだ勝ったとは言えないが、ずっと遠くにあったギリシャの俺の背中、それがほんの少しだけ近くなった気がした。
    「なんか嬉しいことでもあったかい? マンドリカルドくん」
     いつの間にか笑っていたらしい。だがそれも一瞬のこと。ヘクトール様の声を聞いた瞬間、シーツのある一点で視線が止まり、口元から笑みが消え、ドクンと胸が鳴った。それは痛いくらいの強さで、俺は思わず口唇を噛んだ。シャツにこぼしたコーヒーが冷め、ぴったり肌に貼りついている。その感触は不快に違いないが、熱でもあるのかと思わせるほど皮膚の温度を上げているらしい今の俺には、正直ありがたくもあった。

    「……まえ、」
     さっきは、一回目はただ、ぬか喜びだった。この人が俺の名前を呼んでくれた。それだけで天高く、どこまでも昇っていけそうな思いだった。だが、こうして――もう一度呼ばれてみると、一度目とはまったく違う、まるで比べ物にならないぐらいの感情が、津波のように押し寄せてきた。
     一度目はたまたま、かもしれないと思った。長くてややこしい俺の名前。それを聞いたこの人がたまたま呼び当てたんだろう。そう、思った。でもたった今この人はまた、俺の名前を呼んだ。はっきりと、一字一句違えず、呼んだ。「マンドリカルドくん」と、確かに聞こえた。空耳なんかじゃないはずだ。
    「ん?」
     相変わらずぶつ切りにしか喋れない俺を、ヘクトール様は苦笑いで見つめている。目尻が下がり、瞬きのたびに眉毛が持ち上がる。ああもう、まったく――

    「……その、な、名前」
     この人のこんな顔を見られる日がくるなんて、夢にも思わなかった。
    「知っていてくださったんですね……俺の、なまえ」
     そしてこうして名前を呼んでもらえる日が、まさか、くるなんて。まったく、なあ、誰が想像した?

    「やれやれ。お前さんね――オジサンを、なんだと思ってるのよ」
     馬鹿デカい溜め息が聞こえる。その大きさと続くヘクトール様の言葉に、俺は背筋を伸ばし口を開く。
    「へ? あ……ヘ、ヘクトール様はプリアモス王とヘカベ王妃の息子で王子でもありトロイア戦争の総大将で長きにわたる籠城戦をくり広げアキレウスの親友のパトロクロスを討ちアカイア側をギリギリまで追い詰めた正真正銘の大英ゆ、」
    「だーっ! 違う違う。そういうことじゃあなくてね……どんなヤツだと思ってるんだ、ってこと」
    「……どん、な、と、言われても……あなたは、俺の……」
    「あのな、マンドリカルド」
     ヘクトール様がまた、俺の名を呼んだ。もうこれで三回目。信じられないことに、三回目だ。しかも――え? 呼び捨て?

     ヘクトール様は腰をかばうような仕草を見せたあと、短くなった煙草を灰皿に押しつけた。そして、ゆっくりとした動きでタオルケットを跳ねのけ、ベッドから脚を下ろして座った。
     コトン、と響いた小さな音は、ヘクトール様がサイドテーブルにマグカップを置く音だ。その中身はもうほとんど空で、俺はもう一度コーヒーを淹れにいくべきだろうかそれともなにか、他の飲み物の方がいいだろうか――と、こんなことを考えていた。ヘクトール様との距離が少しずつ縮まっていることに、気づかないふりを続けながら。

    「いつもあんな風に、熱すぎる眼差し向けてくる子の名前」
     す、と伸びてきた手が、俺の顎をつかむ。
    「オジサンが知らないはず、ないでしょ」
     そのまま、硬いが熱い指で顎を軽く持ち上げられたとき、俺の意識はどこか、はるか彼方へブッ飛んだ。

    「夢を壊しちまったら悪いんだが」
    「ッ……!」
    「俺は、お前が思うような英雄じゃないかもしれないぜ」
     束ねられていない長い髪。それが視界を埋める中、俺は思った。今、この瞬間。俺は間違いなく、ギリシャの俺に勝った――と。
     

     Fin.
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