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    6wound

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    6wound

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    トリスタンとベディヴィエールの話

    アキュラシー ◇


     なるほど、似ていなくもありませんね――トリスタンは独りごちる。我が弓、我が友、我が恋人、愛しい人。白銀に輝く竪琴。いつ、何時もトリスタンが手にしているはずであるそれは今、いったいどうしてか、部屋の壁にひっそりと、孤独に立て置かれている。その姿はどことなく儚げで、心許なくも見え、ちらとそちらへ視線をやったトリスタンは、ほとんど無意識のうちに両眉を下げていた。
     トリスタンが竪琴の代わりに手にしているものは、彼にとって馴染みがあるようでいて、まるでないものであった。コールタールのごとく鈍色に光る塗装を施されたそれは、今から半刻ほど前、とある英霊がこの部屋を訪ねてきた際、手にしていたものだ。トリスタンは、それを半ば強引に押しつけられた恰好であった。
     それからもう一つ――ひしゃげた羊皮紙。インクの道筋はまだ新しく見えるにもかかわらず、何度も読み返されたことで角が丸まり、全面に皺が寄った一通の文。
     暗記するほど、そらで読み上げられるほどくり返し目を通した。しかし当然のことながら記されている内容は変わらない。悲しい、とは違う。悔しいとも、嘆かわしいとも少し違う。ではこの感情はいったいなにか? そう問われたとしたら、トリスタンはこう答えることだろう。これは「怒り」だ、と。
    「私は今、腹を立てているのですよ」
     簡素なベッドの上に放られた羊皮紙は、トリスタンの特大のため息に吹かれるがまま、はらりと床に舞い落ちた。



     ◇◇


    「よう、邪魔するぜ」
     その英霊は入室の許可を待つことはおろか、短いノックすらなく、するりと部屋へ滑りこんできた。
    「……おや。これは、珍しい」
     キャスタークラスの方のクー・フーリン。この瞬間に現界しているトリスタンにとって、親しくはないが敵対するほどでもない、そんな存在だ。廊下や食堂で顔を合わせれば挨拶ぐらいはする。しかし双方が歩みを止め立ち話に興ずるということはない。そういう相手は、誰にでもひとりやふたり、いるものだ。
    「や、おまえさんに用事があってな」
    「貴方がこの私に用事……ですか? なるほど。それはいったい、どのよ――」
    「おまえさん、釣りが好きなんだってなぁ?」
     どうも会話のテンポが噛み合わない。トリスタンが皆まで言い終える前に、クー・フーリンはすでに次の言葉を並べ立て始めている。とはいえトリスタンは、相手とのこのようなやり取りには慣れている。であるからして、特段気分を損ねたり、不貞腐れたりといったことはない。
    「卿はそうしていつも勿体つけてばかりいるから、皆に置いていかれるのですよ」とこう、いわゆる忠言めいた言葉をかけてきたのはガウェイン卿であったか、それともランスロット卿か。そのどちらでもないとしたらやはり、ベディヴィエール卿か。ええ、きっとベディヴィエール卿に違いありませんね――曖昧な記憶を辿り、微笑もうとしていたそのとき、こつんと軽く、向こう脛を小突かれた。痛みはない。衝撃もない。ただわずかにあった驚きと同時に顔を上げると、そこには邪気のない顔で歯を見せて笑うクー・フーリンがいた。トリスタンの無防備な向こう脛を叩いたのは、どうやら彼が手にしている長い杖のようだった。
    「おいおい。聞いてんのか? どうも調子が狂うぜ」
    「ええ、よく言われます。それから――」
    「それから? なんだい」
    「あなたの話なら、よく聞いています。クー・フーリン」
    「ああそうかい。で? どうなんだ」
    「どう、というのは……」
    「釣りだよ釣り。好きなんだろ」
     クー・フーリンは、今度はトリスタンの脛ではなく床をトントン、と音を立て杖の先で叩いた。その音の響きが、トーンがどことなく面白く、トリスタンは一人顔をほころばせた。
    「そうですね。釣りは……」
    「釣りは?」
    「はい。好きです」
    「……ったく。釣りは好きです、ぐらい一息で言えないのかねえ」
    「ああ……そういったことも、よく言われますね」
     一瞬間の抜けたような顔を見せたかと思うと、クー・フーリンはかたかたと肩を揺らしながら、くくくと小さな声をあげ笑い始めた。その後すぐに聞こえてくる「違いねえ」という呆れ声を耳にし、彼の動きに合わせなびく青い髪、長い襟足の行方を追っているうちに、トリスタンは自分までも笑顔になっていることに気がついた。
    「つーわけで、だ。どうだい、コレ」
     クー・フーリンがローブの中からすっと取り出したもの。それを目にした瞬間のトリスタンは、首をにわかにかしげるに留まっていた。しかし、それの正体に気がつくやいなや、目を大きく見開き何度もまばたきをくり返すはめになったのだ。
     なんでしょう、それは、いったい――トリスタンの声にならない呟き。まるでそれを聞き取りでもしたかのように、クー・フーリンは口角を吊り上げ得意げな表情を浮かべる。
    「……あの」
    「おう。どうした、珍しく目が開いてるじゃねえか」
    「お茶を淹れましょうか」
    「あ? 茶ァ?」
    「私としたことが、客人に飲み物すら出さず……大変申し訳ありません」
    「いや、そりゃありがたいが、今俺はだな……」
    「少々お待ちを。すぐに持って参りましょう」
     呆れを通り越した情けない顔を天井へと向けるクー・フーリンをよそに、トリスタンは立ち上がる。そして、とある同胞の騎士から常に「グズ」だの「ノロマ」だのと罵られている動作で、小さなキッチンへと向かった。


    「わかってるとは思うが、これは釣り竿だ」
     あからさまに不慣れな様子で、ティーカップを持ちにくそうに掲げるクー・フーリンがこう言ったとき、トリスタンはしばし別の事柄に意識を奪われていた。もちろん彼が持ちこんだ「釣り竿のようなもの」のことは気にかかる。興味をそそられていることもたしかだ。
     しかしこのときのトリスタンは、ローブの合間から見え隠れするクー・フーリンの肢体があまりにも細く、華奢である事実に驚きと不安を隠せず、眉根を寄せることに忙しかった。もしもここにパーシヴァル卿がいたら、強引に腕を引いてでも彼を食堂まで連れていってしまいかねない。もっとも、円卓の騎士の中にも彼ほどの体躯に恵まれた者は無きに等しいのであるが。
    「おい」
    「……はい?」
    「ああ、またどっか行ってたか。んならもう一度言うぜ。これは釣り竿だ。俺がダ・ヴィンチに頼んで作ってもらった」
    「わざわざ、作ってもらった……それはまた、なんとも……このカルデアで、貴方の力はずいぶんと……」
    「いや、そんなんじゃねえよ。あいつにはちっとばかし貸しがあってな。ブリテンでのグリムの仕事を見たが最後……あれはどうやったこれはどうしたと、ったくやかましくてかなわねえよ」
    「それはそうでしょう。ブリテン……妖精国……そして貴方――いえ、賢人グリム。あの地でのグリムの魔術は、それはそれは素晴らしいものであったと……マスターたちから聞いています。叶うことなら、私もお目にかかりたかった」
    「おまえさんがさっさとくたばっちまったのが悪いんだろうよ。まあしょうがねえ。運命だったと諦めな」
    「……ええ、それは……はい、反論の余地はありませんね」
     こう、あまりにも明るく言い放たれてしまっては、返す言葉が見つからない。
     たしかに「反論の余地はない」とは言った。言ったがしかし、トリスタンはこの古き魔術の使い手になにか、反論めいたことを返すつもりははなからなかった。それから、妖精国の自分の立ち居振る舞いや戦いぶりを否定したり、自ら責め苦を負ったりするつもりもなかった。あるはずなどなかった。


    「ま、とにかくこれはスペシャルな一品だ。おまえさんも釣りが好きだって聞いたからな、こうして持ってきたってわけだ」
    「こりゃあなんだい、ポッキリ折っちまいそうだな」「だいたいな、熱すぎるんだよ。こんなんじゃグイッといけねえだろうが、グイッと」云々、ティーカップの持ち手の心許なさや紅茶の温度に文句ばかり言っていたクー・フーリンであったが、トリスタンが二杯目の紅茶を注いでやると、軽快な礼が飛んできた。
    「応!」とあまりにも潔い、ケルト流の挨拶。トリスタンははじめこそ目を丸くしたものだが、今では妙に気に入ってしまい、ランサークラスのクー・フーリンと廊下ですれ違った際には試しに口に出してみたことすらある。とはいえトリスタンがたった二文字を言い終える前に、ランサークラスのクー・フーリンは既に遠く、離れてしまっていたのだが。やれやれまったく、彼らはどうしてあんなにも――生き急いでいるのでしょう。しかめ面のトリスタンは、いつもそう思う。

     そこからしばらくの間、トリスタンの部屋ではクー・フーリンによる釣り竿の講義が繰り広げられた。
    トリスタンはひたすら驚かされた。それはもう、クー・フーリンの口から飛び出る講釈全てに対し、感嘆の息を漏らさずにはいられなかった。
     ある一点を狙ったキャスティングに対し、それが外れた場合でもこの釣り竿であれば軌道修正ができるということ、特に大きく振りかぶるオーバーヘッドキャストについては右に曲がりがちだが、自分の利き手をあらかじめ釣り竿にインプットしておくことでそれすら防げてしまうこと。ため息どころかうめき声まで漏れてしまう。
     実のところトリスタンは、海岸や湖を舞台とした、いわゆる穏やかな釣りにしか興じたことがない。シュミレーター内に存在する贔屓の釣り場も凪いだ海の設定で、トリスタンは時に一人で、時にベディヴィエール卿と共に防波堤に腰掛け、のんびりと浮きが沈む瞬間を待つのみだ。そして、その瞬間というのは滅多に訪れない。であるからして、ルアーやフライといった擬似餌を用い大物を狙うような釣りは、知識こそあれ体験したことはない。つまり、クー・フーリンの話は半分ほどしか理解ができていない。
     トラウト釣りの文化を世界に広めたのは英国人である――というのは有名な逸話だが、それはあまりにも遠い未来に起こった出来事。トリスタンのあずかり知らぬ話だ。
    とはいえ根っからの釣り好きであるトリスタンにとって、クー・フーリンの話はたとえ50%の理解であったとしてもとても面白く、それと同時に魅力的な世界への誘いのようにも感じられた。


    「ところで」
     クー・フーリンの口から「釣り」という言葉が出た、そのときから。好きなんだろう? とこう、ほぼ断定的な含みをもって問い掛けられたときから感じていた。その疑問を今、ようやくトリスタンは口にする。
    「その……私が釣りを趣味としているということを、どうして――」
    「なんで知ってるかって? おまえさんのお仲間に聞いたんだよ。ホラ、いるだろあの隻腕の」
    「ベディヴィエール卿」
    「ああ、それだ。なにしろ長い名だからよ」
    「……なるほど。そう、ですか……」
    「まさに今さっきだ。俺がコレを持って歩いてたらな、後ろから声をかけられたんだ」
    「ほう」
    「いや、意外とあれだな、おまえさん方円卓の騎士ってのは……社交的なんだな」
     ティーカップの細い持ち手に細い指を絡ませ、変わらず不器用な仕草で紅茶をすするクー・フーリン。そのどこか迷惑そうな顔がおかしく、トリスタンはこっそりと肩を揺らし、ゆるむ口元を手のひらで覆った。
    「ええ、そうですね。私含め……礼儀作法は身についているかと。ああ、一部は除きますが……」
    「あ? おまえさんと気さくに話した覚えはほとんどねえが……まあいい。そのベディ、ヴィエールか? あいつがよ、貴方も釣りを嗜まれるのですか? と、こうだ」
     ここでトリスタンはふと、不思議な思いに身を寄せた。社交的で、礼儀作法が身についている、円卓の良心。それがベディヴィエール卿だ。その評価に偽りも取り繕いもない。彼を知っている者に問えば十人が十人――いや百人が百人、似たり寄ったりの評価を述べることだろう。しかし、どうも腑に落ちない。これはおそらく「しっくりこない」という、そうした部類の感情なのかもしれない。
    「ベディヴィエール卿が、そのようなことを……」
    「ああ。んでまあ、軽く立ち話になったわけだ」
     彼は、人の趣味嗜好に対し、唐突に口出しをするような人間だっただろうか。もしくは社交辞令を言うような、そうした傾向にあっただろうか。トリスタンは首をひねる。
    「そこで登場したのがトリスタン、おまえさんだよ」
     私の友に釣りが好きな人がいましてね、ベディヴィエール卿はこう言ったのだという。トリスタンははじめ、その「友」や「釣りの好きな人」という言葉が自分を指していると気づかず、ましてやそれらとクー・フーリンの言う「おまえさん」とが結びつかず、なるほどと神妙な顔で腕を組み直すのみであった。
    「念のため言っておくが、それはおまえさんのことだぜ。トリスタン」
    「私ですか? ……ああ、なるほど」
    「やっぱりわかってなかったか。まあいい。そこで出たのが、おまえさんの釣り竿があんまりにもみすぼらしいって話で」
    「はい?」
     致命的にテンポが噛み合わないクー・フーリンとの会話。それにある程度慣れてきていたトリスタンも、さすがに面食らい両目の幅を大きく広げた。「みすぼらしい」と面と向かって言ってのけるこのキャスターにも驚くが、トリスタンの斜向かいに座りけろりとした顔で二杯目の紅茶を吹き冷ましている彼はまだしも、ベディヴィエール卿までもとは。また意外な一面を見た。確かにあの騎士には紛れもなく辛辣なところがあるが、それは正面きって、堂々となされるものとばかり思っていた。
    「なんでも、ただひん曲げた木の枝に糸を結びつけただけのシロモノだ、とのことだが」
    「それも、彼が言っていたのですか? まったく……ただひん曲げた木の枝、とは失礼ですね。ベディヴィエール卿には何度も説明していますが、あの釣り竿はきちんと計算された角度で曲げられていて、糸の長さについても最適で……そう、まさしく私の弓同様――」
    「ああ、わかってるわかってる。釣りの“つ”の字も知らねえ、素人の戯言だ。流してやればいい」
     俺はちゃあんとわかってるぜ、とでも言いたげなクー・フーリンの表情を目に留めたトリスタンは、口をつぐみ顔を伏せる。かっと頬に熱が上がるのを感じた。自分はなぜここまで饒舌に、むきになり講釈をたれているのか。 どうやら自分は、自覚しているよりもずっとずっと――釣りが好きらしい。そして、自作の釣り竿に愛着があるらしい。

    「それでだ」
     ぱしん、と軽快な音が部屋に響く。それを耳にし、トリスタンは顔を持ち上げた。
    「これをお前さんに貸すぜ」
    「……はい? 貸すぜ?」
     思わず訊き返す。復唱までしてしまう。およそ似合わぬ語尾とでも思ったのだろう、クー・フーリンは、はたと動きを止め眉を下げる。そして、それからすぐに、今度は肩をすくめてみせた。
    「んだよ。聞こえなかったのか? それともなんだ、寝てたのか?」
    「いえ……聞こえていましたし、起きてもいました。ですが――」
    「なら決まりだ。試してみな」



     ◇◇◇


     というわけで今、トリスタンの手には件の釣り竿がある。
     釣りをこよなく愛するあのキャスターは、これを何度試したのだろうか。釣り竿のグリップは新しく、ボディ同様鈍色に輝いて見え、トリスタンが愛用するオークの木から造られた釣り竿のように、手垢じみてもいない。オークの木と人工物。材質の違いはもちろんあるだろう。しかし、これはどう見ても真新しく、おそらく――まだ彼の手に馴染んですらいないに違いなかった。
     そんなものを人に貸してしまうとは、あのクー・フーリンという男はなんと気風が良いのだろうか。トリスタンは感心と呆れが混ぜこぜになった感情を抱え、釣り竿を握っては放し、放しては握りといったことをくり返している。

    「…………」
     これは想像通りの展開といっていい。そのうち、居ても立っても居られなくなった。うずうずというべきか、むずむずというべきか。じっと腰かけていることが難しくなり、気づくと釣り竿を手に立ち上がっていた。
    「血が騒ぐ」とはよく言ったものだが、こういうことを指すのだろうか。半ば苦笑交じりに、こんなことを思う。凪いだ釣り場の経験しかなく、それも獲物を釣り上げた経験など数えるほどしかないにもかかわらず「血が騒ぐ」とは。それに、いかなるときもその手にあるはずの弓を部屋の壁に置き去りにし、代わりに釣り竿を後生大事に握りしめている自分が、滑稽に思えて仕方がなかった。

     これを試すときには是非、隣にいて欲しい――唐突に、こう思った。湧き上がってきた。
     いつ、いかなるときも自分の隣に座り、釣り竿を握るでも糸を垂らすでもなく、ただ潮騒や海鳥の声に耳を傾けていた者。「釣れませんね。今日も」と時折あがる声。笑い含みの、低いながらも軽快な声。がっかりしているようでいて、どこか楽しんでもいるような。そんなときトリスタンはおもむろに眉を下げ、いま一度、という気持ちで手のひらの感覚を研ぎ澄ませ、こう答える。
    「ええ、そのようですね」
     いつもと同じ。潮風の中、柔和な線を描いている友の輪郭を、横目でひっそりと見つめながら。
     これこそがトリスタンの愛する釣りの風景だ。魚が釣れるかどうか、それは二の次三の次。もちろん、釣れれば嬉しい。同行者の失笑を誘わずに済むし、トリスタンがフェイルノートを繰ってみせ、魚を手元へ引き寄せたときの無邪気な歓声。あれは、何度聞いても良いものだった。それに魚が餌に食いつき、釣り糸を引くリズミカルな衝撃を手のひらで味わうのは好きだ。単純に気分がいい。
     だが、みなもが作り出す波紋の感触、それをただぼんやりと味わい続けているのは、もっと好きだった。そして、はなから釣れないと解っていて、真剣に釣り上げる気がトリスタンにないと知っていて、それでも「釣れそうですか」と何度も尋ねてくる同行者が笑った顔を見ているのが、なによりも。
     トリスタンの心はすでに、とある場所へと向かっている。おそらく自分と、自分が唯一教えることを良しとしている彼以外、誰も知らないあの釣り場へ。



     ◇◇◇◇


    「うう……おやトリスタン卿じゃないか。どうしたんだい? 珍しく、そんなに急いで」
     自らの額を押さえ、半ば涙目になりながらも飄々とこんなことを言う少女。彼女は今、しゃがみこんだトリスタンの膝の上にいる。
     トリスタンはおろおろと、少女の頭をぎこちない手つきで撫でるばかりであった。絶望的な心持ちで、恥ずかしさのあまり穴を掘り、その中に身をうずめてしまいたいとすら。
    「廊下を走ってはいけないよ。ジャックやパリスじゃないんだから……アイタタ」
     鼻の頭に皺を寄せ、口唇を尖らせる少女――レオナルド・ダ・ヴィンチは、小走りで廊下の角から姿を現したトリスタンの胸部に思いきり激突し、トリスタンがその身にまとっている鎧の硬さに目から火花を散らしている最中であった。
     出会いがしらの衝突の直後、トリスタンはやくたいもない後悔をしていた。ダ・ヴィンチの背丈がもう少し高ければ、反対にもう少し低ければ、最も頑強な部位である胸当てと痛絶の対面を果たすことにはならずに済んだはず――と。しかし、それがまったくもって意味をなさぬと早々に気づき、思うことをやめた。そして、その代わりに床に尻もちをついているダ・ヴィンチを抱え上げ、膝の上に乗せたのであった。
    「はい……もう、その、なんとお詫びをすれば――」
    「まったく、私で良かったよ。ここには気性が荒い英霊だってたくさんいる。貴公の命にも関わるところだったぞ」
    「た、大変申し訳ありません……」
     貴公とまで呼ばれ、思わず言葉に詰まる。いい齢をした男が、それも誉れ高き円卓の騎士がその細長い体躯を折り曲げ、少女に鼻の頭を小突かれている。それも「コラッ」と――つん、と人差し指の先で。トリスタンはとっさに周囲を見渡すが、幸いなことに同胞たちの姿はなかった。もしもこの場にモードレッド卿が居合わせていたら――こんな想像をするだけで、背筋が寒くなる。そしてそれと同時に浮かぶ、馴染みの呆れ顔がひとつ。
    「もう大丈夫。こう見えてわたしはホムンクルスだからね。頑丈なのさ」
     こう軽やかに言うダ・ヴィンチは、あまりにも不器用な仕草で自分の髪を撫で続けている男の手をゆっくりと、穏やかに払う。彼女の顔に浮かんでいるものは微笑みというよりは苦笑いに近い代物であったが、この少女に万が一のことがあっては、と鼓動を速めているトリスタンを、ひとまずのところ安堵させるには十分であった。
    「それで? どうしてそんなに急いでいたのかな」
     きょとん、とした様相で瞬く、二つの丸い目。それらに射抜かれたとたん、トリスタンははっと我に返りこうべを垂れた。正確にはダ・ヴィンチに返す言葉を探しあぐねていたのだが、そんなトリスタンを目にしたダ・ヴィンチは、思慮深い面持ちになったかと思うといささか慌てた様子でこう続けた。
    「べつに詮索するつもりはないよ。ただ、君にしては珍しく慌てているようだったからね。その、少し気になっただけだ」
     ダ・ヴィンチはトリスタンの膝に乗ったまま、やや大げさに片手のひらを振り回している。そのため――彼女を乗せてからある程度の時間が経過しているため痺れ始めている――トリスタンの膝は、こまかな振動を感じていた。
     さすがに気遣われているということは解った。しかし、いざ返事をしてみようと顔を上げてみてもなかなか、喉から声は搾り出されてこなかった。
    「いえ、その……」
     それもそのはずである。キャスタークラスのクー・フーリン。つい先程までの短い――といってもたっぷり二時間ほど、自室で釣りの話に興じたのだが――交流の末、今となっては同じ趣味を持つ者としてある程度の親近感と好意を抱いている英霊から、ハイスペックの釣り竿を借りた。彼の言葉を借りるとするならば「スペシャルな一品」だ。そして、それを握りしめていると、みるみるうちに釣り場へ出てみたくなった。それから、普段の釣りの記憶を、思い出をたぐり寄せるうち、一人の英霊の顔が浮かんだ。
    「実は、これを……」
     だから駆け足で彼の部屋を目指していた、そうしたら貴方に激突したのだ――などと。こんな理由をうまく、饒舌に語れるはずがないのである。
    「おや、それは……賢人の釣り竿だね」
    「はい。これを造ったのは、貴方だと……そう聞きました」
    「ああ、そうだ。どうだい? なかなかいい出来だろう?」
     百面相のごとく変わるダ・ヴィンチの表情を、トリスタンは興味深く観察していた。しかし、その落ちた目尻にうっすらと涙の跡を見つけた瞬間、また気持ちが塞ぎこむ気配を感じた。だが、そもそもの原因である自分がぐずぐずとしているのもまた、間違っているような気もした。
    「ええ。素晴らしいです。彼も絶賛していました」
     そう思ったからこそ、気を取り直すように、思いを立て直すように、わざと明るい声色をつくる。するとダ・ヴィンチはぱっと顔を明るく輝かせ、舌取りなめらかに言葉をつむぎ始めた。
    「そうだろうそうだろう。それは私の自信作さ。聞いたかい? その釣り竿には自動方向修正機能が備わっているんだ。私に釣りの趣味はないが、あの釣り好きと名高いクー・フーリンがかなり満足していた様子だったからね。いやぁ、あそこまで褒められてしまうと……いくら万能の私でも、さすがに照れくさいというものだ。とはいえあの英霊はなかなか偏屈でね。君の魔術を活用すればもっとすごい釣り竿ができる、そう伝えたらそんなのは絶対にダメだ、だいたい釣りってモンは魔術なんかとは切り離してだな――と、こうさ。長々と叱られてしまったよ」
     あどけない姿をしたダ・ヴィンチは、ひょいと肩をすくめ、首を傾ぐ。その妙に大人びた仕草と外見とのアンバランスさに、トリスタンは思わず笑顔になった。そして、あのクー・フーリンが「偏屈」と鹿爪顔で眉をひそめられていることに対しても、知らず知らずのうちに含み笑いを漏らしていた。言い得て妙とはこう、よく言ったものだ。
    「そうですか。まあ、その……彼の言うこともわからないではないですが」
    「む? そうかい?」
    「ええ……釣りというものは魔術とは切り離す――たしかにそれは、そうですね。その点については、私も彼に賛成です」
    「おや、君もかい。トリスタン」
    「いえ、私は彼と違って偏屈ではありませんが、たとえば……そうですね――魚を生け捕ることだけが目的であれば、霊体化して掴み取りをすればよろしい」
    「うんうん、特にアサシンクラスは得意そうだね。実際、風魔の里ではそうやって狩りをしていたと……小太郎から聞いたことがあるよ」
    「そうでしたか。それは大変効率的で、確実でしょうね。しかし……それではあまりにも――」
    「あまりにも?」
    「……ないでしょう。趣が」
     おもむき、ときたかぁ――と素っ頓狂な声を上げると、ダ・ヴィンチは居住まいを直した。彼女がトリスタンの膝から降りる気配は未だなく、トリスタンはその動きに合わせ自らも脚の位置をわずかに修正することにした。
    「この天才芸術家である私が、趣について指摘されてしまうとは……これは由々しき事態だ」
     軽く握りしめたこぶしでこつんと頭を叩く。それから小さな舌まで見せてみせる腕の中の少女に対し、微笑みかけずにいることは難しかった。

    「つまり、君は釣りに行こうとしていたというわけだね」
    「ええ、そうです。せっかくのスペシャルな一品――試さずにはいられません」
    「それがいい! 試したら是非、私にも感想を聴かせてくれたまえ。それから、改良の必要があれば……遠慮なく言って欲しいな」
    「もちろん、お話します。そして、ええ……もしも私に気がついたことがあれば、そうしましょう」
    「しかしトリスタン」
    「――はい?」
    「君が向かっていたのは、シミュレータールームとは反対の方角だろう?」
     いよいよ白旗を揚げる覚悟を決めたトリスタンは、事のあらましをダ・ヴィンチに語り始めた。ダ・ヴィンチは両目を瞬かせ、トリスタンの腕を頭の止まり木代わりにしながら、相づち以外ものを言わず話に耳を傾けていた。
     始まりはキャスタークラスのクー・フーリンが部屋を訪ねてきたところから。その手にはダ・ヴィンチの自信作である釣り竿が握られており、あれやこれやと語らっているうちにそれを借り受ける運びとなった。クー・フーリンがティーカップの持ち手の細さや紅茶の熱さに文句を言っていたとまで説明する必要はなかったが、とにかくクー・フーリンはトリスタンに釣り竿を貸した。釣り竿の真新しさから、まだそう使いこんでいないことが安易に想像され、まったく彼の気前の良さには感服した――とも言い添えた。
    「私が釣りへ――特に夜釣りへ赴く際は、いつも一緒でしたので。ベディヴィエール卿が」
     トリスタンの視線の先、ダ・ヴィンチの頭が指し示す方向には、ベディヴィエールの部屋がある。到着までもうまもなく――というタイミングで、トリスタンはあの衝突事故を起こしたのだ。
    「なるほど、そうだったのか。しかしねトリスタン、ベディヴィエールならいないよ」
    「は?」
     事故の衝撃を思い出し、再び自責の念に、そしてじくじたる思いに押し潰されそうになっていた。そんなトリスタンであったが、ダ・ヴィンチのこの言葉には思わず低く、平坦な声を返した。
    「今日はマシュのメディカルチェックの日でね。彼女はデミ・サーヴァントという極めて複雑で……デリケートな存在だ。定期的に精密に調べる必要がある。知っての通り、カルデアの医療班はとにかくうるさ――いや優秀だ。検査には丸一日かかってしまうのさ」
     彼女が言っていること自体は理解ができた。マシュ・キリエライト。彼女は人間と英霊の融合体であり、今この瞬間に生存していること自体が奇跡のようなもの。入念なケアが必要だろう。しかし、それがどうして「ベディヴィエールならいない」という発言に繋がるのか。トリスタンは理解に苦しんだ。
    「ええと、その――」
    「本日は、レディ・キリエライトの代わりに、私がマスターをお守りします! こう言って張りきっていたよ。彼」



     ◇◇◇◇◇


    「これはお土産です。マスターはあまり食べたくないとおっしゃっていましたが、私としてはなかなか――」
     と、わけのわからないこと言いながらわけのわからない肉を差し出す友の手首をつかみ、そのままぐいと身体を引き寄せる。
     さすがは円卓の騎士、バランスを崩すようなことはありませんね――場違いな台詞が喉元までせり上がるが、苦笑とともに飲み干した。こんなことを言っていては、せっかく作った厳めしい顔が台無しだ。
    「ト……!」
     鼻先同士がぶつかり合いそうになっても、トリスタンはその身を引こうとはしなかった。銀色の髪の一握が頬をかすめる。あやうくくしゃみが飛び出しそうになるが、口唇を噛んで耐えることに成功した。
    「……リスタン、卿?」
     ほとんど背丈が変わらないため、真正面にあるベディヴィエールの顔。それがあまりにも近いためか、視野が狭まり、一気にピンボケにまでなる。トリスタンは、そんなあやふやな視界の中、何度かまばたきをした後、必死の思いで言葉を吐き出した。
     今、ここで切り出してしまわなければ、永遠に伝えられないような気がした。説明を求めるようなベディヴィエールの視線から逃れることは難しそうだ。だからトリスタンは目を閉じる。両目を閉ざしたまま、口を開く。
    「貴公だから教えたのですよ。ベディヴィエール卿」
     これはまたしても。例のごとく、言葉足らずだっただろうか。しかし、これ以上なにを言えというのだろうか――互いの呼吸の温度すら測れてしまいそうな距離で、動きが止まる。トリスタンも、ベディヴィエールも。トリスタンはベディヴィエールの手首をぎりぎりと締め上げたまま、ベディヴィエールはトリスタンに手首をぎりぎりと締め上げられたまま。
     手首の薄い皮膚ごしに、ベディヴィエールの拍動を感じる。それは大きく速度を上げているかと思いきや、気抜けするほど穏やかなリズムを刻んでおり、トリスタンはふっと指先の力をゆるめた。
     するとすぐに腕が振りほどかれた。その力強さには怒気が含まれているように感じ、とっさにトリスタンはじりりと一歩、後退した。トリスタンがようやく、うっすらとながらも目を開くことができたのは、この瞬間である。
    「そういったことは、ちゃんと言ってください。口に出して」
     そうでないとわかりませんから――ベディヴィエールはこんなことを言いながら、ふて腐れたような顔をトリスタンへと向けていた。
    「トリスタン卿? 聞いていますか?」
    「……ええ、ああ……はい」
     力のこもっていない返事。それをくり返すトリスタンは、拍子抜けした思いでベッドに腰を下ろした。
     てっきり言いくるめられるものとばかり、思っていた。いいですかトリスタン卿、貴公は――と、指を突きつけられると、そう信じて疑わなかった。それを承知の上での抗議であった。
     ふわりと身体が浮く感覚があった。はたと顔を上げると、視界の隅に見慣れた銀髪と、それに勝るとも劣らない輝きを持つ隻腕が飛びこんできた。やわらかな浮遊感の原因、それが自分のすぐ隣にベディヴィエールが座ったためと判り、トリスタンはやおら肩の角度を下げた。
    「貴公の……いえ、貴方の秘密は、私の秘密でもあるような、そんな気がしてしまって」
     それで、その、といかにも深刻そうに顔を歪め、うつむいてしまうベディヴィエール。その横顔を目にしたとたん、トリスタンの心はあの、件の釣り場へと飛ばされた。なにか励ましの言葉をかけてやらなくては――そう焦れて脳味噌をかき回していた。その事実すら忘れ、ただひたすらに隣で、すぐそばにある横顔を見つめることに忙しくなった。
    「釣れませんね。今日も」
     その横顔を、今日もひっそりと見つめていた。ただし今ここに潮風や鳥の鳴き声はなく、あるものはただ、仄かな魔術と紅茶の香り。どちらもあのキャスターの置き土産だ。そこにひとかけらの清々しさが混ざりこんでいるのもまた、彼のおかげと言って間違いはないだろう。
    「ベディヴィエール卿」
     お茶を淹れましょう――トリスタンのこの言葉に、ベディヴィエールは伏せていた顔を半分ほど持ち上げた。そして、先ほどのクー・フーリンほどではないにせよ、いささか不意を突かれたように両目を大きく、丸く見開いた。
     今度はベディヴィエールの身体がにわかに浮いた、ように見えた。それはトリスタンが立ち上がったせいで、ベッドのスプリングが存外にも良い働きをしているせいでもある。
     現界してからどれほどの時間が経ったか覚えてはいませんが、ここの設備はやはり――こう口に出しかけたとき。トリスタンは、自らのこの相変わらずさに、珍しく苦笑を噛み殺すはめになったのであった。そこでコホン、こう小さく咳払いをし、ぼそぼそとした語り口でこう言った。
    「私の秘密は貴方の秘密……いいでしょう。ただし」
     顔を見て、話をしてください。このような古臭い手段ではなくて、どうか――ここへ来て、会いに来て。
    「そのくらいの手間は、かけていただきます」
     ふわふわと、舞い踊るように。ベディヴィエールの膝に、羊皮紙が一枚、着地する。その足取りおぼつかぬダンスはベディヴィエールにつまみ上げられることによって中断し、彼がその中身に目を走らせている間、羊皮紙はその身を小刻みに震わせているように見えた。
    「文をしたためるにしても、この時代にはもっと」
     もっと、便利なものがあるでしょうに――とまたこの状況に相応しくないことを考えている自分に気がつき、トリスタンは最早、笑うことすらできなかった。
    「……ああ、まったく」
     どうしようもなく、腹を立てていたはずなのに。どうも、長続きしませんね。
     自分のぶんの紅茶を注いだティーカップを片手に、トリスタンは腰掛ける。ベディヴィエールの隣、すぐ傍らに。
     すると、今度は二人の身体が同時に、ゆるやかに浮遊した。

    「卿は案外……ケチなのですね」
     ――ケチ? 突然に、しかしあまりにもなめらかに、するりと耳に飛びこんできたこの二文字に、トリスタンは意表を突かれる。とはいえそれも、ほんのひとときのこと。片頬をわずかに膨らませ、恨みがましいともとれる眼差しで自分を見つめているベディヴィエールの姿が視界に入った瞬間、すべてがちっぽけに思えた。
     まあ、いいでしょう。今は――そういうことにしておきましょう。私はケチな英霊。みすぼらしい釣り竿を持った騎士。それで構いません。今のところは。
    「今度はいつ、夜釣りへ行きますか?」
     もちろん、誘ってくれるのでしょう? ベディヴィエールの瞳がこう訴えている。そう思えてならない。だからこそ、トリスタンは今日も嘆く。天を仰ぎ、人のなまくら具合を常日頃から指摘してばかりいるくせに、自分自身のこととなると、とんと鈍感になる。そんな旧友の隣で。
    「夜釣りですか」
     あの愛くるしいホムンクルスのように、膝の上に乗せるわけにはいかないが――トリスタンは満足をしていた。
     角の丸まった羊皮紙を自分の顔を見比べ、ぱちぱちと目をしばたかせているベディヴィエール。彼の髪に触れる代わりに、ティーカップを手渡す。肩を抱く代わりに、ずり落ちているマントの位置を正してやる。
     トリスタンの手はいつでも、すぐに引っ込められる。そこに未練がましさが含まれていることはまあ、火を見るよりも明らかだ。しかし、そうだとしても。
    「さて――いつにしましょうか」
     今はこれでいい。今のところは、これで。


     Fin.
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