【フベラファ】君と往く血の道 僕は死ぬ。この月明かりに見守られながら、僕の肉体は終わりを迎え、明日には火に燃やされて、その痕跡すら無くなる。来る復活の日のための肉体が無くなり、魂は地獄に至る。C教によれば。
僕は死ぬ。まもなく毒が全身に周り、弛緩して、呼吸ができなくなる。体は冷たくなって、糞尿を垂れ流す。最初に牢に来るのはノヴァクというあの異端審問官だろうか。彼が僕の死体を運ぶだろう。
僕は死ぬ。その知らせはポトツキさんにも行くだろう。ポトツキさんはどう思うだろうか。きっと驚愕し失望するだろう。
僕は牢にあるたった一つのくり抜かれた穴を見る。そこからは空が見えた。
この世界は、僕には生きるのが楽勝なはずだった。
笑顔で誰にでも明るく振る舞い、求められたことを学び、発言していれば、僕はどこへでも行けたし何でもできたはずだった。それは孤児としてこの世界に放り出された僕が生き抜くたった一つの正解で、これが正しい道のはずだった。
だけど本当は思っていた。そんな風にうまくやりくりするだけで生きていく世界に何の意味があるのかと。一人で生まれて一人で死ぬ世界に、どんな価値があるのかと。
本当は何もかも虚無なのではないかと。
フベルトさんと出会って別れるまでは、振り返ると嵐のように短かった。だけど重要なのは時間の長さではなかった。
フベルトさんは僕に大切なことを教えてくれた。
僕の生まれた世界には意味があった。
空が美しかった。
世界は美しい真理でできている。
僕は美しい世界に生まれたことを自分で確かめることができた。
僕は生まれてきて良かったのだ。
死んでもいいと思えるくらい、世界と自分を愛することができた。
これは大きな収穫と言えるだろう。
なぜ僕がこの世界に生まれたのか今ならハッキリと分かる。
これを美しいと思うためだ。生きていて良かったと思うために生まれたんだ。それに気づくことが出来て本当に良かった。
空っぽの心で空っぽの人生を生きて世界が空っぽだと勘違いしたまま死ぬより、どれだけでも素晴らしいことだと、断言できる。
毒が回ってきた。息ができないのに、身体は息をしようとビクビクと震えている。必死に胸を動かし、喉を震わせても叶わないのに、その動き自体を制することはできない。唇の端から唾の泡が垂れていくのが分かる。
視線は夜空から焦点を離れ、いつの間にか冷たい地面に倒れていたことを知る。
もう見るべきものもない。
苦しさの中で目を閉じようとした時、涙で世界が光って見えた。
差し込む月の明かりが小さな粒になって光っているようだ。
死ぬ間際にしては、悪くない視界だ。
小さな粒は、風でも吹いているようにくるくると渦を巻いている。
その渦が何か模様を描いている。人の顔、フベルトさんの顔だ。
伝える機会はないのだと思っていたが、すぐに来た。
ねえフベルトさん、あなたの研究、ちゃんと守りましたよ。
だから安心して、きっと誰かが続けてくれます。
思うだけで伝わればいいのに、視界に浮かんだフベルトさんの顔に向かって僕はそんなことを思う。
そして光の粒の中で目を閉じた。
つめたい。そして、かたい。
当然だろう、死んだんだ。
死体は、孤児の頃に見たことがある。
死ぬと、人は冷たくなるんだ。
燃やされて肉体がなくなっても、死んだら冷たいのだろう。
不思議なことだ。
死んでも、冷たいと感じる部分は残るようだ。
それに、こうして思考することもできる。
やはり、やってみないと分からないことばかりだ。
視界がまだらであることに気づいた。少し明るいところと、そうでないところがある。
どうも、明かりがさしている方向があるのだ。
それに、その視界に気づいて同時に理解したが、瞼もある。
瞼の下で、目をごろごろと動かせる。生きている時とおんなじように。
なんてことだ。
驚いて咄嗟に目を開けそうになって寸前でやめた。
目を開けたら、死後の世界を見ることになる。
絵でみたような恐ろしい場所なのだろうか。
それともそうではないのか。
もし、目を開けても、今と全然視界が変わらなくて、ぼやけた明かりしかないとしたら。
ぞっとして、寒気を感じた。やはり、寒い、とは思うのだ。
目を開けてみよう。
恐る恐る瞼を動かす。とても重く感じた。
……。
ああ。
残念だが、やはり死の世界は暗いようだ。
ぼんやりと明るい方向があるのは、まだいいかもしれない。本当の真っ暗闇だったら、叫び出していたかもしれない。
叫ぶ、叫べるのだろうか。
ああ、驚くことばかりだが……僕は今、鼻で息をしている。
それに、意識して気づいたが、闇の世界だが、匂いはある。湿っぽく、土や葉の匂い、灰の匂い、ごくわずかだが、何もないより、いいだろう。
鼻があると気づいた時にもう気づいていたが、どうやら、僕には全身がある。頭から、足まで、伸ばしたり曲げたり、できそうだ。
これはいったいどういうことだ。死ってのは、こういうものなのか?
いくら世間で言われていたことが誰も証明してないからとはいえ、いくらなんでもありえない。だが、これが今僕の感じている実感だ。
もしかして、僕は死んでいないのか。
毒が足りなかった?あの異端審問官が、自殺だけは止めようと、あの後医者を連れてきて、どうにかしてしまったのか?
僕を治療した後で拷問にかける予定なのかもしれない。
どっ、と冷や汗が出た。
いつか街中で見た、火刑に処される異端者の様子を思い出す。
人の焼ける匂い、皮膚がボロボロになり、ぎょろついた目つき。
あれだけは嫌で、服毒を選んだというのに。
となると、今、僕が目を開けた、この暗い場所はどこだ?
どこか別の牢屋なのだろうか。
その時、音が、聞こえた。
足音だ。
やはり、予想通り、僕は死んでいないのだ。なぜか分からない。だが、これから、一番苦しみながら死ぬのが決まってしまった。
生意気なことを言って怒らせよう。それですぐに気絶するか、運が良ければ、うっかり大人の力で死ねるかもしれない。普段大人の異端者しか相手にしていないんだろうから、力加減だって間違えるだろう。
これでいくしかない。
ガタガタと震えている。ああ、こんなに怖いと思ったり、震えたりするなんて、もうどう考えたって生きているとしか思えない。
足音が近くで立ち止まる。ほの明かりが消えて真っ暗になった。そこに人が立ったんだ。
眠っている振りをしよう。そう思って、目を閉じた。ぎゅっと瞑ってはいけないというのは恐ろしい。自然に、眠るようにしなくてはいけない。そう努めるほど、心臓がどうしようもなくバクバク動いた。最後に息を思い切り吸い込む。
ガタン
音がして、視界が明るくなる。
誰かが僕の顔を覗き込んでいる。
気づかれないくらい、細く細く息を吐いた。
今だけは、まつ毛一本動かしてはいけない。
そうして耐える時間は、とても長く感じた。
緊張を破ったのは意外な声だった。
「ラファウ」
「⁉︎」
低く、撫でるような声音。
もう聞けるはずのない声。
フベルトさんのものだ。
「……起きたな」
耐えきれず目を見開いた僕の視界に、フベルトさんの顔が飛び込んでくる。
牢屋の中で、死ぬ間際に見た幻ぶりだ。
「……ッ、……⁉︎……っ、ヒュ……」
「飲みなさい」
ぱくぱくと口を動かす僕に、フベルトさんが木を削っただけの器のようなものを差し出し、中身を飲ませてくれた。とろみのついたそれは果汁のように甘くて、乾いた喉を潤してくれた。むせないように身体を起こしてくれて、僕は器が空になるまで飲んだ。
「……フベルトさん?」
「そうだ。まさか、また会うことになるとはな」
「……」
フベルトさんは、僕を庇って焼かれて死んだ。異端研究をしていることが分かったら二度目は火刑と決まっていた。それは揺るがない事実だ。
じゃあやっぱり、僕は死んでいるのか?
「会うとしても、もう少し先のつもりだったが。君は推し量れないな」
フベルトさんのその声は落ち着き払っている。僕から器を受け取る時に少しだけ触れた指が冷たくて、やはり死んでいると冷たいのだと思った。
僕は言葉を失ったまま、周りを見まわした。どうも、ここは洞窟のようだった。曲がった先が出口なのか、少しの明かりが差し込んでいる。僕は棺の中で眠っていたようだ。
死後の世界というのは、こういうものなのだろうか。
「……死んで、最初に会えるのがフベルトさんっていうのは、ちょっと気恥ずかしいですね」
「ラファウ、待て、勘違いしているようだが」
「?」
「君は死んでなどいない。そして、私もだ」
「え、で、でも、フベルトさん、火刑になって、」
「ああ。それは間違いない」
混乱したままの僕にフベルトさんは続ける。
「私は人ではない。そして、君も死んでいない。私の力を分け与え、生きながらえさせたのだ」
「は……?」
あんぐりと口を開ける僕に、フベルトさんは僕に地動説を語ってみせた時と同じ、真剣な顔をしていた。
「人の姿をしているが、そうでないもののことを知っているか?」
フベルトさんは、そんな風に切り出した。
「悪魔ですか」
「君のいう悪魔とはC教が生み出した作り話だ。そうではなく、実際に、たとえば獣の種類のように、人に姿の似た、人ではないものがいる」
「……フベルトさんは、そうなんですか?」
「そうだ。見た目こそ人だが、ずっと頑丈だ。燃やされ、肉体を失ってすらいても、条件さえ揃えばまた活動できるようになる」
「死なないんですか?」
「死なないわけではない。人とは異なる仕組みで生きているのだ。一見、そうは見えなくとも」
そういうフベルトさんの横顔は人のようにしか見えない。
「驚かせるようなことばかり話してすまないが、大事な話なので続けさせてもらう。私は、君にペンダントを託し、自分は時間をかけて回復するつもりだった。君の様子も見るつもりなどなかった。私は死人のはずだからな」
「……」
「だが、偶然、たった十二の少年が異端者として捉えられたと聞いて、耳を疑った。それどころか、明日から異端審問にかけられるようだと知って……何もせずにはいられなくなった」
「……」
「君を助ける方法はいくつかあったが、まさか毒を飲むとは……私が牢に行った時、君はすでに瀕死で、あれしか方法がなかったのだ」
「方法……ってなんですか」
「君の血を飲み毒を吸い上げた」
「……」
「自分の首を触れば分かる。まだ跡が残っている」
疑わしい目をした僕にフベルトさんは促すように言った。
首に触れてみると、確かに、左肩の方に押すとズキっと痛む部分がある。噛みついて、吸い出す?瀉血みたいなものだろうか。
「毒を吸い切った時、そのままでは血が足りず死んでしまうところだった。君に私の血を与え、こうして回復するまで休ませることにした。……しかし君はもう人ではない。私と同じ、人ならざるものになったのだ」
フベルトさんはそう言うと、突然口を大きく開けた。
「わっ」
指で示されずとも、尖った歯が左右に一本ずつ覗いている。あれで僕の首に噛みついたと言うことだろう。。
「君もこうなる」
「別にそんな目立たないですね」
「問題の本質はそこではない。これはこうして獲物の皮膚を傷つけるためにある。我々の糧は血液だ。先ほど君に飲ませたものも、動物のそれだ」
「えっ」
「不味いと思わなかったはずだ」
「……」
口に広がる味を思い出す。胃がムカムカしたが、果汁のようだと思って啜ったのが事実だった。
「申し訳ないが、これから君は二度と人と同じように生きていくことはできない」
「二度と……」
僕は胃のあたりを抑えながらフベルトさんを呆然と見つめ返した。が、この時の僕はまだ問題の半分も理解できていなかったーーー