雰囲気ホラー/官→ナギ 黄色いカーペット。湿気とカビの匂い。ぼんやり濁った明かりが転々とついている。不自然に明かりがないところが目立つ。
既視感。それが最初に抱いた思いだった。来たことがないのに、見たことがある。部屋と部屋を繋ぐ廊下、壁はうっすらと模様のある壁紙が貼られている。どこにでもありそうな光景だと言えば、それまでだ。
しかし決定的に、これがただのデジャヴなどではないと言える。廊下の角を曲がると、また廊下。意味もなく回廊の形になった箇所、広々とした空間が出てきたと思えば、身体を横にしなければ通れないほどの細い道、そして、それらのどこにも……
「何もないであります」
隣の男が漏らした一言は、同意も否定も求めず、淡々と事実を述べていた。そう、ここには何もない。ただ廊下だけ、ただ通路だけが続く空間。入口も出口も扉も部屋もない。
そんな場所をナギリは知らない。かれこれ三十分ほど歩き回り、今抱くのは、認めたくない、という強烈な拒否感であった。
吸血鬼の仕業かと思い気配を探るが、なんの気配もなかった。虫やネズミのいる己の根城の方がまだ賑やかだと思うくらい、生気の感じられない場所だった。
何百回目かの角を曲がると、曲がる前と全く同じ廊下が続いている。来た道と行き先を何度か見比べたら、どちらから来たのかすぐに分からなくなる。
「スマホ、繋がらないのか?」
「さっぱりであります」
充電を惜しんでか、カンタロウはスマホをすぐに仕舞った。
「一体、誰がこんな巨大な施設を作ったんでしょうか」
「フン、長いこと歩いて出てきた感想がそれか?」
半ば八つ当たりのように、問いに問いで返した。通路だけの場所に意味など見つけようもない。「吸血鬼の仕業かと思いましたが、気配があまりにもないであります」
「分かるのか?」
「本官、ダンピールではないですが……生き物の気配がしないでありますから」
『辻斬りナギリ』に関してのみ異常なほど五感を研ぎ済ませているが、本来カンタロウは丈夫なだけの人間である。その彼にも分かるほど、ここはおかしい。
「……」
「歩きながら、考えていたであります。ここはなんだか、生き物の腹の中のようだと」
「言ってて絶望しないのか。もし巨大吸血鬼の腹の中なら、俺たちはおしまいだぞ?」
「腹なら、入口か出口が必ずあるのでありますよ?」
それを希望だと信じて疑わない口ぶりだった。
カンタロウの歩くペースは変わらない。歩く音はすぐに床に吸収されて、ほとんど静かだ。
ここが吸血鬼の腹の中だとして。それなら詰みというわけだ。それでも深く絶望しないのは、きっと己の未来に希望など持っていないからだろう。詰んでいるのは、ここに来たからではない。べつに、もっとずっと前から、変わらないことだ。
詰んでいるのはこの男も同じだ。辻斬りナギリを追いかけるカンタロウ。もう二度と彼の目の前に彼の求める辻斬りは現れないというのに、それを求めることだけが人生になってしまった。
「辻田さん、疲れてないでありますか?」
「いや」
「よかったであります」
「……お前は?」
問い返したのは、気遣いなどではない。
「実は全く疲れてないであります!喉も乾きませんし、この調子なら必ず出られるであります!」
やはり、この場所の異常さは人間の体にも影響するようだった。
そこでふと、己の身体にこびりついていたはずの渇きが薄まっているのに気づいた。
「……」
カンタロウが少し先を歩くのをいいことに、手のひらで刃を出してみる。輝きは足りないが、確実に硬度が普段より高い。
「休みたくなったら、すぐ本官に教えてください!」
「こんなとこ、いつまでもいたらカビが生えそうだ」
突然振り向くので、手は慌てて背中に隠した。
その仕草で、この不気味な黄色い廊下に放り出される前の出来事を思い出す。
いつものように道すがらカンタロウに見つかり、辻斬り調査だと街中を連れ回された。
「辻田さん、危ないであります!!!!!!」
ズドン!と耳元で響く振動。
「吸血蚊でありますね」
カンタロウが振り向きざま、自分の背後のブロック塀に凄まじい勢いで張り手をかましたのだ。その日一日振り回された鬱陶しさ、下級の吸血鬼化した生物など己にとって危険ではないのにそれから守られた苛立たしさ、全てないまぜになって突き放して帰ろうと思った次の瞬間、ここに立っていた。
ただそれだけのことだった。何か特別なことがあったわけではない。いや、これは断じて、こいつに振り回されるのに慣れてしまったというわけではない。ないが、良くも悪くもシンヨコらしい日常だった。
いや、一つ違うことがあった。吸血蚊に気づくより前にカンタロウは振り向いていた。その時、何か話しかけようとしていた。
「おい」
「はい!何でありますか?」
「ここに来る前、何か言おうとしてたな」
「?吸血鬼化した蚊がいたので、退治したであります」
「その前、何か言いかけてただろう」
目の前の背中が立ち止まり、こちらを向く。その表情にはやや翳りはさしていたが、やはり本人の言うとおり歩きっぱなしのわりに疲労の色はなく、何よりも瞳に、変わらぬ炎が燃えていた。
「それは、ここを出てから言おうと思ってるであります」
「何?」
「大事な話でありますから」
「は?」
不意に飛び出してきた思ってもない返事だった。
「相当参ってないか?」
「な、そんなことないであります!」
「大事な話なら今言え」
「戻ったら言うと決めているであります」
「さっきも言ってたが、ここが吸血鬼の腹の中なら、もうおしまいってことなんだぞ」
「……」
じっと見つめ返される。馬鹿だが無神経なだけではない、それがカンタロウの厄介なところだった。ナギリの瞳に何を見つけたのか、パッと表情を明るくする。
「あ、待て。俺は別に不安ってわけじゃ」
「安心してください、辻田さん。必ず、無事にシンヨコハマまで送り届けるであります!」
「引っ張って走るな!無駄に体力を消耗するな!」
「こんなに歩き回っても疲れてないであります!走っても大丈夫か実験する価値はあると思うであります!」
「おい!」
振り回されながら、カンタロウの大事な話のことを考えるが、ちっとも想像がつかない。そう、この暴走機関車みたいな男のことを、いまだに、ほとんど分かってないのだ。
ついに、辻斬りの正体に気づいたのだろうか。シンヨコハマに戻って、そのまま捕まえるつもりということだろうか。
だったら今、少しでもこの刃の鋭いうちに手にかけてしまうしかない。ここには吸対もいない、ハンターもいない、他の面倒な一般人も、吸血鬼もいない。カンタロウを殺しても、そのことに誰も気づかないし誰もナギリを追いかけない。
そう、だからこそ、その後、ここに詰んだ吸血鬼が一人残るだけだと分かっていたから、もうどうしても刃を振るえそうになかった。