#鎮_別に　別に全く恐怖を感じなかったとか、そういう訳ではなかった。
　ふと顔を上げたとき、窓の外に現れた海中の景色は確かに異様ではあった。昔にアニメ映画で見たオレンジ色の魚が花壇に咲く花の陰に消えて、海水に屈折してゆらめく太陽光を遮るようにマンタが窓の外を飛んだ。ざわめき始めた窓の内側を、小さな魚の群れが音もなく覗き込んだ。

　せいぜい二泊分かそこらの修学旅行用の荷物に、大したものは入っていなかった。下着が二枚と就寝用の体育着と、タオルが二枚、財布とスマホと学生証と保険証と薬。スナック菓子とか飴とかグミとか詰め込んでるやつもいて、それは今回に限っては良い判断だったのかもしれない。
　月が何度か満ちて欠ける間のことだと、スピーカーから流れた知らない声が語った。だいたい二か月間の間、この寝泊まりするに快適とは言い難い学校で過ごすことがどういうことなのか、いまいち実感が湧かないでいる。男子生徒は武道場で寝るようにとの指示があったが、微妙に汗臭さが染みついている感じがするのは俺だけなんだろうか。
　窓の外を泳ぐ名前の知らない魚を眺めるのにも飽きてくる。水に沈んだ校庭の花や木は、まるでずっとここが海中だったかのように当たり前の顔をして波に揺られていた。昨日までは虫が飛んでいた中庭をちらちらと鱗の光る魚が泳いでいるし、たまに野良猫が寝ころんでいたベンチには大きなサメが横たわっている。
　学校全体がいつもよりも薄暗い。窓から入ってきた光が青く落ちた階段の踊り場に、はしゃぎながら写真を撮る数人の女子生徒たちの声が響いていた。透き通る青の光が、どうやら「盛れる」らしかった。
　最上階から屋上へと続く階段は、使う人間がほどんどいないせいか埃っぽく汚れている。一週間くらい前に隅の方で死んでいた小さな蛾がいなくなっていた。普段は施錠されている屋上へのドアが薄く開き青くはない光が漏れていて、それで屋上部分は海上に出ているんだと分かった。遠くの方で、何人かの男子生徒がわっと声を上げた。
　ドアノブを握って外側へ押すと、錆びたドアが軋んだ。海中の青に慣れていた目の奥が痛んだ。眩しさに奪われた視界の中で、校舎の壁に波が当たる音がする。
　ドアの先にいた誰かが振り返った。