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    【リヒト】小話①

    #okdeeer_Licht
    okdeeer_light

    enchant 木々の葉が明るい緑に染まり始めた五月の初旬。地上ではまだ肌寒さの残る頃ではあるものの、地下の気温はきっちり二十四度に管理されている。人々は上着を既にクローゼットの奥へと仕舞い込んでいるはずだ。
     桜の木の下に人が集うことがなくなって久しいが、日本人というものはどうにもこの花が好きで仕方がないらしい。花見の文化は仮想現実内でひっそりと形を変えて継承されている。とうに地上の桜は散ってしまっているというのに、まだ地下市民たちの桜シーズンは終わらない。デジタルサイネージは絶え間なく桜の花びらを散らしているし、コンビニでは桜をモチーフにした新商品の発売ラッシュがいまだに続いていた。
     背を預けている大型のモニターからは、さっきからずっと来週公開されるという恋愛映画の動画広告が流れ続けている。十代から二十代に人気の少女漫画を人気のアイドルと女優を主演に実写化したもので、待望の映画化と銘打ってはいるものの、その実態は少々危ういらしい。確かにキャストの公開当初から、同僚の乙女(自称)は「マコトくんは三次元に連れてきちゃいけない存在だって私ずっと言ってるのー!」と大層ご不満な様子だった。やだなぁやだなぁと言いながらも、しかし彼女は一人でもこの映画を観に行くだろう。そういう子だった。そして理想とは違うマコトくんに打ちひしがれながら結局最後まで観て、号泣して帰ってくる。その足で話を欠片も聞いていない親友にわぁわぁ感想をぶちまけに行って、寝て起きてスッキリした頭で出勤して、残りカスみたいな「まぁ脚本は認めてやらなくもないの」という強がりだけを俺に話すのだろう。今までも何回かそういうことがあった。
     待ち合わせの時間まで、まだ十分ほどある。そして待ち合わせ相手は、数分時間を過ぎなければ現れないことを、俺はよく知っていた。
    「デートの待ち合わせには十五分くらい早く来るのが当たり前よ」彼女は何年も前、俺にそう教えたひとだった。「だけど女の子の遅刻は大目に見てほしいわ、目一杯オシャレして来るんだから」
     その言葉通りに、彼女は待ち合わせ場所に現れる時には、いつもふんわりとスカートを揺らして、かかとのくらくらしそうな細いヒールの靴を履いていた。髪の毛を丁寧に巻いて、頬にはやわらかくピンクのチークを差して、まつげがくるんと上を向いていた。
    「理仁」
     記憶の中の声と鼓膜を揺らした声が重なって、俺は顔を上げた。ふんわりと揺れるスカート、かかとのくらくらしそうな細いヒール、丁寧に巻いた髪と少しだけ上気した頬、それから上を向いたまつげ。
    「遅れてこなかったんですね」
    「だってもうデートじゃないもの」
     そう言って彼女が笑うから、俺は少しだけほっとした顔を誤魔化せたかわからなかった。どうしたって上手く表情を繕えやしなくて、それは昔からずっとそうだった。彼女はよく俺の頬を両手の指で掴んで捏ねくり回した。「まだちょっと笑顔が固いわ」
     先に歩き出した彼女の手を取るか一瞬迷って、それでやめた。彼女はデートじゃないと言い切ったから、俺のやることはもう最小限で良いんだろう。手を取って指を絡めることも、腕に絡みつく彼女の髪の毛を撫でることも、急にせがまれた時にするキスも、たぶんもういらない。
    「手繋ごうなんてダサいこと言うのはナシよ」
    「撫でて。たくさん。そう、上手」
    「わかるでしょ? キスしてよ。だぁめ恥ずかしがってないで!」
     人の多い通りを軽い足取りで歩く彼女の隣を、三十センチばかり開けて歩いた。俺と彼女の間に小さなハンドバッグが揺れているのが、ひどく新鮮なことのように思える。見れば小さな爪は短く丸く整えられていた。ラメだとかストーンだとか派手なカラーのジェルだとかは何も載っていなくて、爪の脇に少しだけささくれが見えた。それがどうにも俺の中にある彼女のかたちと結び付かないから、まるで他人の手のように見えておかしい。ささくれた細い指は、もう花を散らしてしまった桜の木の枝によく似ていた。
     しばらく歩くと彼女がカフェに入りたいと言うので、大きな通りから一本入った場所にある木製のドアを引いた。ドアを押さえて先に通すと、彼女の声は少し弾んだ。「ありがと」
     コーヒーの匂いの満ちる店内は薄暗い。彼女は明るく開放的で紅茶の匂いがするカフェよりも、穴ぐらみたいな喫茶店が好きだった。長いカウンターテーブルの向こうに壮年の男性の姿が見える。今どき珍しい手挽きのミルのハンドルをゆっくりと回しながら、彼は片手をゆっくりと店内に向けた。店の一番奥、小さな二人掛けのテーブルに向かい、椅子を引いて先に座らせると、彼女はショールの掛かった薄い肩を震わせて笑った。エアコンの風が直接当たらない席取りから椅子の引き方まで、やっぱり俺に教え込んだのはこのひとだった。
     俺と彼女の他には、カウンターの中央辺りにサラリーマン風の男性がひとり。それ以外に客はなかった。彼女がアイスコーヒーを頼むので、頃合いを見て温かいミルクを頼む必要があるなとぼんやり思う。
    「四年ぶりね」
     不意に投げかけられた言葉に、思いの外戸惑う。四年ぶりだ。それは間違いがなくて、俺が最後に彼女の顔を見たのは確かに四年前の、まだ十七になったばかりの頃だった。その時の彼女はふんわりとしたスカートなんか穿いていなくて、ヒールも太く低めのもので、髪の毛もまとめていたし眉毛を描いただけの顔だった。青ざめた横顔を見た記憶は確かに四年前のものなのに、こうして彼女と顔を合わせるのはもっとずっと久しぶりのような気がする。
     ふんわりと揺れるスカート、かかとのくらくらしそうな細いヒール、丁寧に巻いた髪と少しだけ上気した頬、それから上を向いたまつげ。それを最後に見たのは六年前だ。貴方の元を離れると告げた日。ふんわりと広がるスカートがくしゃくしゃになるのも、きちんと上げたまつげがしっとりと落ちてくるのも構わずに、彼女は泣いた。
     答えずにいると、彼女の目元にじんわりと笑みが浮かんだ。目尻が甘く垂れて、さざなみのような細かな笑い皺が寄せて返す。桜の木の枝みたいな指が、ストローの包み紙をぺりぺりとやけに丁寧に破いた。
    「どう? 楽しく……と言ってもそんな職場じゃないのかしら。見た感じは元気そうだけど」
    「……えぇ、まぁそれなりに楽しくやってますよ。そんなに毎日深刻な訳でもありませんから」
     彼女がグラスに挿したストローでアイスコーヒーを吸い上げる。薄めの唇はあの頃と変わらなくて、でも今は微かに荒れているようだった。
     大きな氷がグラスの中でからんと音を立てる。店内には囁くような音量でジャズが流れていた。カウンターの奥で豆を挽く音、サラリーマンが紙にペンを走らせる音、ドアの向こうを歩く人の靴音。ひとつひとつが粒立って一緒くたに耳から流れ込んでくるのが心地よくもある。
    「貴方は変わりませんね、かえちゃん」
     迷った挙句に口に出した言葉が、それで正解だったのかはわからない。さっき口に含んだアイスコーヒーは苦味だけを残して、乾いてひりついた喉を潤してくれたりはしなかった。彼女は俺の知っている姿とは確かに変わっていたけれど、それを認めるには俺はまだ子どもだった。変わっていなければよかったと思う。あの頃と同じ、年端も行かない少女みたいな笑顔で俺の手を取るのなら、俺はきっと貴方に教えられた以上の気遣いと優しさを塗りたくって、一分の隙もなく貴方に向かって微笑むことができるのに。
    「あは、まだそうやって呼んでくれるの?」
     貴方はこういう静かな店でも、似つかわしくないくらいに明るい笑い声を上げるひとだった。それは今も変わらないけれど、名前で呼ばなければ一時間でも二時間でも拗ねていた貴方は、たぶん俺の目の前にはもういなかった。
    「いいのよもう。デートじゃないって言ったでしょう」
     落ち着いた声と伏せた視線がやけに寂しそうで、どうしたらいいかわからなくなる。今になってそんな顔をしないでくれと叫びそうになって、でも言葉にならないからぐっと喉の奥で噛み殺した。
     貴方が泣かないなら、怒って叫ばないのなら何だってよかった。貴方に教えられた仕草で、貴方に教えられた言葉遣いで、貴方に教えられた呼び方で、貴方に教えられた笑顔で、俺は何にだってなろうと思った。
     だから貴方が望むなら、俺は貴方の小さな恋人をやめて、本来の声で、言葉で、今さら貴方を呼ぶしかなかった。
    「うん。久しぶりだね、母さん」
     母親に向ける顔はこれで合ってるかな。そう聞けば、やっぱり貴方は泣いてしまうのだろうか。
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     桜の木の下に人が集うことがなくなって久しいが、日本人というものはどうにもこの花が好きで仕方がないらしい。花見の文化は仮想現実内でひっそりと形を変えて継承されている。とうに地上の桜は散ってしまっているというのに、まだ地下市民たちの桜シーズンは終わらない。デジタルサイネージは絶え間なく桜の花びらを散らしているし、コンビニでは桜をモチーフにした新商品の発売ラッシュがいまだに続いていた。
     背を預けている大型のモニターからは、さっきからずっと来週公開されるという恋愛映画の動画広告が流れ続けている。十代から二十代に人気の少女漫画を人気のアイドルと女優を主演に実写化したもので、待望の映画化と銘打ってはいるものの、その実態は少々危ういらしい。確かにキャストの公開当初から、同僚の乙女(自称)は「マコトくんは三次元に連れてきちゃいけない存在だって私ずっと言ってるのー!」と大層ご不満な様子だった。やだなぁやだなぁと言いながらも、しかし彼女は一人でもこの映画を観に行くだろう。そういう子だった。そして理想とは違うマコトくんに打ちひしがれながら結局最後まで観て、号泣して帰ってくる。その足で話を欠片も聞いていない親友にわぁわぁ感想をぶちまけに行って、寝て起きてスッキリした頭で出勤して、残りカスみたいな「まぁ脚本は認めてやらなくもないの」という強がりだけを俺に話すのだろう。今までも何回かそういうことがあった。
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