サッカーボールカフェの扉を押し開けると、ふわりとコーヒーの香りが鼻をくすぐった。午後の陽射しが窓から差し込み、木目のテーブルを暖かく照らしている。
「やあ、彰人くん!」
カウンターの向こうから陽気な声が響く。見れば、カイトさんがこっちを見ていた。相変わらず、気楽な笑顔を浮かべている。
「……何してるんすか?」
オレがそう尋ねるとまるで子どもみたいな無邪気な笑顔を見せた。
「ん? メイコに頼まれて、ちょっとお店番さ。コーヒー、淹れてあげようか?」
「いや、今日は遠慮しておきます」
カイトさんのコーヒーが美味いのは知ってる。だけど、今日は別にそれが目的じゃない。オレはため息をついて、カウンター席に腰を下ろした。
「なんか疲れてるみたいだね」
カップを拭いていたカイトさんが、じっとこっちを見てくる。鋭い視線ってわけじゃないけど、優しさが滲んでいて、気を抜くと心の奥まで覗かれそうな気がする。
「……まあ、色々あって」
適当に言葉を濁した。練習のことで思うようにいかないことばかりで、正直、息が詰まっていた。セカイに来れば、気晴らしもそうだが、あっちよりは静かに考えるがまとまるかと思ってここに来た。
「そうか……ねぇ、ちょっと付き合ってくれる?」
そう言ってカイトさんは、カウンターから出ると、オレの手首を軽く引いた。
「え、おい、ちょ……!」
気づけば、オレはカフェを出ていた。カイトさんはゆっくりとした足取りで、セカイの路地を歩く。
「たまにはのんびりしようよ。ずっと頑張ってると、疲れちゃうだろ?」
「別に、オレは……」
「うん、彰人くんは相変わらず強いね。でも、たまには誰かに甘えてもいいんじゃない?」
オレは、無意識に握られていた手を見下ろした。カイトさんの手はひんやりと冷たくても柔らかい。変な安心感があって、無理に振り払う気にもなれなかった。
「……甘えるとか、ガラじゃねぇし」
そう言うと、カイトさんはくすっと笑った。
「じゃあ、こうしよう。ボクが勝手に甘やかすってことで」
カイトさんの手が、そっとオレの髪をくしゃりと撫でる。思わず体が固まった。
「お、おい……!」
「ふふ、彰人くんの髪、触るの楽しいな」
軽い調子で言いながら、カイトさんはまた撫でてくる。オレの髪、そんなに触って楽しいのか?
「やめろって……!」
顔が熱い。すぐにカイトさんの手を払いのけたけど、内心、動揺が収まらない。
「ははは、ちょっとは気が紛れた?」
カイトさんが微笑む。その顔を見て、オレは息を吐いた。
「……まぁ、髪はぐちゃぐちゃですけど」
カイトさんは満足そうにオレに微笑む。この人のこういうところが憎めない。
そんなことをしていると、どこかから聞き覚えのある高い音が聞こえた。音を追って視線を向けると細い路地からポーン、ポンと軽快な音とともにサッカーボールが転がってきた。
「サッカーボール……?」
人の気配はないのに、ポツンとやってきたボールを不思議そうに眺めるオレをよそにカイトさんはそのボールを嬉しそうにひろう。
「ちょうどいいね。これで遊ぼうよ」
カイトさんが軽くボールを足元で転がす。その仕草がやけに様になっていて、思わず目を奪われた。
「……遊ぶって、オレたちでか?」
「うん! ちょっと体を動かせば、気分もスッキリすると思うんだ」
カイトさんは軽やかにボールを蹴り上げると、足の甲で器用にリフティングを始めた。妙に様になっている。
「カイトさん、サッカーできるんすか?」
「んー、詳しくはないけど、大丈夫じゃないかな」
曖昧な返事なのに、ボールを器用に足の間で転がしてみせる。いや、この人本当に詳しくないのか?
「ほら、彰人くんも!」
そう言って、オレの足元へとボールを転がしてくる。オレは反射的にそれを止めた。
「……まぁ、軽くなら」
正直、こんなのやってる場合じゃない気もする。でも、カイトさんの言う通り、考えすぎて頭が煮詰まってるのも事実だった。
オレはボールを蹴り返す。カイトさんがすぐにそれを受け止め、また軽く蹴り返してくる。最初はただのパス交換だったけど、次第にオレも夢中になってきた。
「よし、じゃあちょっと競争しようか!」
「競争?」
「うん、ゴールはあそこの壁! 先に当てたほうが勝ち!」
カイトさんが少し先のレンガ壁を指さす。オレは思わず苦笑した。
「……子どもかよ」
「ふふ、そういうのは言わないの」
カイトさんはくすくす笑いながら、ボールを足元にセットした。オレも、負ける気はしない。
「じゃあ、いくよ? よーい……スタート!」
掛け声と同時に、オレたちはボールを追って駆け出した。
ボールを転がしながら、オレはカイトさんの動きを読む。カイトさんの足さばきは意外と軽やかで、思ったよりも速い。
「へぇ……やりますね」
「ふふ、彰人くんに負けるわけにはいかないからね!」
軽く笑ってみせるが、確かに手加減する気はなさそうだ。ボールを巧みに操りながら、カイトさんはオレより先に壁へと向かっていく。
「っと……させるか!」
オレは素早く横へ回り込み、カイトさんの進路を塞ぐ。
「おっと!」
カイトさんは慌てたように一瞬足を止めるが、すぐにボールを細かく動かし、オレをかわそうとする。
「マジで逃がさねぇっすよ……!」
オレは体を低くし、完全にコースを塞ぐように足を出した。
「うーん、やっぱり彰人くん、そう簡単には抜かせてくれないね」
カイトさんは少し困ったように笑って、ボールを一度後ろに引く。
(今だ——!)
隙をついてオレが足を伸ばした、その瞬間——
「えっ!?」
カイトさんがふわりとボールをすくい上げるように蹴り、オレの足をひょいっとかわしていった。
「な……!?」
「ふふっ、いただき!」
カイトさんが軽快にボールを蹴り、一直線に壁へ向かう。 ……ヤバい、このままだと——
「ちょ、マジかよ……!」
オレは慌てて追いかけるが、カイトさんは絶妙なタイミングでシュート。ボールは軽やかに壁に当たり、ポーンと跳ね返った。
「やった!」
カイトさんが嬉しそうに手を叩く。その無邪気な姿に、オレは思わず脱力した。
「……クソ、負けた」
「彰人くん、結構本気になってたね?」
「うるせぇ……!」
息を整えながら、オレは軽く前髪をかき上げる。カイトさんは相変わらず楽しそうで、その顔を見てると、妙に気が抜けた。
「体を動かすと気分が晴れるでしょ?」
「……まぁ、悪くはなかったっすね」
思わずぼそっと漏らすと、カイトさんは嬉しそうに微笑んだ。
「よかった。ねぇ、ボク喉乾いちゃった。カフェに帰って飲み物飲まない?」
「えっと……、まぁ、そうですね。ごちそうになります」
「何に悩んでたのかも教えてくれるとうれしいな。コーヒーでも飲みながらゆっくり聞かせてよ」
「……え?オレ言いましたっけ」
「すっごい顔してたからさ。いつもの感じで何となくわかっちゃった」
カイトさんは少し困った顔をしながらもオレに優しく微笑む。敵わないなとオレも釣られて頬が緩んだ。
「めちゃくちゃ美味しいコーヒー入れてくれたら喋っちまうかもしれません」
「じゃ、パンケーキもつけちゃうよ!」
「それはたのしみだ」
悩んでいたはずなのに不思議と足取りが軽い。一人でうじうじしていたのが馬鹿らしくなってきた。カイトさんがまたオレの手を握り引っ張る。振り払う気になれなくてオレはそれを受け入れた。
―――冷たいのに暖かく無邪気なその手をオレは優しく握り返した。