やこふじやこ あれ、なんでこうなったんだっけ。
榊原千藤は自問する。
すっかり茹だった頭は、いつもよりぜんぜん使い物にならなかったけど、この状況がおかしいことぐらいは分かる。
「榊原さん、どこ見てはるん」
節くれだった指が千藤の顎をやんわり掴んだ。そのまま、ビジネスホテルの天井を眺めていた視線を固定させられる。すっかり腐れ縁になった同僚の顔が間近に迫って、それだけで視界が埋まった。
「こういうときに考え事するのマナー違反やない?」
「まな……?」
「あ、これ飛んどるだけか」
ならええか、と彼は気を持ち直したようだった。
顎から男の手が離れていって、半開きだった千藤の口に、大石夜光の舌がねじ込まれる。肉厚の粘膜に口内を蹂躙される。気まぐれに舌の裏筋を舐られると、千藤の爪先は快感で痺れて勝手に丸まった。
あれ、これキスじゃないか?
なんで私は大石とキスしているんだ?
脊髄を麻痺させる快楽に抗って脳を回そうとしたとき、夜光の両手が千藤の柳腰を掴み直した。
ぐ、と中を突き上げられる。
内臓が押されて、肉体が勝手に男を煽る声を出す。
「っあ、あ、ぁう、んぁっ」
「かーわい……あ、こら。シーツに浮気せんの。掴むとこ欲しいならこっちにしな」
夜光の右手が腰から離れて、枕元のシーツを握っていた千藤の指を丁寧に外した。
そのまま夜光の首に手を回すよう誘導させられる。
その間にも突き上げられていたから抵抗も億劫で、千藤はおとなしく夜光にされるがままにした。
動かれるたび、反射的に──決して望んでのことではなく──夜光に縋る力が強くなって、自分から喉元を曝すように男の頭を引き寄せていた。
がぶり、と首に噛みつかれてからの記憶がない。
***
頭がものすごく痛かった。
それは比喩であって、事実でもあった。
たしかに頭は痛い。昨晩は居酒屋でいつもより飲んだ覚えがあるから、おそらく二日酔いだろう。
ただ、いまはそれとは別枠の悩みもあった。
裸なのである。
千藤は就寝時に裸族になる人種ではないので、昨夜は寝間着に袖を通さず寝たことになる。いい大人なのに横着して恥ずかしい、と軽く反省して終われたらよかったのだが、そうもいかない。
知らない部屋のベッドの上なのだ。
様相から推すに、おそらくビジネスホテル。ラブホテルでなかったのは幸か不幸か、いまは棚上げしておく。ホテルの種類どころではない問題が、すぐ隣にあるからだ。
裸の男が寝ているのだった。
「………………」
千藤は痛む頭を抱えながら、何回か、自分の正気を疑った。
しかし現実は何も変わらなかった。
男、なんてぼかす言い方をしてみても、男の顔も依然千藤のよく知る大石夜光のままである。
(身体は……まあ、痛くないけど……)
千藤は努めて状況把握に励んだ。
身体に不調は感じない。
……のだが、全身のあちこちに噛み跡があるのはどういうことだろう。
自分で確認できない背面部はともかく、それ以外は四肢にも胴体にも、至る所を噛まれている。
噛み跡は腰にもあった。だが腰はそれより、ホラー映画顔負けにくっきりと残る、人間の大きな手の跡に心の底から引いてしまった。このまま鑑識に行けば指紋とか取れるんじゃないか、と職業病が働いてしまったほどである。
(いや……まだ……シーツは綺麗だし……)
二人の人間が寝ていたせいだろう、ところどころ妙に伸びてはいるが、ベッドシーツに汚れているところはない。
……と安心しかけたのも束の間、部屋の入り口付近に雑に丸められている別のシーツが目に入って言葉を失った。ではこれは替えのシーツか。シーツを替えるような事態があったのか。
「……ッ!」
いよいよ千藤は耐えかねて、未だ寝ている夜光をおもいきり突き飛ばした。
「……んん」
けれど、そう強くはない女の膂力。
突き飛ばす、というよりちょっと強めに叩くような形になってしまった。
夜光がもぞもぞと目を開く。いかにもな寝ぼけまなこが千藤を捉える。
沈黙。
「……は?」
彼は目をかっ開き。
「え?」
思わずといった様子で後退して。
「ガッ」
ベッドから落ちて頭を打った。
お手本のような動揺ぶりだった。
***
「いやまだ決まったわけやないし」
諦めることのない男の姿がかくも見苦しいものであるとは、千藤はゆめにも思わなかった。
夜光は「えー……」とか「いやいや」とか言いながら、部屋の調査を始めた。刑事として現場を調べるときの能力が大いに活かされている手際の良さであったが、いかんせん全裸なので千藤はますます遠い目になるしかなかった。いっそ二度寝してすべてを放棄してやろうかとさえ思った。
シャワー室らしきドアを開けた夜光が動きを止める。
「……服あったで」
蚊が鳴くよりもか細い声だった。
身体にシーツを巻き付けた千藤も様子を見に行く。
そして夜光と同じく固まった。
下着を含めた二人分の衣服がくちゃくちゃになって落ちていた。
悲しいかな、どちらのものにも見覚えがあった。
「……あったね」
あったけど、これを着て帰るのか?
これを着て帰るしかないのか?
決して口には出さなかったけれど、千藤も夜光も同じ感想を抱いていたに違いなかった。
「あのさ」
千藤が声をかけると、夜光の肩はウサギめいて跳ね上がった。
「なんでアンタ、ずっとゴミ箱を見ないの」
夜光は明らかにゴミ箱を調べることを避けていた。
彼は「あー……」と語尾を掴ませない鳴き声めいた声を漏らしたあと、
「……見る?」
背水の陣を敷いた武将のような顔で千藤を見返した。
かくして二人はゴミ箱を正座で囲んだ。
一見、ティッシュやタオルが詰め込まれているだけのゴミ箱である。
その量がやけに多いことには、いまさらどちらも触れなかった。
千藤は夜光を見た。
夜光は軽く息を整えたあと、
「南無三!」
目を瞑って、ゴミ箱に手を突っ込んだ。
呆れる千藤が見守る中、彼はそのまま十数秒ゴミ箱の中で手を動かし、ふいにピタリと硬直した。
「どうしたの」
「……えーと……ですね……」
「何」
「……ぁ……ります、ね……」
「だから何が」
「…………ごむ…………」
この男の前でさえなければ、千藤は大声で泣き喚くことも辞さなかったに違いなかった。
「……私、彼氏いるんだけど」
「え」
「喜ぶな!」