猫かわいがりもほどほどに(岩柱と) 膝の上に「どうぞ」とお招きすると、兄はまずおずおずと前足を乗せた。感触を確かめるように、ぷにぷにとした桃色の肉球を太ももに押し当てる。足踏みをするように繰り返すと、やがて膝の上にひらりと飛び乗ってくれた。寝心地の良いところを探してくるくると回り、やがて僕の膝に丸くおさまった。最後に大きなしっぽをその身に巻きつけて、もう動かなくなった。予想していたよりも、ずっしりと重い。もふもふの尾を触るのは我慢した。しっぽに触ってはいけないと、岩柱様に仰せつかっているのだ。豊かな金髪を思わせるふわふわの背中をなでてみる。時折硬めの毛が肌をチクチク刺激するが、それが兄を彷彿とさせて、自然と頬がとける。しかし、同時に誰にでもこうして無防備な姿をしてみせるのだろうかという疑問が湧いて、水に落とした墨汁のようにもやもやと何かが広がった。たまらず、「ねぇ、兄上」と呼びかけた。
「僕のことがわかりますか」
「にゃあ」
「千寿郎です。あなたの弟ですよ。僕以外にこんなことしちゃだめですよ」
「にゃ」
「……わからないかぁ」
「んにゃう」
ころりと頭を沈めた兄の大きな耳だけがピンと立ち上がる。ぎしりと床が鳴いたと思えば、一瞬で大きな影にすっぽり包まれた。
「煉獄はどうだ? 千寿郎くん」
声の主は、岩柱様だ。穏やかな低い声は、おぼろげな記憶の中の父を思わせる。それにしても、大きな人だ。縁側に腰かけていると、さらに大きく感じる。いや、呆けている場合ではない。膝の上の兄上を抱き上げて膝立ちになったところで、「座ったままでいい」と片手で制された。
「すみません。自我を失って、ただの猫さんになっているみたいです……」
「己が何者であるかすらも捨てて休息することも、たまには必要だ。それにしても大きな猫になったな。しのぶが私に任せたのも納得だ」
兄が猫になったというとんでもない報せの差出人は、蝶屋敷の主人、胡蝶様だった。車を呼んで彼女のもとへすっ飛んでいったのだが、猫になった兄を差し出したのも、兄の状態を説明してくれたのも、岩柱様のところに行くよう指示したのも、胡蝶様ではなく隊服を着た女の子だった。竹を割ったような彼女の物言いに圧倒されたまま、兄のすっぽりおさまったかごを背負って、ここまでやってきたのだ。
「胡蝶様は、猫さんがお嫌いなのですか? お礼を申し上げたかったのですが、出てきてくださいませんでした」
「どうだろうな。私に手紙を書くので忙しかったのかもしれない」
とぼけるような口調に、それ以上何もたずねられなかった。
沈黙がやってくる前に、岩柱様が「これを」と手で封をされた桝を見せてくれた。「開けるぞ」内緒話するような声に黙ってうなずく。大きな手のひらの奥に現れたのは、鰹節だった。真意を問うように顔を上げると、盲目のはずの岩柱様が見計らったかのように話し始めた。
「玄弥が言っていた。煉獄はほかの猫とまったく馴染もうとしないし、給餌しても見向きもしないと。猫のいる部屋から放してやったら、一目散にきみのところへ走っていたそうだ。もしかして、自我があるのかもしれないと思ったんだが。まぁ、いい。鰹節なら、猫だろうと人間だろうと食べられるだろう」
話している間にも、兄はこんもり鰹節の入った桝のそばで、すんすんと鼻をひくつかせている。手のひらに鰹節を乗せて差し出すと、兄はざらついた舌でそれを舐めた。
「よかった、食べました。玄弥さん、兄上のこと見ていてくれたんですね。きっと食べないことを心配してくださった。ありがとうございます」
「礼を言われることではない。むしろ、こちらは詫びるべきだ。師匠として、無礼をお詫びする」
「そっ、そんな! とんでもないです」
岩柱様のお屋敷で出迎えてくれた玄弥さんの、苦々しい表情を思い出す。「炎柱の弟、千寿郎です。兄がこのとおり、猫になってしまって」という状況の説明がまずかったのだろうか。「鬼殺隊士でもねぇ奴が、柱んとこに来るなよ!」と怒鳴られたのには驚いた。なんとか、自分が蟲柱様の指示で伺ったことを伝えようと息を吸ったが、声にはならなかった。ぐっと握られた手の甲には青筋が浮かび、何かを抑え込むように震えていたのを目の当たりにして、何も言えなかったのだ。
沈黙を破ったのは、玄弥さんの後ろに現れた岩柱様だった。
「よく来たな、千寿郎くん。しのぶから話は聞いている」
「お、お邪魔します」
「玄弥。彼は私の客人だ」
「う……っ」
僕の視線の先をたどって振り向いた玄弥さんは、拳骨を一つもらって、「……ってぇ……」とその場で蹲った。薪割りを指示された玄弥さんはそのまま去っていったけれど、僕が何か気に障ることを言ってしまったのだとしたら、きちんと謝りたいと思っていた。
「私が、玄弥さんを怒らせてしまったかもしれません」
「そんなことはない。あれは八つ当たりだ」
「八つ当たり?」
思いもしないことだった。鰹節をつまむ手を止めると、膝の上の兄はねだるようにぷにぷにとした肉球を手の甲に押しつけてくる。「兄上、お話の途中なのです」と窘めていると、岩柱様はそのことばの意味することを教えてくださった。
「玄弥の兄も鬼殺隊の柱でな。彼に会うために鬼殺隊になったというのに、未だ会うこともできていない。同じ立場のきみが、兄と仲良くしているのがうらやましいのだろう。僻んでいるんだ。きみは何も悪くない」
「……『同じ立場』などではありません」
知らず知らず、膝の上に置いた手の甲をぎゅっと握りこんでいた。しわくちゃになった袴の上に、涙がこぼれ落ちそうになる。兄がふにふにと手の甲に触れても、力が緩んでいかなかった。
「……私は、鬼殺隊士ではありません。鬼殺隊に入れもしません。呼吸も使えませんし、日輪刀の色も変わりませんでした」
「……煉獄は知っているのか? お父上は何と?」
「はい。兄は私には私の道があるというお導きだと……。父には、稽古を積めば日輪刀の色が変わるかもしれないなどと期待をするんじゃないぞと、釘を刺されました」
「そうか……」
短い答えのあと、優しく頭をなでられた。兄よりも父よりも大きな手だ。ずずっと鼻を鳴らすと、兄がひざから立ち上がって僕の胸に手(今は前足だ)をつき、項垂れた僕の顎に頭をすり寄せてきた。僕のことがわからないはずなのに、いつもの兄のようなしぐさにさらに涙腺が緩む。たまらなくなって、僕もいつものように愛しい人を呼んだ。
「兄上……。慰めてくださっているのですか」
「にゃ。んにゃあん」
「きみにはきみの、玄弥には玄弥の道がある。煉獄も私も、それがどんなものであっても見守ってやりたいと思っているんだ」
岩柱様は不思議だ。いつもならば「もったいないおことばです」と謙遜するところだが、「きっとそうです。そう信じています」とするりと口から本心が流れ出た。口数は決して多くないけれど、静けさの中に響く鹿威しのようなまじりっけのない声が心地よい。毎日人が生まれて死ぬこの世で、雨の日も風の強い日も雪の日もそこにあり続ける岩のごとく、厳かでたくましい人だ。
「欲を言うならば、あいつの兄にもな」
「柱の」
「あぁ、風柱だ。あいつも素直じゃない。玄弥が鬼殺隊に所属していることにも反対している」
「それは──」
「だーっ! おい、猫! お前らの部屋はこっち! あとで魚をやるからこっちに入ってくんな! しっしっ!」
大声に驚き、ついことばを切ってしまう。わさっと毛を逆立てて体を大きくした兄が真ん丸な目で声のしたほうを警戒するものだから、僕は吹きだしてしまった。
「兄上、怖くないですよ。玄弥さんです」
「んにぁ」
可愛い。こんな風にぽかりと開いた口からぺろりと舌を垂らす兄は、見たことがない。
岩柱様は声のした方向を見据えて、はぁとため息をついた。
「千寿郎くん、よければ玄弥を手伝ってやってくれないか。力仕事は得意だが、料理は苦手でな」
「ふふ。兄と同じです。もちろん、お手伝いさせていただきます」
「何か嫌なことを言われたら、私に言いなさい」
「お気遣い痛み入ります。でも、きっと大丈夫です。お話できれば、きっと仲良くなれます。さぁ、兄上。降りてくださいね」
猫の兄上を岩柱様のお膝に乗せようとすると、兄は四本になった足をぱたぱたと忙しなく動かした。
「わっ、わっ、兄上」
「なんだ……、千寿郎くんじゃないと嫌なのか。私は嫌なのか、煉獄」
岩柱様の両目からすっと涙が流れた。すると、器用に動いていた兄の四本の足がぴたりと止んだ。もふもふのしっぽをふるふると横に二回振って、それきりおとなしくなってしまった。
「よし、煉獄を預かろう」
「はい。よろしくお願いします」
「うにゃう」
たすき掛けをしながら立ち上がって、兄を座布団にのせると、すかさず兄上は僕の足に絡みついてきた。
「んもう! 兄上はここです」
座っていた座布団に大きな体を戻すと、ふんふんと鼻を鳴らし、それからそこに丸くなった。その姿を見届け、僕はもう振り返らなかった。あまりに可愛い姿をした兄に甘えられたら、玄弥さんのところに行けなくなってしまう予感がしたのだ。
***
山菜とキノコが入った鍋に蓋をして、ふうっと一息ついた。釜戸では、炊き込みご飯を炊いている。だしのいい匂いが漂ってくるまでは、少し時間がある。大きな背中を丸めた玄弥さんに「あの、ごめんなさい」と声をかけた。焼いた川魚の身をほぐしていた玄弥さんが手を止める。
「あぁ? 手伝ってくれた奴が言うことじゃねぇだろ」
「いや、その……、お邪魔したとき、怒っていらしたから」
「……わりぃ。八つ当たりした」
先ほども聞いたその単語のついでに、彼のお兄さんについての話も思い出される。
「玄弥さんは、お兄さんと同じ鬼殺隊士になられたんですよね」
「師範から聞いたんか」
あまりその話題は好まないのだろうか。兄と同じくらいの背丈にぎろりとにらまれ、僕はこくこくとうなずくことしかできない。「そうかよ」それだけ言って玄弥さんは再び魚の身をほぐし始めた。
「つっても、下っ端だよ。呼吸も使えねぇし、日輪刀の色は変わらねぇし、柱の兄貴には会えねぇし」
「えっ! では、どうやって鬼の頚を? 武器は?」
「日輪刀もあるけどよ、特製の銃と銃弾を作ってもらってんだ。銃ってわかるか? 危ないから見せらんねぇけど」
「本で見たことがあります! 銃を使えば、遠くの鬼にも攻撃できますよね! すごい! 体も大きくて、力もとっても強そうです。玄弥さんはすごいです!」
「……そーか?」
「そうです! かっこいいです!」
そのとき、初めて玄弥さんは笑顔を見せてくれた。
「すぐに柱になって、兄ちゃんに認めてもらうんだ」
得意げに口の端っこと眉毛をひょいと上げてみせる。かっこいい。同時に、胸に冷たい風が吹き抜けた。
「……僕は情けないです。父のいる安全な家で、兄上を待つことしかできない。僕も玄弥さんみたいに、特殊な武器で戦うことができれば……」
その先は続かない。だって、鬼の頚を落とす自分を想像しようもないのだ。鬼狩りの入り口である最終選別に挑む決心すらつかない臆病者は、鬼の姿を見たことさえないからだ。
「その気になれば、玄弥さんのように呼吸が使えずとも最終選別に行くこともできるのに、僕はそうしない。父に厳しく言われた、兄に優しく諭された……そのことを言い訳にしているんです」
「いや、気合だけじゃどうにもならんって。俺が戦えるのは、特殊な銃のおかげだけじゃなくて……」
待てども、続きは降ってこない。ちらりと見やれば、玄弥さんはばつの悪そうな顔をして、そっぽを向いていた。尖らせた口先で、「まぁ、いいんじゃね」と呟き、俺の背に手を添えてくれた。
「炎柱の言うとおり、お前にはお前の道があるって。お前の兄貴は正しいよ。──わっ、炎柱!」
仰天した声に振りむくと、僕の足元に兄上がいた。抱っこしているときは大きいけれど、四本の足で立つ兄はずいぶん遠くにいるように感じた。しっぽを揺らし、玄弥さんが半分ほど身をほぐし終えた魚の入った小鉢に向かっていく。それを抱え込んだ玄弥さんが立ち上がると、兄のふわふわの手はまったく器に届かない。
「にゃっ! んんんんッ!」
「まだあちぃし、骨がついてんだから、待ってろ……ください!」
足元をうろうろする兄となれない敬語を使う玄弥さんのやりとりに、つい笑ってしまう。「ほら、千寿郎」と観念したように渡された小鉢を受け取ると、兄の視線がぴたりと止まった。膝をついて、ほぐした魚にふうふうと息を吹きかける間、兄は小鉢をじっと見つめていた。「お待たせしました」とそれを目の前に置くと、丸いお手々でちょんちょんと魚を突っついて、ぴゅっと離れていく。
「何がしたいのでしょう」
「わからん。……もう、炎柱は千寿郎に任せるわ。飯、できたら呼ぶ」
「玄弥さんとお話できてうれしいです。兄以外の鬼殺隊の方とお話できるなんて、そうそうない機会ですから。では、失礼します」
僕はお魚のほぐし身の入った小鉢を持って厨を出た。大きな庭に面した縁側が、もう茜色に染まっている。
「どうぞ、兄上」
ほぐし身を乗せた手を兄に近づけると、兄はすぐに飛びついた。毛先に少し赤の混じった頭をなでる。頭をなでてはいけないと注意されていたことに気づいて手をひっこめると、兄が頭を僕のおなかにすり寄せてきた。どうやら怒ってはいないらしい。それどころか、僕の膝の上に立ち上がって、僕の顎にも頭を押しつける。ちょっと痛いけれど、たまらなく可愛い。その頭に鼻先を寄せ、すうっと息の続く限り吸う。岩柱様に教えてもらった「猫吸い」なるものだ。なるほど、これはいい、落ち着く。ふわふわであたたかくて、お日様みたいな匂いがする。岩柱様は、毎日猫を吸っていらっしゃるからあんなにも冷静なのだろうか。
「お腹も吸いたいです」
「にゃんっ」
兄は膝の上から縁側の床に足を下ろしてしまった。嫌だったのだろうか。猫は警戒心が強く、一度警戒されるとなかなか寄ってきてくれないそうだ。「俺、猫に好かれないんだよな」と残念そうにしていた玄弥さんからの忠告だった。
どうご機嫌をとろうか、ほぐし身を手に乗せて考えていると、兄が一つ鳴いた。目を向けると、ころんとそこでお腹を見せて寝転がって見せたのだ。黄金色の頭や背、尾と違って、おなかは真っ白だった。こんな無防備な兄は、見たことがない。そうだ、この猫さんは兄上であって兄上じゃない。気が変わらないうちに甘えよう。兄ではないから大丈夫。そう誰にともわからぬ言い訳をする。
「し、失礼します」
「にゃ」
真っ白なお腹に顔全体を押し付けて、最初は浅く、それから深く呼吸をする。あたたかい。血の匂いも、土の匂いもしない。湯に入ったときの特別清潔な匂いもしない。
「んにゃう」
「あ、はい。失礼しました。どきますね」
咎められた気がして顔を起こすと、唇をぺろんと舐められた。まずはざらりとした感触に驚き、それから移った魚の匂いに気づいた。
「な、舐め……っ」
頭をなでたりお腹を吸ったりした自分のことは棚に置いて、赤面した。兄であって兄ではない。こんなことするのは、兄の意志ではない。わかっている。もう開き直ってしまおう。この猫さんは、兄に似た他人(?)だ。だから、撫でても吸っても、そして誰にも言えない弱音を吐いても、咎めたりしないのだ。
「兄上、僕は……玄弥さんのように戦いたいです。矛にはなれなくとも、せめてあなたの盾になりたい……」
「んにぁ」
涙で濡れる頬に、やわらかい肉球が当てられた。ぷにぷに。大きな頬で包んでくれる兄の手のひらとはまったく違っていて、今はそれが僕を安心させてくれた。
「兄上には、内緒ですよ」
「んにゃあ」
「いいお返事。はい、お魚あげます。その代わり、吸わせてくださいね」
「んに」
やたら時間のかかった給餌が終わるころ、玄弥さんが夕餉に誘ってくれた。おなかがいっぱいになったからか眠そうにしている兄を部屋に残して、お二人とたくさんの猫が待つ部屋に向かった。
***
賑やかな食事の片づけを手伝ったあと、兄のいる部屋に向かう。お風呂はいやがるだろうか。しかし、それは杞憂に終わった。すらりと開けた障子の奥から飛んできたのは、聞き慣れた声だった。全裸でなければ素直に抱きついていたところなのだが、まず「服っ! 服を着て!」と両目を覆う羽目になった。
「こっちへおいで。千寿郎」
「だ、だから、まず服を……っ」
「話せるようになったから、答えよう! 俺はお前だから膝で丸くなったし、腹も見せたんだ。吸われるとは思っていなかったがな!」
「……え?」
背けていた目を向けずにはいられなかった。もしかして……、全部覚えていたりする? え?
「それにしても唇はやりすぎたな。猫の姿ならば許されるかと思って、つい!」
「え、あ、あにう」
「どうした、千寿郎。もう兄に『可愛い』とは言ってくれないのか? もっとたくさん触れてほしい! 猫になったときは、ずっと抱いていていただろう。どうも千寿郎に触れていないと落ち着かなくなってしまった!」
「お、覚えていらっしゃるのですか……?」
満面の笑みを浮かべて頷く褌一丁の兄を前に、眩暈がした。僕は兄上になんて失礼なことを。着流しに袖を通し始めた兄からそそくさと逃げ出そうとする。しかし、あっという間に俺の手は捕まった。さらに、僕を胡坐の上に乗せると、兄は僕のうなじあたりですうっと大きく息を吸ったのだ。
「あ、兄上っ!」
「なぁ、千寿郎。矛にも盾にもならなくていい」
「あ……っ」
しまった。兄ではないと無理やり思い込んで話してしまったことだった。しかしどこかで、懺悔したい気持ちもあった。だって、兄が自我を持っている可能性を捨てきれないうちに話したのだもの。偶然を装って、きっと兄に聞いてほしかったのだ。
「お前は俺の帰る場所でいてくれ。俺が帰ったら、いつもこうしてほしい。生きて帰ればお前が甘えさせてくれると、約束してくれ」
「でも、玄弥さんは……」
「不死川少年も、ともに戦えずとも家族を糧に戦っている。俺も、何よりも大事なお前を糧にさせてくれないか」
「必ず帰ってくるとは約束してくれないくせに」しかしそんな恨み言は飲み込むんだ。兄の幸せを願う僕は、「はい」とひとつうなずく。これは方便なんかじゃない。二人が幸せになるための約束。これは無力な僕の傷を舐めるだけのことばじゃない。だって、何度も何度も繰り返したんだ。命の保証もない地獄から帰った兄が、僕を抱きしめて心臓の音をゆっくりにしていったこと。兄はいつだって、どこからでも僕のところに帰ってきてくれると信じている。
「兄上、僕のところに帰ってきてくださいね」
「もちろんだ、千寿郎」
抱き寄せられると、兄の豊かな金髪にくすぐられた。少し硬くて、ちくちくする。懐かしい感触に安堵して首に腕を回したところで、すうっとうなじを吸われた。「あ、兄上」情けない声を無視した兄は、二本の鎖骨の間に鼻先を寄せると深く息を吸った。全集中の呼吸と関係があるのか、吸う音は長く続いた。沈黙に耐えかねて、「も、もう終わり!」と離れる。すると今度は、熱くなった頬に唇が寄せられた。ちゅっとわざとらしく音を立てて吸われて、熱が顔に上っていくのがわかった。
「あぁ、本当に愛おしいな」
酔ったようにうっとりとした瞳につかまって、もう何も言えなかった。お飾りのことばはいらない。ただ、兄の心のままに甘えてほしい。観念したように目を瞑ると、「愛しているぞ」と兄の口から愛がとろけた。
「さて、唇はどうしようなぁ。猫の舌はざらざらして、さぞ嫌だったろう」
そうつぶやいた声に、何かいけないものがこもっている気がした。
(終)