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    桜庭🌸

    @kmtrt65

    杏千ちゃん🔥🧹オンリー
    公式CP(おばみつ・槇瑠・宇嫁・炭カナなど)を含みます

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    桜庭🌸

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    杏千 / 原作軸
    1/7インテックス大阪、1/28東京ビッグサイトのイベントで頒布した無配コピ本✨
    --------------------------------
    「……お、お正月くらい、家族みんなで過ごしたいんです……」
    正月恒例行事は、今年も兄弟ので行われた。元日に一つ年を重ねた千寿郎の身長を、柱に刻む杏寿郎。しかし杏寿郎のそれは柱に刻まれていないと知った千寿郎は父の自室に向かって──。

    #杏千
    apricotChien

    せいくらべ 千寿郎は忙しなくはたきを動かしていた。
     兄から、大晦日から元日にかけての夜中に家に戻り、丸一日家で過ごせそうだという報せがあったのだ。父と自分、それから母の仏壇に供えるお雑煮とおせちがあればいいと思っていたのだが、兄が食卓にすわるとなれば話は別だ。兄は大食漢なのだ。
     さっそく厨に駆ける。ふわりと出汁の香りが濃くなった。くつくつと煮込まれているれんこんや里芋、豆が、割烹着を着た女中に世話されている。味見をしてうなずくうれしそうな横顔に、「倍量でお願いしまう」ということもできず、千寿郎は押し黙った。後ろから別の女中がやってきて、「坊ちゃん、どうしたのですか」と目を丸くした。煮物の味つけを終えて去った千寿郎がそこにいたことに驚いたのだ。
     千寿郎は彼女に、「兄が戻ります」と短く伝えた。
    「追加の贖罪をお願いします。特に鯛はお忘れなく」
     財布を渡すと、彼女は割烹着を脱ぎながら出て行った。別の女中に火の番を頼み、自分は掃除に徹することにした。
     たすき掛けの腰ひもをぐっと締め直して、まずははたきでほこりを払っていく。縁側の廊下に並ぶ障子戸と天井の間を、ぱたぱたとはたいては、横にずれていく。曲がり角を支える大きな柱に差し掛かったところで、足が止まった。一直線に走った深い傷がある柱だ。千寿郎はそっとそれをなでた。そばに刻まれた、「杏 十一」の文字とともに。少し上には、「杏 十三」の文字がある。兄弟の成長の証が底に刻まれていた。
    「兄上、やっぱり俺より大きかったんだ」
     同じ年頃──十三歳だった杏寿郎の記憶が思い出された。千寿郎の古い記憶の中、杏寿郎の顔はいつも、大柄な父よりもずっと近くにあった。今よりも丸い頬をした兄がモミジのような手を差し出し、「おいで、千寿郎」と口が動かす様子は、千寿郎のいちばん古い記憶の一つだ。四、五歳のころだろうか。千寿郎は、柱をつうっと下になぞって、幼い自身を導き出す。
    「わぁ、小さい」
     鳩尾ほどの高さに、当時の自分が刻まれていた。好奇心に従って、いちばん下のものを探し当てようと、指先を下へ滑らせていく。屈んだところで、「千 二歳」と刻まれたものを見つけた。その少し上には、「杏 二歳」の文字も刻まれている。
     ──こんな幼いころからすでに、兄には勝てなかったのか。
     千寿郎は淡い期待を持って、少しずつ上へ上へと指を滑らせていく。しかし、自分が同い年の兄より大きいと示す証は、刻まれていなかった。
    「そうだ、今なら──」
     元日、千寿郎は十四になる。勢いづくまま立ち上がり、「杏 十四」と探そうと、指を柱にちょんとついた。そのとき、「千寿郎坊ちゃん、次は昆布締めでも煮ましょうか」と女中が駆け寄ってきた。ぱっと指を引っ込め、「そ、そうですね」と曖昧に賛成する。女中は視界のはしっこではたきが不自然に揺れるのを、少しも気にもしていないようだった。
    「味付けは千寿郎坊ちゃんにお願いしたくて」
    「え?」
    「杏寿郎坊ちゃんは、千寿郎坊ちゃんの味付けがお好みなんです。ね、お願いします」
    「は、はいっ。行きましょうか」
     千寿郎が新しい鍋に出汁を調える間、背後では煮えたものを重箱の移す作業が始まった。大食漢の兄のため、新しく煮るものは多めに切っていく。買い物から帰った女中が加わると、さらに厨は忙しくなった。追加で用意された野菜を大量に切っては、酢と和えたり出汁に放り込んだりしていく。海老を焼く火加減をじっと見守るのみになったところで、やっと三人はほっと息をついた。それが見事に重なったものだから、誰ともなくふっと吹き出して、顔を合わせて笑った。
     笑⾨来福──大晦日にお誂え向きの笑顔だった。

    ***

     でんやわんやの支度のあと、女中たちはそれぞれの家族のもとへ帰っていった。すっかり静かになった厨で、千寿郎は年越しそばを用意する。湯気の立つそばにかまぼこを添え、卵を落とし、箱膳に入れる。父が食べ始めるころには、卵がいい感じになっているはずだ。
     父の部屋の前に箱膳をそっと据え、正座をする。袴を通して伝わる床板の冷たさにも慣れたものだ。千寿郎は兄に倣い、返事があるまで父の部屋の前を動かない。古希を白くするほどの寒さなど、障子の向こうにいる父への礼節を欠く理由にはならなかった。柱にまで上り詰めた兄がそうしているのだから、自分がそうしないわけにはいかない。千寿郎はごくりと唾を飲み込んでから、「年越しそばです。お口に合うといいのですが」と頭を下げた。この時間がいちばん緊張するものだ。そのせいで、床板についている指先からは冷たさすらわからない。
    「……千寿郎」
     返ってきたのは、思いがけない呼びかけだった。針金を入れられたかのように、ぴんと背筋が伸びる。
    「はっ、はい」
    「……今日くらいは、一緒に食べるか」
    「はい!」
    「瑠火の……母の分もあるか?」
    「すぐ用意します!」
     弾かれたように立ち上がり、千寿郎は厨に向かいった。自分の分の蕎麦を掴むと、こぼさないように居間に向かった。久しく出番のなかったちゃぶ台にそばを乗せ、厨へとんぼ返り。蕎麦を湯がき、小さめのお椀にたっぷりつゆを注ぐ。居間に戻ると、居間と仏間を遮る襖を開けているところだった。仏壇にそばを供えて手を合わせてから、「火を熾しましょうか」と父のほうを振り返った。父はそばを啜っていた。手つかずのほうの蕎麦を見て、千寿郎は目を丸くした。少し白身の固まった卵もかまぼこも乗ったそれは、父の箱膳に入れたものだ。代わりに、自分用の蕎麦が見つからない。
    「あの」
    「さっさと食え。伸びるぞ」
     千寿郎のほうも見もせず、父は具のない蕎麦をずぞっと啜った。
    「お味、濃くなかったですか?」
    「あぁ」
     短い会話だ。なんだかくすぐったくて、千寿郎はほんの少し豪華なそばを啜った。静かな部屋に、ぱちっと火が爆ぜる音と、控えめに蕎麦を啜る音だけが響く。そこに、ごーんと鐘の音が加わった。除夜の鐘だ。
    「食ったら寝ろ」
    「でも、兄上をお迎えしたいです。夜中に帰られるんです。あぁ、もうそろそろかも……」
    「明日の朝は、俺に鯛を焼かせるのか?」
    「うぅ……っ。それは……」
    「それから、うるさいから、明日はあいつと初詣でも行ってこい。寝不足で眠りこけていても、俺は起こさんぞ。あいつも起こさんだろうな」
    「んぐ……っ」
    「俺が起きている。寝ろ」
    「……失礼します。おやすみなさい」
     千寿郎はおとなしく、自室に戻ることにした。その途中、曲がり角であの傷だらけの柱が目に入った。
    「明日、兄上とまたできるかなぁ」
     元日、柱に身長を記録する──それは、煉獄家の正月行事だった。千寿郎はその場で膝をつき、幼い兄や自分をなでるように、そっと傷に触れた。その指先から、おぼろげな記憶が目に浮かぶ。母が柱にぴったり背をつけるように言って聞かせる間に、父が頭の上に本を乗せて、身長を記録する。母が病死したあとは、父が仏頂面でそうしてくれたことを覚えている。しかし、それも過去の話。父がそうするのをやめてしまってからは、兄弟だけの行事になっていた。
     一度だけ、「ねぇ、ちちうえは?」とたずねたことがあるが、兄は困ったように笑って、「俺じゃ嫌か?」と頬をつついた。それが、七歳になった元日の朝のこと。
    千寿郎は立ち上がって、胸の高さにある傷をそっとなぞた。「千寿郎ももう七歳かぁ」兄はそう声を弾ませて抱きしめてくれた。父はいなかった。「あにえもしましょ」と誘ったものの、兄は「俺はいい。千寿郎には届かないだろう」と首を振った。「いいんだ」と重ねた兄の、マメだらけのあたたかい手を、千寿郎は今も覚えている。そうやって父と兄の確執を勘づいてしまってからは、兄に父のことをたずねるのはやめた。
     そのあとも、兄弟の行事は毎年続いた。鬼殺隊に入った兄は元日に休める日は少なかったものの、鏡開きまでには必ずそうしてくれた。昨年もそうだった。朝、隊服姿のままの兄が、印だけつけてくれたのを覚えている。
    「……あんまり伸びていません」
    「成長期──そうだな、十四か十五になれば、ぐっと身長が伸びる。俺もそうだった。寝る子は育つというから、よく眠るんだぞ」
    そんな会話を思い出して、千寿郎はさっと自室に入り、布団に潜り込んだ。
     お賽銭を用意する、お雑煮のつゆを作る、兄の好きな鯛を焼く──元日の朝にやるべきことを数えながら、意識は玄関のほうに向いていた。兄が帰ってきたら、顔を見て「おかえりなさい」と言いたい。父上に叱られるだろうか。
     眉間に皴を寄せた父と朗らかな兄の笑顔を交互に思い浮かべながら、千寿郎はついに意識を手放した。

    ***

     千寿郎の元日の朝は、杏寿郎に起こされて始まった。兄は開口一番、「おはよう、千寿郎! 早く記録しに行こう!」と誘ったのだ。
     寝ぼけなまこの脳は処理が追いつかない。
     ──兄上、いつ帰ってきたの? ちゃんと寝た? あぁ、鯛を焼かないと。お屠蘇とお猪口を出そうか。いや、お雑煮が先か。鯛の焼き加減は兄上に見ていてもらおうか。
    「兄上、あの」
    「お年玉か? 慌てるな、あとで渡すから」
    「いや、そうじゃなくてっ! 鯛を……」
    「鯛? 焼いてくれるのか? 楽しみだ!」
     せっかちな兄は、あっという間にぶかぶかの羽織をかけて、「おいで、千」とマメだらけの手を引いた。
     ──ごめんなさい、父上。もう少しだけ眠っていてください。すぐお正月の準備を始めますから。
     心の中で控えめに祈って、千寿郎は大股で歩く兄のあとをついていった。あたたかい手を握り返すと、杏寿郎もきゅっと力を込めて返した。

     杏寿郎は、弟の背を件の柱にぴたりとくっつけさせた。先ほどまで困惑が勝っていた千寿郎も、年一回の兄との背比べにわくわくしている。懐から出した本を千寿郎の頭に乗せた。柱と鉛筆の先の擦れる音が、千寿郎を高揚させた。
    「もういいぞ」
     それを合図にぱっと離れて、真っ先に兄の印を探す。十四になった兄の身長と比べようと、つけられたての印から上下に柱をなぞる。その指がぴたりと止まって離れるころには、千寿郎の表情からみるみる高揚感が薄くなっていった。
    「あの、兄上のは……?」
    「ない」
     刀ですっぱり切り捨てたような返答だった。かけることばが見つからず兄を見上げるが、視線が合わない。胸元あたりに複数ある傷をなぞる兄は、柱を通して、両親との思い出を辿っているように見えた。千寿郎には、かけることばが見つからない。
    黙ってしまった弟の頭をなでて、杏寿郎は眉根を下げて笑うだけだ。
    「その年は大晦日に、『最終選別に行く』と伝えたら父上と大喧嘩になったんだ。それ以来、測ってもらっていない」
    「そ……っ」
     千寿郎は、今度こそことばを失った。
     十四になる前日の夜──大晦日に父の優しさに触れていたころ、兄は「鬼殺隊には入隊するな」と繰り返していた父に自分の決意を正面から伝えていたのだ。身長だけを比べて、兄に追いつけるだろうかなどと、暖かい布団にくるまっていただけの自分が、兄にかけられることばなどない。慰めるのも、励まされるのすら烏滸がましい。自然、ぐっと手のひらが拳の形になっていく。
     杏寿郎は、握りこまれた幼いこぶしにそっと触れた。やわやわと揉んでいると、雪がとけるようにほどけていく。膝をついて、弟の顔を覗き込む。歯を食いしばり、垂れた眉と目元をくしゃりと歪ませている。それもほどいてやりたくて、寒さで赤くなった頬をつついた。じわりと涙の浮かんだ瞳をじっと見つめて、ゆっくりと抱きしめた。
    「すまないな、千寿郎。正月の行事くらい、父上にいてほしいだろう」
     千寿郎は、ほどいたこぶしを再び握った。
    「冷えてしまう。さぁ、一旦部屋に戻ろう。それから、一緒に雑煮とお節を食べような」
     言いながら、杏寿郎は千寿郎に自身の羽織を重ねてやった。そのまま肩を抱いて歩みを促すが、頑なにその身体は動かない。「ん?」と真意を問うように千寿郎の顔を覗き込む。「千寿郎。泣かなくていい。何が悲しい?」すっかり慰める気でいたものだから、「こっ、ここで待っていてください!」と大声を出す弟には面食らってしまった。杏寿郎は、涙をぬぐおうとした指の形をそのままに、「えっ」と固まった。対して弟は、「すぐ戻ります!」と軽やかに駆けていく。
    「なんだ……?」
     答える者はもういなかった。が、すぐに答えがわかった。「父上ッ!」と千寿郎の大声がしたのだ。新年早々二度目の仰天をして、杏寿郎は声のするほうへ走った。
     ──千寿郎が足を向けたのは、父上の部屋のほうだった。なぜ止めなかったのか。なぜ話を聞いてやらなかったのか。
     反省する間も、「父上! 起きてください!」と千寿郎の大声は続く。「千寿郎」と呼びかける声に、「うるさい!」という怒号が重なった。杏寿郎は、それと同じほどの声量で「千寿郎、やめなさい!」と窘める。そうでもしなければ止まらないと思わせるほど、まだ小さな体が何かに突き動かされている気がしてならなかった。
     冷たく硬い廊下に正座をしていた千寿郎が、障子を開かんとする勢いで片膝を立て、ぐっと拳を握った。
    「柱に身長記録するの、手伝ってください!」
     懇願というにはあまりに力強い。しかし、その表情は今にも泣きだしそうなものだった。両肩をつかんだ杏寿郎には、千寿郎が怒りに突き動かされているのではないとわかった。細い肩が、細かく震えていたのだ。
     まだ幼い千寿郎の記憶にある限り、父はぶっきらぼうで、ときに理不尽に暴言を吐き、兄に怒号を浴びせる大柄な男だろう。口答えやお願いなどを父にする千寿郎を、杏寿郎は見たことがなかった。今、この時までは。
     ──この子は兄のために、自分以外のために怒り、勇気を振りしぼることができる子なのだ。
     杏寿郎は改めて思った。
     しかし、勇敢だからといって、無神経なわけではない。事実、千寿郎は父の返答を待つ間、口を結んで呼吸もしていないようだった。肩を掴んでいた手を、背に添えて、優しくさすってやる。千寿郎の勇敢なさまを見守ることにした。
    「……なんで俺が……」
     少しの沈黙のあと、障子の奥から苦虫を潰すような声がした。新年早々、血の繋がった家族から聞くには、かなり縁起の悪いものだった。
    「俺じゃ届かないからです!」
    「お前なぁ……」
     吐き捨てられた呆れ声に、「はぁ」と大袈裟なため息も乗せられた。見守っていた杏寿郎ですら、ぞくりと鳩尾が痛んだのだ。千寿郎はもっと傷ついているはずだ。案の定、さすっていた背は細かく跳ね始めた。ひっくひっくとしゃくりあげる弟を見かねて、「千寿郎、もういい」と至極穏やかな声で囁いた。
    「……お、お正月くらい、家族みんなで過ごしたいんです……」
    「……やらんとは言っとらんだろう。泣くな」
     先ほどまでの怒号が嘘のようだった。優しい声になでられ、千寿郎ははっと顔を上げる。その瞬間、すらりと障子が開けられた。足袋と羽織を身に着けた父を見て、兄弟は顔を見合わせた。
    「さっさと終わらせるぞ。ったく、寒いだけだろう。何が楽しいんだか……」
     憎まれ口をたたきながらさっさと廊下を進む足には、迷いがない。件の柱へ一直線だ。すっかり涙が引っ込んだ千寿郎は、杏寿郎の首元にぱっと抱きついた。まだ驚きの冷めない杏寿郎は、反射的に抱き返すばかりだ。
    「兄上、よかったですね。これで測ってもらえますよ」
    「ありがとう、千寿郎。それから──」
     杏寿郎は腕に力をこめ、弟を包むように抱きしめた。
    「あけましておめでとう、千寿郎」
    「あけましておめでとうございます、兄上」
    「早く来い!」と父の催促があって、兄弟は手を繋いで、晴れやかな気持ちのままに駆けた。二人分の足音に、父がふっと頬を緩めたことなど、兄弟は知る由もないのだった。

    ***

     それから、数年が経った。
     その年、元旦の夜は、月がきれいだった。縁側で月見酒といくには寒いだろうと仏間に火鉢を置いたのは、父だった。まだ炭が赤くならないうちに、ドカリと座った。早く酒が飲みたいのだろう。酒瓶を携えた千寿郎はそう察して、腰を下ろした。仏壇には、母と大食漢な兄のためのおせちと餅が置かれている。線香の煙でぼやりと揺れる遺影の中で、二十歳の兄は笑む。対して自分は、泣いてばかりの弟だった。いつか兄のように、人のために勇敢になれる人になりたい。そう思っていたら、あっという間に二十歳を迎えてしまった。
     遺影を見つめたまま黙った千寿郎に、父が「なぁ」と控えめに話しかけた。
    「明日の朝、久しぶりに、あれ、やるか?」
    「あれ? あぁ、柱の?」
    「二、三年前に身長が止まったからって、やってなかっただろ。今日はせっかく二十歳になったんだ。記念に、どうだ?」
     返事も待たず、父は立ち上がった。「酒と火鉢であったまったあとでは、動きたくなくなる」と言い訳する背中に、千寿郎は「言い訳なんてしなくてもいいですよ」と生意気を投げかけて、廊下に出た。
     しばらく新たに傷をつけられることもなかった柱だが、埃一つない。前日、千寿郎が大掃除の際にきれいにしたのだ。そのとき、そっと柱に背をくっつけて、わかったのだ。「杏」と「二十」の文字と、そこに刻まれた一直線の傷。それが自分の頭のてっぺんより少し上にあると。結局二十歳になっても、兄には及ばないのだ。それが身長だけの話であればどれほどよかったか。
     いそいそとえんぴつを懐から出す父には、くさくさとした弱音を吐くことはできなかった。目線の合図で促されるまま、千寿郎はぴたりと柱に背をくっつけた。
    「ほら、顎を引け」
     頭の上に何かが載せられたあと、しゃっしゃとえんぴつの先が柱とこすれる音が至近距離で響く。
    「よし、いいぞ」
     千寿郎の頭がついていた部分に、父が「千」と「二十」という文字を書き足していく。数年前、腰を曲げてそうしてくれた父の様子が思い出された。兄を驚かせてしまったけれど、父を怒らせてしまったけれど、勇気を振りしぼってよかったと、千寿郎は今も思っている。
    「あのとき、なんで父上が来てくれたのか、わかりました。兄上が二十歳になったから、特別なお祝いをしてくれたんでしょう?」
    「ふん。お前が泣きじゃくってうるさかったからだ」
     槇寿郎は乱暴にえんぴつをしまうと、「寒い、寒い」と大股で仏間に戻っていった。千寿郎はそこから動けなかった。父が角を曲がったのを見送って、そっと傷だらけの柱にこつんと額をつけた。柱に兄と過ごした最後の正月を覚えているそれと、思い出を共有するように
    「いつまでも追いつけないなぁ……」
     ぐりぐりと乱暴に目元をこする。涙をぬぐってくれる兄は、もういない。花に触れるように頬に触れて、親指でそっと涙を拾ってくれた兄。涙になる前の、悲しみや憤りまでもすくってくれた気になったものだ。
     ──ありがとう、千寿郎。
     あのとき、そういって抱きしめてくれた兄は、出来損ないの勇気を救い上げてくれたのだ。涙になって零れ落ちるだけのそれを。
     ゴーン、と除夜の鐘が遠くから聞こえる。それ以外音も視線もない夜に、千寿郎はずっとずっと言えずにいたことばを漏らした。
    「会いたいです、兄上……」
     元日とは思えないあたたかな風が、千寿郎の頬をなでて、すぐに消えていった。



    (終)

    大正時代は、誕生日ではなく元旦に年を重ねるのが一般的だったそうです。
    さらに数え年(生まれたが瞬間1歳)の文化だったゆえ、千寿郎くんの年齢を十四としていますが、私の中では十三歳の設定です。
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    🎍😊🌅🎍😊🙏😭👏👏💕😭👏👏💗
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    Replies from the creator

    桜庭🌸

    PASTにゃんこの日🐈
    杏千 / 原作軸 / ヒメさんと玄弥がいます
    昨年6月刊行の各柱と千くんの短編集「お噂はかねがね」より、猫になっちゃった兄上と千くんのお話🐈✨
    弟たちには兄に近づけない苦悩がある...
    ※「お噂はかねがね」は再販予定はありません。
    ※支部で音柱+千くん、恋柱+千くんのお話を全文掲載しています
    https://www.pixiv.net/users/68358891
    猫かわいがりもほどほどに(岩柱と) 膝の上に「どうぞ」とお招きすると、兄はまずおずおずと前足を乗せた。感触を確かめるように、ぷにぷにとした桃色の肉球を太ももに押し当てる。足踏みをするように繰り返すと、やがて膝の上にひらりと飛び乗ってくれた。寝心地の良いところを探してくるくると回り、やがて僕の膝に丸くおさまった。最後に大きなしっぽをその身に巻きつけて、もう動かなくなった。予想していたよりも、ずっしりと重い。もふもふの尾を触るのは我慢した。しっぽに触ってはいけないと、岩柱様に仰せつかっているのだ。豊かな金髪を思わせるふわふわの背中をなでてみる。時折硬めの毛が肌をチクチク刺激するが、それが兄を彷彿とさせて、自然と頬がとける。しかし、同時に誰にでもこうして無防備な姿をしてみせるのだろうかという疑問が湧いて、水に落とした墨汁のようにもやもやと何かが広がった。たまらず、「ねぇ、兄上」と呼びかけた。
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    桜庭🌸

    PAST💎さん、お誕生日おめでとうッ!
    ということで(?)💎さん友情出演のお話です😎
    杏千 / 大正軸
    杏千プチ開催記念のアンソロジーに寄稿させていただいた小説の再録です
    (公開許可いただいています)
    酔いのようには醒めなくて「まぁ、一杯やろうや」
     酒を勧めたのは、宇髄のほうだった。
     共同任務の作戦会議後、宇髄が煉獄家に一晩泊まると言い出したのがはじまりだった。難色を示す杏寿郎の肩を気安く抱いて、「土産にうまい酒でも買っていこうぜ」と店じまいを始めた商店街に彼を連れ込んだ。「おい、宇髄」なおも抵抗する同僚に、「大丈夫、大丈夫」とけんもほろろに返す。もし拒絶されれば、酒を妻への土産にすればいい。そう考えていたのだ。
     結局のところ、家長は不在だった。「昔お世話になった人のご葬儀だそうです。さきほどまでいらっしゃったのですが、ふらりと出ていかれました」そう説明する次男は、何でもないことのようにてきぱきと夕食を用意している。鎹鴉から宇髄同伴の帰宅を聞いてすぐに炊き始めたのだろう、釜戸から漂う湯気とともに柔らかな米の匂いが立ち上ってきた。たすき掛けをした袖口からのぞく生白い細腕を見て、杏寿郎は「千寿郎を一人にするなんて」と顔を顰めた。しかし、それも一瞬のことだった。父が留守にしたのは、自分が珍しく夕方に戻ると鎹鴉からの伝達があったからだろうと納得したのだ。不器用ながらも千寿郎に一人で夜を過ごさせんとする父の心の内を想像して、杏寿郎はやっと眉を下げた。
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