酔いのようには醒めなくて「まぁ、一杯やろうや」
酒を勧めたのは、宇髄のほうだった。
共同任務の作戦会議後、宇髄が煉獄家に一晩泊まると言い出したのがはじまりだった。難色を示す杏寿郎の肩を気安く抱いて、「土産にうまい酒でも買っていこうぜ」と店じまいを始めた商店街に彼を連れ込んだ。「おい、宇髄」なおも抵抗する同僚に、「大丈夫、大丈夫」とけんもほろろに返す。もし拒絶されれば、酒を妻への土産にすればいい。そう考えていたのだ。
結局のところ、家長は不在だった。「昔お世話になった人のご葬儀だそうです。さきほどまでいらっしゃったのですが、ふらりと出ていかれました」そう説明する次男は、何でもないことのようにてきぱきと夕食を用意している。鎹鴉から宇髄同伴の帰宅を聞いてすぐに炊き始めたのだろう、釜戸から漂う湯気とともに柔らかな米の匂いが立ち上ってきた。たすき掛けをした袖口からのぞく生白い細腕を見て、杏寿郎は「千寿郎を一人にするなんて」と顔を顰めた。しかし、それも一瞬のことだった。父が留守にしたのは、自分が珍しく夕方に戻ると鎹鴉からの伝達があったからだろうと納得したのだ。不器用ながらも千寿郎に一人で夜を過ごさせんとする父の心の内を想像して、杏寿郎はやっと眉を下げた。
その傍らで、色男が「なぁんだ。じゃあ、酒は俺らが飲むか」と笑ったのだ。「いや、俺は」と杏寿郎が遠慮するよりも早く、千寿郎がぱっと顔を輝かせた。「では、お酒に合う濃いめのものも用意しますね」と魚の干物と網を用意するものだから、杏寿郎は口を噤んだ。自分の好みをよく知った千寿郎の手料理が一品増えると思うと、酒も悪くないと思ったのだ。
「まぁ、一杯やろうや」
「うむ。たまにはいいだろう」
兄が声を弾ませれば、「宇髄様はごゆっくりなさってください」と千寿郎はいそいそとお猪口を二つ取り出した。手持無沙汰の宇髄は、客間に夕飯を運ぶ仲睦まじい兄弟をじっと見つめる。もっと正確に言うと、ことあるごとに弟の肩や腰に手を添える同僚を。「なるほどねぇ」と独り言ちたあと、兄弟から誘われるまま食卓に腰を下ろした。
「うまい! うまい!」
「うん、うめぇな」
二人が舌鼓を打つ間も、先に食事を終えた千寿郎は「おかわりいかがですか」と首を傾げる。ぽよんと揺れたその結い髪に触れた。
「可愛いなぁ、千寿郎」
「そうだろう! 千寿郎は世界一可愛いんだ」
「そんな、兄上。また冗談を」
「まっ、俺の嫁にはかなわないけどな」
他愛もない会話はそこまでだった。宇髄が酒の匂いの混じった吐息を千寿郎に吹き込んだその瞬間、穏やかな食卓は終わりを告げた。
「お前も俺の嫁になるか?」
「宇髄ッ!」
杏寿郎が声を荒げた。二人の間に割って入り、爆発するような怒気を宇髄に向ける。普通の人間ならば、それこそ千寿郎が真正面にいたならば、卒倒しかねない迫力だ。しかし矛先にいる男は、酸いも甘いも知りつくした百戦錬磨の忍である。杏寿郎の肩を押しのけ、すっかり縮んだ華奢な方を抱き寄せた。驚いた千寿郎がおそるおそる艶やかな銀髪をたどると、化粧がなくとも美しい葡萄酒色の瞳とかち合う。にこり細められた瞳からぱっと目をそらし、千寿郎は頬を染めてたじろいだ。その様子に愉快そうに口角を上げた男は、目線だけを動かす。額に青筋を浮かべた杏寿郎を挑発するように。
緊迫した沈黙を破ったのは、龍と虎にはさまれた千寿郎だった。
「あ、あの、宇髄様。私、お水を持ってきますので、その、」
「優しいねぇ、千寿郎。ますますそばに置きたくなった」
「いい加減にするんだ、宇髄。千寿郎が困っている。水を飲んで寝ろ」
「オニイチャンもそういってるし、寝るか。俺と一緒に」
「え、あ……の、」
「千寿郎! 部屋に戻りなさい!」
業を煮やした虎が吠えた。さっと顔色をなくした千寿郎の肩を引き寄せて、「すまない。お前は何も悪くないんだ」と頭をなでた。弟に怒鳴るのは不本意ではなかったが、口八丁な同僚を遠ざけるよりも兄に従順な弟に逃げ道を与えるほうが早いと判断したのだ。
軽々と横抱きにされるも、千寿郎は「子ども扱いしないで」と生意気を言う気には到底なれなかった。気の立った兄を刺激しないよう、「おやすみなさい」と告げたきり、兄の胸にさっと隠れた。さっと閉められた障子の向こうから、「また明日」と涼やかな声が返ってきた。
酒の席に戻った杏寿郎と宇髄の騒がしい声はしばらく続いた。はっきりと聞こえるわけではないが、穏やかな声ではない。眠れない。ころん、と寝返りを打って、ため息をつく。兄に頭と背をなでられ、頬に口づけをされて、すっかり落ち着いたところだったのに。情けなくも、いつもどおりの優しい顔を見せてくれなければ眠れない気さえしていた。
しかしその実、兄が隣で寝ていることに気づいたのは、明朝のことだった。
翌朝、千寿郎の声で目覚めた杏寿郎は、痛むこめかみをおさえた。「どうぞ、白湯です」とすぐに動いた弟は、朝食に粥を用意しているという。弟の気遣いに感心してすぐ、「優しいねぇ、千寿郎」といやらしく笑った同僚のことが思い出された。
「宇髄は?」
「少し前に出られましたよ。朝食をご用意したかったのですが、断られてしまいました。奥様と召し上がりたいと」
そう、それだ。あの男は三人も妻がいるのに「俺の嫁になるか?」と弟をたぶらかしたのだ。憤って千寿郎を退室させたが、その後も宇髄は嫁だの結婚だの言っていた……と思う。というのは、杏寿郎にはそのあたりから記憶がないからだ。あまつさえ寝坊して、宇髄と弟を二人きりにしてしまった。何という体たらく。杏寿郎は文字通り頭を抱え、何もないことを祈りつつ弟にたずねた。
「俺が寝ている間に、宇髄に何か変なことを言われなかったか?」
「変なこと、とは?」
「ほら、嫁に……とか、昨夜言っていただろう。いやなことを言われたり、強引なことをされたりしなかったか?」
「まさか。昨夜は驚きましたが、天元様は優しい方だとわかりました」
びきり、と抱えた頭に青筋が刻まれる。昨夜まで赤の他人だった宇髄を下の名で呼んだことに、嫉妬や独占欲が絡んだ衝撃を受けたのだ。
「……宇髄に惹かれたか。そう、彼はいい男だろう」
弱々しい声になったのは、二日酔いのせいではない。
宇髄は稀代の色男である。長身の美丈夫は三人いる妻全員を幸せにする包容力がある。するすると愛を紡いで抱き寄せる器用さも、自分にはないものだ。似たような顔に囲まれた男所帯で十数年生きただけの弟には、艶やかで華やかで、柱を務めるほどの強さを持つ宇髄はさぞ魅力的に映ったはずだった。
端的に言うと、生きて帰る約束一つできず、さみしい思いばかりをさせている兄には愛想を尽かしてしまったのではないかと恐れたのだ。
「ええと……、天元様の奥様はとてもお幸せだと思います。兄上にも気を遣っていらっしゃいました。『粥でも食わせてやれ』とおっしゃったのは、天元様です。……おいしく食べてくれたらうれしいです」
千寿郎は頬を染めて呟いたが、兄はそれどころではない。
「……宇髄のところに、いくか?」
「えっ? なぜ?」
「宇髄とともに生きるのもいいだろう。奥方のように、お前も幸せにしてもらえる。きっと……」
握ったこぶしを震わせる兄の真意など知る由もなく、千寿郎は「いいえ、いきません。ずっと煉獄の家におります」と目を丸くするばかりだ。
「本当か?」
杏寿郎は千寿郎の手を握った。「はい。だって、兄上はここに帰ってくれるのでしょう?」その飾らない答えと笑顔に、心が震えた。やっと「……あぁ」と大きな手のひらで千寿郎を抱きしめた。
「それに、天元様にはお嫁さんが三人いらっしゃるのでしょう? 四人で紡ぐ幸せもあるでしょう。しかし、俺は一途な方が良いです……兄上のような」
「うん?」
「天元様がね、『俺のことを天元様と呼ぶなら教えてやる』とおっしゃったのです。それを呑んで、兄上の秘密を教えていただいたのです」
「お前に秘密にしていることなんてない」
「ありますよ。兄上には好いた方がいらっしゃるのでしょう? ずっとずっと一途に思い続けている方が。俺に秘密にしているのでしょう?」
杏寿郎は目を見開いて固まった。宇髄にそんな話をしたか? 酔った勢いで何か余計なことを言ったのか? いや、それよりも、散々「命は平等だが、それでもお前は俺にとって特別だ。愛している」と告げていたにもかかわらず、千寿郎がそれを冗談か誇張された愛情表現としか受け取っていないことに落胆した。
沈黙を肯定ととらえた千寿郎が目を伏せた。
「天元様は、『さみしくなったら俺らのところに来い』と。きっと、兄上とその方が結ばれたときにさみしがる俺を気遣ってくれたのですね。あぁ、ことばにしただけで、もう、さみしいです……。いかないで、兄上……」
ぽろりと頬を滑った涙が落ちる前に、杏寿郎はちゅっとそれを吸った。そのまま、柔らかな頬を唇で食む。びくりと震える幼い弟に「それはこちらのせりふだ。俺から離れるな」とべっとりと欲のついた弱音は言えない。代わりに、杏寿郎は縮んだ肩に腕を回し、鼻先をすり寄せた。せめて、弟がこの溢れんばかりの特別な愛を感じてくれることを願って。
しかし千寿郎には、すっかり静かになってしまった兄の真意などわからない。沈黙に耐え兼ね、問うた。
「ど、どんな方なのですか?」
「ん?」
「兄上の……好いた方は」
「そうだなぁ」と瞬きする音すら聞こえそうな距離で、兄は声を潜めた。その囁きがくすぐったくて、千寿郎はきゅっと唇を結んだ。
「優しくて健気で、花のように可愛らしく、竹のようにまっすぐでしなやかな子だ。俺の好みをよく知っている。どんな高級なものよりも、その子の料理を食べるのが何よりの楽しみなんだ。鬼を滅殺し尽したら、ずっとそばにいたい。今はそれくらいしか言えない。でも」
「でも?」
杏寿郎が細い腰をぐっと抱き寄せる。鼻先を違えた勢いそのままに上唇がちょんと触れた。口づけというにはあまりに不出来だったが、年若い千寿郎を赤面させるのには十分だった。
「いつか、千寿郎にだけ教えてあげよう」
吐息の境目が曖昧になる距離で、杏寿郎は千寿郎を見据えた。千寿郎の瞳の中のとろりとした炎に、自身の燃え滾る炎が重なっている。「俺はいつだって、お前の中にいる」すぐに千寿郎はその意味を理解した。兄の瞳の金環の真ん中に、炎が二つ重なってゆらゆらと揺れていたのだ。「俺も、兄上の中にいるのですね」と返すことなく、ただそれに見惚れていた。とくんとくんと、触れた布と肌を貫通しそうなほど震える心臓の音が兄に聞こえないように祈りながら。
あのとき、兄に伝えるべきだっただろうか。自分も兄を特別に愛していると伝えていれば、何かが違っただろうか。逃げ出してでも生きて帰ってきてくれたのだろうか。
何百回と考えても、兄が「煉獄杏寿郎」である限り、こうなるのが運命だったのだろうという結論に至る。
「『お前に秘密にしていることなんてない』とおっしゃいましたね。嘘じゃなかった。あれは俺のことを──……」
ふっと線香の煙が揺れた。木々をざぁざぁと揺らす風とともに耳元で名を呼ぶ声が微かに聞こえた、気がした。
年若い隊士が訪ねてくる前日のことだった。
(終)