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    52_251_1902

    @52_251_1902
    原稿進捗が多い気がする

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    52_251_1902

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    あれのつづきです

    いろいろもどき「広すぎだろ、ここ……」

     どれだけ歩いただろう。暗く入り組んだ通路をひたすら進んできたものの、同じような造りが続いていて一向に出口が見えない。
     ヴェストは“兄弟”が近くにいればわかると言っていた。出口付近に向かわされたはずの兄弟の気配はするものの、位置がわからないという。つまり、出口は近くにあるはずなのに未だたどり着けていないということだ。

    「プロイセン、大丈夫か。もしかして足が痛むんじゃ……」

     背中から神聖ローマが声をかけてくる。さり気なく右足を庇いながら歩いていたのがバレたのだろう。最初にヴェストと戦ったときに蹴られた部分が熱い。多少腫れているかもしれないが、骨が折れている様子もないしツバつけときゃ治る。ただ、人ひとり背負って長時間ぶっ通しで歩いていたためか、かすかにしびれを感じはじめていた。

    「少し休んだ方がいいんじゃないか」
    「平気だって。お前と違って鍛えてっから」

     ニヨニヨしながら神聖ローマを見ると、呆れたように顔をそらされた。
     それでも休むわけにはいかない。神聖ローマやヴェストと違って、俺は捕まったら一発で処分されちまうだろうからな。必死にもなる。そして、さっきからそんな俺をバツの悪そうな顔でヴェストが見つめてくるものだから、なおさら弱音を吐くわけにはいかなかった。

    「すまない、俺のせいで……」
    「謝んなって! 全然痛くねーし。そもそも、仮に俺の足が痛みで動かなくなったとしても、ヴェストが落ち込むのはお門違いだぜ。敵に対しての攻撃がバッチリ決まってたってことだ。むしろ誇っていいことなんだからな!」
    「…………」

     実際、この程度の怪我は日常茶飯事だ。
     それより、あれからヴェスト以外の追手がまったく来ないのが不気味だった。この施設の職員が隠し通路の存在を知らないわけがない。ヴェストひとりで事足りると思っているのか、それともなにかの罠なのか。

    「神聖ローマの血は、その……この人には効かないのか? 俺を治してくれるみたいに」

     ヴェストは歩幅を狭め、俺の背中側へ回ると神聖ローマに話しかけた。

    「それ、さっき俺も聞いたけど効かねーってよ。血を飲んで傷が治るのはヴェストだけなんだと。な、神聖ローマ」

     神聖ローマから返事はない。背中がひやりと冷たい。一瞬動揺したが、おい、と背中を揺すると神聖ローマは浅く息を吐いたので、ひとまず意識はあるようだ。

    「おい、大丈夫か?」
    「目眩がする。貧血だと思う。少し休ませてくれないか」
    「お前どっちみち歩かねーんだから、このまま俺様の背中でお休んでろよ」
    「固くて寝心地がよくない。座って休みたい」
    「……落とすぞ」

     仕方がねぇ、と少し腰を落としてやるとヴェストがすかさず寄ってきて神聖ローマを支える。こうして並べて見るとまるで双子だ。

    「俺はちょっと戻って追手が来てねぇか見てくるとするか。ヴェスト、神聖ローマを頼んだぜ」
    「ま、待ってくれ!」

     ぐい、と裾を引っ張られ振り向くと、ヴェストが困ったような不器用な顔で見つめてきた。

    「お、俺が! 俺が見てくる! 俺ならもし追手と鉢合わせても誤魔化せるだろうし、嘘の情報を与えて陽動もできる。俺が適任だ!」

     お前が? と聞くとヴェストはコクコクと頷いた。どう見ても嘘をつくのがド下手に見えるのだが、本当に誤魔化せるのだろうか……。

    「……じゃあ、ヴェストに任せる」

     そう告げるとヴェストはホッとしたように頬を赤らめ、今来た通路を小走りで戻っていった。
     残された俺は、神聖ローマの対面にゆっくりと座り言った。

    「嘘のつき方くらい、教えた方がいいぜ」
    「なんのことだ?」

     あくまでもしらを切るつもりか。俺を休ませるために仮病なんか使いやがって。お前いつも具合悪そうだから本当か嘘かわかりにくいんだよ、とため息をつく。ま、ヴェストのは見え見えだったけどな!
     神聖ローマは目を閉じたまま微かに笑った。

    「貧血なのは本当だ。さっきドイツに血を分けたから……」

     ふう、と冷めた息を吐いてから神聖ローマは目を開けた。

    「プロイセン、お前は外へ出たらどうするつもりだ?」
    「どうって?」
    「どこで、どうやって、なにをして暮らしていく? 施設のやつらが追ってくるかもしれない。外へ出ればハッピーエンドというわけにはいかないぞ」

     正直逃げるのに精一杯で、先のことまで考えられていなかった。
     そもそも、外の世界なんて知らないのだ。どんな場所かも、ここで教わった以上のことは知らない。そして多分この施設で教わったことは、この施設を作った者たちにとって都合のいい情報だけなのだ。

    「外って実際、そんなやばいのか?」
    「さあな。俺も記憶が曖昧だからなんともいえない。ただ……」
    「ただ?」

     神聖ローマは再び目を閉じて言った。

    「ここと違って、たまに太陽が見える。お前は太陽を見たことはあるか?」

     俺の心臓はドキリと音を立てた。太陽くらい、俺だって訓練のときに広場から見ている。そうか、神聖ローマはずっと地下にいたからそれすら目にする機会がないのか。
     まあ何回かあるかな、と曖昧な返事をした。毎日見ていたとは、なんとなく言えなかった。

     俺は外の世界で暮らせるだろうか。外の世界にはどれくらい人がいるのだろうか。どんな部屋に住んで、どんなものを食べて、どんなことをして過ごすのだろうか。
     神聖ローマだって外の世界から来たのだ。神聖ローマの父親もずっと外で暮らしていたという。預けられた家があるとも言っていた。まったく人が暮らしていないわけじゃない。だったら、俺だってきっとどうにか生きていけるはずだ。

     もちろん不安はあったが、それ以上に楽しみでもあった。軍の管理下ではなく、自分の力で生きていく。それはもしかして、ものすごくかっこいいのではないか!

    「まあ、俺は強くて賢いからな。どこでもやっていけるぜ。それより、お前こそ外に出られたらどうするんだ? 昔住んでたところとか、覚えてるのか?」

     俺の問いかけに神聖ローマは黒目がちな青い目を丸くした。

    「俺か……そうだな。せっかく連れ出してくれたお前には悪いが、俺は正直、本気でここを出られるとは思っていないんだ」

     それを聞いて、今度は俺が目を丸くした。

    「もちろん、お前が無事に脱出するまでは見届けるつもりだ。だが、俺はきっと連れ戻される」

     久々にあの部屋から出られただけで十分楽しかった、と神聖ローマは満足そうに微笑んだ。
     俺はというと、すごく気分が悪かった。なんだよ、結局こいつは俺のことを信じていなかったのか。

    「お前、ここから出る気なかったのか」
    「そもそも、俺は連れて行ってほしいなんて一言も言ってない」

     視線も合わさずに淡々と告げる神聖ローマに俺は苛立った。確かに、そういえば、連れて行くよう頼まれたわけではなかった気もする。いやでも絶対出たがっていたはずだ。俺にはわかる。俺の勘だ。間違いない。

    「お前がそんなにこの施設が好きだとは知らなかったぜ。まあ神聖ローマ帝国サマは、勉強も訓練もせずに、本読んで寝てるだけで飯食わせてもらえるんだもんな。そりゃあ出たくないよな、そんな天国みたいなところ」

     そう言い放ってやると、神聖ローマは僅かに表情を曇らせた。自分でも嫌味な言い方をしたと思っている。
     だが神聖ローマだって悪いだろ。こんなに強くたくましくかっこいい俺様が目の前にいるのに、諦めたふりなんかして。なんで素直に助けてくれって言わないんだよ。昔ノートの裏に書いていたみたいに。

    「もし外に出られたら……なんて、もう、考えたくないんだ」

     神聖ローマが俯きながらそう呟いたのと同時に、通路の向こうから激しい破裂音が響いた。
     ヴェストが向かった方向だ。俺は咄嗟に立ち上がった。
     音がした方からは煙が立ち、次の瞬間に物凄い唸り声とともにドタドタと巨大な動物のようなものが迫ってきた。

    「ヴォおおォ……ァああ!!!!」

     剥き出しの歯がいびつに並ぶ大きな口からは涎が垂れている。血走った青い目は焦点が合っていない。体毛は薄く、体は薄ピンクで人間の肌のようだ。
     直感的にわかった。これがヴェストの“兄弟”だ!

    「こんなにデカいなんて聞いてねーぞ!」

     その巨体に似合わない素早い動きで、肩のあたりから触手のようなものを伸ばし、俺の足を掬おうとしてくる。俺はそれを避けつつ、少々乱暴に神聖ローマを抱えて反対方向へ全速力で走った。

    「おい神聖ローマ! あれもヴェストの兄弟ってやつだろ! どうすればいいんだよ!?」
    「わ、わからない。俺もあんなに大きな個体は初めて見た。それに、なんだか様子がおかしい」
    「そもそもおかしくない状態が想像つかねーんだけど!」

     重心がおぼつかないのか、壁に激突しながら低い呻き声を上げて追ってくるその姿は、ヴェストには悪いが怪物以外のなにものでもないように見える。
     その怪物が涎を撒き散らしながらどんどん距離を詰めてくる。
     駄目だ、追いつかれる!
     そう思った瞬間、短く銃声が鳴った。耳をつんざくような悲鳴とともに怪物が動きを止める。

    「ぎいィィイアァ、あ、」
    「やめろ! 神聖ローマに傷をつけたら処分されてしまうぞ!」

     怪物の背後からヴェストの声が聞こえた。どうやらずっとこの怪物の背中にくっついていたらしい。末恐ろしい腕力だ。

    「すまない!」

     ヴェストは短く謝罪をすると、腰から新しい銃を取り出し怪物の背中に弾丸を放った。
     先ほどよりも大きな銃声が響き、怪物の腹まで弾が貫通した。真っ赤な血を流しながら、うずくまる肉塊。それにヴェストは優しく手を当てると再び小さく「すまない」と言った。

    「殺したのか?」
    「怪我をさせて動けないようにしただけだ。これくらいの怪我では死なない。ひどく錯乱していたようで、話もできなかった……」

     そもそもコレと話せる方がおかしい気もするが、ヴェストが本気で落ち込んでいるようだったので黙っておいた。
     大人しくなった怪物に、ヴェストの肩に乗っていた小さな“ドイツもどき”が寄っていくと「ミィ」と鳴きながら涙を零した。

    「で、ヴェスト。こいつ以外に追手はいたか?」
    「いや……誰ひとり見かけなかった」
    「誰も?」

     それは妙だ。まるで俺たちを捕まえる気がないみたいじゃないか。

    「ラッキー……だと思うのは、さすがにやばいよな?」

     背中にちらりと目線をやると、神聖ローマは深く頷きながら言った。

    「おそらく特定の場所に誘い込まれている。このまま闇雲に進めば袋のネズミだ。だから追ってくる必要がないんだろう」

     闇雲に進むのは危険、とはいえ戻ったところで結果は同じ。罠だとわかっていても進むしかないのか。
     しばらく考えあぐねていると、ヴェストが真剣な面持ちで問いかけてきた。

    「改めてふたりに聞きたい。諦めて投降する気はないか?」

     何を言い出すかと思えば、それだけは俺にはない選択肢だ。ない、とはっきり答えてやると、ヴェストはさらに続けた。

    「あなたは、処分されるのが嫌で逃げているんだろう? 俺と神聖ローマで、あなたの処分を止めるよう説得してみせる。だから……」
    「そんなの、あの連中が聞くわけねぇだろ」
    「あなたは何か誤解をしている! ここでは確かに非道な実験も行われているが、あくまで目的は世界の統一と平和なんだ!」
    「じゃあ、お前の兄弟とやらが実験で酷い目にあってるのも、世界平和のためだから問題ないんだな? 尊い犠牲ってやつか」
    「…………」

     ヴェストは生まれてからずっと……いや、ヴェストだけじゃない。俺だってそうだ。俺たちはずっと、この施設で教育されてきた。自分たちの行いは全て、この世界のためになるのだと信じて生きてきた。本当は俺も、まだ少し混乱している。理想郷の名を与えられ、世界統一の象徴として育てられてきたヴェストなら尚更だろう。
     だが俺は当然、このまま逃げ続ける。捕まったら確実に殺されるからな。それに、洗脳されて誰かの思惑通りに動くだけの人生なんてごめんだ。知ってしまったからには、もうここにはいたくない。

    「神聖ローマ! 神聖ローマは本当にここを出たいのか? この人と一緒に外へ行きたいのか?」

     ヴェストは焦るように尋ねた。神聖ローマは淡々とした調子で答える。

    「さすがに俺は殺されないだろう。俺がいることで攻撃の手が弱まるなら、少なくともプロイセンが外へ出るまでは一緒に行ってやるつもりだ」
    「そうではない。神聖ローマ自身は外の世界へ行きたいと思っているのか、と聞いているんだ!」

     ヴェストに問い詰められ、神聖ローマは困ったように目を泳がせた。俺も、そこはもう一度はっきり聞いておきたい。

    「俺は……外に行きたいなんて思わない」

     神聖ローマはしばらく沈黙したのち、俯きながら力なく答えた。ヴェストは少しだけ目を丸くして、一呼吸おいてから口を開いた。

    「そ、それでは……。俺は神聖ローマを保護して、嫌がる神聖ローマを無理やり連れ回したこの人を攻撃しなければならないが……」

     ヴェストがじっと俺の方を睨む。すっかり打ち解けた気でいたが、ヴェストはそもそも敵方の追手なのだ。

    「いや待て待て待て! おい神聖ローマ! いったん嘘でもいいから俺と行きたいって言え!」
    「そ、それは脅迫だ! やはり捕まえなくては……」
    「おっ…お前の兄弟も逃してやるって言っただろ! 忘れたのか!」
    「それはそうだが……神聖ローマが嫌がっているのなら、やはり保護しなければ……」
    「おい神聖ローマ! なんとか言え!」

     背中を乱暴に揺らして返事を急かすが、神聖ローマは押し黙ったままだ。とにかく喧嘩にならないよう言いくるめなければと再びヴェストの方へ視線を向ける。

    「! ヴェスト後ろ!」

     動かなくなっていた肉の塊が突如動き出したかと思うと、目にも留まらぬ早さでヴェストを壁に叩きつけた。

    「そんな……どうして、こんなに早く……っ」

     怪物はよろけるヴェストを触手で掴むと、今度は激しく振り回して床に投げつけた。さすがのヴェストも今のはかなりダメージを受けたようだ。

     俺はポケットから拳銃を取り出し、脳天――と思われる部分――に一発お見舞いした。ギャアと鳴き声をあげるものの動きは止まらない。
     怪物は激しく蠢き、再びヴェストを引っ掴んで振り回し、触手をヴェストの腹に蛇のように巻きつけた。このまま腹をねじ切るつもりだ!

    「う、ぐっ……」
    「ヴェスト! 力抜け!」

     受け身取れよ、と一声かけてから神聖ローマを落とすように降ろし、俺は壁に飛びついた。そのまま勢いよく触手のつけ根めがけて壁を蹴った。つけ根を掴んで雑巾のように絞ってやってから至近距離で銃弾を撃ち込む。
     赤い肉片が散らばり、ヴェストを掴んでいた触手も力なく落ちる。本体である肉の塊は地響きのような悲鳴を上げて苦しそうに悶えていた。

    「とどめ刺すぞ、いいな!?」

     一応ヴェストに問いかけたが、返事は待たずに目玉、口、手足と思われる部分に一発ずつ撃ち込む。
     暴れる肉の塊に近づき、ナイフで頭を割いた。骨がほぼなく、全体的に人間よりも柔らかいおかげで手持ちのナイフでも簡単に切ることができた。肉塊は頭の上半分を落としたあとも激しく動いている。
     俺は胴体にあたる部分を縦に切り裂き心臓を探した。肉と血をかき分けてそれらしき臓器を発見し、力いっぱいナイフを突き刺してやると、ようやくその巨体は動きを止めた。

    「ミ……ミ……ンギ……」

     ドイツもどきが足元にやってきて泣いている。気の毒には思うが罪悪感はなかった。あの暴れ狂う肉塊を、殺す以外に正解が思いつかなかったからだ。
     またこいつに嫌われたかな、なんて思いつつ足元にいるドイツもどきに目をやると、その横にギラリと光るものが落ちていた。
     拾って見てみるとそれは注射針のような穴のあいた針だった。普通の注射針よりもかなり太く、頑丈そうだ。なぜこんなものが――

    「プロイセン! ドイツを見てやってくれないか」

     神聖ローマに呼ばれて顔を上げると、ヴェストが腹を抑えてうずくまっていた。さっき振り回されたときに肋骨でも折れてしまったのだろう。

    「ほれ、ちょっと見せてみろ」

     ヴェストは苦しそうな顔をしつつ、言われたとおりに体を持ち上げた。触って確かめてみると、案の定肋骨が折れている。この感じだと何本か内臓に刺さってしまっているだろう。それに、散々振り回されてぶつかったせいか頭や背中も腫れている。

    「こりゃさすがにちゃんと治療しねーと……もしくは」

     チラリと神聖ローマに目をやると、はじめからそのつもりだとでも言うように神聖ローマは腕をまくった。

    「ナイフ、今あれを仕留めるのに使っちまった。かなり汚れてるぜ」
    「構わない。どうせみんな俺の血から生まれたものだ」

     血まみれのナイフを渡すと、神聖ローマはやはり躊躇いもなく手の甲を刺した。せっかく塞がりかけていた傷の横に、真新しい傷ができる。その手から滴る血をヴェストに飲ませると、みるみるうちに血色がよくなった。何度見ても、まるで魔法のようだ。

    「神聖ローマ……もういい、また、貧血になってしまうぞ……」

     まだ少し苦しそうな声でヴェストが言うが、神聖ローマは気にせず血を与え続けた。

    「俺が倒れてもプロイセンが運んでくれるから大丈夫だ」
    「お前なぁ……」

     意識のある人間と、気を失っている人間を運ぶのでは労力が桁違いだ。まったく軽々しく言いやがって。

    「ところでプロイセン、その手に持っている針はなんだ……?」

     神聖ローマに指摘されてその存在を思い出した。あの怪物の腹の中から出てきた針だ。

    「注射針のようだな」
    「ああ……でもなんでこんなものがあいつの腹の中にあったのかわからねぇ」

     神聖ローマはしばらく考え込んでから、はっとしたように顔を上げた。

    「薬を打たれたんだ」

     その言葉にヴェストも目を見開いた。怪我はほとんど治ったようで、ヴェストはすぐに起き上がって神聖ローマの止血をしながら言った。

    「薬って……」
    「精神に作用するものか肉体に作用するものか……どちらにせよ、例の実験は進んでしまっているようだな」

     神聖ローマとヴェストは顔を見合わせながら頷いた。内々で納得するな。俺にもわかるように説明しろ、と口を尖らせると、神聖ローマが口を開く。

    「“ドイツ”以外のゲルマンの子が、適性検査で洗脳状態にされることは前に話しただろ。あれはお前たちの血に特殊な信号を送って、脳を半覚醒状態にするものだ。ある程度自立して動きつつ、命令には逆らわないように調整されているらしい。俺も詳しくは知らないんだが、そうやって奴らは人を操り、戦わせる技術を持っている。つまり……」
    「完全に自我を失わせて、死ぬまで戦わせることも可能かもしれないってことか?」

     神聖ローマは静かに頷いた。

    「以前からそういった類の実験が行われていた。さっきのも、恐らく……」

     神聖ローマの言葉を聞いて、ヴェストは拳を握り締めた。言葉をなくした俺たちの間に、ドイツもどきの短い嗚咽だけが短く響いた。

    「……なあヴェスト。お前も一緒に、外へ出ようぜ」

     静寂を断ち切るように俺が呟くと、ヴェストはゆっくりこちらを見た。

    「このままここにいたら、お前もいつかああなるぞ。この施設のやつらの言いなりになって、死ぬまで戦わされる」

     ヴェストは黙った。そして眉間にしわを寄せながら、俯いた。

    「少し、考える時間をくれないか」
    「ああ。もちろんだ」

     俺はヴェストの頭を撫でてから、神聖ローマに向かい合うように屈んだ。こいつにも言っておきたいことがある。

    「たとえ嫌だと言われても、お前も外へ連れて行く。お前がここにいる限り、ゲルマンの子の実験は続くだろうからな。お前がいなくなれば、少なくとも新しくゲルマンの子が生まれることはない」

     神聖ローマは小さく頷いた。
     俺は神聖ローマを背負い直し、罠だとわかっている道を再び進みはじめる。この先に待ち構えているであろう敵は、どれほどの数だろうか。今まで以上に気を抜かないようにしなければ。
     背中が少し冷たいのは、神聖ローマの体温が低いせいだろう。












    5.

     地下に潜ってからすっかり時間の感覚をなくした俺、そしてそんな生活を長年続けて完全に麻痺している神聖ローマとは違い、ヴェストはしっかり時間を計っていた。
     驚くべきことに、俺たちはもう二十時間近く歩いていたらしい。さすがに休憩しようと提案するヴェストに従い、俺たちは通路の一画に腰を落ち着けた。

     どうやら身体の方は疲れていたようで、固く冷たい床でも横になればすぐに睡魔に襲われた。だが熟睡はしないように気をつける。いつ敵に襲われるかわからないのだから。
     しばらく寝たり起きたりを繰り返しながらうとうとしていると、ひとり座って起きていた神聖ローマが小さな声で呟いた。

    「プロイセン、ひとつだけ約束してくれ。いざというときは絶対、俺を置いていけ」

     俺は微睡む目を少し開き、神聖ローマの方に目線をやる。神聖ローマは壁に背を預け、まっすぐ床だけを見つめながら言葉を零す。

    「絶対にだ。俺は別にここを出られなくていいんだ。もう無理だと思ったら、必ず俺を置いていけ」

     ぽつりぽつりと零される言葉を、俺は静かに聞いていた。神聖ローマはそれを了承と判断したのか、それ以上なにも言わなかった。
     俺はハァと一息吐いてから起き上がり、一気に空気を吸い込んでから、神聖ローマに向かって大声で怒鳴った。

    「お前なんなんだよ! 悲劇のヒロインにでもなったつもりか!?」

     俺の怒鳴り声で、神聖ローマの横で寝ていたヴェストも飛び起きた。神聖ローマは一瞬肩をすくめたが、表情ひとつ変えずに相変わらず床と見つめ合っている。

    「外に行く気はなかっただの、置いていけだの、なんでそう士気の下がることばっか言うんだよ! もっとこう、一緒に頑張ろう〜とか、強くてかっこいいプロイセン様がいれば安心だ〜とか、可愛げのあること言えねーのか!」
    「俺になにを求めているんだお前は……」

     どうしてもツッコミを入れたくなったのか、神聖ローマはようやくこちらに顔を向けた。寝起きのヴェストは、俺たちふたりの顔を交互に見ながらおろおろしている。
     神聖ローマは眉をひそめ、再び俺から視線をそらした。

    「別にお前を信頼していないわけじゃない。ただ俺が、ここを出ることを諦めているんだ」
    「だから、なんで諦める必要があるんだよ! やってみなきゃわかんねーだろ!」

     その言葉を聞いた途端、神聖ローマは顔を勢いよくあげ、俺を睨みつけた。俺はしばらく神聖ローマの発言を待った。唇を噛みながら、神聖ローマの深い青の瞳は水面のように揺らいでいた。

    「……これまで、何度もやってみた」

     ようやく絞り出された言葉はとても小さく、今にも床に吸い込まれて消えてしまいそうなものだった。

    「やってみたけど、駄目だったんだ」

     神聖ローマは膝を抱えて俯いた。俺が「でも、次は上手くいくかもしれない」と言うと、神聖ローマはその細い腕で俺の胸ぐらに掴みかかってきた。

    「歩けなくなっても、這って逃げようとした。でもすぐに捕まって駄目だった。俺に同情してくれたゲルマンの軍人が、今回のように俺を脱出させようとしてくれたこともあった。けど失敗して、その軍人は目の前で殺された。その後からだ、ゲルマンの子を洗脳状態にしてから軍に入れるようになったのは。失敗するたびに俺の部屋も地下深くに移され、誰とも接触できないようになっていった。失敗するほど状況は悪くなる。俺だって、もう何度も何度もここから出ようとしたんだ! でも何度やっても駄目なんだ! もう期待したくない。次こそ出られるかもしれないなんて――」

     パンッ。
     廊下の隅まで響き渡るような大きな音を立てて、俺は神聖ローマの頬を平手で殴った。
     神聖ローマは驚いた様子で瞬きを繰り返し、そのたびに目から雫がぽたりと落ちる。

    「今までダメだったのは、単にお前の逃げ方が下手くそだったのと、そこに俺様がいなかったからだ!」

     自分の胸に拳をぶつけながらそう叫ぶと、神聖ローマもヴェストも、ついでにドイツもどきまでもが、目をパチパチさせて呆気にとられた。

    「今回もダメだなんて誰が決めた! 他ならぬこの俺が連れて行ってやるって言ってるんだぜ!? 天才の俺さえいれば、大丈夫に決まってるだろ!」

     俺は鼻を鳴らして自信たっぷりに言い放った。俺なら本当にできると、心の底から思っているからだ。神聖ローマは一瞬乾いた笑みを浮かべたかと思うと、肩を落としてうずくまった。

    「どうか、諦めたままでいさせてくれ……」

     中途半端な希望を持つことは、絶望するよりもつらいのだと、神聖ローマは力なく告げた。
     今度こそ出られると希望を抱いては砕かれてきた。その繰り返しによって、神聖ローマにとって希望を持つということは傷つくことと同義になってしまった。希望を抱いて砕かれるよりも、穏やかな絶望を抱いて生きる方が楽だった。

    「だったら、どうしてお前は死ななかった?」

     俺がそう問いかけると、神聖ローマは濡れた顔をゆっくりと上げた。右頬は赤く腫れていた。

    「逃げる以外にも、お前が解放され、かつ施設の連中に一矢報いる方法がひとつだけあったはずだぜ。お前が自死することだ」

     それくらいのことは神聖ローマ自身も思いついただろう。けれどそれをしなかった。怪我をしないように刃物などは遠ざけられていただろうが、武器がなくたって命を断つ方法はいくらでもある。つまり、神聖ローマは自らの意思で死なないことを選んできたはずだ。

    「逃げる気がないなら、舌でもなんでも噛み切って死んじまえばよかったんだ! そうすればお前が哀れんでいるドイツもどきや、俺たちみたいな子どもも生まれなかった。それなのに、どうしてお前はさっさと死ななかった?」
    「お、おい……」

     ヴェストがなにか言いたげに制止するが、俺は気にせず喋り続けた。

    「本当は諦めたくなかったから、生き続けたんじゃないのかよ!」

     まっすぐに、神聖ローマの目を見て叫んだ。
     神聖ローマは目を見開いて、そこから大粒の涙を次から次へと溢していた。それから喉を震わせ、泣いた。小さな体で声を上げて泣く姿は、まさに子どもだった。きっとこいつの時間は、ここに連れてこられたときから止まっていたんだろう。俺はしばらく、透明な粒が冷たい床に吸い込まれていくのをただ眺めていた。

     そういえば、涙は血と同じ成分でできていると教わったことがある。この涙からも、命は生まれるのだろうか。











     数時間の睡眠を取ったおかげである程度体力も回復し、痛めていた右足もだいぶ良くなった。

     神聖ローマの目の周りは赤く腫れていた。無理もない。あのあと神聖ローマは何十年か分の涙を流し続け、そして疲れて眠ってしまった。そのまま俺たちは三人と一匹(四人と言わなければヴェストに怒られるが)で、折り重なるように眠った。固い床だが、不思議と寝心地はよく感じた。

     ヴェストは、まだ眠たそうにしているドイツもどきを軽く引っ張って遊んでいる。俺がよし、と気合を入れて立ち上がると、ヴェストも遊ぶのをやめて立ち上がった。

     しばらく俯いて黙っていた神聖ローマだったが、俺が近づくと腫れた瞼を持ち上げてゆっくり口を開いた。

    「俺は、本当はずっと……外の世界に帰りたかった」

     俺が黙って頷いてやると、神聖ローマは静かに深呼吸をした。

    「太陽が、見たかったんだ……もう一度。だから、死にたくなかった」

     無機質な天井を見上げながら、気をつけていないと聞き逃してしまいそうな細い声を絞り出す。
     再び溢れそうになる涙を、神聖ローマは目を閉じてこらえた。ゆっくり紡ぎ出された声が、涙の代わりに小さく落ちてコンクリートに吸い込まれていった。

    「今度は俺から頼む。プロイセン。どうか、俺に力を貸してほしい。俺を外の世界へ連れて行ってくれ」

     神聖ローマは今度こそ涙を拭くと、顔を上げて微笑んだ。その笑みは今までに見せたものよりずっと澄んでいて、確かな意志を含んでいた。
     俺は神聖ローマに向かって得意げに笑って見せた。

    「俺は最初からそのつもりだったぜ!」

















     休息も終え、俺は再び神聖ローマを背負って歩いた。兄弟たちの気配は薄くなってしまったものの、なんとなく出口の方向はわかるというヴェストが先導してくれている。昨晩に泣き疲れたのか、神聖ローマは俺の背中でよく眠っていた。

    「それじゃあ、ヴェストは毎日ひとりで飯食って、ひとりで寝てるのか」
    「ああ」

     物心ついた頃から集団生活をしていた俺にはどんな感じなのか想像もできねぇな、とヴェストを見ながら言った。
     歩きながら、俺とヴェストは互いのこれまでの経験を語った。ヴェストは自分以外にもゲルマンの子がいることは知っていたが、いずれ自分が統率することになる駒のようなものだと教えられていたらしい。ひとりひとりに人格があることすら知らなかったのだと。まあ、洗脳してから使うつもりなら実際ヴェストに会う頃にはみんな人格なんてないようなものかもしれないが。
     ヴェストは自分以外のゲルマンの子らの共同生活に興味津々だった。もちろん訓練や勉強の時間がほとんどだったが、遊びたい盛りのガキばかり集まっているんだ。逆立ちリレーとか早食い競争とか、思い返すと結構バカもやってたな。もちろんその中で俺が一番優秀でかっこよかったという事実も伝えておいた。

     ヴェストの方はというと、生まれたときから職員に『ドイツ様』と呼ばれ丁重に扱われてきたようだ。戦いの訓練の相手は、ドイツもどきたちや専用の機械だった。
     ある日の訓練で大怪我をしてしまった際、ヴェストははじめて神聖ローマの元へ連れて行かれ、その血を飲んだ。ヴェストがはじめて会った、職員とドイツもどき以外の人間が神聖ローマだった。神聖ローマはヴェストを見て一言「本当に、まるで俺の子のようだな」と、少し寂しげに呟いたという。
     職員は必要最低限の会話しかしない。今より幼かったヴェストは人とのコミュニケーションなどそんなものだと思っていたが、神聖ローマと会ってからは会話ができるのが嬉しかったという。そうなると今度は、ひとりでいる時間の寂しさに気がついてしまった。ドイツもどきと会話を試みて、徐々に話せるようになったのもこの頃らしい。

     しかし、神聖ローマにも自由に会いに行くことは許されなかった。会うことが許可されたのは、訓練で大きな怪我をしたとき、病気になったとき、あとはごく稀に戴血に同行させてもらえるとき。これくらいしか接触の機会はなかったが、それでもヴェストにとっては数少ない話し相手であったし、たまに会うと本を読んでくれた。ヴェストはその時間が好きだった。

    「……神聖ローマは、俺のことが嫌いだったんだろうか」

     ヴェストの突拍子もない言葉に、俺は思わず瞬きを繰り返した。そしてそのあと、噴き出した。

    「な、なぜ笑う!」
    「いや、悪い、悪い。ヴェストが変なこと言うから、ついな」
    「変なことなど言ってない!」

     ヴェストはむくれてズンズン歩みを早めながら言った。

    「俺は神聖ローマにたくさん血を貰った。そして、彼の血を使った研究で生み出された人間だ。だから、神聖ローマは……俺に生まれてきてほしくなかったんじゃないかと」

     そこでヴェストは一瞬足を止めたが、すぐにまた歩き出した。

    「……俺はずっと、神聖ローマも世界の平和を願って、前向きに研究に協力しているのだと思っていた。でも、違った」

     神聖ローマが、本当はずっとここから逃げ出したかったのだと知ってしまった。自分が会いに行くといつも歓迎してくれた。だがその間にも神聖ローマは、ずっと逃げたいと思っていたのだろうか。大人になったら、俺が神話のドイツのような立派な国を作るんだと言えば、神聖ローマはなにも言わずに微笑んだ。ヴェストは、自分の存在や言動が神聖ローマの負担になっていたのではないかと不安になったようだった。

    「でもなあヴェスト、お前が怪我したとき神聖ローマはすぐに血をくれるだろ」
    「それは彼の役目のひとつだからに過ぎない。神聖ローマは、戴血だって本当は嫌だったんだろ。俺に血をくれるのだって、本当は嫌だけど、仕方なくそうしているのかもしれない」
    「仕方なく、ねぇ……」

     ヴェストは気を失っていたから知らないのか。この隠し通路でヴェストと相対したとき、俺の制止も聞かずに神聖ローマは地べたを這って、お前に血を与えに行こうとしたんだけどな。仕方なくやらされてるだけなら、そこまでしないだろ。
     それをそのまま伝えてやると、ヴェストは驚いた顔で少しだけ頬を赤らめた。そして、それは本当かと二度も聞かれたので、本当のことだと俺も二度答えた。

    「神聖ローマはお前のこと大切に思ってると思うぜ」
    「そうだろうか」
    「そうだろ、どう見ても」
    「そうか……。そうだったら嬉しいな」

     ヴェストは照れるように頬を赤らめた。それから少しだけ不安そうな顔をして、神話では神聖ローマ帝国が滅んだあとにドイツ帝国が生まれるのだ、と言った。

    「ふたつ同時には存在できなかったんだろうか……」
    「さあな。あんま興味ねー」
    「あ、あなたもゲルマンの子なら、神話についてはよく教わっているはずだ!」
    「そりゃ教わってるし、神聖ローマにも散々うんちく垂れられたけどな。神話神話って、そんなの昔の誰かが考えた物語だろ。フィクションだよフィクション」
    「な、なんてバチ当たりな……。神話は、この世界で実際にあった歴史の話だといわれている」
    「どっちみち何千年だか何万年だか大昔のことだろ。フィクションと同じじゃねーか」
    「同じではない!」

     プンプンと頬を膨らませて歩くヴェストに、神話オタクの神聖ローマとしかまともに喋ったことがなかったらこうなるのも納得だなと思った。

    「神話の理想郷を再現するために、俺たちは作られたんだ。よく学んでおいた方がいい」

     こちらをちらりと振り向きながら、ヴェストは小声で言った。俺は軽くため息をつきながら、長年の疑問を口にした。

    「その国が本当に理想郷なら、どうして今はないんだろうな」

     ヴェストはきょとんとした顔で俺を見た。昔これを職員に言ったら、こっぴどく叱られたことを思い出した。あのときから俺は神話の授業が好きじゃない。

    「そういえば、ドイツができて繁栄したあとの話は残っていない」
    「だろ? 理想郷を再現したいならなおさら、なんで滅んだのかってところを学ぶのが重要だと思うんだが」
    「それは……確かにその通りだ」

     うむ、とヴェストは難しそうな顔で考えた。かつて俺の考えは職員から突っぱねられたが、ヴェストは真面目に取り合ってくれた。さすがは俺の弟だ。
     今思うと、あのときの職員の叱り方は異常だった。戦術についての質問や疑問にはなんでも答えてくれたのに、神話については「そういうものだ」としか教えてくれなかった。絶対に触れられたくない、疑問を持ってはいけない部分だったのだろうか。

    「この施設にいる限り手に入れられる情報は制限されるだろ。仮に神話が実際にあった歴史だったとして、理想郷が滅んだ過程はヴェストや俺たちに知られちゃまずい内容なのかもしれない」
    「うむ……。確かに、滅びの過程を知った誰かが、同じ方法で再び理想郷を滅ぼそうとする可能性もある」
    「そもそもだ。その神話ってやつ自体、この施設のやつらがでっちあげた物語である可能性もある。俺たちに具体的なイメージを持たせるためにな」
    「…………」

     ヴェストは、さすがにそれは……と言いたそうな顔をしたが、可能性がなくはないと思い直したのか、そのまま黙った。

    「ここにいる限り、俺たちには本当のことがなにもわからないんだ」
    「…………」
    「ヴェスト。昨日言ったこと、考えてくれたか?」

     俺はヴェストも外へ連れて行きたい、いや行くべきだと思っている。改めてそう伝えると、ヴェストは少しの間黙って歩いた。歩幅がだんだんと狭くなる。

    「……正直、どうしたらいいかわからない。俺は、ドイツとして使命を果たそうと思っていた。そのために研究にも協力した」

     だから神聖ローマのことも折を見て連れ戻そうと思っていた、とヴェストは言った。

    「だが、神聖ローマ自身が外へ行きたいというのなら、俺はそれを尊重したい。しかしそれでは研究ができないし、研究が進まなければ目的は達成できない」

     ヴェストは気持ちの整理をするように、ゆっくりと歩きながら語った。

    「俺にはもう、なにが正しいのかわからないんだ」

     歩みを止めて、ヴェストは少しだけ振り返った。珍しく不安げな顔を見せる弟に、俺は笑顔でつとめて明るく接した。

    「お前は心から、世界を良くしようって思ってるんだな」
    「あ、ああ……。だが、それも教育されたことだ。本当は俺は、世界というのがどんなところなのかも知らない」
    「それは俺も同じだ」

     ヴェストは少しだけホッとしたような顔をした。理想郷の名を与えられたヴェストは、きっと俺たち以上に、自分がこの世界を背負っていかなければならないと思わされてきたのだろう。
     生まれてからずっと与えられてきた価値観を覆すのは難しいし、苦しい。

    「……俺は、世界のことは知らない。ただ神話の理想郷を再現しなければと思っていた。それが幸せというものなのだと。だが、人を閉じ込めて無理やり血を採ったり、人体実験を繰り返すことが世界のためになるとは……今は、あまり思えなくなっている」

     ヴェストは今度は体ごと俺の方に向き直り、慎重に言葉を選んだ。それを、俺も真剣に聞いた。立場は違えど、ここで生まれ育ち教育されてきたという点で俺たちは同じだ。少しは気持ちをわかってやれるつもりだ。

    「外へ行きたいのとは違うかもしれないが、俺はいったん研究を止めたい。止めて、もっと自分の目で世界のことを知りたいと思う。他にもっと、いいやり方があるような気がするんだ」

     ヴェストは透けるような淡いブルーの瞳で真っ直ぐに俺を見つめた。俺はその瞳が誇らしく、そして愛おしいと思った。
     ここのクソみたいな研究のやり方はとても褒められたものじゃないが、この世に素晴らしい弟を生んでくれたことには心から感謝する。俺様栄誉賞を授けたい。

    「“ドイツ”になったのが、そういう考えのできるやつでよかったぜ」

     この施設の連中が育てたとは思えないような聡明さと柔軟性を持ったヴェストは、悔しいが理想郷の名に相応しいと思った。いや、職員とはろくに会話もなかったようだから、これはヴェストの生まれ持った性格か、はたまた神聖ローマの教育か。

    「なんなら俺たちで本当にやっちまうか、世界の平和と統一!」
    「え?」
    「洗脳とか実験とかじゃない、ヴェストがいいと思う別のやり方を考えようぜ。一緒にな。俺も、同じ“理想郷(ドイツ)”を作るならそっちのほうがずっといい」

     そう言いながら左手を出すと、ヴェストは少し驚いたあと大きく頷き、青い瞳をキラキラと輝かせながら右手でハイタッチをした。
     それは基本が仏頂面のヴェストの、貴重な笑顔だった。記録に残せないのが惜しまれる。

     せめてこの目に焼きつけようと瞬きせずに見ていると、突如ヴェストの瞳から真っ赤な血が噴きこぼれた。
     あまりにも突然のことで状況が掴めずにいると、ヴェストは「あれ、あれ」とうわ言を繰り返しはじめた。

    「お、おいヴェスト! どうした!?」
    「…………ぁ……」

     ヴェストの体は小刻みに震え、閉じなくなった口からは涎が垂れていた。どう見ても普通じゃない。どこか怪我でもしたのか。だが昨日のデカブツを倒して以来、俺たちはただ歩いていただけのはずだ。

    「あ、あ……に、」
    「ヴェスト、喋るな! いったん座って落ち着け!」
    「……どうした?」

     俺の背中で眠っていた神聖ローマも目が覚めたらしく、すぐにヴェストの異変に気づいた。そうだ、どこか体が悪いなら神聖ローマの血を飲ませればいい。神聖ローマもそのつもりのようで、ヴェストの横に降ろしてやると俺のナイフを奪い取るように掴んだ。

    「ドイツ、しっかりしろ。今……」
    「に、に……」
    「ドイツ……?」

     に、げ、ろ、とヴェストが震える唇で言うのとほとんど同時に、俺は廊下の端まで吹き飛ばされた。その勢いがあまりにも早く、なにが起きたのかすぐにはわからなかった。
     ヴェストが俺を蹴り飛ばしたのだ。いつの間にか立ち上がっていたヴェストは、一歩ずつこちらに歩み寄ってくる。皮膚に血管が浮き出ている。瞳は冷たく鋭く、しかしどこか虚ろでもあった。
     ヴェストが足を踏み出すたびに、床にはヒビが入る。初めてヴェストと相対したときのことを思い出す。あのときも十分にやばかったが、それを圧倒的に超える“やばさ”を感じた。
     なぜ、と考える間もなく次の攻撃がはじまった。ヴェストは獣のように叫びながら、壁を走って近づいてきた。そのまま振り下ろされた拳を、俺は間一髪のところで転がり避ける。

    「ヴェスト! おいどうした!」
    「ギィいいいいいいッ」

     ヴェストは俺の言葉など聞こえてもいないかのように攻撃を繰り返した。仕方がない、と俺は腰の銃を構えてヴェストの足に銃弾を撃ち込んだ。その弾でよろけたのも一瞬、ヴェストはそのまま突っ込んできて俺の左腕に噛みつき肉を抉った。そしてそのまま俺の肘の関節を逆さに折りやがった。

    「ぐっ…ッ」

     痛みと衝撃で銃から指が離れ、それをすかさずヴェストが弾き飛ばす。俺はいったん息を整えて腕の痛みをやり過ごし、ヴェストの腹に膝を入れた。

    「ガッ…ーーーー」

     ヴェストは癇癪を起こした赤ん坊のように暴れた。その隙に俺は走って銃を拾おうとしたが、すぐにヴェストが追ってきてそれは叶わなかった。銃は蹴り飛ばされ、廊下の反対側へ飛んでいく。同時に俺は首を掴まれたあと床に落とすように叩きつけられ、頭から血が流れ出た。視界の片方が赤く染まり目眩がする。そしてヴェストは次に神聖ローマの方を見て、言葉ではないなにかを叫びながら噛みつこうと飛び上がった。
     俺は片目を瞑りながら踏み込み、神聖ローマを右腕で抱きかかえギリギリのところでヴェストの攻撃をかわした。

    「自分で掴まれ!」

     神聖ローマにそう言い放つのとほとんど同時に、俺は立ち上がり走った。右腕で神聖ローマを抱えながらだと両手が塞がって戦えない。銃もない。肉弾戦で乗り切るしかないが、おかしな方向に曲がり動かなくなった左腕が邪魔だ。いっそ千切って捨てたいくらいだが、ヴェストはそんなことをしている暇さえ与えてくれない。

    「プロイセン、恐らくドイツは例の薬でおかしくなっている!」
    「薬!? あのデカブツが打たれた、死ぬまで戦うようになるってやつか? そんなのいつ……」

     はっとした。あの肉塊の中から出てきた注射針。俺のナイフであいつの心臓を貫き殺した。その血がべったりとついたナイフで、神聖ローマは皮膚を裂いた。そしてヴェストはそこから滴る血を飲んだ。

    「あのとき、血に薬が混ざってたってのか……!」
    「すまない、俺が迂闊だった。血に作用する薬なのだから、もっと慎重になるべきだった」
    「反省は後だ! とにかく、元に戻す方法はないのか!?」

     わからない、と神聖ローマは絞り出すように言った。こうして話している間にも、ヴェストは叫びながら壁や床を破壊して俺たちを追い回す。

    「お前は平気なのか!?」
    「ここで作られる薬は俺には効かない。連中が洗脳できるのは、あくまで人工的に作られたゲルマンの子だけだ。それに、ドイツが飲んだ薬の量もそこまで多くないはずだ」
    「よし。じゃあヴェストに改めてお前の血を飲ませれば、元に戻る可能性もあるよな!?」
    「ゼロではない。ただ……」

     ヴェストが天井に飛びつき、俺たち目がけて急降下してきた。床が割れ、足元が不安定になる。神聖ローマを庇うように転がって、俺の右足にヒビが入ったのがわかった。

    「今のドイツは、血を“飲む”だけで済ませてくれそうにはないな……」

     ヴェストが床を踏み、コンクリートが割れる音がする。その姿は、どこか怒っているようにも見えた。

    「プロイセン、俺を守ろうとするな。本気のドイツは荷物を背負ったままどうにかできる相手じゃない」
    「ああ、悪いがそうさせてもらうぜ。……ちょっと痛いのは我慢できるよな」

     神聖ローマは頷いた。
     ヴェストは叫びながら高く飛び上がった。血走った目は神聖ローマをとらえている。まるで飢えた狼だ。血を飲むどころか丸呑みしてしまいそうなその形相に、俺は神聖ローマの頭と胸だけをしっかり抱えて身構えた。
     腕や足なら噛み千切られても死にはしない。
     ヴェストを正気に戻し、神聖ローマを死なせないためにはこうするしかない。我ながら最悪な作戦だとは思うが、神聖ローマも俺の考えを理解したのか頭を縮めて目を閉じた。

    「ィ」

     突然ヴェストと俺たちの間に、ドイツもどきが立ち塞がった。ドイツもどきはヴェストの顔に飛びつくと、泣きながらなにかを訴える。ヴェストはそれを邪魔そうに引っ掴むと、思い切り床に叩きつけた。

    「ギィ! ッ…んギッ…」

     ぐちゃぐちゃと音を立てながら、ヴェストは苛立った様子でドイツもどきを踏み潰した。俺はあまりの光景に言葉を失った。神聖ローマが顔を上げようとするのを、俺は右腕で押さえつけた。たぶん、見ない方がいい。

    「ヴェスト……お前……」
    「…………」

     ふー、と息を吐いたヴェストは、血にまみれた足元を見た。いつの前にか、ドイツもどきは潰れて動かなくなっていた。ヴェストはしばらくそれを見つめると、頭を横にブンブンと振りながら嗚咽を漏らした。
     その様子に俺は、ヴェストはまだ完全に理性を失っていないのではないかと思った。怒っているように見えたのも、自分の行動が制御できなくて苛立っているからじゃないのか。ヴェストも自分と戦っているのだ。諦めずに呼びかけたら、元に戻るかもしれない。

    「それ頭から被ってろ。お前の寝間着よりは遥かに頑丈だ」

     脱いだ制服の上着を神聖ローマに投げつけるように渡し、俺はヴェストに向かって走り込んだ。

     ヴェストは涙のように血を流しながら、俺の拳を屈んで避け、みぞおちに頭突きしてきた。受け止めきれず息ができない。ヴェストはお構いなしに連続で蹴りを入れてくる。いくらなんでも動きが速すぎるし、力も強すぎる。

     通常、人間の脳にはリミッターがかけられている。常に全ての力を発揮してしまうと身体に負荷がかかり、筋肉や骨が損傷する。それを防ぐため、脳によって無意識にパワーが制御されているのだ。
     だが例の薬というのは、“死ぬまで戦う薬”だ。脳が死を恐れないのなら、リミッターは必要ない。ヴェストは今、人間には到底不可能なレベルの全力を出せているのだ。

    「ヴェスト! ヴェストやめろ! そんなんで戦い続けたら本当に死んじまう!」

     いくら叫んでも俺の声は届かなかった。ヴェストはすでに負傷している俺の右足を的確に狙ってくる。左腕は完全に感覚がない。
     ヴェストに頭を掴まれて再び床に叩きつけられる。そして上から踏みつけられ、胸の骨が砕ける音がした。肺に刺さらなかったのが不幸中の幸いだ。

    「プロイセン! いったん退け! お前も死ぬぞ!」

     水の中にいるように音がぼやける。神聖ローマがなにかを叫んでいるがよく聞こえない。とどめを刺されるかと思ったが、ヴェストは苦しげに呻くとその場にうずくまった。ヴェストの方も筋骨が限界に近いらしい。
     俺はなんとか起き上がり、神聖ローマの方へ向かう。今のうちに、ヴェストに神聖ローマの血を与えたい。
     頭や胸からたくさん血が出ているのがわかる。視界が霞んでナイフが見えない。あれ、無いぞ。落としたのか? ちがう、さっきしんせいろーまにわたしたんだ。どこにある。

     ぐらぐらと揺れる視界と思考。これはまずいと、かろうじてまともに動く頭の片隅が告げている。

    「プロイセン! 右だ!」

     神聖ローマの声が聞こえた途端、右足に強烈な痛みが襲う。ヴェストが俺の足に再度蹴りを入れてきたのだ。さっきまでうずくまっていたのに、もう限界じゃなかったのか。いや、限界を超えても構わず戦わされているのか。
     俺は蹴られた勢いで再び壁に激突した。今ので背骨も折れた気がする。

     そして右足は完全にイカレてしまった。今度こそ骨まで砕けた。さすがの俺も、ヴェスト相手に片腕片足で勝てるなんて思っちゃいない。初めて、死という言葉が脳裏をよぎった。
     不思議と、さっきまでより思考はクリアだった。

    「……プロイセン!」

     神聖ローマの叫ぶ声が聞こえる。お前そんな大きい声も出せたんだな。
     ヴェストが近づいてくる。初めて会ったのがもう遠い昔のように感じる。あの時と同じ――いや、あの時よりも鋭い目つきでヴェストは俺を見た。本当にわからなくなっちまったのか。俺のことも、神聖ローマのことも、ドイツもどきのことさえも。

    「やめろ、ドイツ……やめてくれっ!」

     神聖ローマの声は震えていた。
     だがそれは泣いているからじゃない。床に手をついて、上半身を起こす。膝を立てて、震える手で壁を掴み、神聖ローマは弱々しく、しかし確かな意志を持って立ち上がった。

     一歩、また一歩。神聖ローマは壁伝いにゆっくりと移動する。ヴェストはそんな神聖ローマの動きに気づき、俺から視線を逸らす。
     そこで俺はようやく、はっとして声を上げた。

    「神聖ローマ、何してる! 隠れてろ!」

     たどたどしく歩く神聖ローマの元にヴェストは一瞬で移動して左手一本で掴みかかると、うなじのあたりの肉を抉りながら廊下の先へ投げ飛ばした。
     ヴェストは爪の先についた神聖ローマの血を舐めとる。そして完全に神聖ローマをマークした。
     神聖ローマの血を飲ませれば戻るかもしれないと思っていた。そうするつもりだった。だが今のヴェストが、お行儀よく神聖ローマの腕や足だけ喰って終わりにしてくれるとは思えない。この距離じゃ俺も助けに入れない。

    「やめろ! こっち来い! 喧嘩なら俺が相手してやるから!」

     喉が壊れそうなほど叫んだがヴェストは神聖ローマの方へ向かっていく。
     俺は右足が折れているのも忘れて立ち上がり走ろうとした。だがそのままバランスを崩して無様にも床に転がった。
     ああ、そういえば片足で立って戦う訓練なんかしたことなかったな。足だけじゃない、肋骨も背骨も折れている。

    「神聖ローマ! 頭を守れぇぇ!」

     掠れきった声で叫ぶと喉からも血が出た。神聖ローマは俺の叫びを無視して再び立ち上がり歩いた。さっきまでよりさらに弱々しく、しかし必死に歩みを進める。なにをしているんだ。ヴェストがすぐ後ろから飛びかかろうとしているのに。
     ああ、もう駄目だ。

     俺は初めて挫折に近い感情を抱いた。これは俺の甘さが招いたことだ。最初にヴェストと戦ったときも、身内殺しはしたくないと思っていた。それでも、どうにもならなくなったら最終的には殺すつもりだった。自分が生きるために。
     それが今回はどうだ。たとえヴェストが正気を失っていても殺すなんて選択肢はなかった。そうだ、俺は攻撃を受けるばかりで、ヴェストへの攻撃はわざと急所を外していた。この俺が、本気で戦えなかった。その結果がこれだ。

     たった二日前に出会ったばかりの弟。文字通り血を分けた俺の弟。俺たちに本当の家族がいないからなのだろうか。直前にお前と、世界平和について青臭いことを語ったせいだろうか。ひどく愛おしいのだ。こんなことになってもなお、俺はお前を心から憎む気にはなれない。

     ついにヴェストが神聖ローマの喉元に噛みついた。神聖ローマは飛びついてきた子どもを抱きとめるように、ヴェストの背中に左腕を回した。

    「プロイセン、ここで終わったら……絶対に許さないからな!」

     神聖ローマは叫び声とともに、右手に持っていた黒い銃を思いっきり投げた。ヴェストに蹴っ飛ばされた俺の銃だ。神聖ローマは俺の銃を取りに行くために立ち上がったのだ。
     銃をまだ動く右手でキャッチしてそのまま流れるようにヴェストに向かって銃弾を放った。できるだけ弟を傷つけたくない。それでも、この身体は的を撃つための流れを完璧に覚えていて、俺の心とは関係なく動いてくれる。

    「あ……ッが……」

     撃ち込まれた銃弾が効いたのか、ヴェストは動きを止めた。それでもギリギリ急所は外してある。どこまでも甘い。俺は全身ボロボロでもう戦う力はない。神聖ローマもこのままでは餌になって殺されてしまう。本来ならこの一瞬の好機に、俺はヴェストの脳天をぶち抜いて殺さなければならなかった。戦いにおいては、それが正解だったのに。

     神聖ローマも死なせたくない。けれどヴェストを殺すなんて今の俺には絶対にできない。
     なるほど、洗脳して軍人にするというのは理にかなっている。戦うことが目的ならば、人の心は邪魔なだけだ。失いたくないものが増えるほど、判断が鈍くなる。心が弱くなる。

     血を流しながら苦しむヴェストに向かって、俺は片足で立ち、よろめきつつ近づいていく。そして砕けた骨の痛みも無視して、俺はヴェストを抱きしめた。

    「あ……」
    「ヴェスト、よく聞け。神聖ローマは食うな。お前が元気になるために血をちょっともらうのは構わない。だが傷をつけたり、投げたり、乱暴にはするな。あいつが死んじまったらお前だって困るし、なにより悲しいだろ?」

     ヴェストを抱きしめる腕に力を込めると、残った骨が軋む音がした。
     ヴェストはなにやら呻きながら、床を見た。ドイツもどきを踏み潰した場所だ。やっぱり、ヴェストはちゃんとわかっている。ちゃんと心が残っている。

    「お前にとって、神聖ローマだって家族みたいなもんだろ。殺しちまったら後悔するぜ、ヴェスト」

     俺にとってお前がそうであるように。

     ドイツ、理想郷、俺たちの集大成とは、悔しいが言い得て妙だ。
     神聖ローマの部屋で読んだ神話の本を思い出す。神話の軍国・プロイセン王国は、ドイツという国を作ったのちに物語から姿を消した。
     もし国に心があるのなら、プロイセン王国はドイツという国の礎となれたことを喜び、誇りに思ったことだろう。絶対にそうだ。今の俺にはわかるのだ。

    「ヴェスト……」

     それでも俺は、お前を“ドイツ”とは呼ばない。お前はこの世界のために都合よく作られた存在なんかじゃない。誰よりも強く優しく、家族想いの、誇るべき俺の弟だから。
     ヴェストは、自分の目で世界を見たいと言った。俺も、そうしてほしいと思う。これからお前が見る世界が、どうか優しく光輝くものでありますように。
     もう足にも力が入らない。立っていることも難しくなって、俺はついに力なく崩れ落ち――なかった。

    「……い、さん」

     ヴェストが俺を抱きしめ返している。小さな温かい手で、優しく、しかし強く。

    「にいさん……」

     目を合わせたヴェストは、瞬きひとつで決壊しそうなほどたくさんの涙を浮かべていた。

    「ヴェスト……お前……」
    「兄さん……俺は……俺はっ」

     ついに決壊したヴェストの瞳は冷たい鋭さを失い、幼さを残す優しいものになっていた。元に戻ったのだ。俺は安堵とともに、今度こそその場に崩れ落ちた。









    6.

     白い壁。生暖かい水。顔を掴まれ、目、鼻、口を白い光で照らされる。
     何かが聞こえる。話し声だ。「ごうかく」とだけ聞き取れた。
     手首に巻かれたタグには『118』と書いてあった。








    7.

     目を覚ますと薄暗い部屋にいた。規則的な金属音と、蒸気のような音がする。
     体を起こそうとしたが全身に激痛が走り諦めた。目線だけ動かしてみると、右側に小さな人影が見える。

    「ヴェ、スト……」

     俺の声に気づいて振り向いた顔は、ヴェストではなく神聖ローマだった。神聖ローマは少し驚いたあと安堵したように微笑んだ。

    「目が覚めたか」
    「こ、こ、どこ……」

     げほ、と軽く咳をしたら口の中に鉄の味が広がった。あーそうそう、血の味ってこういう感じだったな、なんて妙に冷めた感想を抱く。

    「ここは動力室だ。他より少し温かいのと、死角が多いから隠れるのにちょうどいい」

     小声で語る神聖ローマは手に濡れたタオルを持っていた。タオルは少し血で汚れている。たぶん俺の血だ。顔のあたりだけが少し冷えているのを感じる。

    「しん、だ……のか」
    「お前か? なんとか生きてるぞ。ほら」

     神聖ローマは手に持っていたタオルを俺の頬にあてた。ひやりと冷たい感覚がした。

     どうやってここまで移動した? ヴェストの姿が見えないがどこへ行った? いまいち状況が飲み込めない。
     そんな俺の困惑を知ってか、神聖ローマは静かに口を開いた。

    「お前が倒れたあと、ドイツに俺の血を与え、お前を背負って運んでもらった」

     ヴェストが本当に正気を取り戻したことを知り、俺は再び安堵した。

    「神聖ローマは、誰が」
    「歩いたさ、自分で。ゆっくりだが」

     神聖ローマは少し照れくさそうに、そして嬉しそうにそう言った。

    「自分で歩けるなら……背負ってやるんじゃ、なかったな」

     喉が潰れて声が出しづらい。相変わらず血の味もする。けれど不思議と笑みが溢れた。俺が身動きできないほど満身創痍であること以外は、状況がよくなっていると思った。

    「俺の足はとっくに治っていたのかもしれない。もうずっと、試そうともしなかった。歩くことさえ諦めていた。きちんと治療を受けたわけではないから、あまり綺麗には歩けないが」
    「痛く、ないのか?」
    「昨日お前に叩かれた頬よりはな」

     ふふ、と神聖ローマは右頬に手を当てながら、いたずらっぽく笑った。

    「追手の気配があったから移動しようとしたんだ。途中で追手に追いつかれてしまったのだが、その追手というのが――」
    「私ですが、なにか? このお馬鹿さん」

     頭の上のあたりから聞きたくもない声が聞こえた。思わず眉間にしわをよせて「げっ」と声が出る。

    「オステン27番……」
    「オーストリアだと言っているでしょう。何回も同じことを言わせないでください、ノルデン118番」
    「プ、ロ、イ、セ、ン、だ」

     なんでこいつがここに、という気持ちを込めて神聖ローマの方を見た。神聖ローマはどこか楽しそうに俺たちを交互に見ている。

    「聞いていたとおり、仲が悪いんだな。だが他ならぬこのオーストリアが、俺たちをここへ案内してくれたんだ。そう邪険にするな」
    「いえ、本当は武器庫へ行きたかったのですが」
    「道に迷っただけじゃねーか! 相っ変わらずの方向音痴だな!」

     大声を出したせいで盛大にむせた。喉が痛え。全部このオーストリアのせいだ。
     こいつ、訓練中もいつもルートを間違えて迷子になっていたからな。よく軍人に昇格できたものだ。

    「真面目な話、お前のこと味方だと思っていいのか? 俺に神聖ローマの部屋の隠し通路を教えたのも、お前だったな」

     もともとこいつとウマが合わないということを差し引いても、どうにも納得がいかない。洗脳はされていないようだが、どうしてすでに軍に入っていて敵のはずのオーストリアが、ここまで俺に協力するのか。

    「あなたの味方になったつもりはありませんが、神聖ローマとドイツのことは、少なからず助けたいと思っていますよ。そのためにあなたが必要ならば、あなたにも協力するというだけです。そもそも、私はあなたが神聖ローマに会っていることを隠すために抜け道を教えたのに、まさか当の神聖ローマまで連れて行くとは……そのうえドイツまで……」

     その後もぶつぶつと文句を言っているが聞こえないふりをした。まったくもって可愛げのないやつだ。
     ドイツといえば、相変わらずヴェストの姿が見えない。目線を動かしていると、ぱたぱたと小走りで近づいてくる子どもの足音がした。

    「目が覚めたのか!」

     ヴェストは両手いっぱいに銃を抱えていた。オーストリアがもともと武器庫を目指していたということを踏まえると、この方向音痴はてめぇがたどり着けないからってヴェストに武器庫まで銃を取りに行かせていたようだ。俺の弟を顎で使いやがって。

     大量の銃を床に置くと、ヴェストは俺の方に駆け寄って目を潤ませた。

    「本当にすまなかった、俺のせいで……」
    「お前は悪くねーよ。元に戻ってよかった。よく頑張ったな」

     頭を撫でてやろうと思ったが、腕が上がらなかったのでやめた。ヴェストは上げようとしてやめた俺の手を優しく掴んだ。

    「それは、あなたのおかげだ。ありがとう」

     ヴェストの礼を、俺はわざとそっぽを向いて無視した。ヴェストは眉を下げ、助けを求めるように神聖ローマを見たが、神聖ローマはふっと笑うだけだった。

    「や、やはり怒っているのか……? 俺のせいで大怪我をしたから……」
    「そこじゃねー」
    「……?」

     さっぱりわからない様子のヴェストを見兼ねて、神聖ローマが口を出した。

    「呼び方が不満なんだろう」

     あ、とヴェストの頬が赤く染まった。あのとき、俺は瀕死だったが聞き逃さなかった。確かに聞いた。戦いの最後、ヴェストは俺のことを『兄さん』と呼んだ!

    「その……あのときは、あなたが家族がどうとか言っていたから、つい……」
    「あなたとはどこのどなたですかー? ちゃんと呼ばないとわかりませーん」
    「だから、それは……えっと……」

     横で神聖ローマが声を押し殺して笑っている。今度はヴェストに助け舟を出す気はないようだ。そして、オーストリアはなぜか不機嫌そうに俺を睨んでいた。
     もう一度兄と呼ばない限り話を聞いてもらえそうにないことを理解したヴェストは、観念したように小声で言った。

    「さ、さっきはありがとう………………兄さん」

     俺は今度こそ渾身の力で起き上がり、ヴェストの頭を撫で回した。が、当然すぐに猛烈な痛みに襲われ、その場でギャアアと叫んだ。そんな満身創痍の俺の頭をオーストリアは遠慮なく叩き「大声を出すと見つかりますよ!」と怒鳴った。お前の声も大概だろうが。

    「まあ、ヴェストが初めて『お兄ちゃん』って呼んでくれたからな……もう悔いはないぜ……」
    「そ、そんな呼び方はしていないっ!」

     そんな俺たちを相変わらず不機嫌そうな顔で見つめるオーストリアに向かって、神聖ローマは「先を越されてしまったな」と呟いた。オーストリアは、なんのことですと一蹴し顔を背けた。











     今後の作戦を立てるため、オーストリアが施設の見取り図を広げていた。俺は施設の内部構造を知らないし、ヴェストの勘だけを頼りに歩いていたので、見取り図を持ってきてくれたことには感謝する。しかし、ひとつ不安要素が……。

    「お前の持ってる見取り図って、正しいのか……?」
    「当たり前でしょう、このお馬鹿さんが!」

     オーストリアの極度の方向音痴に散々振り回された経験のある俺は、こいつの案内で進むことに少し……いや、かなりの不安がある。そもそも俺としては、見取り図を持っているのに道に迷うなんてその見取り図がおかしいとしか思えないのだが、まあそれでも迷うのが方向音痴なのだろう。
     しかも俺の身体はこの通りだ。神聖ローマだってまだそれほど早く歩けないだろう。道に迷っている時間はない。なるべく戦闘を避けつつ、最短ルートで脱出しなければ。俺は見取り図を見ながら最も適切な道はどこかを考えた。

    「…っ」
    「痛むのか?」

     全然平気だぜ! と、言いたいところだが今回ばかりはそうもいかない。なにせ体中の骨が折れているのだ。俺に至っては、歩くどころか誰かに背負われて移動することすら難しいかもしれない。

    「なあ、作戦変更しないか?」

     俺がそう言うと三人ともが俺の顔を見た。神聖ローマは俺の折れた足を優しく擦ってくれていたが、その動きも一瞬止まった。

    「名付けて、とりあえず神聖ローマだけ先に逃がす作戦!」

     そう言い放つとほとんど同時に、神聖ローマは俺の足に乗せていた手を90度横に回転させるとそのままチョップを繰り出した。

    「っ痛っってぇな! 怪我人になにしやがる!」
    「お前が妙なことを言うからだ。熱に浮かされているのなら目を覚ましてやろうと思ってな」

     別に妙なことを言ったつもりはない。むしろ合理的で現実的な作戦だ。とにかく神聖ローマさえいなくなれば、この施設の研究は立ち行かなくなるのだ。
     俺自身の脱出ももちろん諦めたわけではないが、もし神聖ローマが再び奴らに捕まれば、本人やオーストリアが懸念していたとおり、神聖ローマは以前よりさらに隔絶された環境に置かれるだろう。そして恐らく、二度と脱出のチャンスは訪れない。この施設での研究や実験も終わることはない。
     なにを最優先にすべきかは一目瞭然だ。

    「ヴェストとオーストリアに出口まで連れて行ってもらえ。今の状況だとそれが一番だってわかるだろ」
    「甘いな。俺ひとり施設の外に出たって、すぐに捕まるのがオチだ。そうやってここへ連れて来られたんだからな」
    「なに偉そうに言ってんだよ! そこは頑張って逃げ切れっつーの」

     神聖ローマは右手を上げた。また足にチョップされるのかと思い身構えたが、神聖ローマはその手をそっと降ろして俺の足に乗せただけだった。

    「俺を逃がすと言ったのはお前だ。前に言ったはずだぞ、俺は中途半端な希望を抱くのは嫌いだ。お前と行けば絶対に上手くいくと言ったのは、お前自身じゃないか。この俺にここまで期待させたのだから、失望させるな。最後まで責任を持て」

     神聖ローマの少し冷たい手が熱を帯びた患部を撫でると、不思議と楽になったような気がする。だが所詮そんな気がするだけで、実際には俺の足の骨は折れたままだ。
     もちろん、本当に一緒に外へ行くつもりだった。だがこれ以上俺にどうしろというのだ。俺も神聖ローマの血を飲んで、ヴェストのように傷が完治すればどれほどよかったか。

    「失望させる気なんてなかったけどよ、俺もう歩けないぜ?」
    「なら、今度は俺がお前を背負っていく」
    「馬鹿言ってろ」

     神聖ローマもさすがにそれは無理だとわかっているのだろう。それなら、と畳み掛けるように別の案を出してきた。

    「作戦変更するなら、とりあえずプロイセンだけ逃がす作戦、でもいいだろ」
    「なんだそりゃ。お前はどうするんだよ」
    「俺が今までどおりここに残って血を提供するかわりに、お前を見逃せと交渉する」
    「却下だ却下。話にならねぇ。お前言ってること矛盾してるぞ」
    「矛盾してない。お前だって前に言ったじゃないか。俺が逃げる以外にも、俺が解放されて、かつ施設の連中に一矢報いる方法があるって」

     それを聞いて、俺の息は止まった。動力室の蒸気音も耳に入らないような静寂が俺たちを包んだ。

    「お前、それ聞いて俺が納得するとでも思ってるのか」
    「いいや。だが、もうこれしかお前を逃がし、なおかつ研究を止める方法がない。お前を逃した後で俺が自……」
    「お前には、このプロイセン様が! そんなことを了承するような人間に見えてるのかって聞いてんだよ!」

     叫んで飛ばした唾には血が混ざっていた。同室のやつらから声がでかいうるさいと散々言われてきたが、喉が爛れていてもこうなのだから直るはずもない。血を吐いても抑えきれない感情が喉から飛び出したのだ。

     神聖ローマはなにも言い返さなかった。俺だってわかっている。神聖ローマは別に死にたいわけでも、諦めたわけでもない。こいつなりに最善の策を考えたのだ。
     かつて自分の境遇に絶望して死ぬことはできなかったが、この施設で自分の血から生まれた、そしてこれから生まれてくる子どもたちのためを思って死ぬことならできると思ったのだろう。わかるぜ。俺だって、ヴェストを殺すくらいなら殺された方がずっといいと思ったからな。

     だがそれは所詮自己満足だ。しょうもない自己犠牲を自分で美化しているだけだ。
     もしあのとき俺が死んでいたら、正気を取り戻したあとヴェストは深く傷ついただろう。自分が死んで誰かを助けるということは、人にそんな罪悪感を遺していなくなるってことだ。そんなの、助けられた方だって嬉しくない。本末転倒だ。

     神聖ローマはそれ以上口を開かなかったが、他に案が思いつかないのだから仕方がないだろ、と少し恨めしそうな目つきがそう語っていた。

    「あの、喋ってもよろしいですか?」

     俺と神聖ローマの間に流れる沈黙を断ち切ったのはオーストリアだった。オーストリアは呆れたような顔で挙手をして、胸のポケットから注射器を取り出した。

    「この薬でこのお馬鹿……プロイセンの怪我を治せば、ふたりとも逃げられると思うのですが」

     薬?
     ぽかんとしている俺たちをよそに、今度はヴェストが目を輝かせながら口を開いた。

    「それを使えば兄さんの傷が治るのか?」
    「ええ、恐らく。これは“ドイツ”以外のゲルマンの子にも、ドイツが神聖ローマの血を飲んだときと同じような効果を与えるための薬です。ただしこれは試作品で、傷の完治には一定の効果が見られますが、副作用が多く、まだ実用化には至っていません。それでもよければ、使いますか?」

     しばし驚きのあまり返事もできずにいたが、俺は我に返り一番にこう言った。

    「なんでもっと早くその話をしないんだよ!」
    「盛り上がっていたようなので、割りこむ隙がありませんでした」
    「そこは無理やりでも割りこめ!」

     神聖ローマはさっきまでの諸々の問答が恥ずかしくなったのか、顔を赤くしながら咳払いをした。それから「それでその、副作用というのは?」と平静を装って尋ねた。

     オーストリアいわく、一時的に傷が治っても数日経つと痛みが再発したり、免疫力が下がるなどの体質変化が報告されているらしい。また最も報告が多いのは、傷が完治するかわりに高熱や倦怠感など風邪のような症状が出る副作用だった。基礎体力があれば普通の風邪同様大きな問題はないが、そうでない場合は高熱による後遺症が残ることもある。
     まあこんな大きな傷を一瞬で治してしまうような薬なら、それ相応の反応が出るのは当然だろう。ヴェストが特殊すぎるだけだ。

    「副作用が辛そうだな……」
    「でも怪我は治るんだろ。体力には自信あるし、この際しばらく動けるようになるならなんでもいいぜ。どう考えても今より酷い状態にはならないだろ」

     それもそうか、と神聖ローマは改めて俺の身体を見た。自慢じゃないが、無傷なところはほとんどない。左の尻たぶくらいかな。

     俺はさっそく、オーストリアにその薬を打ってもらった。すると数分もしないうちに主な傷は跡形もなく消えていき、折れた骨もくっついた。痛みも徐々になくなっていく。

    「すげぇ! 本当にすっかり治っちまった」

     立ち上がってみたが体のどこにも痛みはない。強めに足踏みをする。握りこぶしを作る。いずれも問題なし。
     神聖ローマが体調はどうだと聞いてきたが、今のところ発熱や倦怠感もなく、特に変わったところはない。副作用すら出ないとは、やはり俺は最強かもしれない。

    「何度も言いますが、これはあくまで試作品。体調の変化を感じたらすぐに報告してください」
    「わかったわかった、今んとこ全く問題ない!」

     勢いよく屈伸してからバク転して見せると、ヴェストと神聖ローマがおお、と小さく拍手をした。気持ちいいぜ!

    「じゃあ、さっそく準備して進もうぜ」
    「ま、待ってくれ」

     ヴェストがバツの悪そうな顔で制止する。少しだけ時間をくれと言い、ポケットからハンカチを取り出した。ヴェストはそれを持って一度動力室から出て行った。

     それからしばらく経ったが、ヴェストはなかなか戻らない。俺が何度か様子を見に行こうとすると、そのたびに神聖ローマに止められた。が、三度目の制止は聞かずに俺はヴェストを追って部屋を出た。

     少し歩くと、さっき――俺は眠っていたので本当は丸一日以上経っているが――俺とヴェストが戦った場所まで戻ってきた。
     ヴェストはそこにいた。
     ハンカチでなにかを包んでいる。ヴェストがしゃがんでいる場所でわかった。ドイツもどきの骨を拾っているのだ。

    「……彼らは骨が未発達だ。だから、とても小さくて細かい」

     振り向きもせず、俺の気配に気づいたヴェストが呟いた。

    「拾うのに時間がかかってしまう」

     ヴェストは小指の先より小さな骨の欠片を、ひとつひとつ拾い上げてハンカチに乗せていた。俺は静かに近づいて、ヴェストの向かいに腰を落とした。

    「手伝うぜ」
    「…………」

     まだ乾ききっていない血の塊の中から、俺たちは小さな骨を集めた。すべて集め終わるかどうかという頃、ヴェストの手元に雫が落ちた。

    「……俺が殺した」

     ぽたぽたと落ちる雫はどんどん大きくなり、ヴェストの足元の床を湿らせた。残りわずかな骨を拾いながら、ヴェストは声を殺して泣いていた。

     すべて拾い集め、ハンカチに包む。ヴェストはそれをしっかり結き、懐に入れた。

    「兄さん、世界を平和にするのにどうしてこんな力が必要なんだろう」

     ヴェストは右足で床を叩いた。すると床は音を立ててひび割れ、ヴェストの足の形にくぼんだ。

    「俺はいつかまた、この力で大切な人を傷つけるかもしれない……」

     それが怖いんだ、とヴェストは零した。俺はヴェストの小さな肩に手を乗せる。

    「強い力は確かに人を傷つけることもある。だがな、その力で誰かを守ることもできるんだ」

     ヴェストは前を向いて俯いたまま、小さく口を開いた。

    「それでも、傷つけてしまったら?」
    「そうなる前に今度こそ俺が止めてやる」

     ぱっと顔を上げる。ヴェストは淡いブルーの瞳を湿らせながら俺を見た。

    「お前が間違えそうになったら絶対に止めてやる。だから安心して戦え」

     ヴェストはしばらく沈黙したあと頷いた。そして最後にもう一度ドイツもどきを踏み潰した場所を見つめると、戻ろうと言ってゆっくり歩き出した。

    「兄さん……でも俺は、兄さんのことも守りたい」
    「おっ、そりゃ光栄だな」
    「茶化さないでくれ」

     ヴェストの頭をわしゃわしゃと撫でながら、俺はもう絶対、ヴェストにあんなことはさせないと心に誓った。










     先ほどヴェストが運んできた軍用の銃を、俺とヴェストがふたつずつ、オーストリアがひとつ、そして神聖ローマも小ぶりの銃をひとつ装備した。
     神聖ローマに銃を持たせることについてオーストリアとヴェストから反対されたが、自分の身は自分で守ってもらわないと困ると言うと、当の本人は快く了承した。
     神聖ローマが銃の握り方すら知らなかったのには多少驚いた。俺たちにとってはフォークで飯を食うくらい当たり前のことだったからだ。この様子だと持たせたところでろくに撃てないかもしれないが、それでもないよりはマシだ。
     実際、オーストリアも銃撃戦は得意な方ではない。もちろん訓練は受けているので人並みには撃てるのだが、こいつは意外にも銃で殴ってくるタイプだ。まあつまり、そういう使い方もあるにはあるということだ。持っているだけでなにかの役には立つだろう。

     改めて見取り図を見ながら先へ進もうとしたところ、オーストリアがさっそくわけのわからない方向へ歩き出した。俺は慌てて引き止めて、「お前は後ろから二番目を歩け!」と怒った。
     そんな俺たちのやり取りを、見取り図を広げた神聖ローマとヴェストがきょとんとした顔で見つめて言った。

    「なんだ、その通路……」

     オーストリアが進もうとした通路は見取り図には載っていなかった。俺は、さっき見取り図は正しいって言ったじゃねーかと再度オーストリアに文句を言った。
     しかし、よく見ると確かに見取り図には奇妙な空間がある。不自然になにも書かれていない空間に、その通路は存在していた。ひょっとしてこの通路は、見取り図に記載されていない隠し部屋のようなものに繋がっているのではないか、という結論に至った。

    「行ってみるか……?」

     四人で顔を見合わせると、神聖ローマが「行ってみよう」と口にした。ヴェストも賛同している。オーストリアはどちらでも、と相変わらずマイペースな返答だ。

    「決まりだな」

     俺たちは隠された謎の通路へと足を踏み入れた。




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