美しいものを愛することは、おそらく人間の本能的な感情なのだろう。
美しい手を取り、深雪はうっとりとした笑みを浮かべた。
椅子に座り、人形のように眠る男は、深雪にとっては兄という存在であった。膝をつき、その手を取ってしまうほどに美しいその姿は、もうずいぶんと前から深雪だけのものであった。
昔よりも青白くなったその肌。それに合うように作られた黒衣。薄く施された化粧はいっそ禍々しさこそ放っている。
***
第一高校で有名な兄妹と言えば、司波兄妹を誰もが思い浮かべるだろう。
入学の時点で劣等生と優等生に格付けられ、別々の道を歩んでいると言っても過言ではない兄妹は、全国で九つある魔法科高校の中で特別優劣の意識が高い第一高校にしては珍しく、仲が壊れなかったと言えるだろう。
本来であれば兄妹感で劣等感や優越感を抱くことは、最悪の事態である。兄妹だからこそ許せる所もあるが、近しいからこそ耐えられない感情というものもあるものだ。
しかしこの兄妹の場合は、少しばかり周りが理解し難い感情の持ち主であった。
劣等生と格付けられた兄は、温厚な性格の青年であった。二科生になったからと言って悲観することもなく、誰に対しても優しく誠実であった。
優等生と格付けられた妹は、兄に対して最大の敬意を払う少女であった。神を崇拝する姿にも見て取れるほどの愛を、兄に捧げ続けた。
だからこそ、
「今、お兄様を侮辱したのはどなたです・・・?」
彼女が得意とする広域冷却魔法が無意識のうちに発動し、一気に周りを冷気で包み込んでいく。もうすぐ夏だというのに、この冷ややかな空気は第一高校の名物、ともなりかけていた。
拳を固く握りしめ、制御しきれていない冷気を振りまいてその美しい顔立ちを歪ませているのは、深雪であった。兄の達也はそこから数歩ほど引いた所で見守っている。
発端は、一つ上の先輩が達也に対して侮辱の言葉を口にしたからだ。
耳聡い深雪がそれを聞き逃すわけもなく、大きな音を立てて立ち上がった深雪は、真っすぐにその男の元へと向かった。まさか聞こえている、とは思ってもみなかったのだろう。侮辱の言葉を口にした男は、真っ青な顔色をしていた。
「いいのか?放置していて」
そう、数歩離れたところで様子を見ていた達也に対して声を掛けたのは、達也が所属する風紀委員の委員長である渡辺であった。
本来、風紀を取り乱す輩を取り締まるのが仕事である二人からしてみれば、深雪が今からやろうとしていることは止めなくてはいけない仕事である。だがそれでも体を動かそうとしないのは、相手にも非があったからだ。
「まったく、彼奴らも懲りないな」
今の言葉で、達也に聞いたくせに、渡辺にもそれを止める気がないことがよくわかる。達也は少しばかり肩を竦めると、視線をようやく渡辺の方へと向けた。
「仕方がありませんよ」
達也は深雪から預かったトレーを近くの席に下ろし、自らもその座席へと腰かけた。長くなることは目に見て分かる。それをわざわざ待つ必要性はない。と言うよりも、待てば待つほど後で深雪が悲しむのがわかっていた。
「俺が他人に対して怒れないから、深雪は怒ってくれるのです。それを咎めることなど、俺にはできませんから」
涼しい顔で言ってのけたが、それはつまるところ自分のせいだから自分には止める権利がない、と放棄しているようにも聞こえなくはない。
深く話を聞くつもりは渡辺にはない。諦めたように達也の前に弁当箱を置き、座席へと腰かけた。
「君は、優しいんだか優しくないんだか、よくわからないな」
そう呆れたような口ぶりで渡辺は笑い、それから弁当箱へと手を伸ばす。しかし、
「優しくなんてありませんよ」
達也のその一言で、手を止めざるを得なかった。
確認しておくが、司波達也の評価は悪くない。温厚な性格の青年。二科生になったからと言って悲観することもなく、誰に対しても優しく誠実。一科生の一部の生徒からも好かれるような、悪い奴ではない。
「謙遜も・・・過ぎれば嫌味だぞ?」
「謙遜ではなく、事実ですよ」
達也はそう言って、プレートに簡素に盛り付けられたおかずを箸で刺した。マナーがいいと評判の彼にしては珍しい態度である。
意味ありげな笑みを浮かべられては、流石にこれ以上踏み込むわけにはいかない。深雪が戻ってきたこともあり、この話はここで終わりとなった。
だが以外にもその話を掘り返したのは、深雪の方であった。
「お兄様は怒ることがありません。それは優しいから、ではなく興味がないからです」
誰にでも等しいということは、優劣を付けないということ。皆価値が同じで、平等。しかしそれはつまるところ一人がどうでもいいということは、他もどうでもいいということ。何にも関心がなく、ただ風景という認識と言う訳だ。
だから優しい。
だから温厚。
「つまり、他人と自分の世界を区別していると」
「区別、ではなくないに等しいというわけですよ」
それは一層質が悪い、というものではないだろうか。渡辺は引きつった笑みを浮かべながらもなんとか口にすることはしなかった。