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    kirara_mahoroba

    @kirara_mahoroba

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    kirara_mahoroba

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    お題箱にいただいていた仄暗い日狛。
    ・精神薬と狛木支さんに依存している日向くんの小説をご希望いただいていたのですが、少し違うお話かもしれません。
    ・お付き合い&同棲している未来機関の日狛。
    ・日向さんが病んで精神薬を服用されている描写があります。

     世界が、職場が、狛枝が、おかしいのだとずっと思っていた。けれど、ある日思ったんだ。本当におかしいのは俺の方なのかもしれないって。
     
     ぽたりぽたり。積み上げられた仕事の三分の一ほどを終えて、帰宅の途につく合間、あたたかな雨が降っていた。局所的なそれは俺の頬を濡らすばかりで、他のところにはシミひとつすら残しやしない。不思議に思って宙をみやっても、曇ひとつない星空が広がるばかり。なぜこんなことが?と首を傾げかけて、ああ、涙だからかとようやく合点がいく。
     けれど、なぜ自分が泣いているのかわからない。なぜ湧き上がってきたものか見当もつかない。悲しいわけでも悔しいわけでもないというのに。なぜ、俺は泣いているんだろう。
     頭に浮かんだ問いかけへ答えを出すことすら煩わしくて、とぼとぼと足を動かす。
     俺は、こんなことをしてる場合じゃないんだ。明日までに完成させなければいけない資料がある。対応をしなければならない取引先がいる。定時間際に起きたトラブルの解決のため、協力を申し出てくれた企業の担当者へ、明日の朝いの一番に謝罪の連絡をしなければならないし、最近配属されてきた後輩の作成した資料へのフィードバックだってまだだ。
     最近仕事をしている合間、あまりうまく頭が回らないことがある。言葉に詰まることがある。何をすればいいのかわからなくなることがある。
     寝不足だからかと睡眠時間を増やしても変わらないそれ。薄い膜が張られているようにうまく機能しない脳みそ。
     それもこれも、忙しすぎるせいだろう。悩みの種があるからだろう。でも、俺はそんなことを気にしている場合じゃなくて。とにかくやらなきゃいけないことがあるんだ。だから、こんなことを考えてる暇はないんだ。
     歳のせいだろうか。最近歩くことすら億劫に感じている自分を知りながら、ようやく辿り着いたドア。安っぽい三階建てマンションの最上階の各部屋。鍵を差し込んでぐるりと捻り、握ったドアノブの先。
    「日向クン、おかえり!」
     出迎えてくれた悩みの種──狛枝は、ひどく煤けていた。
    「……は? お前、今度は何をしたんだよ!?」
     透き通るような白髪。先端に薄桃色のグラデーションのかかっていた妖精じみた俺の大好きな配色が、灰に塗りつぶされている。縮れてところどころへ散っている。
     不健康なまでの青白い肌。黒色が飛び散っているそれは、熱されたのか健康を通り越して心配になるような赤さに染まっていた。
    「……最近、日向クン、元気ないみたいだから。前に美味しいって言ってた焼き芋を買ったんだ。日向クン、あったかいのが好きでしょ? だから、焼き芋を電子レンジで温めるくらいならいいかなと思ったんだけど……」
    「……お前、まさか、電子レンジまた壊したのか?」
    「まぁ、そういうことになるね! 焼き芋って電子レンジで六分くらい加熱すると燃えちゃうんだね、ボク、初めて知ったよ!」
    「……消火はできたんだよな?」
    「もちろん! 電源を抜いても消えなかったから、仕方なく日向クンがキッチンに置いてくれてた消火器を使ったよ! 結構勢いよく火が上がったからこの有り様だけどね」
     にこにこと手を振っている狛枝にもはやため息も出ない。
     狛枝が火事を起こしたのは、同棲を始めてからこれで三度目。全て電子レンジを使用したものだ。一度目は、パンの温めすぎによる発火。二度目は、シチューを温めようとして使用した金のあしらいの食器から。それで三度目が今日というわけだ。
    「……このご時世じゃ、電子レンジだって安くないんだ。気をつけてくれよな」
     額を抑えながら、はぁとため息をつく。上がり込んだ玄関にどかっと腰掛けて、革靴の紐をゆっくりと解いている間も狛枝は真後ろに立ち尽くすばかり。
    「……他にも何かあるのか?」
     もしや、火事以外にも何かやらかしたというのだろうか。職場でも、狛枝への問い合わせ対応に追われ続けていると言うのに。
     未来機関の広報の一環として開かれた小さな祭り。そこに乱入してきた絶望の残党へ「人質ならボクがいいんじゃないかな? ボクは、あの江ノ島盾子の左腕をつけてたことがあるんだ。キミ達の大好きな絶望の腕さ。覚えてないかな? ボクは、超高校級の幸運の狛枝凪斗だよ」なんて笑いながら、義手を見せびらかしたことを忘れたとは言わせない。
     それ以来、狛枝は、職場で遠巻きにされるだけでなく、通勤途中に絶望の残党に付け狙われるようになっていて。毎朝の通勤時、昔であれば甘やかな恋人とのひと時だった瞬間は、一夜でアクション映画さながらの攻防戦に変わり果ててしまった。職場でも「おはよう」と挨拶をするたび、周りは狛枝の左腕に視線を落として唾を飲むばかり。
     結局三日も経たぬうちに、職場全体の士気に関わるとしてリモートワークを命じられた狛枝は、俺と二人で住むこの部屋で一日の大半を過ごしているのだけれど。
     あれだけのことをしでかしておいて、電子レンジを三度焼けこげにしておいて、まだ言い淀むようなことがあるのだろうか。
     それは果たしてどんなことなのだろう。考えるだけで心臓がぎゅぅ……と締め付けられたように苦しくなる。
     知るなら早い方がいい。対処が早くできるから。なのに、なんで狛枝は何も応えないんだ。先ほどからずっと立ち尽くしたままで、影だけがその存在を教えている。いつもなら、問い掛けにはすぐさま返事が返ってくるのに──
    「……狛枝?」
     革靴の紐を解き終えて、背後を振り返れば、そこにいたのはぐしゃぐしゃに顔を歪めた一人の男。
    「……っ、狛枝……?」
     泣きそうで泣けないみたいな顔を引っ提げて、呆然とこちらを見つめる姿に、何かしてしまっただろうかと焦りが顔を出して立ち上がる。お前と同じ高さの視線を手に入れて、もう一度。
    「……こまえだ……」
     まだ赤みの残ったままの頬にそっと指を滑らせれば、ハッとこちらを見上げた狛枝が、ぼそりと呟いた。
    「……日向クン、変わったね。前なら一番最初にボクのことを心配してくれたけど、今は電子レンジの方が大事なんだ」
     瞬間、冷や水を浴びせられたような心地になった。
     そうだ、よく考えてみればおかしくないか?
     俺はどうして、こんなに大切にしていた男のことを一番最初に心配しなかったのだろう。いつもなら、ひどい怪我はないのか、我慢しているだけじゃないのか、心を痛めてやしないかなんてたくさんの不安をお前に問いかけていたのに。悩みの種だなんて思って。
    「別にいいんだ、元からボクなんかがキミを大切にしてくれること自体がおかしかったんだから。ボクの優先順位が下がるのなんて時間の問題だったんだよ。……だから、そんなショックを受けた顔しないでよ。ここらへんが潮時なんじゃないかな」
     へらりと笑うお前の表情。人を油断させる笑みが、諦めからくるものだと俺はよく知っている。
     ああ、俺、狛枝にその他大勢と同じカゴに放られてしまうのか。ようやくお前の心に触れられて、少しずつ身体の先端から溶け合って、お前とひとつになることだってできたというのに。お前から切り離されてしまうのか。掴めたと思った柔らかな塊。お前が心の奥底に封じ込めていた、許せないと思っていたであろう純粋な願い。そんなこと、願ったっていいに決まってるだろ。俺になら好きなだけ言えよなんて囁いたくせに、俺は、俺は──
    「……日向クン!?」
     ああ、もしかして。俺は自分が世界で一番まともだと思っていたけれど。終わらない仕事、意味のわからない行動をとる狛枝。それら全てが悪いのだと言い聞かせていたけれど。俺はいつからかおかしくなっていたのかもしれない。
    「……日向クン、どうしたの……? 具合、悪いの……?」
     頭を抱えて蹲った俺の背中に、おそるおそる触れてくる手。ゆっくりとさすり上げた後、「ねぇ、ひなたクン」なんて一緒にもつれ合ったベッドの上で吐くような甘やかさが耳元から俺の身体へ染み渡る。その尊い煌めきを壊してしまいたくなくて、手放したくなくて。
    「……俺、最近疲れてるのかもしれない。お前のこと、すごく大事に思ってるはずなのに、ずっとイライラしてて落ち着かなくて、こんなこと今までだったらなかったはずなのに。俺、今でもお前のこと、すごく大切なのに、こんな」
     ちがうんだ。わかってくれ。お前といると、次は何をしでかすかわからないと思う気持ちもあるけれど、それでも放っておけなくて。時たま見せる笑顔は格別で、純粋な気持ちを閉じ込めたまま大きくなったお前が、当たり前を知らずに生きてきたお前が、俺と過ごすたび、はじめてだとはにかむのが大好きで。俺は、お前のこと大切に思ってるんだ、ほんとうに、ほんとうなんだ。
    「……置いてかないでくれ、ひとりにしないでくれ。頼むから、お前のこと、大切にさせてくれ。俺にお前を甘やかさせてくれ……」
     ベッドの上、目元をなぞるのが好きだった。髪を混ぜてやるのが好きだった。おはようよりも先に、俺の名前を呼ぶお前が好きだった。
     そういえば今朝の狛枝は、俺の名前を呼ばなかった。俺よりも先に起きて、コーヒーを淹れていた。そういえば、そんな日は今日だけじゃなかったような。では、いつからだろう。いつから、狛枝は甘えてくれなくなっていたんだっけ? 俺はいつから、こんなふうにおかしくなっていたんだ?
     わからない。わからない。あんなに大切にしていたはずのものが指の隙間からこぼれ落ちていくようだった。
     ああ。狛枝は、とっくのとうに俺に呆れ果てているのではないのだろうか。
     思い至ってしまえば、ただ俯いているだけではいられなくなって、かばりと身体を起こして、背中をさする狛枝の方を向く。
    「ひな──」
     呼び止められるよりも早く、その身体を抱きしめて、覆い被さって。どきどきと逸る鼓動が耳に届くのも、お前の体温が伝わるのも、全て心地よくて。ほっと感じたひとときの安堵と引き換えに囁いた。
    「……頼むから、捨てないでくれ……、謝るから……」
     耳元で話しかけると、くすぐったいよなんて笑いながら顔を赤くしていたお前に少しでも届くように。口を赤く染まった耳たぶへ寄せて。
    「なぎと、お願いだから……」
     ずるいことをしているとわかっていながら、お前の喜んだ響きを注ぎ込んで頼み込めば、ぴくと震えた身体が、泣きそうな声を漏らした。
    「ひどいよ、はじめクン……。キミにそんなこと言われちゃったら、ボク……」
     おずおずと俺の背中に両腕を回した狛枝の小さな呟き。俺の耳にしか届かないかわいらしい本音の続き。
     俺はそれをゆっくりとしまい込んで、抱きしめる力を強くした。

     しばらく玄関先で抱き合っていた俺達が、どちらともなく立ち上がって向かったリビング。
     俺をソファに導いた狛枝は、「……すごい疲れてるみたいだし、どこかが悪いのかもしれないね。一度罪木さんに相談してみようか」と俺の手をそっと握って微笑んだ。

    ***

     あの後、狛枝の言葉に頷いた俺は、すぐに罪木へ電話をかけた。最近感じている違和感を一つ一つ思い返して説明すれば、「できるだけ早く、未来機関の医療施設まで足を運んでください」と罪木はいつになく真剣な声で言った。
     元・超高校級の保健委員である罪木の言葉だ、従わぬわけにはいかないだろうと向かった先。定期的に行っている脳のMRI検査には異常がないからと通された個室。そこで俺はなぜかカウンセリングを受けさせられ、気づけば心療内科医と名乗る男から、適応障害という病名を授かっていた。
     セロトニンがどうのこうのと言われて処方された薬。半信半疑で飲み込んだそれに、効果を感じるようになったのは一週間が経った頃だった。
     なんだか身体が軽い気がする。思考がクリアになった気がする。イライラが落ち着いた気がする。これなら仕事も前より上手くできそうな気がする。
     はじめはそう思ったし、今までできなくなっていたのが嘘みたいに仕事は捗った。
     人間の脳って結局は神経物質のバランスで成り立っているんだな。俺のぐちゃぐちゃにされた脳みそでも向精神薬は効くのかと笑っていられなくなったのは、「元気になってくれてよかった」とはにかむ狛枝を見た時だった。
     いつもなら愛おしくてたまらないはずのそれに、心臓は平常のリズムで鼓動を鳴らす。胸が締め付けられるような心地も、顔がかぁっと赤くなることもない。
    「……日向クン?」
     不思議そうに首を傾げる狛枝をぎゅうと無言で抱きしめてみる。疲れていたあの時だって、心地よさを感じられた温もりが、何も心を揺らさない。ほんのりとした温かさが感じられるだけ。何も込み上げてこない。お前を大切にしたいという願いも、祈りも。
    「……っ、俺っ、」
     それらに対して、心のうちから世界を揺らすような慟哭を前であれば、口にできたはずだったのに。負の感情ですら湧き上がらない。
     平たくならされてしまったかのように。感情が一定の幅から先にいかない。上回らない。下回らない。これ以上、これ以下に言ってはいけないと食い止められているように。そんな感情、元からなかったかのように何も、なにもない。
    「ぁ、あ"ぁ……、ぁあ"……!?」
    「日向クン!?」
     どうしたの、なんで苦しそうなの。
     悲痛な声が俺の身体にそっと触れる。震えた手つきが、傷つけてしまわぬようひどくやさしく俺を撫でる。
    「……っ、ぅ、あ"っ」
    「ねぇ、日向クンってば……!」
     心配かけてごめんな。なんて言ってやれたら良かったのに。お前の心に不安の影を落としたくなんてないのに。でも、でも、それじゃあ、全部無くなっちゃったのかよ。
     俺、お前を好きになれた時、それを認められた時、心のどこかで救われたと思ったんだ。
     人が人を好きになる理由として似た者同士に惹かれるという説と、自分にないものを持っている人に惹かれるという説の二つがあるらしい。類似説と相補説と呼ばれるそれを知った時、俺が狛枝に好意を抱いているのは、きっと似た者同士だからだろうと思った。
     自分のことなんてずっと好きになれなかったくせに。俺に似たところのあると感じるお前が気になってしまうのはなぜだろう。この感情を認めて良いのだろうか。いや、もはや見て見ぬふりをしてなかったことにしてしまおうか。
     悩みに悩んで、それでも手放しがたくて、そばにいたくて、お前の特別になりたくて。
     どうしようもなく胸の中で暴れ回る感情を好きとようやく名付けられた時。だから、俺はこんなにも苦しいのだと認められた時。好きになれなかった自分でも、狛枝を好いてがむしゃらに生きようとする自分には少し好感が持てた気がして、自分を少し許せた気がした。
     お前が笑ってくれるたび、心を許してくれるたび、俺も救われた気がして、温かなものが生まれて。隣にいられるなら、そばにいられるのなら、なんだってしてやるつもりでいたというのに。
     なのに、今、なにもないんだ。なにも、なにもない。お前のこと好きなはずなのに、感情の高鳴りがないんだ。
    「……っぅ、きらいに、ならないでくれ……」
    「日向クン……? いきなり、なにを言って──」
    「狛枝、頼む、お願いだから。俺のこと、置いていかないでくれ……」
     でも、手放したくない。聡い狛枝のことだ。きっといずれ気づいてしまうだろう。気づいてしまえば、俺を置いて抜け出してしまうだろう。
     でも、そんなのは嫌だ。せっかくそばに居続けることをお前が許してくれたのに、また逃げられてしまうなんて。ようやく手に入れた関係にヒビを入れてしまうなんて、そんなの耐えられない。
    「……俺、なぎとのことが、すきなんだ……」
     もうあの時のような感情は湧き上がらないけれど、確かに愛していた。いや、今も愛しているはずの男を抱き寄せて、肩口に顔を埋める。
    「……っ、そんなの、ボクだって……っ」
     狛枝が咄嗟に放ったであろう言葉の続き。前までなら聞き取れないほど小さな声であっても大切にしまえた響きを、確かなものにしてしまいたくて。
    「……俺のことが大切なら。もっと大きい声で言ってくれよ」
     お前が言うのにひどく躊躇する一言を世界に知らしめてやりたくて。自分は愛されているのだと知りたくて。
     お前が大切にしてくれている響きを、そうと知りながらもう一度。
    「なぎと、頼むよ。俺、このままじゃ壊れそうなんだ……」
     努めて切実な響きになるように取り繕った言葉へ、ぴくんとわずかに震えた身体は少し戦慄いた後、はっきりとした声で言った。
    「……はじめクンのことが好きだよ」
     久方ぶりに聞いた二文字。狛枝がいつだって言うときに緊張する言葉がじわじわと心に染み渡って、少しだけほんの少しだけ、胸の辺りがあたたかくなった。
     ああ、俺、狛枝に好きと言われた時は昔に戻れるんだ。心が取り戻せる。人間でいられる。日向創であれる。それなら──
    「……なぁ、狛枝。俺が言ってほしいって頼んだら、いつでも言ってくれるか? その言葉だけなんだ。その言葉だけが、俺を昔に帰してくれるんだ。ダメか……?」
     ぎゅう。目の前の身体を力強く抱きしめて、赤く染まった耳へひそひそと囁く。お前が、俺が口にするたび顔を歪めておねだりを全て叶えてしまったトーンに声を蕩かせて。
    「なぎと、だいすきだから……。なぎと、うなずいてくれよ……」
     さながら人を惑わす悪魔になったような心地で言葉を重ねれば、狛枝は「……はじめクンが、それで元気になってくれるなら……」としおらしい返事を一つよこした。

     その日、俺は、特別な響きの二文字を、ありふれたものにすることに成功した。
     心のどこかが悲鳴をあげていたような気もしたけれど、全てが平らになった俺にとっては、聞こえないほど遠い見知らぬ人の声だった。

    ✳︎✳︎✳︎
     
     ぷちり、ぷちり。
     ベッドルームに不釣り合いな音が聞こえる。
     睡眠前に一錠ずつの決まりで処方された錠剤のシート。中身の見える透明な出っ張りを押し込んだキミの動きに合わせて、丸いものが手のひらへ落ちる。
     その度にもうやめようよと言いかけて口をつぐむ。
     黄色、オレンジ、白。
     色とりどりの薬物を一気に口の中へ放り込んだキミは、水をあおると、グラスをサイドテーブルへことりと置いた。
     ぼうっと一瞬宙を見やった後、こちらを振り返って、ベッドに腰掛けるボクを見つめる。何の感情も乗せられてない視線に思わずたじろげば、不安がキミの瞳をわずかに揺らした。
    「……なぎと」
     昔は特別なときにだけ聞けたとっておきの響きはいつぞや日常に溶け込んでしまって。けれど、何度聞いても甘やかでボクを締め付けて離さない煌めきを閉じ込めたまま。
     ボクはその声に呼ばれるたび、もう離れるべきだと告げる理性に逆らってキミの元へ吸い寄せられてしまう。
    「……どうしたの、はじめクン」
     ベッドから立ち上がって、大切なひとのそばに歩み寄れば、少しだけ目尻が下がった。
    「なぎと、今日はまだ言ってくれてないよな。俺が頼んだら、言ってくれるって言っただろ……?」
     森の中に捨てられた迷い子みたいな、行くあてもわからぬ焦りと困惑を含んだキミが、助けを乞うようにボクに問いかける。
     薬を飲むようになって一週間ほど経った頃、様子のおかしくなった日向クンが取り付けた約束。あの日以来、三ヶ月間破ったことのないおねだりへ、「……いいよ」と答えれば、安堵に綻ぶ表情。
    「お前の言葉は、眠る前に聞きたいから」
     ぽち。リモコン一つで薄暗くなった部屋。嬉しそうなキミに手を引かれるまま、先ほど座っていたダブルサイズのベッドへ、今度は寝転がる。
     すりすり。
     寝転んだ後、ボクの右手を優しく指でなぞりあげたキミは、時折手を握ったり、揉み込んだり、くすぐったりと好き放題をして。その姿があんまりにも昔のキミにそっくりなものであったから、一瞬ボクの大好きだった日々の日向クンにまた出会えた気がしてしまって。ボクは、三ヶ月間お預けされている口付けをキミに降らそうと、そっと顔を近づけた。
    「……っ、ダメだっ……!」
     瞬間、蕩けた気配が霧散する。
     キミが薬を飲む前、大好きであったことの一つ。ボクがねだらなくても、「……なぎと、キスしていいか……?」なんて。おずおずと尋ねて重ねてくれた唇。本当はずっと欲しくてたまらない接触を、彼は今日も拒んだ。
    「……ゴメン」
     泣き出してしまいたいのをグッと堪えて、口にした謝罪の言葉。
    「……っ、ちがうんだ、謝らなきゃいけないのは俺の方で……! 俺は、お前のことが大切なのに、大切なはずなのに、わからなくて。お前のことがすきなのに、どうして、こんな、こんな……」
     何でボクが謝らなくてはいけないのだろうという気持ちを塗りつぶしてしまうような苦しみの怨嗟。
    「いやだ、いやなんだ。お前に触れて、何も感じないかもしれないのが怖いんだ。あんなに好きだったのに、今だって好きなはずなのに、お前にキスをされても、何も思えなかったらどうしよう……、なぎと……」
     薬を飲んですぐ、まだ効果を発揮しきる前にだけ聞ける本音。日向クンのあまり覚えていないらしいそれらに、「……大丈夫だから、大丈夫だよ」と背中をぽんぽんと叩く。
     何の確証もない慰め。こんなこと今までであれば口にしなかったはずなのに、キミがもがき苦しむ様をただ見ているのは辛くて、自分に言い聞かせるつもりで言った言葉。
     けれど、そんなものにすら、キミは反応して。
    「……なぎと、俺を大丈夫にしてくれ。今日も俺に魔法をかけてくれ。俺をお前が好きな『日向クン』に戻してくれ。なぎと、だいすきだから……」
     もう本当はキミの中で、だいぶ小さくなってしまっているだろう好きをかき集めて、縋るんだ。
     キミにそんなことを言われてしまったら。好きでたまらないキミが、たった二つの文字列で安心できるなら。ボクは、ずっと胸の奥にしまい込んでいた響きだって、簡単に口にできちゃうんだ。
    「……はじめクン、すきだよ」
    「……よかった……」
     聞いた途端、ふにゃりと緩まる表情。優しく握られる手のひら。じんと伝わってくる温かさ。
    「……俺もなぎとのことがだいすきだ」
     キミが元気であったとき、ベッドの上で囁いてくれた睦言と寸分違わぬ一言を最後に、すぅと眠りについてしまうキミ。不安の解け消えた安らかな寝顔。ボクの大好きな日向クンがそこにいた。
     ねぇ、日向クン。ボク、知ってるんだ。今のキミがボクをそこまで大切に思えてないってこと。でも、それでも──
     そっと髪の毛をかき分ける。目尻を辿る。頬を撫でる。
     ボクを甘やかしてくれた時の日向クンがしてくれたこと。大好きだった仕草の一つ一つを思い起こすように、キミに施して。
    「……日向クン、だいすき」
     キミが望むから、いつのまにか特別でなくなった響きの代わりに、珍しくなった呼び名。健やかであったキミへ、密やかに捧げていた愛の言葉をぽとりと溢して、ボクはゆっくりと瞼を閉じた。
     明日も、ボクは、はじめクンのおねだりに応えてしまうんだろうな。
     夢の世界へ旅立つ少し前、そんなことを思った。
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