木の幹に聴診器を当てると、生命の音が聞こえる──。
そんなことを習ったのは、まだ10歳にも満たない頃だっただろうか。確かあれはフィールドワーク中のことだった。全員分に行き渡るように籠いっぱいに詰められた聴診器を前に、子供たちは我先にと手を伸ばしたものだ。
ガストもその例に漏れず、普段触れる機会のない聴診器を手に取った時妙に興奮したのを覚えている。そして半信半疑ながらも木の幹に張り付いて、驚愕したのだった。
本当に聞こえたのだ。まるで血潮が駆け巡るような、轟々という音。分厚い樹皮の向こうに、確かな鼓動を感じた。
そのことを教師に告げると、木も生きているんだよ、なんて言いながらニコニコ笑っていた。
あの教師は今でも同じ授業をしているのだろうか。疎遠となって久しいが、ふと懐かしくなる。
ガストは手に持っていたボトルのキャップを捻りながら、目の前の大木を見上げた。
世界中探しても、此処にしかない。図鑑にも生物学誌にも載らない、唯一無二の存在だ。
『サウスセクターの一画にある日突如現れた大木』、一般人の認識はそんなところだろう。彼の本当の正体を知る者は限られていた。
「なにしてるのー?」
不意に、近くで遊んでいた幼児が駆け寄ってくる。大木の前で立ち尽くしているガストのことが気になったのだろう。近くにいた保護者らしき女性が、ガストに向けて軽く会釈をした。
ガストはそれに頷き返し、足下で立ち止まった幼児と目線を合わせる為にその場に屈み込んだ。
「水を飲ませようと思ってたんだ」
「えー、木もお水、のむの?」
「飲むさ。木だって生きてるからな」
ガストは持っていたボトルを幼児に手渡すと、手首を捻るジェスチャーをする。
「その根っこのところ、かけてくれねぇか? きっと喜ぶぜ」
ガストの言葉に幼児はこくりと頷くと、素直にボトルを逆さにした。ほぼ落下するように勢いよく注がれた水が、小さな飛沫をあげて土に吸収されていく。
「できた!」
「サンキュー、助かったよ。そうだ、お礼に良いこと教えてやろうか。秘密だぞ?」
「ひみつ?!」
空のボトルをしっかりと握りしめたまま、幼児はきらきらと目を輝かせた。このくらいの歳の子は、ご褒美だとか秘密だとかいう言葉に滅法弱い。その純真な様に目を細めながら、ガストは口の前で人差し指を立てた。
「そう、秘密な」
「おしえて!」
「よし。こっちに来てみな?」
ガストはその場で興奮気味に飛び跳ねる幼児を引き寄せる。そして木の根の上に後ろから支える形で立たせると、彼は不思議そうな顔でガストを振り返った。
「どうするの?」
「木に、そーっとハグするんだ」
「これ?」
「そうそう」
小首を傾げつつも、ガストに促されるまま幼児は木の幹にぴたりと張り付く。暫く見守っていると、彼は見る見るうちに驚きの表情を浮かべた。
「どくどくいってる!」
大声で叫んだ幼児にガストが再び人差し指を立てると、今度は小声で「きこえるよ」と報告をし直してくれる。ガストは声を落として、「俺と君の秘密な」と勿体ぶるように念を押した。幼児はそれに何処か神妙な顔で頷くと、「ひみつ!」と繰り返す。
男同士の約束を交わし終えると、そろそろ頃合いと見たのか、幼児を呼ぶ母の声が背後から聞こえてきた。彼は直ぐに返事をすると、ガストにさよならを言ってから来た時と同じように駆けて行った。
ガストは手を振って送り出すと、ふっと息を吐くように笑う。
「やっぱり聴こえるんだよな」
ぽつりと呟いたガストは、木に寄りかかるようにして腰を下ろす。首を傾けて耳を幹に当てると、先程の彼が言ったように、規則正しく拍を刻んでいる。
大人となった今では、あの時聴診器を通して聴いた音は生命の音ではないことを知っている。初めてそれを知った時、幼少期の印象的な思い出であっただけにそこそこショックを受けたものだ。
しかしこの木は、あの日の思い出を再現するかのように力強く脈を打っている。
ガストは胸が熱くなるのを感じた。自分の胸に手を当てればその鼓動を自覚できるように、この木もまた聴診器要らずで、その生命力を主張しているのだ。
もたれかかったまま、もう一度ガストは大木を見上げる。幾つもの可憐な花をつけた枝が風に揺れて、時折花弁をガストの元へと届けてくれた。水の御礼だろうか、そんな都合の良い事はないかと諦め顔で、ガストは苦笑する。
「なあ。俺の声が聴こえてるなら、返事してくれたっていいんだぜ……なんてな」
物言わぬ大木となったかつての同僚に放った冗談を、木々のざわめきが掻き消していく。
風の心地よい昼下がりのことだった。