美味しい炒飯の作り方カフェ、それは悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、愛のように甘い
ーータレーラン
1.
「たまごサンドあがったよ!」
「炒飯おまちどう!」
カウンターに次々と美味しそうな料理の皿が並んでいく。厨房で調理しつつ自ら給仕も務めているのは、人好きのする笑顔と栗色の大きな瞳が印象的な青年、ポップだ。
黄色いバンダナに、明るい緑のエプロンがよく似合っている。先月アルバイトで入ったばかりだが、早くもこの店の看板といった雰囲気を醸し出している。
その横で、シックな色のビブエプロンに身を包んだ寡黙な店主が、黙々と珈琲を淹れていた。
こちらは終始落ち着いていて、発する言葉と言えば「いらっしゃいませ」「ご注文は…」「ブレンドお待たせしました」くらいのものだ。
だが、とにかく顔が良い。客商売には致命的とも言える口下手を補って余りある、顔面偏差値の高さ。
サラサラと揺れる銀髪からのぞく長い睫毛とその手つきに見惚れていると、カランカラン、と音がしてドアが開き、高校生くらいの少年が入ってきた。
時々見る顔だ。幼さが残るものの、あと数年もすればかなり、と思わせる潜在能力を感じさせる…、つまりは可愛い顔をしているのだが、学生服を着ていてもわかる、程よく筋肉がついた引き締まった体つきを見ると、何かスポーツをしているのだろう。その道具だろうか、大きな荷物を下げている。
「こんにちは〜。ポップいますか?」
少年は友達の家に遊びに来たような気安さで
ずかずかとカウンターに向かう。
奥で調理台に向かっていたポップは、振り返って人懐っこい笑みを溢した。
「おーダイ、いらっしゃい。練習お疲れ。家までもたんだろー、炒飯食ってけ」
言いながら慣れた手つきでおしぼりを渡し、グラスに水を注ぐ。
ありがと、と受け取りながら、ダイと呼ばれた少年は、
「ところでこの店、珈琲専門店じゃなかったっけ?」
いきなり核心を突く質問を繰り出した。
「あー?まーな、こいつまともに作れるの珈琲だけだからな」
ポップが自らの雇い主を横目で見て答える。
随分な言い草だ。よくクビにならないものだ、と呆れる。
「ここいら平日の客層はサラリーマンに、近所の商店街のおっちゃんだ。いくら珈琲が美味くても、メシマズじゃやってけねえ」
実際ポップの言う通りで、自分のように珈琲目当てで通っていた客は少数派だ。
しかもその自分も、「常連の客さんにお試しで出してるから、試食してほしい」と言われ、常連扱いされた事が嬉しくて、然程空腹でもないのに食べてみれば完食し、それ以来食事時に来たら毎回注文している。
ポップの炒飯は本当に美味しかった。
楽しみが増えた一方で、少し分かりにくい場所にあるため、人知らぬ自分だけの気に入りの店、というつもりであったのが、最近は巷での評判があがり客も増えたことを、少し残念にも思っていた。
雑多な日常を離れ静かに物思いに耽り、年若いのに寡黙で繊細なマスターの指先と端正な顔を眺めながら美味しい珈琲をいただくのが、至福のひとときであったのだ。
しかし、淡々と修行のように珈琲を淹れながら、何があったんだ、人生これからだぞ、と肩を叩きたくなる衝動を覚えるほど、そこはかとない哀愁を全身から漂わすマスター(それも大変良かったのだが)。
その彼の口元がふっと綻び、この上なく優しげな瞳で他人を見る瞬間を、見てしまったのである。
控えめに言って、眼福です。
それを見るために、自分はこれからも足繁くこの店に通ってしまうのだろう。
「ご馳走様」
後ろ髪を引かれる思いで伝票を手にし、席を立つ。
さて次はいつ来よう。ほんとに良い店見つけたな。少年たちに幸あれ、と願いつつ、内心込み上げる笑いを気取られぬよう、お代とともに細心の注意を払う私であった。
2.
ーー時を戻そう。
遡ること1ヶ月。
ヒュンケルは悩んでいた。
珈琲はそこそこ評判だが、やはり場所柄か、
軽い食事を所望する客が多く、サンドイッチだけの軽食メニューは明らかに需要を満たしていなかった。しかし、自分には玉子とハムのシンプルなサンドイッチを作るのが精一杯なのだ。
顧客満足度を上げるべく、ヒュンケルはアルバイト募集の広告を出した。時給は最低限しか出せないため、ランチと夕方の時間帯、入れる曜日のみで可、賄いあり(自分で作ってもらうのだが)、珈琲飲み放題。
この条件に惹かれ、応募してきたのが近くに住む大学生のポップだった。
ポップを面接したとき、ヒュンケルはなんとも形容のしがたい気分に襲われた。
すらりとした体躯に、華奢な細腰。だが決して貧相な訳ではなく、バランスの取れた筋肉がついていて、見ていて清々しささえ覚える。
物怖じしない明るい色の瞳には、時折賢しげな光りが宿り、見る者をはっとさせた。
惜しみなく愛し愛されて育ったような。明るい場所を歩くのが相応しい、健康的な心身。
自分にないものを見せつけられている気がして、眩しくて、見ていられないような。
ずっとそばで愛でていたいような。
「あの…」
ポップの声でヒュンケルは我に返り、面接の最中ということを思い出した。作れる料理を聞くと、
「素人に毛の生えたレベルだけど、家庭料理なら全般それなりに。得意なのは炒飯かな」
屈託なく答える。
「いつから来れる?」
食い気味に言ってしまった。
「採用、ですか?」
ポップは目を丸くした。まだ到着して10分も経っていない。
ヒュンケルは微かに口の端を曲げた。どうやら笑ったらしい。
「ー宜しく頼むよ」
翌週から、サンドイッチだけだったカフェの軽食メニューに、パスタ、オムライス、カレーライスが加わった。
料理も接客もポップはそつなくこなし、評判は上々だった。更には賄いとして作っていた炒飯を、小腹が減った、もっとパンチの効いたものない、との客のリクエストで出してみたところ評判になり、裏メニューとして定着しつつある。というか、すでに看板メニューは炒飯と珈琲になりつつある。
ここはカフェなのだが。
炒飯ができるまで、ダイは手持ち無沙汰な様子だった。ヒュンケルがカフェオレ飲むか?と聞くと、首を振り、食後に頼みます、とお利口な大型犬のように座って待つ姿勢を見せた。
やがてジュージューと美味しそうな音がして、いい匂いが漂ってきた。珈琲の香りと混ざり一種独特な空間ではある。
「でもさあ、前はちょっと雰囲気いいお店だったのに、ポップのせいでなんか色気より食い気っていうか…マスター、これで良かったの?」
高校生と言えば、背伸びしたいお年頃。
大人になったつもりで通っていたカフェが、すっかり部活帰りのもんじゃ焼き屋のような風情になっているのを残念に思っているようだ。
しかし、ポップに借りてた漫画を待ってる間に読んで返す、と熱中し始めた己の姿も、その情景を作り出すのに一役買っていることに、ダイは気づいていない。
「気にするな、お客さんに喜んでもらえればなんでもいいんだ」
ヒュンケルは2人を交互に見て独り言のように言った。
「ポップが来てくれて助かってるよ。料理は上手いし愛想がよくて話も楽しいって。俺は口下手だから…」
「なんだよ。褒めてもなんも出ねーぞ」
はにかみながらもポップは素直に嬉しそうな顔を見せた。
「お待たせ、ご注文の炒飯だぜ」
3.
「お前の炒飯は本当に評判がいい。実はお前が居ない時もリクエストがあるんだ。作り方を、教えてくれないか」
ヒュンケルは真剣な表情で言った。
「俺が作ってみても上手くいかないんだ」
端正な顔でじっと見つめられると体に悪い。
(根が真面目だからな、こいつは。お客のリクエストに応えなきゃって、必死なんだなあ)
体には悪いが、ポップはもちろん頼られて悪い気はしなかった。
年上でイケメンで若くして店まで持ってるのに、ふとした瞬間にどこか寄るべなさを感じさせるヒュンケルを見ると、
(おれが助けてやんなきゃ)
胸をぎゅっと掴まれたような感覚を覚える。
「いいぜ。店閉めた後時間作れよ」
ポップは気安く答え、笑顔を見せた。
こういうのは実地でやるしかない、と2人してエプロンを締め、厨房に立った。
「まずはいつも通り作ってみて」
「わかった」
決死の覚悟で戦に臨む武士のような風情で、ヒュンケルは炒飯作りに取り掛かった。
果たして完成した炒飯は、見た目はそう悪くないが、ポップが味見をすると、米がべちゃっとしてパラパラの黄金炒飯には程遠い。
「難しいな…」
がっくりと肩を落とすヒュンケル。
「まあそう落ち込みなさんな、基本は間違っちゃない。まあまあいい線いってるよ」
ポップが励ます。
「んじゃ、おれが最初からやってみるな。そこで見てろよ」
ーまずは材料、それから火力。
手際よく肉と野菜を刻む。
ー材料の大きさは揃える。均等に火が通るからな。
フライパンに油を入れ火にかける。
ービビらず強火!んですかさず卵!半熟になったらメシ!
魔法のような手際を見て、ヒュンケルは感動すら覚える。
ーきっちり手順ふんで、面倒くさがらずやれば絶対美味しいのができるぜ。何事もセオリーどおり、だ。妙にアレンジしたりとか、あーめんどくせーもーいーや、ってなるから、だめなんだ。
(奥が深い!)
ヒュンケルは感心する。
ーあとはちょっとしたコツ。
そうだ、最初にそう言って冷や飯を水洗いしたのには驚いた。
ーと、ひたすら作る!これが一番の上達法、だな。
ポップは目を上げてヒュンケルを見た。
ーま、おれのも自己流だけどな。
ひひ、と笑って片目を瞑る。
目線を戻し、フライパンを振りながら、独り言のように続ける。
ー炒飯は実はけっこう年季入ってんだわ。
家が店やってて共働きだから、物心ついたらメシは自己調達。
炒飯は作りやすいし、材料なんでもいけるしバリエーションあるから、もう昼メシとかに何千回も作ってる。ダイにも作ったしな。
専門店には遠く及ばないけど、珈琲メインのカフェの軽食ならじゅうぶんいけんじゃね?
てかカフェで炒飯ってのも謎だけど!
ーてな訳で、できたぜ!味見しろよ!
あっという間に見事な炒飯が完成し、皿の上で湯気をたてていた。
「そうか、ありがとう。本当に、見惚れるような手際だった…よく、わかった」
ヒュンケルは感動に堪えない、といった顔で感謝を述べた。
「だが…、すまん。それはお前が食べてくれ」
「は?」
「実は…俺は味がわからない」
「は?」
ポップは、今の同じ返しで芸がなかったな、とどうでもいいことを考える。
ヒュンケルは続けた。
「味覚障害、というやつらしい」
「…」
「唯一味が分かったのが、珈琲なんだ」
突然の告白に、ポップは返しも忘れて口を開けて呆けた。
「…よくわかんないけど、病気ってことか?」
ヒュンケルは息をついて、長い話になるが、と前置きして語り始めた。
ー事故をやってな、交通事故だ。バイクで転んだ。
目撃者がいたから分かったが、飛び出した猫を避けようとしたらしい。巻き添えになった人がいなくて、本当に良かったよ。
意識不明になって、数日眠ってたらしい。
打ちどころが悪かったんだな。目覚めた時には、これまでの記憶を全部失っていた。体は打身と擦り傷だけで奇跡的になんともなくて、医者も驚いたらしい。
記憶がなくても、風呂も食事も困らん。
ただ食事は味がしなくて、砂を噛むようなもんだ。最初は水で無理矢理流し込んでいたな。
医者はストレスが原因だろう、と言った。記憶はそのうち戻るかもしれんし、戻らんかもしれん。味覚障害も一時的なもので、戻るかもしれんし、一生戻らんかもしれん、と。
別に悲しくも寂しくもなかった。だだ、どこかわからんが、おそらく記憶があったであろう場所に、ぽっかりと穴があいているような感覚はあった。
免許証から身元は分かった。身寄りはなかったらしい、幼い頃に両親は亡くなっていたようだ。歳は24で、仕事はバイク便。
それで転倒して頭を打ったってことだ。
命があっただけ運が良かったな。
体の方は良かったからしばらくして退院して、やることもなくて、たまたま目についた喫茶店に入った。
どうせ味はわからんが、思い切り甘い珈琲を注文した。ところが驚いたことに、飲んだ時、微かに甘みを感じた。この味は知ってると、思ったんだ。
それでこの店を始めた。できる限りで身辺のことを調べたら、父親が昔喫茶店をやってたらしい。幼い頃の記憶が蘇ったのかもな。何年もほったらかしだったらしいが、この店舗がそのまま残ってて、助かったよ。
ー無謀だと思うか?安心しろ、借金はない。
一人で使い道もなかったんだろう、そこそこの貯金があったし、珈琲のことは付け焼き刃だが、これでも必死に勉強してな。
訥々と話していたヒュンケルは、そこで言葉を切らし、細く長い息を吐きた。
ーそんなことがあったなんて。
ポップは聞きながら、足元がぐらぐらと揺れたような、暗い穴に突き落とされたような、恐怖とも焦燥ともつかない感覚を覚えていた。
普段の落ち着き払ったヒュンケルからは想像もできなかった。
記憶がない、思い出がない。積み重ねた時間と、過去の自分がない。それがどういうことか、経験のないポップには本当にはわからないが、もし自分がそうなったら、と少し考えただけでも、いたたまれなかった。どんなにか不安で心細いことだろうと思う。
ポップは何か言おうと口を開きかけたが、紡ごうとした言葉は乾き切った喉の奥にひっかかり音をなさず、ただ息だけが漏れた。
(そっか、だからだったんだ)
ポップは客が途切れた合間に食事を取るとき、眉一つ動かさずもくもくと機械的に口に運ぶヒュンケルを見て、料理が口に合わないのかと思っていた。
せっかく作ったのに、と悲しかったが、でもまあカフェのオーナーなんて舌が肥えてるんだろう、しょうがない、と言い訳じみたことを考えて誤魔化していた。
だけど、「おまえの作るものはどれもとても評判が良い、大したもんだ。感謝している」
って褒めてくれて、おれでも役にたてたんだって、嬉しかった…。
「そっか、おまえの思い出の味か…。
おまえの淹れる珈琲、うまいよ。なんつーかほっとすんだよな」
ポップはやっとそれだけを言った。胸が詰まってうまく言葉が出てこない。
「ありがとう、ポップ」
ヒュンケルは破顔して、ポップの髪をクシャっと撫でた。
(ちぇ、ずりーよそんな顔…)
「でもさ、聞いたことはあるけど…本当に珈琲以外味わかんねぇの?甘いのは分かったんだろ…、うーん…、そだ、ちょっとまってて」
ポップは何かしら思いついた様子で、湯を沸かし始めた。
手早く作業する指先に見惚れる暇もなく、ヒュンケルの前にカップが差し出された。
「中華スープ。飲んでみてよ」
「いただきます…」
恐る恐る口を付ける。
ポップが固唾を飲んでいるのが分かった。
あたたかい液体が喉に流れこむと、ほんの僅かに、味蕾に塩味を感じた。思わず口元が綻ぶ。
「塩っぱい、味がする…」
「ほんとかよ!やったあ」
ポップは本当に嬉しそうに言った。
「そういう時、水分とったりあったかいものが良いって聞いたことあんだ。高校の時の先生がさ、すげー物知りでさ。勉強サボってばっかだったけど、アバン先生の授業だけは聞いてた甲斐あったあ〜」
我が事のように喜ぶポップを見て、ヒュンケルも言いようのない気持ちを感じていた。
あの事故以来、こうやってゆっくり温かい食事を取るなんてことがあっただろうか。
誰かに味の感想を伝えるなどということも初めてだ。
ヒュンケルは不思議な心持ちになった。
誰かが自分の為に作ってくれたものを、作ってくれた誰かと食べるのは、こんなにも心があたたまるものなのだな…。
「これからおめーが炒飯作ったら、時々味みてやるよ」
ポップはにっと笑い、「交換条件」と指を突き出してきた。
「そのかわりおめーは珈琲教えろよ」
苦ぇのは苦手だから…、と少し考えて、
「手始めにカフェオレ入れてもらうかなー」
ヒュンケルは一も二もなく頷く。
「ああ、勿論だ。おまえのために、腕によりをかけて淹れよう。とびきりのやつを」
笑いかけるその顔に、
「あーやっぱずりいって!」
ポップは声に出して叫んでしまったが、顔がニヤつくのは苦心して抑えたのだった。