もう少し、このままで「先生、用意できました」
「ん、悪いな」
ノヴァが師のために用意したのは、お手製の洗髪台。
ランカークスの街の床屋から払い下げてもらったものを、自分なりにアレンジして、この家で使いやすいように仕上げたものだ。もちろんロンに負担がかからず洗いやすいよう、仰向けで洗う仕様に変更済みである。
お湯はたっぷり沸かしてある。
ロンの長い髪はあらかじめノヴァが念入りに梳ってある。
ロンはリクライニングチェアに体を横たえると、目を閉じた。
「俎上の鯉だな…」
ノヴァは苦笑して、これも手製のシャワーを手に取った。
「流しますね」
ノヴァの助けで日常生活は支障なく送れているが、痛めた両腕で長い髪を洗うのは骨が折れる、というかきちんと洗うのは不可能だ。いっそ切ろうか、と言うロンを、ノヴァは必死で止めた。
「こんなもの、惜しむほどのこともなかろう。どうせすぐに伸びる」
「ダメです!僕が洗いますから!」
ノヴァには到底承服できなかった。
こんなに綺麗なのに、切ってしまうなんて。
それに長い髪には魔力が宿ると言う。
魔力は即ち生命エネルギー。先生の生命力を、少しでもその体に留めていたい。
ボクはこの人の両腕になると決めたのだから。
石鹸を丁寧に泡出て、爪を立てないよう注意して地肌を洗う。
一本一本がしっかりとして硬さがあるのに、全体はまとまってしなやかに跳ねる、人間の髪とはやはり構造が違うのだろうか。
ノヴァは洗いながら、自分がロンの髪を洗っているという事実をなるべく意識しないよう努める。ただただ丁寧に、かつ機械的に手を動かしていく。
この行為を、それと意識してしまったら最後。
師であり想い人であり今の自分のすべてである人の、生命の宿る髪に触れている。
しかも相手は無防備に横たわり、すべてを自分に委ねているのだ。
これが平静でいられようか?
ロンの専属シャンプーマンになり切ったノヴァは、甲斐甲斐しく声をかける。
「お湯熱くないですか?」
「気持ち悪い所ないですか?」
ロンは無言だ。
「先生……寝ちゃったんですか?」
すやすやと快い呼吸とともに、ロンの胸は規則正しく上下している。
ただ、その体の一部…。
ノヴァは目を瞠った。
ぴくぴくと、耳が……動いてる!!
ロンの魔族特有の長い耳は、ウサギのように音を聴くときにそばだてられるわけではない。普段は人間のそれと同じ、つまりほぼ動くことはない。しかし今、それがまるで一つの生き物のように震え蠢いている。
人間も耳を動かせる人がいるが、こんふうにはできまい。
ロンのその動きは、おそらくは心地よさに比例して増しているように思えた。
ノヴァが指で恐る恐る先端に触れてみると、ぴくりと大きく震えた。
「……!」
(先生が、ボクのシャンプーで、気持ち良くなってくれてる!)
ノヴァは込み上げる嬉しさを抑えきれない。
ひとまず深呼吸して、気持ちを落ち着かせる。
震える手で丁寧に泡を流し、水気を切ってタオルで包む。擦らないよう注意して良く拭き取ったあと、オイルを揉み込み、荒く櫛を通すところまで済ませて声をかける。
「あの…先生?終わりました」
「…ン、寝てたか…」
ロンははっとしたように目を開けた。
「悪かったな、あまりに気持ち良くて」
「いえ、お疲れだったんでしょう。少しでも休んでいただけて良かったです」
「ありがとう、ノヴァ」
ロンは破顔した。
ノヴァは赤くなった。誤魔化すように声を張り上げる。
「先生っ!耳、痒くありませんか?」
「いや、特に…」
「さっきお湯がかかってしまったかもしれませんし、耳掃除はこまめにした方がいいです!」
「そうか、まあ後でするよ」
「ボクがして差し上げます!」
「そのくらいは自分で出来る」
「いえ、させてください!いいから!さあさあ!」
迫力に押されてロンは後ずさる。
こういう時のノヴァは言うことを聞かない。
坊やの好きにさせるしかないか、とロンは腹を括った。
長椅子に座ったノヴァの横に耳を見せて座ると、ノヴァはむっつりと口を結ぶ。
「先生?それじゃできません!」
言って、ぽんぽんと自身の膝をたたく。
嫌そうに顔を顰めるロン。
途端にノヴァの顔は悲しそうに歪み、今にも泣き出しそうだ。
ロンは慌てて言い繕う。
「坊やが嫌なわけじゃない。これじゃオレが子供みたいだ、恥ずかしいだろう」
「遠慮はいりません!ボクと先生の仲でしょ!もういろいろ見てますし、耳の穴くらい!」
「…その言い方は語弊があるが」
だいたい耳の穴を見られるのが恥ずかしいのではない、膝枕という姿勢が恥ずかしいと言っているのだ、と、妙なところでズレている弟子をロンはジトっとした目で見つめる。
やはりお坊っちゃん育ちゆえか。
出会った頃の鼻持ちならない若造の姿を思い出す。しかし、ロンはこの弟子のこういう世間ずれしていない物おじのなさを愛していた。
一体自分は弟子を取ったのか、愛らしいが我儘な子供のお守りを任されたのか。しかし乗りかかった船だ。
ロンは不承不承、腕組みして横になり、ノヴァの膝に頭を乗せて目を閉じる。
では、とノヴァは耳かきをそろそろと耳の穴に突っ込む。
果たしてロンの反応は。
「ふむ…」
ノヴァが浅い所からやや奥をこりこりとなぞると、見つめていたその先が気持ちよさそうにぴくぴくと動いた。
(……たまらん…!)
ノヴァはこの上ない喜びを感じた。
耳かきを動かしながら、先生、今先生の生殺与奪の権は僕が握ってますよ、と楽しそうに宣う。
「…殺さんでくれよ。まだもう少しだけ生きてみたくなったところなんだ。せめて坊やが大人になるくらいまではな」
大人どころか、自分がよぼよぼになっても然程変わらぬ姿を保っているであろうに、抜け抜けと。少し腹を立てたノヴァは語気を強める。
「坊やじゃありません!もうほとんど大人ですよ!」
「ほう…」
ロンは目を開き、顔を起こしてノヴァをまじまじと見る。
「何ですか…」
見つめられると、ノヴァは恥ずかしくなって目を逸らした。
(先生、やっぱり格好いい…)
と、ぐいと頭を掴まれる。
「わっ、危ないじゃないですか!」
ノヴァが叫び終わらぬうちに、唇が触れた。
2、3度啄むと、ロンの長い舌が滑り込んできた。ひとしきり絡めて味わい、離れるとそのまま自身の口の端を舐める。
「大人の味はどうだ」
「……揶揄うのやめて下さい!」
ノヴァは顔を真っ赤にして涙目になっている。
「…揶揄ったりなどしておらん」
「えっ」
驚いてロンを見ると、その瞳は真っ直ぐにノヴァを見つめていた。
「……!」
(嬉しい…嬉しい!)
ノヴァの顔がみるみる歓喜に染まる。
「が、楽しみは先に取っておく主義だ。…待つのは慣れてる。リンガイアの成人式は18だったな。ほとんどじゃなくて全き大人になったら、またしてやろう。それまでオレの楽しみを奪うなよ」
ロンが楽しそうに笑う側で、早く大人になりたい、とむくれるノヴァ少年であった。