そして彼女は踊る 携帯のディスプレイに表示された名前に、小さくため息が出そうになる。
大学の講義が終わり、夕食を適当に済ませて帰宅した。家事と講義の復習をして、ようやく一息ついたところだった。テーブルの上に置かれた携帯を引き寄せ、ひとつ咳払いをしてから通話ボタンを押す。
『あ、日依? よかったあ。出てくれなかったらどうしようかと思った』
電話の向こうから、ほっとしたような声がする。電話の主は小学校からの幼馴染みである綴谷叶絵だった。
「どうしたの、こんな時間に」
時刻はもう午後八時を回っている。とはいえ彼女がこうやって電話をかけてくることはそう珍しくない。内容はといえばコンビニスイーツが食べたくなったから買ってきてだとか、恋人の愚痴を聞いてほしいだとか、そういうくだらないものが大半だ。今回もおそらくその類いなのだろう。ああでも、恋人の愚痴だったら少し面倒だな。叶絵の愚痴はいつも長いから。
『うーん……電話じゃ話しにくくて』
いつもと違って口ごもる叶絵にあれ、と思った。
『今からこっち来れない?』
「今から?」
聞き返しながら傍らに置いてあった鞄を持ち上げる。大学に持って行くために買った少し大きめの鞄には、財布と今日の講義で使った教科書が入ったままだ。少しだけ考えて、教科書だけを取り出す。
『ちょっと急いでるんだ』
「私が行かないとだめな用事?」
『うん。それに口で説明するより早いと思うし』
会話を交わしながら、壁に掛かったお気に入りのコートを手に取る。彼女の住むアパートまではここから徒歩でおよそ十五分。今から出れば八時半には着くだろう。
「……分かった。じゃあ、今から行くから」
『うん、待ってる』
それを最後に通話は切れる。口では渋々という雰囲気を出してはいるけれど、私の中に叶絵の頼みを断るという選択肢はなかった。コートを羽織り、手袋とマフラーを身につける。携帯はコートのポケットにしまった。靴を履くときにずり落ちた眼鏡を掛けなおす。こんな風に彼女に呼び出されるのも、もう慣れっこだ。
アパートを出て、彼女の家へ向かう道を歩く。外の空気は身を切りそうなほどに冷たい。十二月の夜ともなれば寒いのは当然なのだけれど、今日はいつにも増して空気が冷えている。雪が降るかもしれないな。曇り始めた空を見上げながらそう思った。
叶絵の住むアパートはオートロックだ。ロビーの前についた私は、すっかり押すのに慣れてしまった彼女の部屋番号を押す。ガラスの扉はすぐに開いた。
彼女の部屋の前に行くまで、誰ともすれ違わなかった。ロビーでも、エレベーターの中でも。アパートの廊下には私の足音だけが響く。ひどく静かだ。