純愛はまた重ねられる「悠仁くんは、どうしたい?」
「ッ……!」
目の前では少し垂れ目の大きな瞳が、こちらを向いて笑っている。その瞳に決していつもの穏やかで優しい光がないのをわかっていたから、俺は何も言えずに生唾を飲み込んだ。
ジリリ、とただでさえ近い相手との距離を詰められる。唇はもう触れてしまえそうなほどで温かな吐息が俺にかかっていたし、足の間に割り込まれた膝は容赦なく俺の自由を奪っていた。急所にジリジリと食い込むそれが、逃げることは許さないのだとわかりやすく主張していた。
「あ……のぉ、おれ、は」
「うん?」
にこり。また笑みが深まる。細まった瞳が普段だったら人の良さに拍車をかけるというのに、今は鋭く刺すように引き絞られたのだと感じてしまう。
こんなにも印象がガラリと変わるだなんて。普段の優男風のこの先輩が優しく穏やかに見えるのは、纏う空気が柔らかくて暖かいからなのだと改めて思い知った。呪霊を祓う時、乙骨先輩の大事なものが傷付けられようとした時。そんな時見せる、身が震えるような恐ろしさもやっぱり本当で、それとは違うけれども今目の前にいる乙骨先輩の迫力だって同じくらいの恐ろしさだった。
「で、でも……乙骨先輩には、その、里香先輩が……」
チラリ。
見た先では銀色に光る指輪が輝いている。指にはまった、永遠の愛を誓う約束。
純愛だった。そう、本人に聞いている。そして、他の先輩方にも。乙骨先輩が亡くなった里香先輩のことをずっとずっと愛しているのも知っていたし、命日には必ず花と彼女が好きだったお菓子やら可愛らしい雑貨やらを供えているのも知ってる。彼女の誕生日やクリスマスには必ずプレゼントを用意しているし、里香先輩を語る瞳が他の誰を語るよりも優しく愛に満ち溢れているのかも知っている。
この恋は叶わない。
それを最初からわかっていたし、覆そうとも思わなかったからそっと胸に仕舞い込んでただ朽ちるのを願って待っていた。『利用してもいいよ』そう言うあの人の瞳がとても痛くて悲しくて、でもそれ以上に俺を思ってくれているのがわかってしまったから。だからちょっと魔が差したんだ。その手を取ってもいいかな、なんて。片想いに疲れ切っていた俺は思ってしまったんだ。だから、そっと自らの手を持ち上げた。
でも、その手が目の前の悲しくて優しいあの人の手を握る前に、この細くて固くて大きな暖かい手に連れ去られた。それに抗う力が俺には持てなかった。ただそれだけだった。
「……」
「ヒュッ」
目の前から笑顔が消える。
いくら恐怖を内包したそれでも、表情があるだけマシだったのかもしれない。それ程までに表情の抜け落ちた先輩の顔は空っぽで、冷たくて、暗くて怖くて恐ろしかった。
無言のまま、至近距離で先輩の息だけが俺の意識を保たせていた。もう、唾を飲み込むことすらできやしない。なんとか目玉だけ動かして、その、青く深い瞳の奥を覗く。
「ふーん。そっか。僕には里香がいるから?だから、なに?」
「あ、だか、ら」
「確かに僕は里香が大事だよ。愛してる。それは一生変わらない」
「ッ……!」
わかってる。わかりきっていることなのにズキズキと痛む胸が張り裂けそうに俺の心を締め付けた。
目を逸らしてはいけない。そう、思っていたのにいつの間にか目蓋は勝手にギュッと閉じられていた。
「逸らさないで」
「ア……」
グイッと、俺の顎が先輩にしては乱暴に掴み上げられる。反射的に開いた目の先で、先輩がひどくつまらなそうにこちらを見ていた。
「それでも僕はこれまでわかりやすくアピールしてしたつもりだよ。里香も大事だけど、それと同じくらい、君のことも大事にしてきたし好意も伝えてきたつもりだ」
確かに、先輩は俺に特別優しかった。でもそれは同じような立場の俺に親近感や憐れみを抱いてくれたからなのだと思っていた。好きだよ、って言ってくれるのも、あまりに自然だったからそんな意味が込められているのだとは思わなかった。いや、思っちゃいけないと思っていた。きっと深い意味はないし、言い慣れているようだったからきっと言っているのは俺にだけじゃない。そんなことで勘違いして舞い上がって、傷つくのが怖かったからそんなんじゃないって自分に言い聞かせてた。また、思っているうちに自然と視線が下がる。
それに、それに……。
「里香に悪いって思った?」
「‼︎」
動きづらい中でバッと顔を上げると、ゴチンと先輩の額とぶつかった。痛みに喘ぐ間もなく、また先輩もそんな素振りを見せずにこちらを睨みつけていた。
そうだ。連れられてきてからずっと先輩はこっちをずっと見つめている。
「確かに……僕は里香を忘れない。忘れられない。里香を一生愛するし、それを変える気もない。それは……確かに悪いと思う」
「……」
何も言えない。言えるはずがない。だってそれは先輩の根幹だから。先輩を構成する大事なところだから。それはきっと素晴らしく美しいことだし、多くの人が憧れるまさに純愛なんだろう。
けれど。けれども。どうしても醜く嫉妬してしまう自分がひどく醜く感じてつらかった。
「それでも。僕は悠仁を諦めたくない」
「は……」
ゆるり。先輩の瞳が溶けて安まる。慈愛を含んだその深い藍の瞳が俺をギュッと全部まるごと包み込んでいた。
信じられない。だって、先輩は里香先輩のもので、里香先輩だけが先輩のものになれた。はずだ。ぶるぶると体が震えて、立ってられないくらい自分の体に感覚がなかった。それを、いつの間にか先輩が優しく支えてくれていた。
「たった一人に向ける愛じゃない。里香に向けるのとおんなじ愛でもない。でも確かに僕は悠仁くんが好きだよ。これも純愛だって、僕は思ってる」
すごく真剣で、どこまでも真っ直ぐな瞳が俺を貫く。そこには嘘なんて一欠片もない。とても澄んだ純粋な気持ちで、先輩は俺に愛を伝えてきてくれている。
「僕が欲しいのは、君の気持ちだ」
「ぃい、の……?」
「うん?」
「俺、結構わがままだし、突っ走るとこあるし」
「知ってるよ。いっつも一人で抱え込んじゃって。もっと人を最初から巻き込む我が儘を覚えてほしいけどね」
「ッ……。それに、かなり嫉妬深い。里香先輩のこと、わかってるつもりだけどやっぱ妬いちゃう」
「好きな子の嫉妬なんて可愛いだけじゃない?里香のことは、まぁ僕のせいだし……その時は、それも忘れるくらいいっぱい愛してるって教えてあげる」
ちゅっと、可愛らしい音を立てて先輩の唇が頬に、額に、目蓋に触れていく。ゾゾゾ、と甘く痺れる震えが背筋に走る。
「あッ、……!そ、それに!俺、付き合ったりとか、そういうの経験なくてッよく、わかんなッ、ちょ、っと、まッ」
「僕が初めてってことでしょ?すごく嬉しい」
耳に息が吹き込まれてそのまま口に含まれた。カシ、と噛まれて、滑った熱いものがそこに触れてこそばゆくなる。
何だこれは何だこれは。
乙骨先輩は人タラシ。
それはよく耳にしていたけれど、こんなんマジで本物のタラシじゃんか‼︎
「ね、悠仁。僕とお付き合いしくれる?」
ヒチャ、と耳の奥で音がする。
こんなの知らない。あんな、純朴そうな、エロいことなんて考えてませんみたいな顔してこんなに百戦錬磨な雰囲気出すなんてズルい!
「悠仁……」
ああ、もう!
今の俺に、ハイ以外の返事ができるはずもなかった。