忘却を求む目の前の赤に目眩がする。
嘘だ。と否定する頭と本当だ。と認識する視界。
欠けた娘の遺体の前に座り込み、力無く項垂れる男は気配に気づいたのか、顔を上げる。
「カシ……カシオペヤ妃…俺……俺………アンドロメダを…た、食べ………」
泣きそうな真っ青な顔とは対照的に真っ赤に染まった口まわり。
分かってる。
食べたのは彼の意志では無い。
だから、彼を責め立てるべきでは無い。
分かってはいるが、感情はそう簡単に思考にはついてこない。
血の気の失せた顔に僅かな怒気をはらませて、ゆっくりと男へと近づく。
「何が、あったんですか?」
カシオペヤは努めて平静を装い、男へと話しかける。
「わ、分からない………気づいたら、…」
彼は引き攣った表情でそう告げ、ゆっくりとアンドロメダの遺体へと視線を向けた。
人を、呼ぶべきなのだろう。
だが、呼べば、アンドロメダが、最愛の娘が愛した男は、罪人として裁かれる。殺したのは彼本人だが、そこに彼の意志は無い。
視線をさまよわし、逡巡した王妃が一言。
「人を呼んできます。おとなしくしていれば悪いようにはしません。そこで待っていなさい。できますね?」
現実を見据えさせ、1人で思考を整理する時間を設ける。アンドロメダと2人きりにして、別れを受け入れさせる。
彼女なりの気遣いだった。
こちらを見てぎこちなく頷く彼が、再び視線を落としたのを確認し、後ろの出入り口から外へ出ようと踵を返した時だった。
「ぐ、う、ぁ、」
呻き声が、きこえた。
何事かと後ろを振り返れば、片手を地につき、自身の胸に手を当てて、荒い呼吸を繰り返す男の姿があった。
すぐさま駆け寄ろうとして、彼女は足を止める。
今彼が暴れ始めない保証は無い。今の彼はケートスか?化け物か?
考える間に彼の身体にさらに異変が起きる。
姿がぶれ始めたのだ。
目が霞んだのかと思ったが、どうもそうでは無いようで、ぶれては元に戻りを繰り返し、時折黒いモヤも見える。
初めて見る異変に恐怖を覚え、彼女は数歩後ずさった。
「直ぐに人を」
とまで言って、続く言葉を彼が遮る。
「殺せ」
「え?」
「今、殺せ」
顔も上げずに微かに呟く彼は、身体を支えきれずにうずくまる。
なぜ?と問う余裕は無かった。
彼が言うならきっとそういうことなのだろう。
まともな思考が望めない今、そう信じるしか、無かった。
得物を探して部屋を見回し、壁にかけてある剣が目に留まる。
2人が寄り添うことを認めた日に、記念に贈った王家の宝剣。細かいことは知らないが、斬れ味だけは確かだったはず。
壁から下ろして震える手でゆっくりと剣を引き抜く。鞘を地面に置き、鈍く光る刀身を掲げて彼の背面にまわる。
分からない、本当に殺さなくてはいけないのか。他に選択肢は。
迷いが晴れずにためらえば、彼の左手が地を引っ掻き、木製の床を鈍い音を立てて裂く。
時間も、その他の選択肢も無かった。
ヒュッと息を呑み、全身で剣を振り下ろす。
静かな闇夜の森に、王妃の慟哭が微かに響いた。