かぜのひ その日、坂上古書店入口のガラス戸には、荒っぽい筆致で「本日閉店」と殴り書きされた紙が貼られていた。店内の照明はことごとく消され、常々響いている姉弟の会話もない。定休日を把握している常連をも拒絶する暗闇が本棚々々を包んでいる。もっとも、閉店の知らせが無くても、今日は客など来なかったであろう。台風が間近に来ている街の天候は荒れに荒れていた。店主と店員、もとい姉弟は同じ部屋で、それぞれの布団に寝ながら家に叩きつける暴風を聞いていた。時折咳やくしゃみの音が自然の猛威と呼応するように部屋に響いた。
「……あいつ、もうすぐ来るって」
携帯を眺めていた弟が枯れた声で言う。
「そう……よかった……」
姉が安堵し終わらないうちに、裏口の鍵が開く音がした。早歩きの軽い足音が十数回、廊下と階段を通り近付いてきて、ついに襖がゆっくり開かれた。
「お待たせしてすみません」
ぐっしょりと濡れた髪で訪問客が笑う。袖口の湿ったスーツの両腕に満タンのレジ袋が吊られていた。
「……いや、こちらこそ。こんな天気なのにすみません」
「良いんですよ。〝フィアンセ〟の危機なんですから」
「……」
「ネクタイさんありがと」
「いえいえ」
男はレジ袋を脇に置くと、二人分の濡れタオルを替え始めた。
「それにしても、二人とも風邪引くなんて。大変ですね」
「わたしのせい……わたしの風邪がおじゃる君にうつっちゃって」
「姉ちゃんは悪くねえよ。俺が気ぃ抜いてただけだから」
互いに自責を続ける姉弟をよそに男はタオルを替え終わっていた。
「お義姉さん、台所お借りしても?」
「いいよー。片付いてないかもだけど」
男がレジ袋を抱えて部屋を出ていったのを合図のように二人の会話は止まってしまった。しばらくして隣の部屋から何かを手際よく切るような音が聞こえてきた。
3分と経たずに戻ってきた男の手には、切った桃を並べた皿があった。
「どうぞお召し上がりください」
「ありがとー」
「ありがとう……美味いっす」
「そうでしょう」
相づちを打つ流れで恋人の頬へ触れる手は冷たかった。手はそのまま身体をつたい、うつぶせで桃を食べ続ける姉には見えない角度で首筋をなぞり始めた。熱を保った肌にはその少し冷たい手が心地よかった。注意がないのを了承と捉えてか、触れる範囲はだんだん衣服の下へ伸びていった。
「……ふ」
くすぐったさに漏れた声を吸うように恋人の顔が近付く。整髪料と香水のかすかな匂いが彼の鼻をかすめた。
「どうしました?」
「別に」
「ふーん……何かあったら言ってくださいね」
唇は接吻でもするのかという距離からあっさりと離れて、代わりに桃の欠片ひとつが差し出される。
「あーん」
「お前な……」
姉がこちらを見てにやにや笑っていた。彼は一瞬躊躇したが、諦めて口元の果実にかぶりついた。
「ほんと仲良しだねー」
「ええ。恋人ですから」
「……仲いいからといって人に見せるもんじゃないっすけどね」
「別にいいじゃないですか、家族なんだから」
ね、お義姉さん、と微笑む義弟に、姉は微笑みを返す。至極穏やかな微笑みだった。
「これからもおじゃ君のことよろしくね、ネクタイさん」
「もちろん」
「……」
風の音は少し弱まってきたようである。