水辺のふたり 年頃の娘ばかりが立て続けに消えているという、運河に囲まれた街。鬼の気配と悲鳴に押し入った商家の奥、娘の部屋には衣紋掛けに目映い白無垢がかかっていた。恐怖に声を失う娘の姿に義勇の脳裏をよぎったのは、知り得たはずのない恐怖に青褪めた姉の姿だった。
刹那、沸騰するような感情に呑まれて、気がつけば鬼の頚がごろりと転がっていた。
たった一体、呆気なく終わった鬼狩りなのに、心臓は未だ早鐘のように鳴り続けてその場を離れられない。
「冨岡さん」
澄んだ声がして、刀を握る義勇の拳にしのぶの指先が遠慮がちに触れた。
鬼を屠ってなお、強く握りしめたままの拳を義勇はようやく自覚した。
「……冨岡さん」
呼ぶ声が、かすかに哀しい色を帯びて耳に届く。
沸き立つ感情にほんの僅か、鋒(きっさき)が揺れたのを、しのぶに気づかれないはずはなかった。
「大丈夫だ」
忘れようもないあの日の記憶に、自分を形作るものが奥底から波立つような感覚を重く蓋して押さえつける。そうしてようやく拳を緩めると、しのぶの指先がそっと離れていった。
街を抜け、船着き場に向かう道すがら、闇夜に浮かぶ白無垢が瞬きするたびにちらついて感情がざわめき立つのを、義勇は他人事のように感じていた。
癒えることのない傷跡からは何度だって血が流れるが、今更感情が揺れたところで何も変えることは出来ないのだ。今は鮮烈な痛みも、いつかはじくじくとした通奏低音となって鳴りを潜めるのを、もう何度も繰り返した経験から義勇は知っている。
そうやって、ままならぬ痛みすら律しようとして黙り込む義勇に、しのぶは何も言わなかった。
「ここですね」
護岸に作られた階段は川面に下り、小さな船着き場になっている。しのぶが軽やかな音を立てて降りていくと、空から艷やかな黒色が降りてきた。
「艶」
差し出された腕に、艶は舞うように止まる。
「渡シ船ハ、日ノ出ノコロ到着。待機サレタシ、デスッテ」
「そう、ありがとう。蝶屋敷にも無事を伝えてくれる?」
嘴を擽るように撫でると艶は嬉しそうに目を細める。しのぶの頬に甘えるように小さな頭をすり寄せると、月夜に軽やかに飛び去っていった。
――主に似るものだな。
艶が空を駆ける様をぼんやりと見上げていると、冨岡さん、と呼ぶ声がする。
「だそうですよ。少し休憩です」
段差に腰掛けて見上げるしのぶの左手が隣を示すのに促されて、義勇は無言のまま腰を下ろした。
運河に沿った道には等間隔に若い柳が並んでいる。青い空の下ではさぞ爽やかな風情の街なのだろう。
闇夜に沈む今は項垂れるように枝を垂らし、沈黙の間に時折、さめざめと葉ずれの音をさせている。
久方ぶりの静かな時間の訪れに、しのぶはいつの間にか足元を解いて清涼な流れに白い素足を遊ばせている。鬼を斬ってから会話らしい会話もしていないのを、今日に限っては何も言わない。動揺を見せた未熟な自分を気遣っているのだろうと思うと、沈黙に後ろめたさを感じてしまう。だからといって何を伝えたらいいのかは見当が付かない。どうしたものかと当てのない思案をしていると、水面を突付くしのぶの青白いふくらはぎが目についた。
「……冷えるぞ」
思わず口にした言葉は、そんなつもりはなかったのにぶっきらぼうに響いてしまう。
お節介なことだと文句を言われるかとしのぶの方を見ると、驚いたような顔をして義勇を見つめている。黙りこくっていた自覚はあるが、そんな風に驚かれるとどうにも居心地が悪い。
ただ、思い出しただけなのだ。夏の日、川遊びからいつまでも上がってこない自分に、姉が楽しそうな笑みに少しだけ心配を滲ませて呼んでくれたのを。
「姉に、よく言われた」
言い訳のようにぼそりと告げると、しのぶは泣き出しそうに眉根寄せて微笑んだ。
「……私は大丈夫。あと少しだけ」
時折立つささやかな波、しのぶの足先が水面に遊ぶ音、柳の葉擦れ。どこまでも静かな夜だった。
「花が、」
しのぶがぽつりと呟いた。
群青の夜気に満ちた運河に浮かび上がるように一筋、また一筋。上流で人知れず散った花びらが途切れ途切れに流れていく。
「あ、また」
かすれるような線を水面に描いていた花びらは、次第に薄い桃色を溶かし込むようにゆっくりと川面を覆っていく。
流れる花びらは互いに離れて、近づいて、また離れてを繰り返しながら、二人が佇む岸辺に寄り付くこともなく、いずれ運河を越えて手の届かないところに行ってしまう。
「春が、去くのね」
こてん、としのぶの身体がよりかかってくる。
「眠いのか」
「……いいですよ、そういうことにしておいてください」
しのぶの脚が水面を突いてぱしゃりと音を立てる。
「姉を亡くしてしばらくは、」
夢見るような口調で、しのぶは告げる。
「みんな、なかなか眠れなくて。夜になると悲しくなって泣き出してしまうんです。
そんな日は、一緒に川の字になって、手を繋いで眠ったんです」
「そうか」
「はい」
ふと、義勇は思い出す。
――そういえば、姉との思い出を話したのは、初めてだったのかもしれない。
幼い日々の記憶は、命尽きるまで抱えているだろう悔恨と怒りと隣合わせだ。だから義勇は過去をほとんど人に話すことはなかった。それを意図せず吐露していたことに自分の心の揺れを自覚する。同時に、しのぶが泣き出しそうな表情をした理由にようやく思い至った。
「だから、もし冨岡さんが泣いても、見なかったことにしてあげます」
からかうような口ぶりのくせに、東雲と同じ色した眼差しは痛みを堪えるかのごとく伏せられている。隠そうとしたところで、しのぶの透き通った瞳は義勇の波立つ心を見透かしてしまう。自分でさえ無かったことにしてしまいそうな、奥底の痛みでさえも。
すすり泣くような柳の葉擦れ。こちらを置いて手の届かないところに流れ行く花筏。
捨て置いたはずの無用の感傷が、今更になって義勇の心の一番深いところでしくしくと痛む。
不器用で、未熟なのだ、自分も、しのぶも。
分かち合うことのできない痛みと分かっていても、それを隠し通せるほど強くはなく、垣間見た傷跡に気づかぬふりをするほど孤独にもなれない。だから時折こうしてぎこちなく互いに寄り添う。
義勇は観念したかのように小さく嘆息して、ゆっくりとしのぶに体を預ける。
「……戯け」
「あら、残念」
軽口は、なだめるような色をまとっている。
隊服越しに触れる華奢な身体から分け与えられた熱が、ゆっくりと義勇を温める。強張った体から力が抜けて、冷たくて重たい水底から浮かび上がる。そうしてやっと自由に息ができたような気がした。
どれほどそうしていただろうか、葉音に隠れるように、密やかな調べが耳に届いた。義勇に凭れたまま、しのぶが小さく歌を紡いでいる。
どこか耳馴染みのある美しくも哀しげな旋律は、子守唄か、舟唄か。
歌声は、まどろむ妹たちに聞かせるような人肌の温もりをまとって、しのぶの小さな唇から生まれては義勇の形のいい耳を擽り、体中を巡って、一番深くをやさしく包み込む。
口ずさむしのぶの紫苑の髪は、吹く風に柔らかに揺れる。伏せられた面はふっくらと、娘らしい丸みを帯びて、朝ぼらけのなかふんわりと光るように白い。
「きれいだな」
ほろりと言葉がこぼれ落ちて、歌声が止んだ。
心地の良いそれが途切れたことを物足りなく感じていると、流れる花びらをちょんちょんと気まぐれにつついていた白い脚が、おずおずとお行儀よく畏まる。俯いた横顔の小さな耳は、夜明けの仄明かりにも分かるほど赤く染まって熟れた果実のようだ。
「……本当に、きれいな朝焼けですね」
「……ああ」
どこかほっとしたような、がっかりしたような気持ちを飲み込んで、義勇もまた掛け違えたまま応えてやる。
水面ばかりを見つめて朝日が見えるものか。人のことばかりとやかく言うが、しのぶも大概だと義勇は思う。
しのぶに向かう感情は複雑怪奇だ。触れずにずっと大事に取っておきたいような、すぐさま手の内に入れたいような。内側から侵食するような熱を孕んだ感情をぴったりと収められる言葉を、義勇は長い間見つけられずにいる。
空が群青の向こうにまっさらな一日の始まりを連れてきた。水面を染めていた薄桃色はもう運河の遥か向こうに過ぎ去って、今は穏やかな波間に陽の光がちらちらと小魚のように跳ねている。
もうすぐ渡し船が二人を迎えにくるはずだ。このままでは居られないのは分かっているが、心地の良い体温から離れがたくて義勇はまだ動けずにいる。しのぶもそれを咎めることをしない。
不器用な二人、言葉もなく寄り添って、温もりを分け合って。
遠くに、櫓を漕ぐ音が聞こえる。
それまでの間、もう少しだけ。