シサカハジメの目撃例えばそれは、前に歩いている人の鞄が開きっぱなしになっていることに気付いてしまった焦りに似ていた。
気付いていないのか。それともわざとなのか。
それが赤の他人であるのならはじめだってお節介を焼こうなんて気はしなかった。知らない人に声をかけるような社交性など持ち合わせていないからだ。
だが、それが兄であったから、はじめは大いに悩んだ。
兄と言っても知り合って一年くらいの男だ。砕けて話ができるほど仲が良いわけではない。
かといって、見過ごすこともできなかった。
このまま気付かないフリをして過ごしても、夜寝る前に『あの時声をかければ良かったかもなぁ』と後悔するくらいには良心が痛むだろう。
余計なお節介かもしれないが、一応声をかけた方が良いのかもしれない。悩んだ末、声をかけることにした。
「それ、隠した方が良いんじゃないの」
兄——、赤鹿大蔵は、何を言われているかわからない顔をした。
「……何を?」
たっぷり一拍おいて、へらりと笑った。
あぁ言葉を間違えたかも。はじめは後悔した。
赤ツ鹿に初めて訪れてから、ぐるりと季節が巡った。また暑い夏が訪れ、はじめは赤鹿駅へと降り立った。
迎えに来たのはタクシードライバーである兄の大蔵だ。相変わらず冷房の壊れた車に揺られ、他愛のない雑談を交わしながら、喫茶ニューヨークへとやってきた。
ここで弟の百々史と十四雄の二人を乗せて、丁呂介の待つ屋敷へと行く予定だ。
もう一人の兄、青戸唐次は急な取材が入って、今日の夜にならないとこちらには来られないらしい。だから先んじて四人で緑土邸へと向かう手筈となっていた。
十四雄が来るまで一休み、とテーブル席に向かい合わせに座り、百々史にアイスコーヒーを頼んだ。明るく返事をした百々史が厨房へと行ったところで、問題は起こった。
あついあつい、と汗を垂らした大蔵が、シャツのボタンを外しネクタイを緩めた。
そして、『それ』に気付いてしまった。
一度気付いてしまったら視線が逸らせられなくなった。はじめは目のやり場に困っていた。
焦り。困惑。懸念。葛藤。悩んだ末に声をかけた。人生であまり経験のない、余計なお節介をすることにしたのだ。
さて、喩えに鞄を持ち出したけれど、実際に大蔵の鞄が開きっぱなしになっていたわけではない。大蔵は手ぶらで鞄すら持っていなかった。唯一持っているものと言えば、だらしなく着崩したスーツのポケットに入っていた煙草くらいなものだ。
あくまでも感覚として似ていた、というだけで。こういう事態に初めて遭遇した喩えとして合っていたかどうかはわからない。
というか一生遭遇したくなんてなかった。しかも実の兄の。兄だから指摘するが、兄だからこそ指摘なんてしたくなかった。
気付いていないのか。それともわざとなのか。もし気付いていないのだとしたら、早めに言っておいた方がいい。同じような気まずさを、弟に味わわせるわけにはいかない。
「その、首のやつ。隠した方が……いい、と、思いますケド……」
大蔵の首筋に赤い痕があった。右側の鎖骨と首の間にぽつんと一つ。
虫刺されとも違う『それ』はキスマークだった。
「首……あー……、うん」
気付いていないのか。それともわざとなのか。大蔵の口ぶりは、前者だと思った。言葉を濁しながら、シャツのボタンをとめる。それで終わると思っていた。
だが、大蔵は何もしなかった。
あちぃねー、とくしゃりと笑っただけ。変わらず、どっかりとソファに腰を下ろして、手で顔周りを仰ぐ。
喫茶ニューヨークには変わらず有線放送が流れていた。
いや。待て。おいおい。普通、隠すもんだろそういうのは。ってか隠せよ。何を堂々と見せつけてくるんだよ。わけがわからないんだけどこの人。
混乱する。汗がぶわりと吹き出た。暑さからじゃない。
「ねぇ!」
「うわあっ」
心臓が飛び出るかと思った。百々史がカウンターからこちらに声をかけたのだ。
「えっ、そんなにびっくりした?」
「お、大きい声だったから……」
「そんな理由? ねぇ、大蔵さん。コーヒーさ、アイス乗っける?」
「あ。頼める?」
「オッケー。すぐに持ってくね」
バクバクと心臓が鳴る。落ち着け、落ち着け、と心の中で繰り返す。
カウンターからの距離なら大蔵の『アレ』は見えない。だけど、このままコーヒーを持ってきたら気付いてしまうだろう。
それはマズイ。マズイよな?マズイはずなんだよ。百々史ならきっと、はじめと同調してくれるだろう。兄の色事の痕跡など見たくないに決まってる。
「あ、あのさ、百々史。おれ、アレ食べたい」
「アレ?」
「あの~~あれ、……ピザトースト」
「え~、作るのメンドクサイんだけど」
「ニューヨークに来たら絶対食べようって思ってて。これを楽しみに来たと言っても過言じゃないんだよねぇ。頼む、ぜひお願いしますっ」
「もう、そんなに言うなら仕方ないなぁ。ちょっと待ってね」
ふぅ、と息をつく。これで少し時間が稼げる。でも安心はできない。百々史は大丈夫でも、いつ十四雄が来るかわからない。その前にこれを何とかしないと。
はじめは気合いを入れた。変わらず見せつけてくる『それ』はボタンを外して前を緩めなければ見えないのだ。だから、上から三つ目まで開襟しているシャツのボタンを二つ目までにすれば良い。簡単だ。簡単……だよな?
「ねえ。シャツのボタン。せめてもう一つ留めたらどうですか」
「え~~あっついじゃん」
「シャツのボタン一つで変わらないと思いますけど」
「変わらないならこのままで良くない?」
「良くないから言ってんだよ。見えてるんですよ、首のやつが。気まずいから隠せって言ってんの」
「別に隠すもんじゃないけどぉ」
大蔵が口をとがらせた。これ見よがしにシャツのはだけた襟をひらりとさせる。
その背後で、百々史が動く影を目の端がとらえた。マズイ。こんな馬鹿みたいな問答をしている間に百々史が来てしまう。
焦るはじめを他所に、大蔵が頬杖をついた。掌に顎を乗せて、下からはじめを見上げた。
「……ってかさ。これが『そういうもの』だってわかるんだね、はじめちゃん?」
大蔵がにんまりと笑った。面白い玩具を見つけたと言わんばかりの、意地の悪い微笑み。
————揶揄われている。頭の奥がカッとなり、頬に朱がさす。
ふざけんな。喉から罵倒が出そうになった。
「お待たせ。先、コーヒー持ってきたよ」
お盆を持った百々史が、アイスコーヒーを二つ持ってきた。一つに大きなバニラアイスがのっている。ゆっくりと近づいて来る。あぁもうダメだ。
「あんがとねー」
大蔵がボタンを留めた。『それ』が隠れる。
「ピザトーストはもうちょっと待ってね。今焼いてるから」
「あ……ありがとう」
「いやあ、やっぱ暑い日のアイスはうまいねー!」
大蔵が無邪気にアイスにかぶりつく。ふふ、と百々史が笑って、厨房へと遠ざかった。
どっと体の力が抜けた。この僅かな時間になんだかとても疲れた。
アイスコーヒーをごくりと一口飲む。冷たい液体が喉を通っていくのが心地よい。
目の前でアイスを食べる大蔵をちらっと見る。まるで頑是無いこどものような顔だった。
毒気が抜けていく。この人に、一瞬でも本気で怒りを覚えた自分が馬鹿馬鹿しくなる。
視線を下に落とす。
シャツは相変わらずだらしないが、赤鹿大蔵の秘密はきちんと隠されていた。