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    【うつせみ】第三部、前編です。
    付き合うことになった藍湛と魏嬰のほのぼのした日常。
    前編では秋〜春手前までとなっています。

    うつせみ:第三部前編『いろつき』前編

    「よろしく、藍湛」
     そう云って差し出された魏嬰の手を握った私。
     付き合う、と決まってから魏嬰は一切の敬語を取り払って私に話し掛けてきた。それは記憶の中の魏嬰の喋り方と差異がない。
     ゲームを前提とした交際の軍配は果たしてどちらに上がるのか。
     魏嬰と付き合うことになってすぐ。校内は文化祭に向けての準備に忙しくなった。
     私のクラスは模擬店をやるといってその準備を着々と進めていたが、私は当日終始カメラマン役で校内を回って欲しいと顧問から頼まれていた為、クラスの催しの準備は最低限しか手伝わなかった。
     魏嬰のクラスはお化け屋敷をするそうだ。その準備姿を写真に残しておきたかったが、大勢の前でカメラを構えるのは性分ではない。それに、彼のクラスまで行って写真を撮っていたら、否が応でも目立ってしまう。それこそ性分ではない。
     携帯のチャットIDを交換しあった私たちだったが、そのチャット機能を使うことは余りなかった。と云うのも、放課後になれば魏嬰が頻繁に写真部の部室へと顔を出すようになったからだ。
    『今日はいけなさそう』
     そういった内容のチャットが昼休みないし放課後すぐに飛んでこない日はほぼ彼は部室に入り浸っていた。
     数人しか居ない部員ともすぐ打ち解けた彼の社交性は本当に遥か昔と変わらない。
     魏無羨は写真部の部員になるのか? と。そう問われる魏嬰はカラカラと笑い、決まってこう答えていた。
    「ちょっとカメラに興味が湧いただけだよ」
     と。さも一過性のものだと云うように。
     部員の居ない部室で、魏嬰は過去の先輩たちが残していったアルバムを見るでもなく見ていた。
    「写真部って何気に活動してるんだ」
    「行事の時は、一応」
    「ふぅん」
     ぺらり、アルバムを捲る手は緩慢。
    「この写真、デジカメの?」
    「概ねそうだろう」
    「暗室ってフィルム写真の現像に使うんだろ?」
    「あぁ」
    「俺の写真があんなに貼ってあったってことは、暗室を使うのは藍湛だけ?」
    「……そうだ」
    「このデジカメの時代に、何で藍湛はフィルムカメラなんだ?」
     魏嬰からの質問の嵐に、私はひとつひとつ丁寧に答えていく。
    「幼い頃から慣れ親しんでいたから」
     仄暗い暗室が落ち着く場所なのだとは付け足さないでおく。
    「藍湛はカメラマンになりたいの?」
    「そういうつもりはない」
     けれども後にそうなることはあるかも知れない。実家の写真館を存続させるのであれば、私は恐らく写真館のカメラマンとして働かなければならなくなるだろう。さして撮りたいとも思わない人物像を撮るのは余り気の進む話ではないが。
     文化祭で私は魏嬰の写真を自分のカメラに収めることはなかった。自分のカメラには自然体の魏嬰だけを収めておきたかった。幾ら付き合うということになってもその気持ちは変わらず、フィルムカメラには魏嬰の視線がこちらに向いていない写真ばかりを残している。
     交際を始めて一ヶ月と少しが経った頃だろうか。魏嬰は私が暗室に篭ろうとするその背中を追って来た。
    「写真の現像ってどうやるのか知りたい」
     興味本位で投げ掛けられた台詞に拒絶を唱える理由もなく、私は扉をしっかりと閉めるようにとだけ告げた。
     私が現像をしている間、魏嬰は静かに私の背後に立っていた。
     時折手元を覗くものの、声は一言も発さない。ひとつの音ですら、まるで現像の過程の邪魔になるのではないかと考えているような雰囲気だった。
     ひと通り現像作業を終えるなり、魏嬰は電池を新しくした玩具のように喋り出した。
    「フィルムの現像って想像以上に面倒臭いな!」
     決まった分量の薬液に浸したり、時間を細かく測ったり。細かい作業は出来ないことはないし嫌いでもないけど、時間管理をしなきゃいけないのは面倒臭い、と魏嬰は肩を竦めた。
    「でもカメラを教えて欲しいっていうのは嘘じゃないよ」
     何かもっと簡単なのないの?
     暗室を出ながら肩越しに振り向かれて、それならと机を指差す。
    「デジタルカメラが良いのでは?」
    「ん〜……デジカメも、撮ったらパソコンに取り込まなきゃならないだろ?」
    「新しいものは簡単に携帯に移すことも出来る」
    「けど、携帯に入れたら情緒がなくなる気がする」
     一丁前な反論に思わず溜息。
     デジタルカメラ以上に簡単なカメラと云えば、ポラロイドカメラくらいだ。
    「魏嬰」
    「うん?」
    「お前の誕生日は今月末だと云っていたな?」
     先日「俺の誕生日、もうすぐなんだ」と、さも誕生日プレゼントを強請るような主張をされていたことを思い出してそう問う。
    「それがどうした?」
    「明日の予定は」
     明日は土曜日。学校は休みだ。
    「何もないけど……何? デートのお誘い?」
     まさか藍湛から先にデートの誘いを掛けられるなんて思わなかった、と嘯く魏嬰はこの先自分から私をデートに誘う気はあったのだろうか。
    「嫌ならば無理にとは云わない」
    「嫌だなんて云う訳ないだろ。良いよ。どこへ行く?」
    「繁華街の大型家電量販店に」
    「電気屋?」
     何で? と首を傾げる魏嬰に、それは明日すぐに判ると返して、私は暗室の鍵を閉めた。
     部室を出て鍵を顧問に返し、下駄箱に向かう。学年違いで下駄箱の位置は違うから。靴を履き替えたら校門で待ち合わせるのが常だ。
     魏嬰との帰路は最寄り駅までの徒歩二十分程。同じ駅を使ってはいるが、家の方向は逆だった。
    「暗くなるの早くなってきたな」
     空を見上げながらぽつりと呟く魏嬰に、そうだな、と返す。
    「陽が暮れるのが早くなると、勿体ない気分にならないか?」
     流れてきた視線に、何故? と首を傾げる。
    「何か、活動時間が短くなる気がする」
     早く帰らなきゃって気分にならないか? と笑う魏嬰に、私はうんともいやともつかない表情を浮かべた。
     陽が長ければ夕景を。
     陽が短ければ夜空を。
     各季節に合わせた楽しみ方をしていた私に、活動時間が短くなる気がする、という感覚はなかった。
     駅に着いて、改札をくぐる。
     少し広めの構内で明日の待ち合わせ時間を再度確認し、別々のホームへと足を伸ばす。
     階段を上がり反対側のホームを見れば、向かいで手を振る魏嬰の姿。その姿は静かに滑り込んできた電車によって遮られる。
     翌日に私が何をしようとしているのか、魏嬰には想像出来ないだろう。
     
     ※
     
     常に十分前行動を心掛けている俺は、あの電車に乗れば時間通りに着く、という電車の一本前の電車に乗り込んだ。土曜日だからか、満員ではないけれども上りの電車は少し人が多い。
     座る席は空いていなかったから、降りる駅まで殆ど開くことのないドアに肩をくっつけて見るとはなし、流れていく風景を眺めていた。
     藍湛からデートの誘いを受けたのは少し意外だった。まだほんの僅かにしか関わっていないけれども、藍湛が朴訥な人間なのだとはすぐに知れたこと。物凄く奥手そうなのに、誘い方は不器用ではなかった。
     俺は「誰かを好きになることはない」と確信を持って云える。とはいえ、その確信がどこからやってくるものなのかは実のところ曖昧なのだけれど。
     恋愛感情で誰かを好きになることはない。それは俺の世界の端をほんのちょっぴりだけ色褪せさせていた。
     俺はその褪せた色を鮮明にしてくれる誰かを探している。
     藍湛にそれを期待している訳ではないけれど、彼の俺に対する執着はどこか病的ささえ感じて、逆に興味をそそられた。同性だから云々、なんてことは些事に過ぎない。異性だろうが同性だろうが、好きなものは好きだろうし、嫌いなものは嫌いだ。異性愛に拘るのは昨今ナンセンスだ。人間が人間を好きになる。そこに性別なんて関係ないと思っているからだ。
     ストーカーに「俺と付き合いたいの?」なんて問い掛けは愚問だと知りつつも敢えて確認したのは、藍湛が俺を見詰めてくるその眼差しが余りにも真っ直ぐだったからだ。
     何となく。俺の漠然としたものを明確にしてくれるような、そんな期待を抱いてしまったから俺はゲームと称して藍湛と付き合うことにした。
     そうすることで、この関係はあくまで希薄なものなのだと藍湛にも、自分にも云い聞かせておきたかった。予防線を張ることもゲームの勝敗に関わってくる。
     ただ、藍湛に告げた「探し物を手伝って欲しい」というのは嘘じゃない。病的なまでに俺に視線を注いでくる藍湛だからこそ、俺が探しているものを見付けるのに役立つかも知れないと思ったからだ。そのことも明言している。
     人によっては腹を立てられても仕方がないのに、藍湛は嫌な顔ひとつ見せなかった。だから、利用させてもらうことにした。
     打算的な関わり方だというのに、藍湛と出掛ける。ただそれだけのことに何だかそわそわしてしまう。
     誰かと付き合うのは初めてじゃないのに、デート前に気持ちがどことなし落ち着かないのは初めてだった。
     待ち合わせ場所に向かっていたら、数メート先にもう藍湛の姿があった。
     駆け寄って、早いなと肩を叩いたら、藍湛は「お前こそ」と嫌味なく目を細めた。
     制服のブレザー姿でなくとも、藍湛はボタンを一番上まで止めたワイシャツにチノパン姿。俺みたいにスキニージーンズとオーバーサイズのパーカー、まではいかなくても、もう少し楽な格好をすれば良いのに……と思う反面、藍湛らしいか、とも思う。
     藍湛が先導するように俺の一歩先を行く。手を繋ぐ気はないのだろうか? なんてぼんやり思う。いやでも優等生ちゃんだから、人の目を憚っているだけかも知れない。
     堂々と俺のことを好きだという態度を取ってはいても、世間体を気にしている可能性はある。
     そうして連れて行かれたのは家電量販店のカメラコーナーだった。
    「藍湛、カメラ持ってるじゃん」
     何の用があるんだよと首を傾げたら、私のではないと藍湛。
     藍湛のものではないとしたら、俺の……? でも何で?
     キョトンとしていたら、藍湛は目当てのブースを見付けたのか、足を止めてサンプルとして置いてあるカメラを幾つか触った。
     隣に並んだら、コードの繋がったカメラのひとつを持たされた。普通のデジカメより一回り程大きい?ボディ自体は黒い細かなクロコ柄で、要所要所頑丈であって欲しい場所はシルバーだ。少しレトロな玩具感がなくもない。
    「どうだ?」
    「どうだ、って? 何が?」
    「手に馴染むか」
    「あー、うん。まあまあ軽いし、子供でも使えそう」
    「ならそれにしよう」
     一人で小さく頷いた藍湛は、近くに居た店員へ俺に持たせたカメラを所望し、ついでにと壁面に幾つもぶら下がっている緑の箱をひとつ手に取った。
     そうしてさっさと会計を済ませた藍湛は、英字がずらりと並ぶクラフト紙の袋を俺に突き出してきた。
    「なに?」
    「お前のカメラだ」
    「……は?」
     唐突にカメラなんて物を買ってもらう理由がないんだが? 値札を見てはきていないが、安い買い物ではないだろう。養われている身として他人に贈るものではないと思う。
     けれども藍湛は頑なに腕を引っ込めなかった。
    「誕生日プレゼントとして」
    「え、あ、あぁ……けど、」
    「金額なら気にするな。自分で稼いだ金だ」
    「へ?」
     藍湛バイトしてんの? でも放課後に早く帰ることはないじゃないか。俺の疑問を汲むよう、藍湛は俺の手に強引に紙袋を握らせて「家で」と短く答えた。
    「家の仕事の手伝いをしている。キチンとした仕事だ」
     藍湛の家、と云えば確か写真館って云ってたっけ。
    「撮影の手伝い?」
    「それもたまにはあるが、主にはフィルムの現像を」
     それを聞いて、俺は思わず吹き出してしまった。
    「家でも学校でも暗室に篭ってるのか? ある意味不健全だぞ」
     肩を揺らしてから、じゃあと紙袋を顔の高さに持ち上げる。
    「有難く頂戴します」
     芝居掛かった仕草はスルーされた。
    「じゃあ」
     要件は終わった、とばかりに藍湛は来た道を帰ろうとするものだから、いやいやいやと彼の腕を引く。
    「藍湛、デートだろ?」
    「恋人同士、二人で出掛けるという意味では」
     間違ってはいない。間違ってはいないが。
    「電気屋行ってはいバイバイ、じゃ色気が無さ過ぎるだろ」
    「…………」
    「お前、俺のこと好きなんだよな?」
    「そうだが」
     間髪入れない返事に、盛大な溜息。
    「じゃあ少しでも長く一緒に居たいとか思わない訳?」
     じとりと藍湛を見たら、彼は淡い困惑色。
    「……思う、が……」
     そこで言葉を切った藍湛は横に視線を流し、口許に手を遣った。
    「……どうすれば、一緒に居る理由が出来るのかが判らない……」
     小さな声に、俺は思わず大きく肩を落としてしまった。前言撤回だ。藍湛は不器用だ。不器用過ぎる。写真の現像に関しては物凄く器用なのに、人間的には馬鹿みたいに不器用だ。
    「藍湛」
    「何だ?」
    「折角カメラを買ってもらったけど、肝心な使い方が判らない」
     ちゃんと使い方を教えてくれよ。
     やれやれ、とこちらから一緒に居る理由を作ってやれば、藍湛は「その手があったか」と云わんばかりに軽く目を大きくしてこくんと頷いた。
    「どこが良い?」
    「適当なカフェとかで一息吐きながら教えてよ」
    「判った」
     もう一度頷いて、藍湛は近場のチェーン経営のカフェに俺を引き連れた。
    「このカメラ、デジカメじゃないのか?」
     カフェの隅っこ。買ってもらったばかりのカメラを箱から取り出しながら首を傾げる。
    「違う」
    「どう?」
    「シャッターを切ったらすぐに写真がプリントされて出てくる」
     そう云って、藍湛は説明書も読まずにカメラの裏蓋を開けて、緑の箱から出した紙……恐らくは写真紙? をセットすると、コーヒーと一緒に頼んだタルトを被写体にシャッターを切った。
     ジーッと音を立てて側面からテカリのある紙が出てくる。
    「真っ白じゃん」
    「少し待てば浮かんでくる」
     真っ白な紙は、確かに十秒程したら次第に色が着いてきて、一分も経たない内にはっきりとした像を結んだ。
    「へぇ、凄いな」
    「これなら扱いは簡単だし、お前の云う情緒、というものも多少なり感じられるのでは?」
    「あぁ、うん。ホントだ。これは面白そう」
     藍湛からカメラを受け取り、すぐさまパッとシャッターを切る。
    「魏嬰……!」
     窘めるような悲鳴にくすくすと笑う。俺が自分のカメラで初めて撮った写真は、藍湛の無表情に近い柔らかな笑顔だった。
     
     ※
     
     誕生日プレゼントと称して渡したポラロイドカメラを、どうやら魏嬰は気に入ってくれたらしい。
     私が景色を撮りに行く時手持ち無沙汰にしていた魏嬰は、私と同じようにカメラを構えるようになった。
     シャッターを切ることに夢中になると、私は外界の変化に疎くなる。その所為で、私はしばしば魏嬰の被写体にされていた。
    「魏嬰、人の写真を勝手に撮るな」
    「藍湛、それ特大ブーメランだぞ」
     どれだけ俺を隠し撮りして来たと思っているんだよお前は。
     口端を上げる魏嬰に、私は決まり悪く視線を斜め下に落とすしか出来なかった。
     それにしても、と。魏嬰は私が現像したばかりの写真を数枚両手で扇状に広げる。
    「藍湛、長年カメラ触ってるみたいだけど、下手くそじゃないか?」
     いつだってぼやけた風景しか現像されてこない写真のことを指摘され、何と返そうかと迷う。
    「私の世界だから、だろう」
    「藍湛の世界?」
    「私の世界では、魏嬰しか鮮明に写らない」
    「…………」
     私の台詞に魏嬰は大きく天井を仰いでからジト目で私を見詰めてきた。
    「そういうの、迂闊に女子に云わない方が良いぞ」
    「元より、魏嬰にしか云うつもりはない」
    「……それは喜ぶとこで良いのか、悪いのか……」
    「どちらでも。お前に任せる」
     ここは喜んでもらいたいところだが、今の彼に強要は出来ない。
     紅葉を撮り終わったかと思えば、街はすぐにイルミネーションで飾られる。
     夜間、意味もなく外出することは叔父に禁じられているから、そのイルミネーションをフィルムに収めるタイミングは学校からの帰り道しかない。それも、帰宅が遅くなり過ぎない時間帯で、だ。
     所謂恋人が出来た、ということは家族に伝えてはいない。最近休日の外出が増えたのでは? と兄に指摘された時には「後輩が写真を教わりたいと云うので」と返しておいた。実際、嘘ではない。
     魏嬰と休日に会う約束を取り付けるのは私からが殆どだった。まぁ、そのキッカケは魏嬰が作ったのだが。
    「付き合いたいって云ったのは藍湛なのに、デートに誘ってこないのってどうなんだよ」
     わざとらしくむくれたような声に、私は数瞬考え込んだ。
     記憶の中では魏嬰が私をあちこちに引き連れていたから、自分から魏嬰を誘い出すということが少なかった。
     しかし確かに、魏嬰から付き合ってくれと云ってきたのではない。その上、私は彼から挑戦状を叩き付けられている。彼曰くのゲームに勝たなければならないのだ。
     彼が正体不明の誰かに懸想し続けている対象は恐らく私なのだという確信が怠慢を招いていた。
     そうだ。現代では私が主導権を握らなければ彼の記憶を呼び起こす機会も減ってしまう。
     それに気付いた私は、過去の魏嬰の性分を思い出しながら彼のことをデートに誘うようになったのだ。
     魏嬰の好奇心の旺盛さは今も昔も同じなようで。少し珍しい催しを探して話を持ち掛ければ、彼はひとつ返事で私との約束に応じた。
    「なぁ、藍湛」
    「どうした?」
    「藍湛、いっつも面白い所連れてってくれるけど、あーゆー情報ってどこで探してんの?」
     ある日暗室から出た私に投げられた台詞。特段探し回っている訳ではない。写真雑誌で組まれているイベント情報の中から近場を見繕っているだけなのだ。
    「実はイベント事に敏感なタイプ?」
    「さぁ……どうだろうか」
    「もーすぐクリスマスだけど」
    「クリスマスがどうかしたか?」
     私の受け答えに、魏嬰は「えーっ?」と大袈裟に叫んだ。
    「クリスマスと云えば、カップルにとっての大イベントトップスリーに入るだろっ?」
    「……あぁ、そうか……」
     クリスマスというイベントは認識していても、その日に特別何かをするという習慣のない家だったから、私は恋人と甘い時間を過ごす為には欠かすことの出来ないイベントだということをすっかり失念していた。
    「あぁ、そうか……って……藍湛、本当に俺のこと好きなの?」
     額を抑えてからジト目で私を見てくる魏嬰に、そこはしっかりと頷く。
    「勿論だ」
    「なら、」
    「けれども、」
     魏嬰の反論を遮り、私は彼の隣のパイプ椅子を引く。
    「特別なイベントを楽しまずとも、こうして一緒に居られる時間を須く尊いものだと感じるだけでは足りないか……?」
     そっと。拒絶されないかを恐れながら魏嬰の頬に手を伸ばす。触れた体温。接触を嫌がられはしなかった。
    「……藍湛……」
     はぁ、と大きな溜息を吐いて、私が添えた手に手を重ねてくる魏嬰。
    「お前、自分がめちゃくちゃ気障ったらしい台詞吐いてる自覚ある?」
    「……気障ったらしい?」
    「あー、そうだよな。そうだ。この数ヶ月で知ったことだった。藍湛は無自覚タラシだってことを」
     また溜息を吐いて、魏嬰は重ねてきた手の指を少しだけ折り曲げた。
    「藍湛は、好きだと思った奴には皆にそういうこと云うのか?」
    「皆に? 喩えば……?」
    「一緒に過ごす時間が尊い、とか」
     そういうことを誰にでも云うのかと眉を寄せられ、まさかと緩く首を左右に振る。
    「お前にだけだ。こんなことを云うのは」
     後にも先にも。お前にしか云わない。親指を滑らせて魏嬰の唇をやんわりと撫でたら、彼は猫のように目を細めた。
     そうしてからゆっくりと目を開いて私のことをまじまじと覗き込んできた。
    「後にも先にも、は大袈裟じゃないか?」
     淡い苦笑に、そんなことはないと唱えた反論は口の中で噛み潰す。それを伝えたところで、今の魏嬰には響くものなどないだろうから。
    「とにかく。短い時間であっても、私はお前と過ごす時間があるだけで幸せだ」
     そう。それだけで幸せなのだ。
     だから、魏嬰にもそう思って欲しい。しかしそうする為には、もっと積極的な行動が必要なのかも知れない、とも思い始める。
    「魏嬰」
     絡んだ指先を解いたその手で魏嬰の顎先を捉える。
    「嫌だったら突き放してくれ」
     吐息でそう呟いて。私は夕陽が射し込む部屋で長い影を重ねた。
     ゆっくりと顔を離せば、目に映ったのは驚いたような表情だった。
     目を丸くしてキョトンとしている魏嬰は、あ、と短く声を発してから、やんわりと私の胸を押した。拒絶を示す力加減ではなかった。
     口許を腕で覆った魏嬰が顔を逸らす。その耳の端がほんのり色付いて見えたのは気の所為だろうか。
    「らん、じゃん……」
    「何だ?」
    「……ファーストキス……」
    「ファーストキス?」
    「俺の、初めて……奪われた……」
    「…………」
     今度は私の方がキョトンとしてしまう。以前、魏嬰は他にも数人と交際をしたことがあると云っていた。だから、まさか私が初めての相手だとは思いもよらなかった。
    「本当に?」
     思わず問えば、魏嬰の頭が縦に揺れる。
    「藍湛、は……」
     したことあったのかよ。まるで呻くような声にふっと微笑して、いや、と魏嬰の腕を掴む。
     口許から腕を引き剥がし、また顔を寄せる。
    「私はお前しか知らない」
     それこそ後にも先にも、と。僅かに首を傾け、私はまた柔らかな体温を捉えた。
     現世でも昔と変わらず互いしか知らないのだと知ったら、胸の奥が大きく弾んだ。
    「……藍湛っ、帰ろ!」
     居た堪れなくなったのか、私が静かに顔を引いたのと同時に勢いよく立ち上がった魏嬰。
     バッとリュックを肩に引っ掛けた魏嬰は大股で扉の前に立ち、顔を顰めて私を睨んだ。
    「ほらっ、一緒の時間が欲しいんだろっ!」
     早く帰るぞ、と伸びてきた手は私の後続を待つもので。あぁ、と小さく頷いた私は鞄の取っ手を掴み、魏嬰が伸ばす手を取った。
    「魏嬰、好きだ……」
     彼がノブを回し切る前に背後から耳裏に囁いたら、ゴン、と肩に魏嬰の後頭部が当たった。
     その仕草は彼が照れているのを隠したがる時の仕草。
    「行くぞっ」
     ぐい、とノブを引いた魏嬰だったが、廊下に出ても私が握った手を振り払うことはしなかった。
    「藍湛……」
     小さく、低い声。何か、と問うより先に魏嬰は首を何度か横に振った。
    「何でもない」
     ほら早く行くぞ。顔を逸らし、そう繰り返した魏嬰を特別訝しまなかった私は少々愚鈍だった。
     クリスマスイヴは二学期の終業式。午前も半ばで解散したHR。今日は暗室に用はないものの、いつもの癖で教員室に足を運べば、中から鍵のじゃらつく音を立てながら一人の生徒が出て来た。
    「魏嬰」
    「あ、藍湛……」
     パッと鍵を握った魏嬰が、くるりと踵を返す。
    「魏嬰?」
    「鍵、返してくる」
     部室に用はないのか、と背中に問うたら、用は今済んだと魏嬰。
     肩越しに振り返った顔はどこか不服そう。
    「藍湛に会う為に鍵借りただけだし」
     どうして全部云わせるんだとばかりの魏嬰に、胸の隅が躍る。
     記憶を取り戻していなくても、今の魏嬰が「写真を教えて欲しい」という建前なしに私と時間を共にしようと思ってくれるようになったのか、と思ったからだ。
    「藍湛、いつもの帰宅時間は過ぎれないんだろ?」
    「……そうだな」
    「なら、時間ギリギリまでデート」
     暗に二人きりで居たいという意思表示が私を舞い上がらせた。
    「どこで時間を?」
    「カラオケ」
    「カラオケ?」
    「持ち込み可で、学割フリータイムワンコイン……は、クリスマス価格で今日は無理かも知れないけど……っ、人目気にしないで一緒に居れるから……」
     満室になる前に早く学校出てケーキとチキン買ってカラオケ!
     短く叫び、魏嬰は借りたばかりの鍵を返却しに行った。
     そうして魏嬰が望んだ通り、コンビニでピースのケーキと骨なしチキン、それと炭酸ジュースを買って、カラオケボックスに飛び込んだ。
     後ろに居た、矢張り私たちと同じようなことを考えていた様子の学生が入店を断られていたから、幸運だった。
     個室に閉じ篭って、テーブルの上に買ってきたものを広げる。
     冷めない内にとまず口にしたのは骨なしチキン。
     味違いで買ったケーキは半分ずつ。
     正直味はよく判らなかった。
     『部活動』という建前なしに初めて魏嬰の方から自発的に求められた時間が嬉し過ぎて、いっそ現実味に欠けているような気がしたからだ。
     クリスマスメニューを平らげた後でもマイクを握ることはなかった。二人、何を話すでもなく隣り合って座って腕時計が奏でるの秒針の音を聞いていた。
    「……藍湛」
     たっぷり時間を費やしてからぽつりと呼ばれた名前。
     何だ、と横顔を覗き込んだら、ゆるりと魏嬰の顔がこちらを向く。
    「……何か、したいこと、ないの」
    「したいこと?」
    「防音の密室で二人っきり」
     何かしたいことはないのかと再度問われて、ふむと口許に手を遣る。
    「魏嬰は、何かしたいことがあるのか?」
     特別自分からしたいことが見付からず、同じ問いを返したらスニーカーで革靴を思い切り踏まれた。
    「健全かよ!」
     まるで文句のようなそれは、けれどもどこか安心したような響きで。
    「眠い!」
     ず、と一人分尻をずらした魏嬰が重力に従順になって私の膝の上に倒れてきた。
    「寝る」
    「え、」
    「寝顔、撮っても怒らないぞ」
     ふっ、と一瞬だけしたり顔をした魏嬰は腕を組んでそのまま目を閉じてしまった。
    「…………」
     無防備な魏嬰をどうこうしようとは欠片さえ思わなかった私は、確かに健全過ぎていっそ不健全だったかも知れない。
     けれども、これ以上の欲はまだ湧いていなかったのだ。正しくは、しまいこんで忘れた振りをしていたのだろう。欲張って拒絶されるのが怖かったし、これ以上の関係はきちんと互いの想いが交差し合わなければいけないと、無意識がそう判断したのだと思う。
     キスくらいは、しておけば良かったとその夜後悔はしたけれど。
     
     ※
     
    『おはよー藍湛。年越しはどーすんの?』
     冬休み。藍湛からの連絡は少なかった。多分、話題を振るのが苦手なんだろう。藍湛はそういうタイプの人間なんだということは秋からの付き合いで何となく察していた。
     クリスマスはほんの少しだけ何かあるかな……と思ったが、藍湛はくそ真面目で、何にもなかった。まぁ、そういうところが案外嫌いではないのだけれど。
     クリスマスを終えた冬休みのイベントなんて、年越しと初詣くらいだ。だけど、藍湛が年越しを一緒に過ごそうと云ってくる可能性は極めて低いと思っていた。それでも一応付き合ってはいるのだから、と投げてみた質問。
     さして間を置かず、携帯が震えた。
    『年越しは家族で』
    『だと思った』
     予想通りの答えに落胆などは感じない。
    『藍湛、ご来光撮りに行く?』
    『ああ』
    『じゃあ俺も連れて行って』
    『構わないが』
     朝早いぞ、と。とうに俺の朝の弱さを知っている藍湛のメッセージに一人で笑ってしまう。
    『徹夜するよ』
     寝なければ遅刻しないと打ち込んで、オッケーを示すスタンプを送ったら、待ち合わせ場所と時間が返ってきた。
     大晦日から元旦に掛けては間引かれているものの、電車は動いている。
     年明けの瞬間に『あけおめ!』とメッセージを送ってみたが、返信はなかった。まさか寝ているのか? 年越しに? どれだけ規則正しい生活をしているんだ、藍湛の家は。
     少しの呆れと苦笑を滲ませて、俺は深夜の歌番組を見ながら時間を潰した。頃合いを見計って家を出る。ご来光を見に行くんだと前々から宣言していたから、両親は特別何も云わなかった。各駅停車ののんびりした電車に乗って目的地を目指す。
     待ち合わせ場所には既に藍湛の姿があった。首には安定のフィルムカメラをぶら下げている。
    「藍湛、俺のあけおめメッセ見た?」
    「あぁ、明けましておめでとう」
     畏まった挨拶は藍湛らしい。
    「あの時間、寝てた?」
    「寝ていた」
    「大晦日って夜更かしするもんじゃないか?」
    「我が家は普段の生活とほぼ変わらない」
    「へぇ……」
     本当に寝ていたのか……。らしいと云えばらしいが、夜更かしの楽しみ方も知れば良いのに。
    「行くぞ」
     そう云ってさっさと歩き出す藍湛。勿論手を繋ぐこともなく。新年早々、甘さも何もあったもんじゃない。
     ダッフルコートのポケットにはポラロイドカメラを忍ばせて来ている。
     初っから写真を撮ることを目的としている藍湛と一緒に出掛けるのだから、欠いてはいけないアイテムだと思ったからだ。
     駅から歩くこと三十分程。サイクリングロードが伸びる土手に上がれば、同じことを考えているのであろう人たちが沢山居た。
     じいっと東の空を見詰める。
     黒い空が次第に濃い青色へと変化しだし、薄明るくなってくる。
     そっと、藍湛がカメラを構えた。それに倣うよう、俺もポケットから取り出したカメラを構える。
     燃えるような橙が川の水面から顔を出し始める、その瞬間から藍湛は人を寄せ付けない空気を纏って、シャッターを切り始めた。
     そんな藍湛を横目で見ながら俺もシャッターを切った。
     ジーッと音を立てて出てきた写真紙。それをパタパタと振って目の上に翳す。
     白んだ薄水色の下に、濃い橙の半円がほんの少し揺らいで写っていた。
     また藍湛を横目に見て、彼はどんな写真をフィルムに収めているのだろうかとぼんやり思う。
     だって、藍湛の撮る景色はいつだってぼやけているのだから。俺の姿だけ鮮明に写す藍湛はある意味凄いと思う。もう一種の才能ではなかろうか。
     すっかり陽が昇ると、カメラを構えていた人たちはまばらに散り始めた。
     藍湛もカメラを下ろし、俺を見る。
    「魏嬰、この後の予定は?」
    「何もないけど」
    「なら、このまま初詣に行かないか」
     問うというよりはもう決定事項のような云い方に、俺は思わず笑ってしまう。
    「何故笑う?」
    「だって、藍湛、俺が断らないって確信してるみたいな云い方するから」
    「……都合が悪いなら構わない」
     ふいと決まり悪そうに顔を逸らした藍湛の手首を掴んでにこりと笑う。
    「良いよ、行こう。初詣行く予定なかったし」
     それは事実。俺は色んなグループに適度に顔を出しては引っ込める程度の付き合いしかしていなから、ピンポイントでどこかのグループから誘いがくることは意外とない。
     だから、クリスマスも藍湛と過ごしたのだが。
     どこに行く? と手首を離したら、藍湛は腕を組んでから片手を口許に遣った。
    「学校の近くではない方が良いだろうか」
    「ん? あぁ、そう云えば駅の近くに大きな神社あるもんな」
     何か由緒正しい神社なんだっけ?
     首を傾ければ、藍湛はこくんと頷いた。
    「なら、折角だからそこ行こう。近辺のことも判るから迷うこともないし」
     そうしようと笑って見せれば、藍湛はまた頷いて俺を引き連れ土手を下りた。
     一回乗り換えて目的地まで二十分程。加えて駅から十分くらい歩いたら、人混みとぶつかった。
    「うっわー、凄い人」
     俺いっつも地元の小さいとこしか行かないからこんな大きいとこ来たの初めてだ。
     ほう、と息を吐いたら、人混みは苦手かと問われた。
    「いや、寧ろ藍湛の方が苦手なんじゃないか?」
     背中を丸めて下から藍湛を見上げたら、まあ得意ではないなと呟くものだからつい肩を揺らしてしまう。
    「けれど、一度くらいは参拝しておきたいと思っていた」
    「なら平日にすれば良いじゃないか」
    「初詣の方が験担ぎになりそうかと」
    「へぇ、藍湛、験担ぎとかするんだ」
     意外だな、とまた肩を揺らしたら、藍湛は何も云わずに俺の手に手指を絡ませてきた。
    「えっ、藍湛っ?」
    「……はぐれないよう」
    「…………」
    「付き合っているのだから、構わないだろう」
     そう云われて何だか藍湛のことがよく判らなくなる。鈍くて奥手かと思えば、こんな風に突然積極的な面も見せてくる。二面性にも程がある。
     まぁでも確かに付き合ってはいるのだし。解く理由もなく、俺は藍湛の好きにさせた。
     賽銭箱の前まで辿り着くのには軽く一時間以上掛かった。
     するりと解けた藍湛の指。財布を取り出して小銭を漁ってから十円玉と五円玉を手の中に握る彼。
    「何で十五円?」
    「充分にご縁があるように、と」
     我が家では普通だと云う藍湛にへぇと返して、なら俺は……と財布の中身を改める。
    「あー、五十玉しかないや」
     でもこれもある意味充分に縁があるように、とも取れるよな。そう思わないか? と藍湛の横顔を見たら、視線だけが肯定を示してきた。
     二礼二拍手一礼。神社のお参りのルールに従って手を合わせた俺の願い事は簡単だ。家内安全と、
    (今年こそ、謎が解決しますように)
     そのふたつだけ。
     藍湛と居るとどこか安心するな気持ちになるのと同時に、胸の奥がざわつくような感覚もある。
     誰かと付き合ってこんな風になるのは初めてだ。
     だから、俺の抱える謎を藍湛が解いてくれるんじゃないかと思って交際を続けている訳で。
     この時間が無駄にならなければ良いな、と切に思う。
     
     ※
     
     年が明けると街のイルミネーションは少しばかり色を変える。
     理由はバレンタインデーが近くなるから。ハート型のオブジェが増え、赤やピンクの色味が多く街を彩るようになるのだ。
     まだまだ夜は長い季節。明確な門限はないにしろ、余り帰りが遅くなると良い顔をされないものだから、ある意味冬は好きだ。自分が冬生まれだから、というのもあるかも知れない。
     とは云え自分の誕生日に固執したことはほぼないのだけれど。
     強いて云えば、母親が健在の頃に作ってくれたケーキが好きだったから、誕生日が近くなるとソワソワしていたとかその程度で。
     兄は毎年何かしら誕生日プレゼントを用意してくれたが、叔父は一言「誕生日おめでとう」と声を掛けてくれるくらいだ。
     それでも、祝われないよりはずっとマシだとは思うが。
     魏嬰には自分の誕生日を告げてはいない。訊かれていないから答えていない、というだけのことなのだが。
     数字がよっつ。綺麗に階段を上がったその日も魏嬰とは普段通りに部室で放課後の時間を共にしていた。
    「なぁ、俺最初の頃より写真撮るの上手くなったと思わないか?」
     折角写真を撮っているのだから、スクラップブックにでも纏めたらどうか、という私の案を素直に飲んだ魏嬰は、ポラロイドカメラで写した写真をコラージュしながらスクラップブックに収めていた。
     それを初期のページと最近のページとを交互に見せてくる魏嬰に、そうだなと世辞ではなく答える。
    「少なくとも、風景は藍湛より綺麗に撮れてると思う」
     悪戯な声音に否定はしない。
     私が撮る写真は私にしか撮れない世界だが、通常の感覚で云えば、いつまでもぼやけたままの風景しか撮れない私よりは、魏嬰の写真の方が上手いと多数が思うだろう。
     ポラロイドカメラを手の中で遊ぶ魏嬰は、ふと思い出したように私の顔を覗き込んだ。
    「そう云えば、藍湛の誕生日っていつ?」
     もう過ぎた? 俺カメラ買ってもらったのに、何もお返ししてないじゃん。
     そんな律儀な声に、何というタイミングだろうと思う。
     遥か昔、同じ遣り取りをした記憶がある。私が魏嬰に贈り物をした後で、私の誕生日当日にその日を聞いてきたのだ。当時は質の良い筆だとか、香だとかをもらっていた。
    「藍湛って誕生日早そうなイメージ。四月とか、五月とか」
    「……今日」
    「へ?」
    「……今日が、誕生日だ」
     ぽつりと呟けば、魏嬰は目を大きくして、マジ? と忙しなく瞬いた。
    「嘘を云う理由がない」
    「な、っんだよ! それなら早く云えよ!」
    「特別云う必要もないかと、」
    「いやいや、あのさ? クリスマスの時も云ったけど、恋人だったら相手の誕生日とか結構大事な日だろうが!」
     何で俺の方が恋愛のイロハをお前に教えてんだ、と嘆いて見せる魏嬰は、自分が他人を好きにならないと自称しているからだろう。
    「あーもう! 知ってたらちゃんとプレゼントとか考えたのに!」
     バン! と大きな音を立ててスクラップブックを閉じる魏嬰。
    「今から藍湛の誕生日プレゼント買いに行こ!」
    「別に構わない」
    「俺が構うんだよ!」
     まったく、と大きな溜息を吐き出してから、魏嬰は気怠げに頬杖をついた。
    「藍湛の欲しがりそうなものなんて判らない」
     何が欲しい? そう問われて、まさかお前だとは云えない。
    「特に何も」
     無難だと思った答えは魏嬰にとっては不正解だったらしい。そう云えばそうだった。魏嬰という男は望まれないことを望まない。
    「……ならば、」
     腕を伸ばし、魏嬰のネクタイを解く。
    「えっ、ちょっ、らんじゃっ?」
     慌てた声を無視して自分のネクタイも解く。そうして魏嬰のネクタイを自分の膝に。自分のネクタイを魏嬰に握らせる。
    「これで」
    「……そんなんで、良いの?」
     また忙しなく瞬きを繰り返す魏嬰に、あぁと頷く。魏嬰にとっては「そんなんで」かも知れないが、私にとっては充分だ。
     魏嬰の私物を自分が身に着ける。そして逆も然り。それは所有権の証のようで、下手な消耗品などを貰うよりずっと価値がある。
     昔で云うなれば、魏嬰の髪紐を私が。私の抹額を魏嬰が持ったようなものだ。
    「それで藍湛が良いなら、良いけど……」
     本当にそれだけで良いのか? 後で他に請求してきたりしないか?
     そう続ける魏嬰に、他には何も要らないと目を細めてから、いや、とひとつ首を振る。
    「何だ?」
    「写真を」
    「写真?」
    「お前のカメラで、ツーショットを撮って欲しい」
    「……携帯じゃなくて?」
    「そのポラロイドで」
     駄目か? と問うたら、魏嬰は小さく笑って「それならお易い御用」と私と肩を並べた。
     片腕を張ってシャッターを切った魏嬰。ジーッと音を立てて出てきた写真紙を私に向かって差し出してきた。
    「それはお前が」
    「は?」
     首を傾げる魏嬰の腕を引っ込めさせる。
    「お前に持っていて欲しい」
    「……何で? お前が欲しいんじゃないのか?」
    「魏嬰に持っていて欲しいから、魏嬰のカメラで、と」
    「…………はぁ」
     そう、と間の抜けた声にほんのり微笑する。
    「願わくば、そのスクラップブックの最後のページに」
     入れて欲しいと願ったら、魏嬰は「安い男だな、藍湛は」と肩を揺らした。
    「じゃあ、藍湛の云う通りに」
     最後のページにはこの写真を貼るよとスクラップブックに撮ったばかりの写真を挟んだ。
     互いにネクタイを結び直して腕時計を見る。そろそろ下校の時間だと顔を上げた私に、魏嬰はそんな時間か、と外を見てから大きく伸びをして立ち上がった。
    「外、寒いかな」
    「いつもよりは暖かいだろう」
    「何で判るんだ?」
     魏嬰の問いを、私は微苦笑でそっと払い落とした。
     魏嬰との大きな思い出がひとつ残ったからだ、とは恥ずかしくてとても口には出来ない。
     
     ※
     
     二月も一週間経つと校内全体が何となくソワソワしだす。
     理由なんて簡単だ。バレンタインデーが近付いてくるからだ。男子は自分が受け取ったチョコレートの数を競い合うし、女子はこそこそとチョコレートを渡す相手に声掛けするタイミングを狙う。
     俺にはまったくもってどうでもいいイベントだ。
     『好き』を押し付けられるイベントなんて、逆に迷惑だ。
     適当にばら撒かれる、明らかに義理だと判るチョコレートは適当に貰っておく。お返ししなくても文句を云われないし、お返しないの? とせがまれたら棒付きキャンディーでも配っておけば済む。
     改まって渡されるようなチョコレートは一切貰わない。呼び出しに応じることすらしない。僅かにでも期待を持たせるようなことはしたくないからだ。
     同級生と先輩から(自分で云うのも何だが、運動部の助っ人をあちこちでしているお陰で先輩からの評判も悪くない)の畏まった呼び出しから逃げるように写真部の部室に飛び込んだ。
     机の上に鞄はあるが、その持ち主が居ない。どうせまた暗室に篭っているのだろう。安定過ぎて逆に安心する。
     机の上に、義理の一口チョコをひとつひとつ積んでいく。
     七個積み上げたところでバランスが崩れてしまい、あーあ、とパイプ椅子の背凭れに背中を預ける。
     丁度十個貰ったチョコレートは殆ど柄が被っていない。人差し指でこれはこっち、これはあっち、と将棋みたいに机の上で滑らせる。
     そうして満足いく配置になったところで、ポラロイドカメラを取り出しシャッターを切る。
     一応、バレンタインの思い出にと。あと普通にバレンタイン限定の外装はデザイン性が高くて楽しい。
     ギィ、とスチールが音を立てて開いた。出て来たのは当然と藍湛に他ならない。
    「らーんじゃん」
    「何だ?」
    「チョコ、幾つ貰った?」
     にやにやと軽薄を装って問えば、藍湛は現像したばかりだと思しき写真を机に広げてパイプ椅子に腰を落とした。
    「貰っていない」
    「嘘だぁ」
    「嘘を吐く理由がない」
    「じゃあ義理は?」
    「義理も貰っていない」
     写真を選別している藍湛を見ながら、机にぺたりと頬をくっつける。
    「何で?」
    「期待を持たせるのは好ましくない」
    「ふぅん……」
    「魏嬰こそ、幾つも貰ってきたのでは?」
     横目に流れてきた視線に笑う。
    「貰ってないよ」
    「お前を好く女子は多いだろうに」
    「だって期待させるのは良くないだろう?」
     同じ理由だと肩を揺すり、それにと机に散らかしたチョコレートをひとつ藍湛の方へと滑らせる。
    「藍湛が居るのに、貰うのは不義理だろ?」
     くすくすと笑ったら、藍湛は一瞬目を伏せてから「ならば、」とスラックスのポケットに手を差し込んだ。
     そうして出て来たのは片手にすっぽりと収まる程度のラッピング袋。黒い紙袋に赤いリボンが銀色のテープで止められている。
    「期待も何もないものは受け取ってもらえるか?」
    「……何、それ藍湛から?」
    「あぁ」
     期待も何も、付き合っているのなら断られる理由はないと思うのだがと控えめな声に、ははっと笑う。
    「藍湛がそんな乙女思考を持ってるとは思わなかった」
     俺の色濃い揶揄に、藍湛は涼しい顔。
    「他国では男性側から贈り物をすることも多い」
     特別なことではないと云って、藍湛は俺の手首を握って手の平に小さな紙袋を乗せてきた。
    「貰って欲しい」
    「…………」
     じ、と手の上の紙袋を見下ろしてから、俺はもう片方の手で紙袋を摘んだ。
    「中、見ても?」
    「あぁ」
     藍湛が頷くのを待ってから、俺は紙袋の口を開けた。
     逆さにした紙袋から出て来たのは透明の袋に入った、
    「……ウサギ……?」
     小指の爪程もない小さなジルコニアに、黒い葉っぱみたいなのがふたつくっ付いている。その姿は飾り気のないウサギに見えた。
    「可愛過ぎたか……?」
    「ん〜、色合いはクールだし、俺ウサギ好きだからデザインは嫌いじゃない」
     何これ、ピアス? 
     裏面を見たら、ねじ式のキャッチがついている。
    「ピアスホールがひとつ空いているだろう?」
    「あ、気付いてたのか?」
    「あぁ」
     そっと伸びてきた藍湛の指先が俺の左耳をいじる。
    「でも学校で着けたら校則で引っ掛かるしなぁ」
    「四六時中着けてくれるつもりなのか?」
    「だって、恋人様のくれたものだし?」
     悪戯っぽく笑う俺に、藍湛はまたスラックスのポケットに手を差し込んだ。
     出て来たのは紙袋にも包まれていないビニール袋。中には細いチェーンが入っているようだ。
    「そのピアスはネックレスにも出来る」
     ジルコニアの裏面に四角い出っ張りがあるだろう? と指摘され、本当だ、とビニール袋から取り出したウサギをいじる。
    「そこに付いている細い棒がねじ式になっているから、ピンが本体から外れる」
    「棒……シャフトな。あぁ、本当だ外れた」
    「その四角いところにチェーンを通せばネックレスになる」
    「へぇ……それなら良いかも」
     ピアスだと目立つけど、ネックレスなら目立たなさそうな大きさだし。
     なぁ、チェーン通して金具嵌めてよ。
     キラリと光るウサギを藍湛の手に握らせ、くるっと背を向ける。
     すると、少しの間を空けてから藍湛の手が俺の首にチェーンを巻いてくれた。
     指先で小さなウサギをいじる。うん。小ぶりで良い感じだ。
    「どうだ、似合うか?」
     またくるりと藍湛の方を向いたら、藍湛はほんのり嬉しそうな顔をして小さく頷いた。
     何だろうな。やっぱり誰かを特別に好きになるということはよく判らないけれども。藍湛が俺に何かをしてくれた時に彼が淡く浮かぶ微笑は単純に好きだなと思った。
     
     ※
     
     義理チョコすら貰わないことにしている私にとってホワイトデーというものは何の特別さもなく、極々普通の日常の中に溶け込む。
     飽くことなくいつも通り写真部の部室に踏み込み、暗室に篭もる。
     まだ冬物のコートは手放せないが、朝焼けの色は変わり始めていた。
     早朝に撮った写真を放課後に現像する。もうずっと続けているルーティーンだ。
     暗室を出ると、部室には魏嬰……は勿論のこと、他に私の同級が居てのんびりと話をしていた。
    「あ、藍湛」
     パッ、と私を見た魏嬰が手を上げる。同級も、藍忘機は相変わらずだなと肩を揺らして「じゃあ俺はもう帰るよ」と部室を出て行った。
    「ほーんとに幽霊部だな、写真部って」
     からからと笑う魏嬰には否定も肯定もしない。
     現像した写真を机に広げて気に入る写真を見繕う。
    「藍湛」
    「何だ?」
    「口開けて」
    「え?」
     母音を発する形で動くのをやめた唇の隙間に何かを突っ込まれた。
     口中にふんわりと漂ったのは甘い香り。
    「ほら、あーん」
     あーん、と自分の口を大きく開ける魏嬰に倣って少しだけ口を大きく開ける。
     すると、甘い味が更に口中を満たした。
     無意識に噛むと、サクリとした歯触り。
    「クッキー……?」
     咀嚼し、飲み込んでから首を傾げる。
    「そ。今日ホワイトデーだから」
    「…………」
     これは、お返し、ということなのだろうか?
    「お返し、何が良いかなって考えて、でもなーんにも思い付かなくてさ」
     そう云う魏嬰は私が贈ったアクセサリーを外すことなく着けてくれている。
    「姉さんに相談したら、残るものに悩むんだったらお菓子が良いんじゃないかって」
     そう云われたから、作るのを手伝ってもらったんだ。
     まだあるぞ、とラッピング袋をカサカサ鳴らす魏嬰に、ん? と思う。
    「魏嬰には、姉が居たのか?」
    「え? あぁ、実の姉さんじゃないよ。幼馴染みの姉さん。因みに弟分も居る」
     弟分って云っても殆ど立場は対等だけどと魏嬰は頬杖をついた。
    「口に合わなかったか?」
     感想をまだ発していなかったことに気付いて、緩く首を左右に振る。
    「美味い」
    「なら、もっと食べるか?」
     今の俺はご機嫌だから手ずから食べさてやるぞ、だなんて冗談めかす魏嬰。
     しかしそれを冗談で終わらせたくなくて魏嬰の隣に座り、体を九十度回転させる。
     魏嬰と向き合って薄く唇を開けて見せれば、魏嬰はくすくすと笑ってもう一枚クッキーを私の口に運んだ。
    「魏嬰は、女子生徒にもこんなことを?」
     暗に義理チョコのお返しにも、と匂わせたら、彼は「まさか」と大袈裟に肩を竦めた。
    「義理チョコには義理キャンディーだよ」
     手作りのものなんてあげたらそれこそ勘違いされるだろ。そんなの勘弁だ。
     苦笑してほら、ともう一枚クッキーを食べさせられる。
    「ははっ、何だか餌付けしてるみたいだ」
     普段こんなこと誰にもしないから、ちょっと新鮮な気分だと魏嬰は軽やかに笑った。
    「ましてや藍湛に餌付け出来る奴なんて、他に誰か居るか?」
     面白がる魏嬰に、他には居ないなと目を細める。
     結局五枚のクッキーを食べさせてもらってから、残りは家で食べてくれと水色の可愛らしいラッピング袋を握らされた。
     さて、もうそろそろ下校時間だな。
     ひょいと立ち上がった魏嬰が、リュックを肩に掛ける。
     それに倣い立ち上がって部室の鍵を手にする。
     顧問に鍵を返してから辿った帰路は濃い紫色。
     いつものようにホームの反対側から手を振る魏嬰に小さく手を上げ、ホームに滑り込んできた電車に乗り込む。
     家に着いて鞄にしまっておいたラッピング袋を出したら、ビニールが二枚構造になっていることに気が付いた。クッキーが入っているビニールと、もう一枚外側にあるビニールの間にはポラロイドカメラで撮ったと思しき写真紙が一枚裏向きに入っている。
     それを取り出して、私は目をぱちくりさせてしまった。
     写真紙に写し出されているのはピースをした魏嬰のピンショット。油性のカラーペンで、ハートマークがひとつだけ書き込んである。
     あぁ、これが相思相愛だったのなら『好き』の一言でも書いてあったのだろうなと思うと何とも複雑な気分になった。
     私を知っている昔の魏嬰だったら、尚更その言葉を付け足しそうだからだ。
     
     一月は行ってしまう。
     二月は逃げてしまう。
     三月は去ってしまう。
     そんな古い言葉通りに季節は流れ、あっという間に私たちの学年はひとつの終わりを迎えた。
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