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    【うつせみ】第三部後編です。春から夏の学生生活。平和な学生生活は一旦ここまで……。

    うつせみ:第三部後編『いろつき』後編
     
     春休み。家の近くの小さな公園に腕を張っている桜の蕾の具合を見るのは昔からの癖だ。
     春の訪れを待ち侘びる、この季節が俺は好きだ。桜前線が西から東へと伸びてくるタイミングを見計らって、毎日蕾の膨らみを観察する。
     今年は藍湛に貰ったカメラがあるから、毎日一枚写真を撮ってはマジックで日付を入れてスクラップブックに挟んでいった。
     三月も下旬に差し掛かった頃。パッ、と一輪花片が綻んだのを見て、俺は胸の奥がポっと暖かくなった気がした。すぐに一枚写真を撮って、藍湛にメッセージを送る。
    『藍湛、桜が咲いた。そっちはどうだ?』
     藍湛と俺の家は学校を真ん中にして逆方向。俺は海側で、藍湛は山側だ。山、と言っても本格的な山ではなく、木々の多い高台の上、という感じ。坂が多い地域だということは路線が同じだから知っていることだ。
    『こちらはまだ蕾が固い』
     一時間後くらいにきた返事は、藍湛も近くの桜を見に行ったからなのかも知れない。
     そっか、と返すより先にメッセージの受信音がした。送り主は藍湛だ。こちらの返事を待たずに続けてメッセージを送ってくるのは珍しい。
    『明後日、都合が悪くなければそちらに桜を撮りに行っても良いだろうか』
     成程、詰まりはデートの誘いという訳か。花見、と云うにはまだ早いが、別に断る理由はない。
    『良いよ。時間も何時でも良い。駅まで迎えに行く』
     そう返したら、じゃあ十三時頃に駅に着くようにする、と藍湛。『了解』のスタンプを押し、既読が付くのを待ってからアプリを閉じる。
     明日、明後日は気温が少し高くなると朝の天気予報が告げていた。明後日になったら、もう少し蕾も綻んでいるかも知れない。そうだと良いな、と思いながら、俺は一輪の桜を撮った写真とカメラをブルゾンのポケット左右にそれぞれ突っ込んだ。
     翌々日、約束通り駅の改札前に行けば、藍湛は改札横の花屋を覗いていた。
     声を掛ければ、魏嬰、と花から俺に視線が移る。
    「藍湛、昼食べた?」
    「軽く」
    「んじゃ、コンビニ寄って行こ。俺食べてないんだ」
     昼飯を食べなかったのはわざと。桜の下で花見気分を味わいたくて、敢えて公園で食べようと思ったのだ。
    「昨日、今日と暖かかっただろ? 桜、結構咲いてきた」
     朝見に行ったら五分咲きよりは咲いていたと笑って見せる。
    「わざわざ確認して来たのか?」
    「あぁ。家から近いし。朝の散歩がてら」
    「そうか」
    「ここから二十分くらい歩くけど、歩く? バスなら十分で着くけど」
    「いや、折角だから歩こう」
     今日も比較的暖かいし、陽射しを浴びながら春を感じるのは好きだ、と目を細める藍湛の口許は仄かな弧を描いている。他の奴が見ても気付かないレベルの小さな微動だけど。
     藍湛と付き合って半年近く。たまに写真部の部員と藍湛込みで話をしたりするけれど、藍湛の表情の変化に気付くのは俺だけみたいだった。俺からしてみたら、まあまあ判り易いと思うんだけど。
     まあそれはさて置き。肩を並べて駅から十分くらいのコンビニで各々欲しいものを調達してから、また十分程歩く。
    「ほら、あの公園。小さいけど木はそこそこ大きいんだ」
     公園を指差して少し歩幅を大きくする。
    「あ、朝よりも咲いてる」
    「咲き始めると早いからな」
     公園のベンチに腰を落とすと、丁度頭上に淡い淡い紅色が広がる。その下で俺はおにぎりのビニールを剥き、藍湛はペットボトルのコーヒーの蓋を捻った。
    「綺麗だな」
    「あぁ」
    「藍湛のとこはまだ?」
    「少し開いてきた」
     ペットボトルを横に置いて、藍湛は立ち上がり俺と向かい合うように立って桜を撮り始めた。藍湛の撮る景色はぼやけているからこそ、桜なんかは薄紅霞のようになる。
     暗室に貼ってあった写真がそうだった。俺だけにピントが合っていた写真だ。ある意味、俺たちの始まりの写真。
    「魏嬰」
    「うん?」
    「私の家の方も桜が満開になったら、一緒に見てくれるだろうか」
     規模は大きくないけれど自然公園が近くにあるのだと続ける藍湛に、俺はひとつ返事で頷く。
    「春休みの予定は特にないからいつでも呼び出してくれていーよ」
     ふたつ目のおにぎりの最後の一口を飲み込んで答える。
    「……お前は友人が多いイメージが多いのだが……」
     本当に約束ひとつないのか? と不思議そうな藍湛にからからと笑う。
    「学校の友達は学校での友達だよ」
     学外で遊ぶことなんて殆どない。そもそも写真部の部室に通い詰めて毎日藍湛と一緒に帰ってるのに他の奴と遊ぶ時間なんてないし。
     悪戯めかしてそう云えば、藍湛は微かに嬉しそうな、だけどそれよりももっと僅かにだけ申し訳なさそうな顔をするものだから、藍湛が気にすることじゃない、と肩を揺する。
    「藍湛と一緒に居るのは俺の意思だし」
     一緒に居ようと思ってなきゃ部室に通わないって。そうだろ? とポラロイドカメラをブルゾンのポケットから取り出したら、藍湛はやっとホッとしたような顔をした。
     次に藍湛からの誘いの連絡が入ったのは四日後のこと。春休みがあと数日で終わるという日だった。
     今度は藍湛の家の最寄り駅で待ち合わせ。待ち合わせ時間は予想外に遅めで十六時だった。
    「藍湛のことだから、朝早いんじゃないかって思ってた」
     落ち合って早々揶揄っぽく云ったら、それも考えたが、と藍湛。
    「お前は朝が弱いだろう」
    「年明けと同じだよ。徹夜しておけば遅刻しないって」
    「徹夜は身体に良くない」
     それに、と藍湛は小さな声で呟いた。魏嬰に見せたい景色があるのだと。
     自然公園まではバスを使っても二十分以上掛かるからと交通機関を使った。
    「おぉー、凄い、桜に囲まれてる!」
     自然公園を歩み進めると、大きな広場に出た。四方、というよりは円形に桜の木が広場を切り抜くように腕を広げている。満開ではないにしろ、八分咲き以上は花開いていそうだ。
     ぐるりとゆっくり広場を一周してから、カメラを取り出す。
     藍湛も同じようにカメラのレンズキャップを外して、ほぼ満開になっている桜を撮り始めた。
    「桜って不思議だよな」
     俺の呟きを「どうして?」と拾われ、上手く説明は出来ないんだけとど……と語尾を濁す。
    「何となく嬉しくて懐かしい気持ちになるっていうか……」
     勿論毎年見てるから、その思い出はあると思うんだけど。
     それよりももっと奥深いところで郷愁じみたものを感じるというか。
     どうしてだろうな。
     肩を竦めて見せたら、藍湛は何とも表現し難い顔をしながら俺をファインダーに収めた。
    「胸の隅にいつか、どこかでの幸せな思い出があるのかも知れない」
     いつか、どこかでの。その部分だけ僅かにながら強調されたのは気の所為だろうか。
     それよりも、と藍湛は俺の手首を引いて広場を抜けて眺望の良い場所に連れて行かれた。
    「おわ、夕陽がすご……」
     でかい……と呟いて目を奪われた夕陽は大きく濃い橙色。今まで見た夕陽の中で、ダントツな気がする。そろり、俺の手首を掴んでいた手が離れる。
    「ここは別称、夕陽の丘とも云われている」
     この景色を見せたかったのだと横目に俺を見てくる藍湛の顔は優しい。
    「……写真、撮っとかなきゃ」
     反射的にシャッターを切ってから、あぁと一人で苦笑してしまう。すぐに写真を撮らなきゃ、なんて、すっかり藍湛に染められているみたいだ。
     藍湛もカメラを構えてパシャパシャとシャッターを切っていた。
     陽が沈むのは早く、あっという間に空が群青に染まってしまう。
    「そろそろ帰ろう」
     風邪を引く前に。すい、と踵を返した藍湛の背を追い、自然公園から出る。確かに山側だけあって俺の家周辺よりはやや寒い。
     十五分程バスを待って、駅に降り立つ。
     時刻は十九時前。腹が減ったからファーストフード店に入らないか、と藍湛を見たら、彼は構わないと頷いた。
     ガサツにバーガーに食い付く俺と違い、藍湛はちまちまと口端汚すことなく上品に噛み付いていた。
     食べながら喋ると藍湛は怒るから、食べている最中は黙々と。
     そうして食べ終わってから少し喋り、俺たちは解散した。
     帰りの電車の中。撮った写真を一枚一枚順番を入れ替えて眺める。写真紙は珍しく一箱分綺麗に使い切っていた。
     ほぼ満開の桜は珍しいものではないというのに、自分が撮った写真からは不思議と機嫌の良い微かな笑声が聞こえてきそうな気がした。
     
     ※
     
     桜を見に誘ったのは、昔魏嬰と毎年必ず花見をしていたからだ。
     あの頃は私が琴を奏で、魏嬰が気に入りの酒を傍らに笛を構えていた。
     薄紅霞は過去と現在を最も結び付けやすい景色だと思った。
     しかし残念ながら魏嬰は私との思い出など微塵たりとも覚えがなさそうだったが、古い記憶と新しい記憶を布のように糸を織り重ねていけば、何かしらの変化が起きるのではないかなどと僅かな期待を拭えないのだ。
     
     新学期が始まってそう間も置かずに訪れる大型連休。
    「魏嬰、連休には……」
    「あ、藍湛、云うの忘れてた」
     私の声に声を重ねてきた魏嬰は、左の手の平に右の拳を当てて、こう云った。
    「俺、連休の間バスケ部の合宿についてくことになってんだ」
    「……バスケ部の、合宿?」
     どういうことだ? と首を傾げたら、魏嬰は右手の人差し指を顔の横でくるくるさせた。
    「春休みに有望準レギュラーが怪我したらしくてさ。代わりに連休明けの試合に出て欲しいから、合宿にも来て欲しい、って」
     云ってなかったよな、ごめん、と顔の前で両手を合わせた魏嬰に、怒れる立場ではない。喩え恋人関係にあろうと、魏嬰の都合は魏嬰が考えるものだ。私の我儘を通すところではない。
     けれども全く会えないというのも寂しく辛いものであり。
     私は翌日の昼休みにバスケット部の顧問のところへと足を運んだ。そのことを魏嬰には告げずに。
     そうして連休の一日目。学校集合で貸切バスによって合宿先へ向かうという輪の中に私は混じっていた。魏嬰は私の二人後にやって来て、私の姿を見るなり目をまん丸にした。
     くい、と手首を掴まれて輪の中から少し離される。耳打ちされる小声。
    「何で藍湛がここに居るんだよっ?」
    「共に合宿へ行くから」
    「藍湛もバスケするのかっ?」
    「いや、私は練習風景を写真に収める係だ」
    「写真部の部員として?」
    「あぁ」
    「……藍湛」
    「何か?」
    「お前……まだストーカー気質があったんだな……」
     そう云って大きく吐かれた溜息には気付かない振りをした。
     バスの車中。席は遠く、合宿先の部屋も別々ではあったが(同行を突然願い出たのだから、それ以上厚かましいことは出来なかった)自由時間ではちゃっかり魏嬰の隣を独占する。
     魏嬰が写真部の部室にほぼ毎日出入りしていることは最早彼の同級の中では目新しい話ではないようで、私たちの仲を不審だと思う生徒は居なかった。
     ともすれば、魏嬰が私の同行を誘ったのではないかと軽い揶揄さえ飛んだ程だ。
     魏嬰の傍に居たいからと合宿に参加したものの、流石に担った役目を放棄することはせず、私は魏嬰たちの練習風景をしっかりとカメラに収めた。
     普段使っているフィルムカメラではなく、学校の備品であるデジタルカメラで。
     フィルムカメラでは景色も人物も魏嬰以外は全部ぼやけるのに、デジタルカメラではブレひとつなく撮影出来るのが不思議でならないと魏嬰は首を傾げたが、デジタルカメラで撮る風景は私にとっては謂わば他人の目を使って世界を見ているような感覚だ。
     フィルムカメラで撮る世界が私の本当に見ている世界なのだ。
     二泊三日の合宿はあっという間に終わった。本格的な運動部の練習はちょっとキツかったと苦笑する魏嬰だったが、助っ人に選ばれたのならば期待に応えられるような活躍をしたい。その為には少しくらいの努力をして誠意を見せなきゃなと悪戯な顔をして見せる魏嬰は、夜狩に張り切っていた時のそれと似ているような気がした。
     そうして迎えた試合当日。当然のような顔をして魏嬰の前に現れた私に、彼は驚きひとつ見せなかった。
    「活躍を期待している」
     そう云って微笑すれば、魏嬰は「勿論!」と顔の横でピースサインをした。
     結果から云えば、我が校は二連勝。どちらの試合にも出ていた魏嬰は観客をそれなりに盛り上がらせる活躍を見せた。
     選手たちが出てくる出入り口で魏嬰が出て来るのを待ち、帰路を共にする。
    「今日の俺は格好良かっただろう?」
     なんて冗談めかす魏嬰だったが、私はそれを冗談と取らずに大きく頷いた。
    「運動部で活躍する君を見るのが好きだ」
     そう云う私は、だけどと軽く目を細める。
    「けれども、魏嬰が活躍した分だけ人気が出られても困る」
     大真面目な声でそう呟けば、
    「っはは、藍湛は嫉妬深いな」
     からからと笑って肩を揺らす魏嬰に、私は当たり前だと小さくぼやいた。
     
     ※
     
     雨が降ると思い出すことがある。それは藍湛の可愛い欠点に初めて気付いた時のこと。
     梅雨前線が上空に停滞しだした頃。その朝も傘を打つ雫の音が煩いなと感じる程の雨音を聞きながらの登校。
     たまたま早く起きたから、そのままいつもより早く登校するかと一本早い電車に乗ったら、改札を抜けた先で藍湛の背中を見付けた。
     あ、と思ったけれども、駆け寄らずにこっそりと数メートル後を追ったのは、彼の『残念な様子』を見たかったからだ。
     いや、品行方正の塊みたいな顔をしながら俺のことをストーカーしていたこと以上に残念な面などないから、その行為の次に残念な姿だと云えよう。
     藍湛はいつも鞄を左手に持つ。そうなると必然的に傘は右手に持つことになる。そこで起こる、残念な事態。それは……——。
     しとしとと傘の骨の先から滴る雫。普通は地面を叩くそれだが、藍湛が雨除けにしている傘の右側から滴る雫は、彼の右肩をしっとりと濡らしている。
     そう。藍湛は傘を差すのが下手くそなのだ。初めはたまたまなのかと思った。
     けれどもそうではなく、本当にただただ傘を差すのが下手くそ過ぎるのだと気付いたのは、付き合うようになってからのことだった。
     一緒に帰るようになって初めて雨が降った放課後。
     俺はいつも藍湛の右側に立って歩くのだけれども、たまたま左に視線を遣った時に、藍湛の右肩が濡れているのに気付いて、おや? と思った。
    「藍湛。右肩、濡れてる」
     もしかしたら俺が右に立っているから、敢えて傘をずらしてくれたのかも知れないと思って指摘したら、藍湛は表情を変えずにそっと傘の支柱を真っ直ぐにした。した、のに。
    「…………」
     少ししたらまた傘が左に傾いていた。
     鞄を庇う為なのだろうか。
     いや、折り畳み傘とかだったら判る。けれども今差しているのは一般的な大きさの傘だ。しかも、何なら少し大きめの傘。
     だと云うのに、藍湛の傘はこの日に限らず必ず左に傾くことに何回目かで気付いて、面白くなってしまった。
    「藍湛、傘差すの下手過ぎないか?」
     ある日、笑いながらそう云ったら、藍湛はほんのり気不味そうな顔をしてふいと視線を逸らするものだから、あぁこれは癖なんだなと察してしまった。
     そうと知ったら、何だか無性に庇護欲をそそられた。
    「らーんじゃん!」
     相変わらず傘を差すのが下手くそだなと思いながら、それまで後ろ姿をそっと追っていた歩幅を大きくした。
     叩いた右肩はやっぱりしっとりしている。それに苦笑しながら、俺は藍湛の隣に並んでほんのちょっとだけそっと傘を左に傾ける。俺はリュックだから、多少左右に傘を揺らしても問題はない。
     藍湛が差している傘にぶつからない程度に藍湛の右肩を庇ってやる。
     しとしとと肩を濡らす水滴が止んだことに気付いたのか、藍湛はちらとこちらを見たけれど、特に何も云わずに「おはよう」とだけ返してきた。
     全くさ。付き合いたいっていう主張をしてきたのは藍湛の方だっていうのに、何で俺の方が藍湛に積極的に関わっていっているんだ?
     でもそれは俺も俺だとは思う。藍湛のことなんか、向こうから関わってこない限り放置しておけば良いのに、そうしないのだから。
     いや、うん。何だろうな。何でだろう。好きとか嫌いとか、そういう感情とは別のところで藍湛には構いたくなってしまうのだ。これは本当に不思議なんだけど。
     やっぱり俺の知らない何かを藍湛が見付けてくれるんじゃないかって期待してしまうのは、こういうところなんだと思う。
    「なぁ藍湛、今朝は雨だから何も撮ってないか?」
    「いや、雨の日には雨の日の良さがある景色が撮れる」
    「あはは、そうだと思った」
     ブレないよな、本当に。写真はブレるけど。
     くすくすと笑いながら、俺は藍湛の右肩を庇ったまま学校までの道程を藍湛と並んでゆっくりと歩いた。
     放課後はまた藍湛が暗室に篭るのだろう。
     
     ※
     
     夏期休暇に学校へ行く予定はほぼない。自主的な選択制夏期講習はあるが、普段の授業で充分な成績を得ている私に夏期講習は必要なものではなかった。
     大学受験を控えている私だけれども、最早既に指定校推薦が約束されているから尚更だ。
     写真部の人数は現在私を含めて五人。一学年の時からの同級と、昨年入ってきた二学年の一人、加えて新入生二人の五人だ。
     それでも暗室を使うのはやはり私のみ。後輩三人はほぼほぼ同級と、部員ではないが放課後は部室に入り浸っている魏嬰が面倒を見ている。
     とはいえ、どの道相変わらずの幽霊部なのだが。そんな幽霊部でも、一年に一度大きなイベントがある。それは夏季休暇に一泊二日で行われる合宿だ。
     ただでさえ人数が少なく、活動が少ないこの写真部だ。きちんとした活動実績を残さなければ、存続は危うい。少なからず、私にとっては卒業までこの写真部が存続していないと困る……ということで、夏の写真部合宿は大事なイベントなのだ。
     行き先は毎年同じ。少し山間に踏み込んだ大きなテーマパークのキャンプ場だ。
     キャンプ場と云っても、テントを張ったりはしない。コテージを借り、各々昼夜関係なく好き勝手に園内で写真を撮るだけの気軽なイベントだ。
     行き帰りの移動だけ顧問の引率に従えば、あとは自由行動。
     夏季休暇の真ん中にそんな合宿があるのだと魏嬰に云ったら、自分も行きたいと云いだすのだから、少し驚いた。
    「お前は写真部ではないだろう?」
    「バスケ部じゃないのに合宿に着いてきたのはどこの誰だったっけ?」
     にやにやと笑う魏嬰に、思わず肩を竦める。
     魏嬰が写真部の部室に入り浸っていることは顧問もとうに把握しているところ。魏嬰が願い出れば、何の躊躇もなく同行を許すだろうし、実際それは許されて、魏嬰は合宿メンバーの一人になった。
     得てして赴いた合宿先。コテージに荷物を置いたらもうあとは夕飯の時間まで自由だ。
     夕飯は部員揃ってバーベキューをすることになっている。それは合宿を楽しもうという自発的なイベントではなく、ただコテージを借りるにあたって五人以上の利用であればバーベキューセットも付けた方が宿泊費が安くなるという理由からだった。
     夜の集合時間までの自由時間は魏嬰と二人で園内を回った。
     何本かフィルムを使い切る私と同様に、魏嬰も写真紙の入った箱を二、三空けていた。
     私たちの通う高校だって都会にあるとは云い難いが、それより更に自然に囲まれた園内の空気は清々しい。
     新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込みながら撮る風景は普段よりどことなしクリアになる気がした。
     ゆったりと移動する私の周りを、魏嬰はちょこまかと走り回っていた。落ち着きがないと嗜めても、だってこんなところそんなに来る機会がないじゃないかと楽しそうだ。たまに小さな子供に混じってアスレチックで遊んだりする魏嬰の無邪気さは記憶の奥深くにある魏嬰と同じだ。好奇心旺盛で、遊び心に溢れていた彼と同じ。
     それが嬉しいと感じるのと同時に、彼が当時の記憶を取り戻さないことに焦ったさもあるのだけれど。
     気の赴くままに撮りたいだけ写真を撮ったら丁度良い具合に夕方になった。
     バーベキューでは魏嬰が一番張り切って場を仕切っていた。そういう所も昔の彼らしい一面だ。
     片付けまでしっかりと終えれば、また自由時間。一応二十一時までにはコテージに戻るようにと顧問から告げられた。二十一時を少し過ぎた辺りで顧問は教員らしくきちんと皆が戻っているかを確認しに来るから、この時間は守らなければならない。
     コテージは二棟に三人ずつ振り分けられているものの、幽霊部員は幽霊部員同士で集まるから、実質四、二で私と魏嬰は二人部屋状態。私としては願ったり叶ったりな部屋割りだ。
     バーベキューの後に一度コテージに戻った私と魏嬰。夜は夜で星空を撮りに行こうと思っていた私は、何やら鞄の中をがさごそしている魏嬰を外に誘おうと名前を呼ぶ。
    「魏嬰、」
    「藍湛!」
     語尾を重ねて呼ばれた名前。
     何か? と首を傾げたら、彼は鞄の中から取り出したものを『ジャンッ』という効果音が付きそうな勢いで私の目の前に突き付けてきた。
    「……花火?」
    「そ。手持ち花火」
     夏と云えば花火だろ? ここ、指定の場所だったら手持ち花火をしても良いってサイトに書いてあったからさ。どうせ藍湛は夜空を撮りに行くんだろう? それなら花火の写真を撮るのも夏の醍醐味じゃないか?
     楽しそうにそう語ってくる魏嬰に、あぁ、と嬉しさと寂しさが半分ずつ胸の奥で渦巻く。
     花火の思い出も、記憶しているのは私だけで、魏嬰はただ現在を楽しもうとしているだけ。
     下唇を舐めて、私は僅かに眉尻を下げながら小さく頷いた。
     星空を撮るのに、魏嬰のポラロイドカメラは向いていない。
     私がシャッターを切っている間、魏嬰はそんな私を急かすことなく、ただ無言で見詰めていた。
     そうしてようやっとカメラを下ろした私に、魏嬰はわざとらしくむくれた顔をして見せた。
    「恋人より星空を見ている方が楽しいのか?」
     黙って私を見ていた癖にそんなことを云う魏嬰の声に不満の色はない。さも、私に甲斐性がないと揶揄をするような響きだった。
    「そんなことはない」
     肩を竦めてから、そっとカメラを持ち上げて真正面から魏嬰をファインダー越しに捉える。
     パシャリ、一度シャッターを押した私に、魏嬰は片頬を膨らませた。
    「不意打ちはやめろよな」
    「不意打ちの方が自然な表情が撮れる」
     私は自然体の魏嬰をカメラに収めていきたいのだと言外に続ければ、彼は大袈裟な溜息をひとつ。で? と手に持っているビニール袋を顔の高さに上げた。
    「やるのか? やらないのか?」
    「やる」
     即答すれば、魏嬰はやっと笑顔を作って、そうこなくちゃと私の手首を握った。
     手持ち花火を行って良いと指定されている場所には既に数組の親子連れが居た。
     その中に混じる男子高生二人というのも何だかミスマッチだなとは思ったが、花火の袋を空けて、ざらりと地面に手持ち花火を並べる魏嬰は楽しそうだ。
     流石にライターの持ち込みは危険だと判断していたのか、魏嬰は蝋燭を片手に、親子連れのひと組から火を借りてきた。
     そうして固定した蝋燭にさっさと花火の先端を火に翳す。
     シュワ、パチパチパチ……。
     懐かしい音と光景だ。ほら、藍湛も、と呼び掛けて来る声も。過去に倣うような一連の流れが胸中を複雑にさせる。
     一本、火の花を散らしてから、あとは魏嬰がはしゃいで花火を楽しむ様子をカメラに収めた。
     現像をしたのなら、きっとぼやけた橙の中で無邪気な笑みを浮かべる魏嬰の写真が浮かび上がるだろう。
    「魏嬰……」
    「うん?」
     ……花火は、好きか?
     思わず問えば、彼は肩を竦めた。
    「好きじゃなきゃわざわざ持ってこないだろ」
     何を当たり前のことを訊いてくるんだとばかりの魏嬰に、そうだなと微苦笑して私はカメラを下ろし、地面に広げられた花火を一本、火に翳した。
     花火の後始末までを終えて、シャワーを浴びてから、コテージに戻る。
     やはり他の四人はひとつのコテージに集まっているようだ。
     私と魏嬰、二人部屋状態となったコテージは静か。
     顧問は軽く顔を出して私たちの顔を確認しただけで去って行った。そうして魏嬰と二人部屋なのだと再認識したら、何だか心が落ち着かなくなった。
     完全に人目を気にせず魏嬰と密室で二人きり、というのはクリスマスの時以来のこと。
     あの時は何もしなかったが故に逆に魏嬰を不機嫌にさせた。と、云うことは、だ。
     多少なり積極的に迫ってみても良いのだろうか。
     また鞄の中をそごそやってペットボトルの飲み物を出した魏嬰がもうひとつのベッドに腰に落とそうとした、そんな彼の名前を呼ぶ。
    「何? 藍湛」
     立ったまま首を傾げる魏嬰を手招いて、ベッドに深く腰を据え直した私は大きく開いた脚の間をトントンと叩いた。
    「ここに」
    「…………」
    「嫌か?」
     無理にとは云わないが、とは視線だけで訴える。
    「…………」
     ペットボトルを片手に数秒固まった魏嬰は、視線を泳がせてからゆっくりと私の目の前に歩んで来て、トスン、と私の脚の間に腰を落としてくれた。
     ふわり、香ったシャンプーの香りは清潔。
     彼の背後からそっと腕を回して、腕の中に魏嬰を閉じ込める。肩口に額を落としても魏嬰は不平を唱えることもなく私のなすがまま。
     布越しにでも伝わる体温に酷く安心した。
    「魏嬰……」
     好きだ。耳元に囁いたら、魏嬰は小さく「うん」とだけ返事。
    「魏嬰は私のことを好きにはなってくれていないか?」
    「……一人の人間としては、嫌いじゃない」
     だから今もこうして傍に居る、と続ける魏嬰だったが、けれどもとペットボトルの蓋を開けることなくいじりながら喘ぐように呟いた。
    「俺の藍湛に対する好意は、藍湛が俺に対する好意とは違う」
     好き、の種類が違うんだと云うその声音だけはしっかりとしていた。
    「なぁ藍湛……」
    「何だ?」
    「藍湛は何で俺のことをそんなに好きなんだ?」
     どうして俺に執着するんだ?
     素朴な疑問として投げられた言葉に、昔約束したからだという答えは彼に通用するだろうか。
    「魏嬰……」
     知っているか? と彼の手に手を重ねてなゆっくりと紡ぐ。
    「出会いに偶然はない」
     人と人との出会いは全て必然なのだと云えば、魏嬰はそれを小さな声で復唱した。
    「じゃあ俺と藍湛が出会ったのも、必然だった、って?」
    「そうだ」
     頷き、私が魏嬰へ思慕を寄せることだって必然なのだとは口中で溶かしてしまうけれども。
    「藍湛って、案外ロマンチスト?」
    「別に、そういう訳ではない……」
     ロマンチストとは少し違う。どちらかと云えば私は現実主義者だ。魏嬰を好きだと思う気持ちは美化した空想ではない。
     惹かれ合うべくして惹かれる運命なのだ。どうしたらこの気持ちは伝わるのだろう。どうしたら、この想いと絡ませ合った情を思い出してもらえるのだろう?
     私は魏嬰のことが好きだ。ずっと、このまま腕の中に閉じ込めておきたいくらいに。けれども今の彼はきっとそれを望まないだろう。それが、とてももどかしい。
    「魏嬰」
    「ん……」
    「私の我儘を、ひとつ聞いてくれるだろうか?」
    「我儘?」
     あぁ、と頷き、魏嬰を腕の中に閉じ込めたまま横になる。
     わっ、という魏嬰の驚き声は聞こえなかった振りをして、彼を抱き込んだまま目を瞑る。
    「このまま、今夜は一緒に寝て欲しい」
     項に唇を寄せたら、魏嬰の肩が僅かに跳ねた。
    「ベッドはちゃんと、ふたつある、だろう……」
    「それでも。私は魏嬰を抱き締めて寝たい」
     但し何もしないと約束する。ただ一緒に寝て欲しいだけだと繰り返す私に、魏嬰は大きな深呼吸をひとつ。
    「……本当に、何もしないか?」
    「しない」
     キスひとつもしないと約束する。だからこのまま一緒に寝てくれないか。
     過去、同衾していた記憶を遡ってそんなことを云えば、魏嬰は十二分の間を空けてから、私が重ねた手に指を絡ませてきた。
    「判った」
     何もしないなら、一緒間に寝ても良い。
     私の指の節を撫でる魏嬰の親指。ほんの少し、戸惑った時に魏嬰がたまにする仕草だ。
     時間は普段私が寝る時間と殆ど変わらない。
     魏嬰の背中に小さな欠伸を染み込ませたら、彼は「しょうがない先輩だな」と冗談めかして笑った
    「俺はまだ眠くないぞ」
    「ならば、子守唄でも歌うか?」
     奏でるとしたら、私が作ったあの曲しかないのだが。
    「それは良い案かも知れないな」
     くすくすと笑う魏嬰は、本当に私に子守唄を所望してきた。
     大きく息を吸ってから、最初のパートを奏でる為にと呼吸。
     私が奏でた旋律は、上手いこと魏嬰の眠りを誘ったようで。そう時間も置かずに彼は私に抱き着かれたまま小さな寝息を立て始めた。
     私には琴。魏嬰には横笛があれば完璧なのだが……、とは、やは口の中で溶かした。
     過去の記憶がない魏嬰に、どこまで性急さを求めても良いのだろうか。
     嫌われる真似はしたくない。
     そう思う反面で彼を独り占めしたいという独占欲。
     相反する気持ちが私の内心を掻き乱した。
     久方振りに——過去の記憶振りに魏嬰と枕を共にした夜の眠りは浅く、私は幾度となく目を覚ましては、魏嬰が自分の腕の中に居るだろうかと確信を繰り返した。
     
     ※
     
     夏期休暇はそんなに好きじゃない。単純に暇だから。学校に行けば学校の友達とワイワイ出来るけど、学外でも遊ぼうという級友はそんなに居ない。俺が出入りするコミュニティが多過ぎて逆に誘い難いんだろう。
     幼馴染みとはたまに会って遊んだりするけど、毎日っていう訳にもいかないし。
     学校が休みということは、普段入り浸っている写真部の部室にも行く意味がないから、本当に、ただただ暇。一応藍湛と付き合ってはいるのだから、藍湛に連絡を取れば良いのだろうけれど、俺たちの関係は恋愛感情が交わった結果の関係じゃない。俺が『人を好きになるということがどういうことか』を掘り下げ、あわよくば、どうやら俺が『誰かに恋心を捧げている、その人が誰か』を探り当てるゲームだ。
     確かに藍湛を嫌いだとは思わない。一緒に居て落ち着くなと思うし、同じ景色を見ているのに違う景色を写真に撮るのも面白い。
     人間としては『好き』に当て嵌めて良い部類の人間だ。自発的に『好きだ』と思える辺り、現状でもまあまあ貴重な存在ではある。
     でも、ゲームを受けたのは藍湛の方。主導権を握るべきは藍湛の方なのだ。でなければこのゲームは終わらない。終わらないまま、藍湛の卒業式を迎えてバイバイになる。最初はそんな軽い気持ちで持ち掛けたゲームだったというのに、そろそろ季節が一周しそうになっている今、もしそうなったら少し寂しいような気持ちになるんじゃないかと思っている自分が居るから少しの戸惑いもある。
    「らんじゃんのばーか」
     チャットも通話もしてこない藍湛に対して不条理な文句を吐いて、ベッドに転がる。
     写真部合宿、何気に楽しかったな。藍湛が歌ってくれた子守唄はどことなし懐かしい気がしたし、凄く安心する響きだった。またあの子守唄を歌って欲しいな……だなんて……そう思う自分が何だか腹立たしくもある。
     夏、と云えば、キャンプをしたなら次は海だ。でも真昼の海はそんなに好きじゃない。情報量が多過ぎて疲れる。処理し切れないんじゃなくて、逆に処理出来てしまうから疲れるのだ。
     何にも考えないでボーッとしたい。そう思った時に行きたくなるのは、夕方以降の海だ。シーズン中でも、夕方以降なら人は殆ど居なくなる。街灯がないから危険区域として認識されているのかも知れない。好奇心の塊みたいな俺的には、そういう認識を無視する方が楽しいのだけれど。
     ベッドの上で何の通知もこない携帯を握り締めてダラダラしていたら、いつの間にか夕方になっていた。カーテンを開けたままの部屋がほんのり蒼い。
     何だかくさくさする。こんな時こそボーッとしに行くタイミングなのかも知れない。そう思った俺は、七分丈のパンツにタンクトップ、その上に半袖のパーカーを軽く纏って家を出た。
     親には友達の家に泊まってくるかも、なんてベタな嘘を吐いて。
     藍湛の家よりは海側、と云えども、それはほんの誤差のようなもので、俺の家からだって一番近い海へ出るには電車で一時間半位かかる。
     今は十八時過ぎ。電車の乗り換えが上手くいって、着くのは二十時前といったところか。
     目的はぼんやり波打ち際を歩くくらいのものだから、鞄なんて持たずに鍵と携帯と財布だけをポケットに突っ込んできた。
     最初はそこそこ乗車客が居た電車内も、海の最寄りに着く頃にはまばら。
     終着点でもあるその駅の改札を出て、目の前のコンビニで炭酸ジュースだけ買う。
     滅多に足を運ばないから、もう殆ど濃紺色に包まれた世界を何となくの記憶だけに頼って沿道を歩く。潮の香りが一際濃くなってきたところで見付けた階段。石造りの階段を弾むように降りたら、六歩目でさらさらの砂を踏んだ。
     スニーカーと靴下を脱いで、靴下はスニーカーの爪先の方に押し込む。それを左手に、俺はずんずんと浜辺を歩んで、泥濘に足を乗せた。もう二歩湿り気の多い砂を踏めば、さぁあと足の裏を撫でる感覚。この感覚が好きだ。もやもやを攫ってくれるような気がするから。
     暫く。本当に、誰かが見ていたらどんだけ突っ立っているんだと思われそうなくらいの時間、俺は波打ち際で足底を攫われるような感触を楽しんだ。
     それからのんびりと波打ち際を歩き始める。片手にスニーカー。もう片手にペットボトル。小さい子供が買い物袋を振り回すみたいに腕を大きく振って歩く。時間の流れなんか判らない。確かめるつもりもない。終電で帰れればラッキーかな、くらい。別に終電がなくなったって、ぼんやりしてたら嫌でも朝はくる。
     白く泡立つ波打ち際で、わざと爪先を蹴り上げる。飛び散る水滴も夜色。
     まだ遊泳場も半分歩いていないところで携帯が震えた。電車の中でマナーモードにしていたから音は鳴らずに、ただバイブが震えているだけ。
     ペットボトルを小脇に抱えてパーカーのポケットから携帯を取り出す。点灯している画面に浮いて見えた名前に思わず大きな瞬きひとつ。
     一度コールが切れて、また携帯が震えた。
     コール三回分、画面を見下ろしてから通話ボタンをタップする。
    「藍湛、こんな時間に珍しいな」
     そう。俺に電話を掛けてきていたのは藍湛その人だった。
    『魏嬰……今、海に居るのか?』
    「ご名答。よく判ったな」
    『波音がする』
     電波越しにそんなに響くものなのか、と不思議を感じつつも、何の用だ? と戯けるような声で訊く。
    「丁度、明日の早朝に海に行かないか、と……」
     誘おうとしていたところなのだが……と藍湛。
    「タイミングが良いのか悪いのか。残念ながら俺はもう海に居るよ」
     くすくすと笑ったら、藍湛はほんの刹那無言になってから、俺が降りた最寄りの駅から海に出たのか? と訊いてくるから、また「ご名答」と指を鳴らす。とはいえ、高校生が自力で簡単に行ける海なんてここくらいのものなんだけど。
    「……魏嬰、」
    「うん?」
    「今から私も行って良いだろうか?」
    「お前ん家、厳しいんだろう?」
    「叔父は今日出掛けている」
     兄もモデルの仕事で何時に帰って来るか判らないから、今自分の外出に関して煩く云う者は家には居ないのだと云う藍湛に、へぇ、と笑う。
    「じゃあ、おいでよ」
     待っててやるから。上から目線の台詞だけれども、藍湛はそれに対して機嫌を損ねるような奴じゃない。
    「どこで待っている?」
    「それは秘密かな」
     俺のことが好きなら、探し出して見せてよ。それくらい本気になってよ。俺のことが好きなんだったら。
     繰り返し強調した台詞に、藍湛は判ったと小さく呟いて、今から行くと通話を切った。
     藍湛が来るまで凡そ二時間弱。遊泳場を端っこまで行って戻って来たら丁度石階段の辺りまで戻れるだろう。
     別に探し回って欲しいとか、構ってちゃんみたいなことをしたい訳じゃない。
     でも、試したい気持ちは少なからずあるかも知れない。
     わざわざ夜の海に恋人を探しに来る。何だか如何にもゲームらしいじゃないか。
     頭上を仰げば、普段見ている空よりも銀砂が多い。合宿の時程ではないけれど。
     ざん、ざざん——
     鼓膜を打つ波音はその内側に染み込んで、聴覚神経をいつまでも震わせ続ける。
     ざん、ざざん——
     鼓膜の外から聞こえているのか、それとも内側から聞こえているのか。
     どちらか判らなくなったところで、端っこまで来てしまった。
     ここから折り返すのか……。
     そんなに苦を要する距離ではないけれど、何となく面倒臭くなってしまった。
     かくれんぼは得意だった。
     この際藍湛をかくれんぼの鬼にしてしまおうか。
     どの道この波打ち際に居るという予測はされているのだ。
     だとしたら、それだけのヒントで俺を見付け出してみろ、なんて気になってきた。
     先にも述べたよう、別に構ってちゃんをするつもりはないのだけれど。藍湛は本当に俺を見付け出してくれるのか、試したい気になった。
     一度波打ち際から離れて、石段の二段目に腰を落ち着ける。携帯を取り出して電源を入れ、ディスプレイに出てくる時刻を確認する。あと三十分もしない内に藍湛は最寄り駅に着くだろう。
     そこからこの端っこまでは少し急ぎ足で歩いてもプラス三十分くらい。
     昏い海面を見詰めながら考えることは特にない。
     ただただ何も考えずにボーッとしに来たという目的は果たされた。
     もう今夜はここから地元まで戻る電車はない。
     詰まり、藍湛が見事俺を発見したら、一晩を藍湛と共にするということだ。
     嫌なことはないけれど、好ましいかと問われるとまた微妙な気持ちでもある。
     俺は藍湛に見付けて欲しいのか、欲しくないのか。
     自分のことなのに何だかよく判らなかった。
     もうすぐ付き合うことになってから一年近く経つというのに、相変わらず俺は『人を好きになる』ということが判らないままだし、『恋心を捧げてしまった誰か』も判らないまま。
     藍湛ならそれを解決してくれるんじゃないか、なんていうのは買い被りだったのかも知れない。
     結局俺は何も判らないまま『独り』で生きていくのだろうか。それはそれで、まぁ……何か支障がある訳ではないと思う。
     けれども、胸の奥で蟠っているままのものを放っておくのは落ち着かないのも事実。
     何だろう。俺は何がしたいんだろう。何をして欲しいんだろう。
     ボーッとしに来たのに、いつの間にか頭の中がぐちゃぐちゃし始めた。
     嫌だな。こういうのは好きじゃない。難しいことは考えたくない。もっと呑気に生きていきたい。
     ゆっくりと立ち上がって、俺は電源を完全に落とした携帯をパーカーのポケットにしまい、また波打ち際まで歩いた。
     さらさらとした細かな砂が濡れた足に纏わりつく。
     湿った砂を踏めば、足底を攫われる感覚。もう少し踏み込んだら、足の甲が小さな波間に飲み込まれた。
     暗い、昏い海の中に沈んだら、藍湛は俺を見付けることが出来るだろうか。
     七分丈のパンツの裾が濡れるところまで歩んでみると、案外波打ち際までの距離は遠かった。
     波打ち際からではもう俺の姿は見えないかも知れない。夜に紛れる俺は何がしたいんだ。
     確かこの海は遠浅だった気がする。もう少し沈んだら、また足場が出来るんじゃないだろうか。そう思って腰近くまでを水面に浸したら、後方からバチャバチャと喧しく水を叩く音が聞こえた。
     ゆるり、振り返るのと同時に腕を強く掴まれた。
    「何をしているんだ魏嬰!」
    「らん、じゃん……」
     珍しく彼らしくない大声に、思わずキョトンとしてしまう。
     そんな俺の腕を強く引いて波打ち際まで連れ戻した。
     お互い下半身はずぶ濡れ。
    「何であんなに深いところまで入ったんだ!」
    「いや、ここ、遠浅だった気がして……」
    「遠浅になるまでには一度頭まで浸からないとならない!」
     藍湛の叱責に、そうだったのか……とぼんやり思う。
    「二度と一人で海に入るな!」
    「……何で、そんなに怒るんだ?」
     確かに少し軽率な行為だったかも知れないが、二度と一人で海に入るな、とはこれまた随分と大袈裟ではないだろうか?
     俺の腕を掴んだままだった藍湛は、俯いて、更に俺の腕を引いた。トン、とぶつかった胸同士。背中と後頭部に藍湛の手が回ってくる。
    「……心配、したのか?」
     問えば、当たり前だとまた叱責される。
    「一人になるな」
    「…………」
    「一人に、させないでくれ」
     悲痛とも取れる声音に対して無意識に零れた「ごめん」の一言。
    「別に、藍湛を一人にさせる気なんて、なかった」
     だって、ただ海に浸かっただけだ。それ以上でもそれ以下でもない。
     だと云うのに、藍湛の手は微かに震えていた。
    「藍湛」
     何か、ごめん。
     どういう顔をしたら良いのか判らなくて、藍湛の肩に額を落とす。
     ぎゅうと俺を抱き締める藍湛は、暫く俺を離してくれなかった。
     ようやっと離してもらえた頃には薄らと空が明るくなっていて、随分と長いこと藍湛の腕の中に居たんだなと思う。
     そっと一歩引いた藍湛は、何も言わずに俺の手首を握り直してずかずかと砂浜を歩き出した。
    「藍湛……」
     まるで勢いよく放ったような鞄を拾って、藍湛はまた無言で歩き出す。
    「藍湛」
     名前を呼んでも振り向いてくれない。
    「なぁ、藍湛ってば……」
     呼び掛けても藍湛が反応してくれないなんてことは初めてで、何だか戸惑ってしまう。
    「藍湛ってば」
    「…………」
    「藍湛……」
    「…………」
    「…………」
     何も応えてくれない。振り向いてもくれない。それがどうしてか無性に悲しくなって。こんな情動は初めてで。俺は下唇を噛んで藍湛に引きずられるがまま、始発電車に乗せられた。
     そうして、俺の家の最寄り駅まで、藍湛は無言でずっと俺の手首を掴んだままだった。
     
     ※
     
     魏嬰が一人で海に行ったことは別に責めない。けれども、深くまで海に浸かっているのを見たら肝が冷えた。
     海は最期の場所だからだ。
     一人にしない。一人にさせない。そうやって飛び込んだ場所に魏嬰が一人で居ると判ったら、滅多に湧き上がらない怒りが込み上げた。
     また出逢おうと約束した。
     出逢ったばかりだというのに、すぐにどちらかを失う未来は考えてもいなかった。
     魏嬰が私のことを思い出さなくても。私は魏嬰の傍から離れてはいけない気がした。
     それから、私は毎日魏嬰にチャットを送るようになった。
     こんなこと、魏嬰相手でなければ絶対にやらないことだ。
     毎日送って、返事を待つ。
     魏嬰は比較的レスポンスが早いから、それを確認するまでは安心出来ない。
     夏休みも残すところ三分一となったところで、私は密かに話を進めていた指定校推薦の受験に無事受かった。
     その報告をチャットではなく電話でしようと思ったのは気紛れだったかも知れない。
     何なら直接会って報告したいくらいだった。
     どうせだ。中間地点である学校の最寄り駅付近で会うのも良いかも知れない。
     そう思って呼び出したコールは一向に繋がらない。手が塞がっているのだろうか。それなら仕方のないことだ。取り敢えずチャットを送ってみるが、やはりこちらも既読が付かない。
     暫く駅の近くのカフェで返事を待ってみても、何の反応も返ってこない。
     俄に不安が胸を騒がせる。
     この日は着信にもチャットにも、返事が返ってくることはなかった。
     たかだか一日返事が返ってこないだけじゃないかと思われるかも知れないけれども。
     私はサァ——と血の気が引く音を鼓膜の内側に聞いた。
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