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    absdrac1

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    absdrac1

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    記憶喪失になった小説家がふらりと青年の元へとやってくる

    紫陽花 その人は自らを小説家だと言った。真偽の程は分からない。何故なら、彼は嘘つきだったからだ。
     僕はその頃と或る大学でしがない絵の講師をしていた。その人と出会ったのは帰宅しようとして美術学科の棟を出た処だった。彼は今にも降りそうな空の下で、大学の中庭に植えてある紫陽花の側の階段に座り、深緑色の手帳に何かを書き付けていた。紫陽花の赤紫色を雨で滲ませ薄めたような色の長着と、雨の中に白い紫陽花を溶かしたような色の羽織を着ていた。宛ら彼が紫陽花のようであった。僕の眼を惹きつけて止まなかったのは、現代では見ることの珍しい彼の和装だけではない。然し、それが何なのかは分からなかった。
     僕の視線に気付いたのか、彼は此方を見遣ると微笑んだ。
    「紫陽花が綺麗に咲く時季になりましたね」
     話し掛けた相手は僕に違いなかった。僕は、そうですね、と返し、改めて彼を見た。見た、と言うよりも、絵を描く時のように観察した、と言った方が適切かも知れない。一言で言うと、彼は類稀に美しい姿をしていた。和装の端正な挙措は然ることながら、物腰柔らかな雰囲気と、何とも形容し難い色気を纏っていた。穏やかな笑みを浮かべる顔は、人形のように白く整っており、亜麻色の髪が柔らかく包み込んでいる。長い睫毛に縁取られた瞳の色は翡翠色で、光の加減で側に咲いている紫陽花のような赤紫色が混じって見えた。
    「文学部の学生さんですか?」
     僕は彼の手の動きから、手帳に記しているのが文字であると判断して、そう尋ねた。ひょっとすると、職員かも知れないが、そうであるならば、このような多少酔狂と言われても仕方のない格好をして、学内には居ないだろう。
    「いいえ、違うと思いますよ」
    「思う……?」
     彼は手帳を閉じると、少し考える素振りを見せながら答えた。
    「私はしがない小説家です」
     成る程、言われてみれば、そう云った雰囲気は確かにあった。普段から着物を優美に着こなし、道中で目に止まったものがあれば愛用の手帳に書き記す。僕が現在見ているのは、その様な彼の生活の一部なのだろう。然し、そうした納得も、彼の発した次の言葉で払拭されることになる。
    「実は私は百年前の過去からやって来た人間なのです。この時代では何もかもが新しくて、興を唆るものが多すぎますね」
     僕は当然、初対面の人間に平然と冗談を言う彼の頭を疑った。だが、小説家を名乗る人間に於いて奇人変人の含まれる割合は、他のカテゴリの人間よりも多いと云う可能性を僕は否定しない。
    「そうですか。例えばどのようなものに興味をお持ちになられましたか」
     彼の冗談に付き合ってやるのも悪くはない。此方も奇人変人の多いであろうカテゴリに属する人間だという自覚はある。
    「建物が高いですね。この棟はこの街で一番高いのでしょうか」
     彼は美術学科棟を指して言った。
    「まさか。この大学の構内を出れば、これより高い建物など幾らでもあります。例えば、シンジュクには天を摩する楼閣が、夜でも明かりを灯した儘で聳え立っていますよ」
    「そうなのですか。私の居た時代へ戻る前に、是非見ておかなければなりませんね」
     小説家はにっこりと笑って言い、近くの手毬咲きの紫陽花の萼片に触れ、
    「私の居た時代に、西洋から品種改良されたものが入ってきましたが、このように沢山咲いているのを見るのは初めてです」
    「この近くに様々な種類の紫陽花が咲いている寺があります。もしお時間がおありならば、案内しましょうか」
    「宜しいのですか」
    「ええ、丁度帰り道ですから」
     小説家は信玄袋に手帳と万年筆を仕舞うと立ち上がった。
    「では、行きましょうか」
     道すがら、僕らは彼が居たと主張する時代と、現代の差異に就いて色々と議論した。彼は歴史に就いて詳しかった。僕の質問に淀み無く、立板に水の如く答える。よくもそこまでいけしゃあしゃあと嘘が吐けるものだと思っているうちに、目的地である寺に着いた。彼は其処に咲いている沢山の紫陽花を見て感嘆の声を漏らした。
    「すごいですね。こんなに咲いているなんて。古来より紫陽花がお寺に植えられることの多い理由は諸説あります。六月は体調を崩す人が多く、病が流行し易い。この時季に亡くなる人々への弔花として用意されたものだとか、四枚の萼片が死を連想させるのだとか……」
     小説家は其処で言葉を切り、
    「それにしても、綺麗ですね」
    「貴方の居た時代の紫陽花も、美しさには代わりはないでしょう」
     彼はそれを聞くとくすくすと笑った。
    「紫陽花が観賞用として栽培されるようになったのはに入ってからです。それまでの価値観で紫陽花を評価していた者の見る眼と、それ以後の紫陽花に接する者の見る眼が同じであるとお思いですか」
     僕は彼の言葉に驚いたが、すぐには応じることが出来なかった。
    「今まで付き合って下さりありがとうございます。ええ、勿論、私は過去の時代から来た人間ではありません」
     然う、大正時代から来た人間が、昭和以降の紫陽花の栽培事情に就いて知っている筈がない。
    「SFごっこは此処で仕舞いですか」
    「そうしても構いません。ですが、今のこの状況は、私にとってまるで別世界へ来てしまったのも同然なのです」
    「と言うと?」
    「私には今朝までの記憶がないのです」

     嘘か真か、彼は記憶喪失の状態にあると言う。気が付いた時にはこの大学のキャンバスに居たらしい。記憶が無いものの、体に異常はない。僕に声を掛けるまで、学生達が構内を行き来するのを観察し、その様子を手帳に書き付けながら過ごしていた。何かを思い出そうとしても無駄であることは承知していた。成るようにしか成らないのだと、自然にそう云った行動に出た。然り、彼が何かを観察するのは習慣的なことであったのだ。その証拠に、手帳には既に、人や物事の観察記録が記されていた。其処に彼の過去に就いての手掛かりはないか探したが、自分自身の事に関しては書かれていなかった。只、手帳には現実世界の観察記録の他に、創作された物語と思しきものが記述されていた。自分は物書きだったのかも知れない。彼はそう考えた。
    「記憶を失ったのはよい機会です。自分自身の物語を書き換えるためのね」
     そう言って、自称小説家は楽しそうに笑った。
    「随分と楽観的なんですね。今後のことはどうする積りだったんですか。今晩過ごす場所とか、食事とか」
    「手段は幾らでも考えられます。差し当たっては警察に行けばよいし、その後で住み込みで働ける場所を探すのもよい。暫く経ってから、最近失踪した小説家のことでも報道されるかも知れない」
    「何故早く警察へ行かなかったんですか」
    「日が暮れるまでには時間がありましたし、あなたの様な方を捕まえてみるのもよいかと」
     僕は溜息を吐いた。
    「僕が貴方の思うような人間でなかったらどうするんですか」
    「あなたは未婚で一人暮らし。シャツのアイロン掛けが雑であることからも分かります。家では猫を飼っている。ズボンの解れは動物の爪が引っ掛かったことで出来たものでしょう。解れを繕ってくれる人は居ない。でも、屹度あなたは優しい人なのですね。猫は野良であったのを拾ってきたのでしょう」
     再度、僕は溜息を吐いた。小説家の言ったことは事実と一致していた。
    「宜しかったら、僕の処へ来ませんか。貴方の記憶が戻るまで」
     彼はにっこりと笑い、ありがとうございます、と礼を述べた。吸い込まれるように美しい笑顔だった。
     僕の家は駅から徒歩十五分程度の場所にある1LDKの賃貸マンションである。彼一人を受け入れるくらい訳はなかった。小説家を連れて帰宅し、改めて自分は何をやっているのだろうと玄関でぼんやりしていると、先に家に上がった彼に声を掛けられる。
    「有り合わせの食材で何か作りましょうか」
    「料理が出来るんですか」
    「ええ、恐らく」
     そう言って彼は冷蔵庫の中を物色している。僕は着替えて居間のテレビを付けた。台所の方から包丁が俎板を叩く調子のよい音が聞こえ、如何にも美味しそうな匂いが漂ってくる。数十分後には鶏肉と豆腐のハンバーグ、野菜の煮物と味噌汁が食卓の上に乗っていた。元野良であった飼い猫が餌を求めてやってくる。小説家は猫のために鶏肉を細かく裂いてやりながら、こう云うことは忘れないものなのですね、と独り言のように呟く。それから、僕の方を見て、
    「どうぞ、遠慮なさらず召し上がって下さい。勿論、毒など入れておりませんから」
     彼の作った夕飯は美味かった。僕が満足そうに食べている様子を見て、小説家は静かに微笑んでいた。
     その晩、疲れていたのか、小説家は居間のソファーに腰掛けた儘眠ってしまった。僕は彼をそっと横たわらせて毛布を掛けた。そうして、彼の毛布の中に猫が入り込んでいくのを見ながら、缶ビールを開けた。
     自分の記憶がないことを自覚し、知らない街で寄る辺なき一日を過ごすのはどう云う気分だろうか。記憶喪失である彼の居るべき場所はこの世界にはまだ存在していない。自分と云うピースが当て嵌まる箇所を探し求めて、白いジグソーパズルを見詰め続けている。それは相当のストレスを齎すことに違いない。彼の安らかな寝顔を見ながら改めて考える。初めてこの美しい小説家を見たときに、僕を酷く惹きつけたものは何か。――インスピレーションだ。水彩紙のスケッチブックを棚から取り出し、紫陽花の中に佇む彼の姿を描いていく。淡く滲んだ色合いの紫陽花と、淡く世界に溶け込むような彼の存在に、透明水彩で色を乗せた。――淡く世界に溶け込むように――この世界が彼にとって居心地のよいものになることを祈って、紫陽花のような彼の姿を描いた。僕は猫のムーサに語りかける。
    「我が家にミューズがもう一人増えたのだろうか」
     美しい顔をして嘘を吐く。全くけしからんと思った。然し、そんな女神が居てもおかしくはない。僕はスケッチブックを閉じると、居間の電気を静かに消した。

     その日から僕と彼との奇妙な共同生活が始まった。小説家は家事全般を引き受けてくれた。僕が大学へ行っている間は家で執筆をしているようだった。彼曰く、闇雲に何かを思い出そうとするよりも、書くことを切っ掛けにすればよい。上手く書けたものを出版社に持ち込めば、作風や文体のよく似た――そして、現在連絡の取れない作家の名を知ることが出来るかも知れない。そう言いながら、彼は原稿用紙に筆を走らせた。次の日には数篇の短篇が出来上がっていた。僕は読んでもよいかと許可を取り、それらに目を通してみた。幻想小説、本格推理もの、それに、ハードSF。彼の作風は極めて変幻自在であった。小説家であったと云うのは本当のことなのかも知れない。
    「初めて……記憶を失ってから初めて書きました。資料があれば、もう少しまともなものが書けると思います」
     僕は自分の勤め先である大学の図書館が、一般にも雑誌や書籍を公開をしていることを彼に教えた。そうして、時折彼は僕と一緒に大学へ出向くようになった。彼の容姿と着物姿は人目を惹く。大学構内で話題となるのは時間の問題だった。学生や職員が彼に声を掛けることも多くなった。僕にはそれが、何故か面白くなかった。
    「今日は私に声を掛けて下さった男子学生と喫茶店でお茶をしました」
     彼からこんな報告を聞く度に僕は苛立ちを募らせたが、表面に出す訳にもいかない。僕は夕飯に出された魚の身を解しながら、適当な言葉を探す。
    「それで、何か君の過去を思い出すことに収穫はあったのかい」
    「特にありませんでしたが、最近売れ筋のライトノベルの作品傾向を教えて頂きました。若い世代に売れそうな内容のものを書けば、出版社へ持っていけるかもしれない」
    「君は色々な作風のものを書くけど、どちらかと言うと純文学寄りだろう」
     彼は食卓の上に箸を置くと、僕に問い掛けた。
    「何をそんなに懸念しているのですか。あなたの心配することは何もありませんよ。それとも、大学で嫌なことでもありましたか」
     僕が内心この状況を快く思っていないことに、勘付いたらしい。
    「別に心配はしていないし、大学でも特に何もないよ」
     其処で彼は僕を茶化すように、わざとらしく婀娜っぽい視線で僕を見詰めた。
    「では、焼いているのですか」
    「それも違う」
    「それは残念」
     僕らはそれきり押し黙った。彼がこの家に来てから一週間が経っている。初めて言い争いのようなものをした。逆に言えば、喧嘩をする程度にまで僕らの仲は親密になっていたのだった。執筆用の小さな折りたたみ机が常に居間の片隅を占領し、彼の部屋着用の着物も一枚増えていた。食事を終え、手慣れた様子で台所を片付ける割烹着姿は、何時ものようには冗談を言ってくる気配がない。ソファーに横たわり就寝の準備をする彼を一瞥し、僕も寝室へ向かおうとした。そのとき、シャツの裾を引っ張られる感覚がした。其方を見ると、何時の間にかソファーに座り直していた小説家が、シャツを掴んで僕を見上げている。何かを懇願するような表情を浮かべている。彼は立ち上がると近付いて僕の手を握った。僕が彼の行動に唖然としていると、唇に柔らかいものが押し当てられた。嗚呼、キスをされているのだ――。僕には華奢な体格の彼を振り払う余裕が十分過ぎる程にあったのだが、それをしなかった。する必要がなかったからだ。僕は彼の細い肩と腰に腕を回して自分の方に引き寄せ、彼の口腔内へと舌を挿入した。彼を家へ招き入れた時点から、遅かれ早かれこうなることは分かっていたのだ。
     その夜、僕らは肌を合わせた。
    「あなた、先程嘘を吐きましたね。私でもないのに」
     彼はそう言って、僕の腕の中で楽しそうに笑った。
    「嘘を吐くことは何も君だけの特権じゃない」
     僕がそう返すと、それもそうですね、とやはり可笑しそうにしている。僕は彼を抱き締めて白い項に口づけを落とした。彼は少し声を低くして言う。
    「気を付けて。紫陽花には毒がありますよ」
    「知っている。それに移り気だ」
     外では静かに雨が降り出していた。瞼を閉じると、彼を連れて行った寺に咲いていた紫陽花が、雨に打たれている様子が浮かんでくる。雨夜の薄い闇の中で、紫陽花の葉と萼片は揺れ、ぼんやりと光って見えた。僕と彼は黙って雨声を聴いていた。
     ふと、何かに引っ掛かりを覚えた。これまでこう云う風に誰かと過ごしたことがあったかのような感覚を抱いたのだ。僕には恋人は居ない。共に夜を過ごす相手と言えば、ムーサくらいであった。雨の匂いと混じった人肌の甘い香りを、何処かで嗅いだことがあるような気がした。

     デジャヴは小説家と居るときに屡々起こった。僕は彼を以前から知っているような気がしたのだ。出版された彼の著作を読んだことがあるのかも知れない。その可能性に就いて彼に意見を求めると、最近執筆したと云う原稿を渡された。
    「私が誰なのか、思い出せますか」
     これは妙な具合だった。そもそも彼の記憶を取り戻すためなのだが、僕の記憶を呼び戻す行為のように感じられたからだ。小説家は凝と僕を見詰めてくる。当然だろう。僕が以前彼の著作を読んでおり、筆名を思い出せれば、彼にとって自分が何者かを知る大きな手掛かりになるのだ。だが、この違和感は何だろうか。僕は彼の原稿に目を通した。何処かで読んだことのあるような、いや、まるで知らない、いや、微かに記憶にあるような、いや、ない、ある、……。
    「……分からない」
     小説家は少々残念そうに微笑した。
     翌日、出勤してからもこのことは頭から離れなかった。僕は何かを忘れているのだ。それに就いて思い出そうとすると、靄が掛かったように思考が冴えない。次第に小説家ではなく、自分の方が記憶喪失になったかのように感じてくる。頭痛が徐々に酷くなり、その日は仕事を早めに切り上げた。数日前から雨が降り続いている。纏わりつくような湿気を感じながら、美術学科棟の玄関を出て傘を差した。小説家と出会った場所に咲いている紫陽花が、雨に打たれて揺れているのが見えた。
     帰宅すると、小説家は居間で執筆をしていた。「お帰りなさい。今日は早いですね」と、いつもの調子で振り返ったが、すぐに心配そうに僕の方へと寄って来た。
    「どうしたのですか。顔色が悪いですよ」
     そう言って僕の額に手を当てた。
    「大丈夫だよ。少し頭痛がするだけだ」
     考え過ぎだろうか。彼に触れられるだけで、僕の中で確立されていた何かが瓦解して、この世界の現実味が薄れ、全てが嘘のように感ぜられた。彼が吐くような嘘の世界だ。紫陽花のように毒があり、移り気で、淡く儚い夢幻を見せる。目眩がして、僕はソファーに座り込んだ。瞼の裏に張り付いた紫陽花が薄らと光っている。小説家が隣に来て僕の顔を覗き込む気配がした。眼を開けると、赤紫掛かった翡翠色の大きな瞳が此方を見詰めている。この眼差しを僕はずっと以前から知っている気がした。数日前に抱いたときの、彼の肌の芳しい香りを知っているように思われた。そんな筈はない。彼とは十日前に大学構内で初めて出会ったのだ。何もかもが分からなくなり、僕は混乱した頭を抱えて俯いた。
    「無理に思い出さなくてもよいのですよ」
     僕の背中を摩りながら小説家は言った。――思い出す。僕が。記憶喪失は僕の方なのか。僕は大学の講師をしている。T大学で〇〇年に学位を取得した。出身は……。自分のことを次々と列挙する。それは事実の筈だ。にも拘らず、それらは霞のように掴みどころのないものに思えた。夢の中の出来事のように実感が伴わない。嫌な予感がして、額に汗が滲んだ。僕は顔を上げて彼を見た。事実でない筈の、彼を以前から見知っているという感覚、そちらの方が僕の過去よりも遥かに強い現実感を帯びて、僕の思考を侵食していく。彼はその美しい顔を曇らせて僕を見詰め返してくる。嗚呼、この眼、この表情だ――。こめかみから汗が流れ落ちていく。
    「思い出さなくともよいと言ったでしょう」
     彼は細い腕で僕をそっと抱き締めた。
    会った日に、私はこう質問しました。『それまでの価値観で紫陽花を評価していた者の見る眼と、それ以後の紫陽花に接する者の見る眼が同じであるとお思いですか』。知っているのと、知らないのとでは眼が違うのです。君は私を知らない。だから、以前のように私を見ることはない。それは私にとって悲しいことですが、君はこの儘の方がよいのかも知れない」
    「……何のことだ」
     辛うじて掠れた声を発した。いや、分かっている。僕は知っているのだ。この小説家を。そして、知らないのだ。僕自身のことを。僕は確かに講師をして暮らしている。だが、T大学に居たと云うのは本当のことだろうか。物理量としての時間に個人の連続した経験を結び付けるものは、究極的には個人の信念しかない。人は、本質的にその瞬間のみを生きている。物的証拠など幾らでも偽造可能だ。現在、大学講師をしているからといって、過去もそうであったとどうして言い切れるのか。
    「私が君の物語を書き換えました。君は、記憶喪失なのです」

     花瓶に生けられた紫陽花、雨だれの音、土の湿った匂い。濡れた髪と冷えた肌同士を触れ合わせて僕らは情交をしていた。其処が何処かは分からない。只、湿って冷たい素肌から彼の持つ熱が徐々に伝わってくる感覚を覚えている。暗がりの中に浮かび上がる白い肢体と、僕を見詰めてくる翡翠色の瞳があった。強くなっていく甘い香りと、僕の名を呼ぶ声。そう云う光景が脳裡に浮かんだ。

    「君は一体誰なんだ」
     彼は子供をあやすように僕の身体を摩りながら言う。
    「私はしがない小説家です」
     初めて出会ったときの台詞その儘だ。違う、聞きたいのはそう云うことではない。僕は彼の肩を掴んで強引に離れさせた。
    「僕は記憶喪失だと君は言う。一方の君は自分が記憶を失ったかのような演技をしていた。それは何のためだ。僕は君を知っているような気がする。君は一体誰なんだ」
    「最初の君の質問の答えですが、私が君の物語を書き換えているからです。君自身が記憶喪失だと云うことを忘れさせ、平常の生活を送らせるためでした。次の質問ですが、最初の質問にも関わってきます。答えは、分かりません。私が君の物語を書き換える代償として、私も自分の記憶の大半を失いました。自分が小説家であったこと、君の知人だということ、君の物語を書き換えたと云うこと、その理由、君に就いての記憶は残っています。然し、君と同じく、自分が何者かは分からないのです」
     小説家は長い睫毛を伏せながら言った。
    「では、僕は一体誰なんだ」
    「君は、長い間闘病生活を送っていました。患者数の少ない、とても難しい病気だったのです。病状は徐々に悪化していきました。君は忍耐強い人でした。闘病の辛さなど周囲の人には微塵も見せませんでした」
    「君は僕の物語を書き換えたと言った」
    「君に幸せに生きて欲しかったのです。君のそれまでの記憶を消し、新たな人生を物語として構築する。私のような小説家に出来ることはそのくらいでした。君は病気になどならず、大学に進学して好きな絵を学び、美術学科の講師となった」
    「だが、僕は君のことを確かに知っている……」
     その時再び酷い頭痛に襲われた。
    「君が私のことを思い出したら、物語に矛盾が生じてしまう。この儘でよいのです」
     僕は苦痛に耐えながら、何とか声を絞り出した。
    「僕は先日君を抱いた。恐らく、記憶を失う以前もだ。僕と君はそう云う関係だったんだ。僕は真実が知りたい」
     小説家は首を横に振った。
    「真実とは相対的なものでしょう」
    「一口に真実と言っても、幾つかの種類がある。僕が知りたいのは物語上の出来事ではなく、現実世界の事実のことだ」
    「現実世界も視点によって事実の捉え方が異なる。事実を直接知ることは出来ず、出来るのは観察した現象から事実であろうと推測されるものを解釈することだけです。それは観察者に拠って異なるもの。物語が語り手に拠って語られるように、世界も観察者に拠って観察される。この世界で起こる事象も、君にとっての真実に成り得る筈です。実際、君はこれまでこの世界が現実だと思って暮らしていた。いいえ、、そうなのです」
    「だが、其処に疑問が生じた。この世界は既に矛盾し始めている」
     小説家は哀しそうに俯いた。
    「もう、そのようなことを考えるのは止して下さい」
    「君も記憶を失った儘だ。それでいいのか」
    「私は今、幸せです。記憶を失くしても君とこうして一緒に居られる」
     彼は僕の顔を縋るように見詰めた。その瞳に紫陽花の赤紫が滲んでいく。居た堪れなくなり、僕は部屋から飛び出した。
     雨の降る街を傘を差さずに走った。どうせ、嘘の世界だ。雨に打たれることなどない――。そんな気持ちとは反対に、僕のシャツは濡れていく。見慣れた街を無秩序に走り回り、初めて彼と出会った紫陽花の寺まで来た。僕は走るのを止めて、寺の門を潜った。沢山の紫陽花の何割かは枯れ始めていた。あれ程までに色彩豊かであった世界が色褪せていく。僕は呼吸を整えながら庇の下の石段に座った。
     喩え苦しい闘病の人生であっても、僕にはそれを受け入れて生き抜く覚悟はある。彼のしたことは間違いだった。僕は確かに彼を愛し始めている。然し、以前そうであったと思われるようには彼を愛することはできないだろう。彼に過去の僕の記憶があり、彼は僕を以前と同じように愛してくれるのにも拘わらずだ。僕は戻らなければならない。彼も記憶を完全に取り戻さねばならない。
    「君がその方がよいと考えても、私にはその世界の事実に堪えられません」
     振り向くと、雨の中を息を切らした小説家が佇んでいた。髪や肌はすっかり濡れそぼって、大粒の雫を滴らせている。淡紅色の着物もぐっしょりと水分を含んでしまっている。僕は彼の処へ駆け寄ると、その細い体を抱き締めた。
    「僕のために君が犠牲になる必要はない」
    「これは私の我儘です。分かっています。どうか君に幸せに生きて欲しい。それが私の幸せなのです」
    「僕は多分幸せだったのだと思う」
    「以前の君と同じことを言うのですね」
    「僕らは以前の儘でも幸せに生きられる。物語は事実を歪めるためにあるんじゃない。現実を生きる人に力を与えるためにあるんだ」
    「私が病床の君に即興で物語を作って聞かせたときも、君はそう言っていました」
     その声には諦念が滲んでいた。僕は彼の顔を見詰めた。頬を伝う水滴が涙のようにも見えた。
    「物語を元に戻してくれるかい」
     彼は黙って頷いた。

       * * *

     雨粒が静かに病室の窓硝子を伝い流れていきます。雨はよい。汚いものも綺麗なものも、何もかもが押し流されて、それが止むと、全てが初期状態に戻った青空が広がります。あの世界は、雨に煙る世界の見せた幻のように、夢物語として消え去るのでしょう。そうして、雨が止む毎にその記憶も薄れていく。彼は何も覚えていません。知っているのは物語を書いた私だけ。
     ベッドに眠る彼が身動きをして、双眸を開けました。青みがかった瞳が傍らに座る私を捉え、優しく微笑みます。
    「ご免。見舞いに来てくれていたんだね。そろそろ来る頃だと思っていたんだけど、寝てしまったようだ」
    「今日は気分がよさそうですね」
    「そうだね。お陰でよく眠れた。とても懐かしい夢を見たよ。君と初めて出会った頃の夢だ」
     この世界では、彼は過去の私を思い出してくれます。それは私にとって幸せなことなのかも知れません。過去は一つの物語です。私が作った物語のように、真実であるとは限りません。私にとってそうであるように、彼の思い出す物語も、彼と私との大切な日々であって欲しい。
     ――嗚呼、君は今、幸せなのですか。あの世界で手に入れた健やかな体での人生よりも、私との物語を取ってくれるのですか。
    「他にも不思議な夢を見たよ。僕が病気に罹患せずに絵の勉強を続けて、大学で美術講師をしているんだ。そうして、こんな梅雨の時季に君に出逢う。僕達はその世界でも恋人同士になる」
    「病気にならない人生、それが君にとって真実であればどんなによいか……」
    「僕は今の人生で十分満足しているよ」
     君が然う答えるのは分かっております。けれど、私はそのような君を見ているのが辛いのです。戻さないと云う選択肢もありました。別の新たな物語を書くと云うことも出来ました。君の幸せのためならば、君を裏切ることも厭いません。然し、私には分かりませんでした。何が本当に君の幸せなのでしょう。
    「夢野、泣かないで」
     何時の間にか涙が頬を伝っていました。彼は上体を寝台から起こして、私の頬に触れます。
    「僕にはその涙を拭うことが出来る。そう云うことだよ。君だってそうだろう」
     彼に言われて、私は曖昧に頷きます。けれども、一つだけなら分かります。私が彼にしてあげられること――。
    「では、本日はどのような物語をお聞かせしましょうか――」
     この世界での物語が続いていきます。サイドテーブルの花瓶に生けられた青い紫陽花が、その物語を聴いているかのように、静かに揺れた気が致しました。
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