故郷(ふるさと) その2 天谷奴と夢野の奇妙な関係に就いて、青年が何時から知っていたのかは分からない。
青年は沈黙した儘で天谷奴の写生を続けている。仄かに笑みを浮かべ、時折此方を見遣る。本当に優しそうな好青年である。
天谷奴は改めて青年と初めて対面した時のことを思い出す。老舗の料亭で、彼は礼儀正しく天谷奴に挨拶をした。大学で講師をしているとのことであったが、理知的な雰囲気に加えて育ちの良さが窺えた。夢野が化粧室へ行っている間に、彼と二人だけになった。暫く青年の専門である美術の話をしていた。天谷奴も美術関係の知識が少しだけある為、会話は其れなりに続いていた。ふと、青年が話題を変えた。
「実は、僕たちは駆け落ちをしてきたんです」
天谷奴の眼を見詰めてそう言った。青年の瞳が海のように綺麗だと知ったのはこの時であった。然し、海が綺麗なだけではないことは、漁村で育った天谷奴はよく知っていた。美しい青色が濁って灰色になっていくと、海は荒れた。この若者も屹度同じなのだと天谷奴の第六感が告げていた。
「ふうん。駆け落ちかい」
想定の範疇であった為、大して驚くこともなかったが、青年の方も天谷奴の反応を意外だとは思わなかったようだ。その儘続けて仔細を述べた。
「僕の実家は元は村の地主でした。夢野とは高校時代からの付き合いですが、両親は跡取りとなる僕には別途見合いを勧めていました」
よくある話であった。資産家の息子と平民の娘との身分違いの恋だったと云う訳である。
「家を出ると告げると、両親は僕を勘当しました。あの場所に何の未練もありません。然し彼女は、年老いた養父母のことを酷く心配しています。そこで、天谷奴さんにお願いがあります。彼女を一度、故郷へ連れて行って下さい」
「そいつは一寸出来ねぇ相談だな。帰してやりたいのなら、お前さん自身が動くべきだ」
「僕はもうあの村へは帰れません。お願いします」
青年は深々と頭を下げた。村へ帰れないのは天谷奴も同じであった。この若者は自分たちが天谷奴と同郷であることを知らない。天谷奴とて知られたくはない。自分自身ですら思い出したくない過去である。他人に知られるなどまっぴらであった。
「お前さんは夢野を此処まで連れて来た責任を取るべきだ。他に頼るんじゃあねぇよ」
青年は暫く沈黙した後で頭を上げた。
「仰る通りですね。分かりました」
潔くそう言った後で、再び何かを沈思している様子である。そこへ夢野が戻ってきたので、話はそれまでとなった。
結局、天谷奴が夢野を連れて故郷へ帰ったことはない。
天谷奴は自身を振り返る。青年にはああ言ったのにも拘らず、自分こそ夢野に頼っていたのであった。
青年と会った後で始まった、夢野との不思議な関係は比較的長く続いた。
夢野の添い寝と物語は、確かに天谷奴に睡眠を取り戻させ、同時に性欲も回復させていた。自分のすぐ側に若く美しい女の体があると云う事実は、否応なく天谷奴にそれを欲させた。女など何人も抱いて来たが、彼女が欲しいという気持ちは何処か通常の性欲とは異なっていた。
気付けば、物語を語っている夢野の体を無意識に抱き締め、襟元を寛げていた。白い項から艷やかな肩までが顕になる。着物に付いた沈香とは別の、彼女本来の芳香が鼻腔を擽った。女の体など見慣れている。だが、現在目の当たりにしているものは違った。衣越しに幾度か触れたことのある体が、こんなにも美しいものとは思わなかった。彼女の着物は半分程度脱げて、真白い背中が晒されていた。細い骨格は妙なる彼女の構造を示していた。その上に覆われた皮膚は滑らかな陶磁器のようで、少しばかりの粗もなかった。只、背骨の曲線と肩甲骨の凹凸が、微妙な波打つ曲面を作り出している。それは下方にまで流れていき、腸骨で緩やかに折り曲がる。人肌とは異なる肌理を見せる衣は、夢野の柳腰を僅かに見せて、下半身の大部分を覆い隠していた。今、彼女に触れればその完璧な立体形状と質感を感ぜずには居られないだろう。天谷奴は視線を伏せた。
夢野は驚いて離れようとしたが、既に抑え込まれた時点では、天谷奴から逃れるのは容易ではない。無論、天谷奴もそれ以上のことをする積りはなかった。心地よさと眠気が襲っていた。彼女を抱きたいと云う欲求は確かにあったが、睡眠への欲求の方が深かった。
悪かった、と謝って夢野から離れようとしたとき、逆に彼女から抱き締められた。抱きつく相手が違うだろうと云う言葉は飲み込まれた。夢野の胸は温かかった。故郷である寒々とした北の港の風の肌触りとは違っていた。天谷奴の内にある回廊で、故郷の風景画が夢野の横顔の絵に置換される。
「人には自分の物語を作るという作業が必要なのです」
思えば夢野が天谷奴に語った物語は、人ひとりの人生を綴ったものが多かった。彼女は天谷奴の人生の可能性を見つけようとしたのかも知れない。
「それが嘘の物語であってもか」
夢か現か分からぬ間で天谷奴は尋ねた。
「嘘が真実になることだってあります」
そう言って、再び夢野は天谷奴を抱き締めた。抱き締めると云うより、縋り付いているようにも思えた。先刻の言葉も、まるで自分自身に言い聞かせているように聞こえた。
青年と夢野は入籍した。式はふたりの極親しい友人たちだけで行われた。それには何故か天谷奴も含まれていた。
初秋の空は高く澄み渡っていたが、夏の暑さは残っていた。外へ出ると、まだ青々とした広葉樹の下を、木漏れ日に打たれながら歩く夢野の白無垢姿があった。枝葉の影が衣の上に動く不思議な文様を描いていた。紋付袴の青年が彼女の手を取った。着物の紋は通紋である。その上に木々の葉が影を落とす。まるで新しい家紋のように見えた。
彼らは遠い北国から何も彼もを捨てて来た。それ迄の人生を嘘の物語で塗り替えた。彼らの物語は、果たして真実になったのだろうか。それとも所詮は洞窟の中にある影に過ぎないのか。
夢野は結婚写真を養父母へと送っていた。美しい写真であった。其処に映っているのは幸せそのもののふたりの姿である。光に溢れ、翳など微塵も感じさせない。然し、光は何処かに陰を作っているものだ。その暗さが如何ほどのものであろうとも――。
「もう俺の家には来るな」
天谷奴は二人だけになったタイミングで夢野に言った。夢野はこの言葉を予期していたのか、はい、と素直に応じた。只、一言だけ付け加えた。
「天谷奴さん、大丈夫ですか」
「大丈夫だ。そもそも、お前の子守唄なんざ必要ねぇよ」
それ以来、天谷奴は夢野の肌を見ていない。
* * *
紙の上を滑る鉛筆の音が止んだ。青年がスケッチブックから眼を離し、天谷奴の方を見ていた。
「終わったのか。速いな」
青年はスケッチブックを差し出して、描いたものを天谷奴に見せた。相変わらず精密で精確な絵だ。隙のない、とでも表現すべきか。椅子に座る中年男性が写真のように描かれているだけでなく、その人物が思い出に耽っていることまでもが読み取れる程の繊細な表情を再現している。画家は、対象の外観のみでなく、その中身までも見て描くのではないかと思える。例えば、裏に隠れている構造、その機能や能力、或いは思考さえも――。
「一体何を考えていたんですか」
青年が尋ねた。
「こんなに描けるのなら、分かっているんじゃないか」
多少の皮肉を込めてスケッチブックを返すと、青年は微笑してそれを受け取る。
「僕は超能力者ではありませんよ。妻のように観察力や洞察力がある訳でもない。只、有りの儘を紙面に映し出せるだけです」
「絵と言葉は違うのか」
「連続しているとは思いますが、絵の持つ言語的な能力が急激に落ちる箇所がある。僕はその落ちた更に先の場所で絵を描いている感じがします」
そんなものかと思いつつ、一郎のことも思考に呼び戻す。青年は気付いている。さて、二人はこれからどうするのか。自分はどう動くか。
ふと気付けば、青年の顔から笑みが消えている。天谷奴を真直ぐに見据えていた。
「僕は何時まで入院しているのか分かりません。以前は一度断られましたが、再度お願いします。彼女を故郷へ連れて行って貰えませんか」
「何だって何時も俺に頼むんだ」
「貴方も似たような境遇でしょう」
序に自分のことも処理してきてはどうかと、暗に青年は言っている。天谷奴が同郷であることも彼は何時しか知っていたのだ。
「俺は別に女と駆け落ちしちゃいねぇよ」
「故郷を捨てて来たのは同じです」
天谷奴は懐の煙草の箱に手を触れた。すぐにここが病院だと思い出し、心中で溜息を吐く。
「一郎に頼めばいいじゃねぇか」
天谷奴が何かしら動いていることを、青年は既に気付いている。ならば、此方も直球を投げてもよいだろう。断られることを予想しながら提案した。
「一郎さんですか」
青年は呟いた。意外にも考え込んでいる様子であったが、暫くして苦笑しながら答えた。
「やはり、彼は駄目ですね」
「駄目か」
天谷奴が大袈裟に驚いてみせると、青年は呆れたように笑みを浮かべた。
「一郎さん次第では、貴方の喜ぶ方へ事態が転ぶかも知れませんが、僕がそうさせないのは分かっているでしょう。本当に一体貴方は誰の味方なんですか」
自分の味方になってくれたのは夢野以外には居なかった。
「俺は俺自身以外の誰の味方でもねぇ」
そう言って、青年から窓の外へと視線を移した。故郷へも続いている空は、梅雨らしく曇っていた。
本当に残酷な夫婦だ――。天谷奴は青年に聞こえないように呟いた。