Bride's perfumeSide:L
研究所に入った瞬間、リンクは顔をしかめた。
朝一番に訪れたハテノ研究所の中は、爽やかな外の空気とは正反対に、とても甘ったるい匂いに満たされていた。
「これ…何の匂い」
ゼルダが持ち帰っていた本や資料を、ここハテノ研究所に返却するために運んで欲しいと頼まれてやって来ていたリンクは、室内にある机の空いている場所に適当に抱えていた物を置くと、開口一番にそう質問した。
「ぉ、サンキューリンクゥ。助かったヨ」
何やら熱心にレポートらしきものを書いていたプルアは顔を上げ、そして。
ふっふ~ん、よくぞ聞いてくれましたとばかりに、胸を張って、言った。
「これは興奮剤よ」
「……は」
「もとい香水よ」
「え、今『興奮剤』って、言ったよね」
もとい、とは。
間違った言葉を言ってしまった時に、打ち消す意味合いで使われる言葉。
いやしかし、興奮剤と香水。
間違えるにも程がありはしないか。
最初の『こう』という文字しか合っていない。
胡散臭そうに見つめてくるリンクに、プルアは失礼ね~と言いた気な表情で反論してくる。
「何、その胡散臭そうな顔ちゃんと香水よ~普通の人にはね」
「…は」
本日2度目の、疑問符。
普通の人にはって、何
もう突っ込むのもいい加減面倒くさいが、突っ込まなければこの会話は終わらないのだろうとも思う。
実際、リンクが問い掛けもしないのに、今は少女の姿をしたハテノ研究所所長は、ペラペラと喋り始めた。
「これは普通の人間同士には、ただの香水の効果しかないんだけど…お互い心寄せ合う人間が使用すると、興奮剤の効果が得られるというしかも、保湿性バッチリの、潤い効果付き。一石二鳥どころか、一石三鳥の効果を持ち合わす、優れものなのヨ」
「……へぇ」
また何てトンチキなものを作ったんだろう…と思いながら、無感動にリンクは返事をする。
本当にリンクには興味がないものだったからこその反応だったが。それよりも、興味があるように捉えられて、面倒事に巻き込まれたくない、という思いの方が強かった。
だが一応、説明を受けたからには。
なぜそれを作ったのか、という至極当然に行きつく疑問を、投げ掛けてみた。
「で…何でまたそんなの、作ったの…」
なになに、リンク。気になるのとでも言いた気な視線を向けられ、早くも聞いた事を後悔しかける。
「それはね。村に、恋人の相手が本当に自分を好きなのかどうか分からないて悩んでる子がいるみたいで。ちょっと人助けのつもりで、作ったってわけ」
「ふぅん…」
「何よ、リアクション薄いわねぇ~
この香りで反応があれば、相手に脈あり。何もなく、相手にただの香水の効果しか見受けられなければ、脈なしって事」
いわく、異性と付き合ったばかりの女性や結婚直前の女性などは、あの人は本当に私の事を好きなのかしら
本当にあの人と結婚してしまってもいいのだろうかと、思ってしまう時期があるらしい。
「そんな時にこれ使うと、相手の本心が分かるって事よだからさしずめ、『花嫁のための香水』ってとこかしら」
そんな、いい感じの名前思い付きましたみたいに言われても…
所詮、興奮剤なんでしょ
と、冷めた感想が思わず口から飛び出しそうになる所を、すんでのところで止めた。
「普通の人同士では、何も起こらない事は既にシモンで立証済み。あんたも、別に何も感じないデショ」
「うん、まぁ…」
ただ濃厚過ぎるこの香りに、頭が痛い、と思うくらいだ。
例えるとしたら、むせ返るような花の香り、とでも言おうか。
「後は、好き合ってる者同士の立証が出来れば、この香水は完成なんだけど…」
またブツブツ言いながら、リンクには難解すぎて分からない文字や図形を書き並べる作業に移ったプルアを、横目でそっと伺いながら。
リンクはそのまま黙って研究所を出た。
このまま居座って、実験台にでもされては敵わない。
今日は、この後ゼルダと出掛ける用事があるのだ。
リンクは村の外れにある、自分の家への帰路を急いだ。
ゼルダが温泉に入ってみたいと言うので、今日は研究所にリンクが荷物を運んだ後、2人で温泉に行く約束をしていた。
幸い、村からまぁまぁ近い距離に温泉があった。
タルホ台地を抜けてトヒキ池方面に回り、少し岩肌を登った先だ。
馬を駆ければ、数時間もあればたどり着く。
以前は数匹のボコブリンがうろついていたが、今はその姿も見えないトヒキ池で馬を降り。
そこからは、徒歩で岩場を登っていく。
すると、間もなくほこほこと湯気をたてる、小さな温泉が見えてきた。
「わぁ…っこんな所に、温泉があったのですね全然、知りませんでしたっ」
キラキラと目を輝かせながら、ゼルダが無邪気に喜ぶ。
ゼルダから要望があればよほどの危険がない限り、基本リンクはどこへでも連れて行くが。
例えそこがどんな大変な場所であろうとも、この笑顔を見れるだけで、連れてきて良かったと、ただただそう思える。
早く、入ってみたいと、ウキウキとした様子を隠せないゼルダを、リンクは微笑ましく見つめる。
「俺はあっちの岩場の方に行ってますので、どうぞ」
ゼルダが着替えやすいように、自分は岩場の裏手側へと回る。
一応、お互いに思いを伝え合って、晴れて恋人となった仲ではあるが。
それでも、リンクの中ではゼルダはかつて主だった王国の姫君であった事に変わりはない。
だから、着替える所をじろじろと不躾な視線を注いで良い相手では、ないのだ。
リンクはリンクで、岩影で手早く着ていた服を脱ぐと。
下履きの肌着だけ身に残して、人足先に温かい湯に身体を浸した。
ふー、と湯の中で手足を伸ばし、身体を浮かせていると。
遅れて向こう側から、パシャ…と水音が聞こえてきた。
自分達は恋人同士でしかも同じ屋根の下で暮らしているが、風呂はいつも別々で、一緒に入った事はなかった。
もちろんリンクは健全な年頃の男の子なので、好いた人の生まれたままの姿に興味がないと言えば嘘になるけれど。
元騎士の性なのか。元来からの生真面目な性格だからか。そういう事は、ちゃんと夫婦になってからでないとダメだ、と思うのだ。
だから、危ない時にふと手を差し出したりするなど、そういった時以外には必要以上に触れないようにもしていた。
調子に乗ってゼルダに触れると、色々我慢できなくなってしまうから。
お互い想いは同じだったのだと知り、恋人となれた時は感極まって口付けを交わしたりもしたが。
それ以降は、本当に数える程しかしていない。
今日も、ゼルダが温泉に行きたいと言ったから連れてきたけれど。温泉と言えば自然とお互いに肌の露出が増えるというわけで。顔には出さないようにしていたが、内心ずっとドキドキしている。
岩肌からちらりと顔を覗かせると、肩まで湯に浸かったゼルダが、自分と同じく手足を伸ばして寛いでいる様子が伺えた。
もちろんリンクと同じく、一糸纏わぬ姿ではなく、体を隠すための布ー巻きタオルというらしいーを巻いている。
しかし湯から覗き出た腕の、あまりの白さ。
水滴を弾いて煌めく肌に、湯気で血色良く色付いた紅色の頬。
ゼルダの全てがリンクの心臓に早鐘を打たせて、思わず明後日の方角に目を逸らす。
だがゼルダを全く視野に入れず、もし彼女に危険が及んだ場合対処が遅れてしまっていけない、と思い返し。
またちらり…と様子を伺う。
こちらがちらちらと視線を送っている事が分かったのか、ゼルダと目が合う。
ゼルダはちょっと顔を赤らめながら微笑み、やがてリンクに向かって手招きをした。
一緒に、隣で湯に浸かろう、と言っているのだ。
だがリンクは、静かに首を横に振った。
ゼルダの隣になんて行ったら、今でも心臓が喉から飛び出るんじゃないかって程動揺してるのに。
何をしでかしてしまうか分からない。
誘ってみたけれど、あっさりと拒否の反応を示されてしまい、ゼルダは少し寂しそうに瞳を曇らせた。
が、しかし。それ以上の追求をしてくる事はなかった。
しばらく、お互い離れた場所で身に染み渡るような温泉の恵みを、味わう。
ゼルダの事は気になりつつも、じっくり見ている事はできなくて。何となく見上げた視線の先に、コログが1匹カラカラと音を立てつつ宙に浮いているのが見えた。
そう言えば、あいつここにいたよな…と、のんびりそんな事を思っていると、やがて向こう側から水音が聞こえた。
目をやると、ゼルダがちょうど湯から上がり、近くの岩場に腰かけている所だった。
ずっと湯に浸かっているままだとのぼせてしまうから、クールダウンするために、一旦上がったのだろう。
ゼルダが座った岩場はそんな高い場所ではなく、足を出せばちゃぷん、と湯面に当たり、小さな飛沫を上げる。
それを幾度か繰り返し、跳ねた飛沫が湯面に波紋を付けるのを楽しんでいる姿を見ると、可愛いな…という気持ちがムクムクと沸き起こってくる。
危ない、危ない…
気を抜くと、すぐに変な方向へ走ろうとする気持ちを宥めるため、また視線をゼルダから逸らす。
さっきからずっと、そんな事の繰り返しな気がする。
何だか頭がぼんやりするし、自分も一旦上がった方がいいのかな。
そんな事を思っていると、ゼルダがまた動いた気配がした。
ゼルダは荷物置き場に行っていたようで、何やら瓶を1つ手に持ち、すぐに戻ってきた。
そしてその中身を手に取り、腕や首まわりに塗り始めた。
(保湿剤か何かかな…)
女性の肌に、乾燥は大敵だ。
今はすっかりハテノ村に馴染んだとはいえ、元はハイラル王国の姫君。
念入りに肌の手入れを行うのも、当然というもの。
保湿剤を塗りながらクールダウンしているゼルダに倣い、自分も1度湯から上がるか、と思っていたところに。
(え…)
風に乗って、ふわりと鼻を掠めた香りに、体が固まった。
(これって…いや、まさか…)
木々に囲まれひっそりと存在する秘湯の温泉に、不自然な花の香り。
確かに周囲に幾らかは咲いていたかと思うが、こんな風に香る程ではない。
だいたい温泉の周りの花が香るなら、温泉に着いたその時に気付くはずだ。
ではこの香りは、どこからやってくるのか。
リンクはまるで機械仕掛けの人形のように、ギギギ…とゼルダの方向へと首を向けた。
鼻歌を歌いながら上機嫌な様子で、瓶の中身の液体を手に取り、肌に塗っているゼルダ。
研究熱心なゼルダのことだ。自分で作った物の効力を試すために使っているのかもしれない。
リンクは、あらゆる可能性を求めて色々な推測を思い浮かべた。
しかし人はそれを、現実逃避と言う。
残念な事にリンクはこの香りに、覚えがあった。
しかも、忘れ去るにはこの香りは、あまりにも印象が強すぎた。
もし自分の推測が当たっているのなら、ゼルダに今近付くべきではないのかもしれない。
だが真相を確かめなければ気が気でないし、そうなると帰る方法もどうするか考えなければならない。
そもそも、ゼルダがなぜあの香りの元となるものを持っているのか。
色々な考えを頭の中でごちゃ混ぜにしながら、リンクは岩場に上がろうとした体を返し、ザブザブと音を立てながら、ゼルダの元へと一直線に歩いていった。
急に水音がするものだから、顔を上げてみると。
何と先程まで離れた場所でこちらを時折伺う事しかせず、折角温泉に来たのだから側で一緒に温まらないかと言外に誘ってみても、首を振り頑なにこちら側にやって来なかったリンクが、突然湯を掻き分けて近付いてきていたので、ゼルダは大きく瞳を見開いた。
「リンク…どうしたのですか」
「ゼルダ、その瓶の中身って…」
側までやって来たリンクが指差すので、きょとんとした顔で手にした瓶を見つめる。
「これですかこれは、保湿剤だと言われて貰ったもので…」
貰った。やっぱり。
誰に
そんなの、決まってる。
「ゼルダ、それってもしかして、プルーーー」
そこまで言い、リンクの瞳は頭の上を何かが風のように通り過ぎたのを見た。
それを確認するより前に、耳が楽しそうな声を捉える。
「ゥワァイヒメミコサマダーーーーッ」
「ーーーッ」
リンクの目に、全てがスローモーションのように映る。
リンクの頭上を通りすぎ、ゼルダに向かってタックルをかますー多分本人は抱きつこうとしているーコログの姿。
リンクの目には見えるものだが、ゼルダからしてみれば、突然何もない場所から衝撃を与えられたようなもの。
ゼルダの座っていた場所はリンクが立つ位置からそれ程離れていない場所だったが、あまりの出来事に声も上げることもできず落ちてくるゼルダを、リンクは咄嗟に両手を広げて受け止めた。
直後、派手な水飛沫が上がったが、人並み外れた反射神経を持ち合わせた甲斐があって、ゼルダが顔面から温泉の中に落ちることは回避できた。
「きゃあっリンクごめんなさい」
「……、っ」
腕の中に落ちてきて、ようやく悲鳴を上げたゼルダの声に、言葉を詰まらせる。
受け止めたゼルダは、どこもかしこも柔らかかった。
いや、それよりも。
ゼルダが湯の中に入った事で、あの花の香りがより一層立ち上った。
なぜだろう。研究所の時は、濃すぎる香りで頭が痛い、としか思わなかったのに。
今は、ゼルダがタオルを巻いていない腕から。その細い首筋から。立ち込める香りが、リンクの頭を痺れされる。
ひどく、甘い香りだ。
だが、単なる頭痛とは違った痛みで。
それはリンクの脳裏を襲う。
リンクは、奥歯を噛み締めて、顔を伏せた。
「リンク…」
リンクの様子がおかしい事に気付いたゼルダが、心配そうな表情で覗き込んでくる。
警戒心を全く持たない瞳が、無意識にリンクを煽る。
「ーーゼルダ、さっきの…プルア、から…」
「…はい、リンクと温泉に行くのだと言ったら、保湿剤だと言ってプルアがくれました」
あの人…温泉に行く事、知ってたのか…
知っていて、わざと研究所に1人でやって来るリンクに、香水の説明をしたのだ。
対して、ゼルダはどうしてプルアから貰ったことを知っているのかと言いた気な表情だ。
この様子だと、ゼルダは渡された瓶の中身の説明を受けていないのだろう。
本当に、ただの保湿剤だと思っているのだ。
(村に恋人の相手が本当に自分を好きなのかどうか分からないって悩んでる子がいるみたいで…)
麻痺する頭の中で、やけに鮮明にプルアの朝の言葉が再生されていく。
恋人の相手が本当に自分を好きなのかどうか分からないと悩んでいる子…
それはきっと、他でもないゼルダの事で。
では自分を好きなのかどうか分からないと思われている恋人とは…
(もしかして…俺の事なのか)
頭を鈍器で殴られたような衝撃に襲われた。
リンクとしては、ゼルダの言う事は何でも聞いてあげたくて、いつでも優しく接していた。
でも自分の衝動に任せてゼルダを傷付けてしまうのは怖くて、壊れ物を扱うように、慎重に丁寧に接した。
恋人となったといえども甘い雰囲気なったりする事もあまりなく、2人の日常生活はいつも通りに過ぎていった。
それが、乙女心を持つゼルダには、少しばかり寂しかったのだろう。
だが。しかしだ。
例えそれが真実だったとしても。
こんな所で、しかも興奮剤だか香水だか何だか分からない物の効果に流されるような形で、触れてしまって良い人では、決してない。
リンクは、最後の理性を振り絞って、今日の朝方プルアから話された事を、洗いざらいゼルダに打ち明けた。
苦し気に、だが最後まで言い切ったリンクに、ゼルダは驚きを隠せない様子で呟く。
「プルアが、そんなものを…」
全てをありのままに話し、今の自分の状況を知られるのはいささかバツが悪かったが、そんな事を気にしている場合ではない。
一刻も早くゼルダに今の現状を把握してもらい、この保湿剤もとい香水の効果が切れるまで。
もしくはこの温泉の湯で身体に付けた香水を全て洗い流してもらって。
とにかく今は一瞬でも早く、自分から離れてもらわなければならない。
そうして、肺に吸い込んでしまった香水を全て吐き出すかのように、深く深く息を吐き。
心を十分に落ち着かせてから、ゼルダに回している腕を解こうと手の力を緩めた。
なのに。
あろうことか、ゼルダは。
逆に、リンクの身体にピタリと寄り添ってきたのだ。
「…ッゼル、ダ」
「……いいです、よ」
「ーーー」
胸にすり寄せてきた頭を持ち上げ、翡翠の瞳が下から見上げてくる。
布越しとはいえ、密着してしまった身体から伝わる、ふわふわと柔らかい肌の感触。
「プルアがそんなものを作ってるなんて知りませんでしたけど…でも、リンクが恋人らしい事をしてくれなくて寂しいと、プルアに言ったのは、私ですし…」
そこまで言って、また恥ずかしそうに胸の中に顔を埋める。濡れそぼった金の髪からぴょこんと覗く耳が、真っ赤だ。
あぁ、何て、可愛らしい生物なのだろう。
恋人らしい事をしたいと、女性の貴女が思うのと。
男である自分がそれを思い描く事とは、全く別物なのだという事を、貴女は微塵も分かっていらっしゃらない。
こうなったら、もう知るものか。
俺は洗いざらい話した。その保湿剤の本当の効果も。
今の自分の現状も。
それでも、離れなかったのは、ゼルダの方だ。
頭の中の卑しい雄の部分が、言い訳がましく理性を説き伏せた。
俯いた顔にそっと手を添え、上を向かせる。
「…リン、ク」
視線が絡まって、ゼルダが大きな瞳をパチパチとしばたかせた。
温泉でのぼせたのか。それとも香水の効果なのか。
潤んだ翠の瞳が、突然の恋人の豹変に、戸惑いさ迷う。
今更、驚いた顔をしたって、もう遅い。
ふっくらとした美味しそうな桃色の唇に。
リンクは躊躇うことなく、かぶりついた。