和パロリンゼル【救いは 誰がために~後編~】穏やかな風が吹いていた。
遠くの方で、風車がゆっくりゆっくりと回っているのが見える。
のどかな景色の中で、青年は畑を耕していた。
何度も何度も土に鍬を入れ、泥にまみれた手で額に滲む汗を拭う。
作業も一段落し、少し休憩を入れようかと思っていたところで、遠くから青年を呼ぶ声があった。
「おぉおーーーい」
大袈裟に手を振ってこちらに向かってくるのは、体格も大袈裟なくらいデカイ、岩のような大男だった。
「おぉ、今日も精が出るな。すまねぇ、邪魔しちまったか?」
「ううん、今からちょうど休憩しようかと思ってたところ」
彼は青年がここに来た時からなぜか青年の事をいたく気に入り、そこから何かと色々面倒を見てくれる、大層世話になっている人物だ。
「それで…何か用事だった?」
「おぉそうだ、これなんだが…」
そう言うと、男は懐をゴソゴソと漁り、何やら紙切れのようなものを取り出した。
どうやら手紙であるらしいそれを、青年の前に突き出す。
「さっき村の入口にいたやつが、これをお前にって」
「俺に…?」
「そうだ。すぐそこに本人がいるから、会っていけよってそいつに言ったんだがな…ふり返ったらもういなくてよ。何だか鳥みてぇな奴だったな」
知り合いか?と聞かれ、青年は曖昧に笑った。
「どうだろう…?とにかく手紙届けてくれてありがとう。後で読んでみるよ」
「おぉ、これくらいお安いご用よ」
大男はゴツゴツした手で、まかせろ!とばかりに胸をドーンと叩くと、来た時同様また大きく手を振って向こう側に歩いていった。
男が完全に立ち去ったのを確認してから、青年は手紙の封を切る。
中には1枚の紙と、そこに綴られた短い、たった一文の文字。
だが青年は、丁寧にまたその紙を折って仕舞うと。
やがて風のように、その場からいなくなった。
ゆらゆらと、輿に揺られていた。
覗き窓から外の様子を伺えば、見慣れない景色が緩やかに流れていく。
ゼルダは、とある尼寺へと向かっていた。それも、ハイラルの屋敷からかなり離れた、遠い場所にある。
街の喧騒が聞こえぬ静かな土地で養生をしてきなさいと申し渡され、家を出たが。これは事実上の出家である。
ゼルダがあの家に戻る事はきっともう、ない。
…今さら、どの面を下げて帰れと言うのだろう。
次から次へと舞い込んできていたゼルダの婚礼の話は、全て白紙となった。
1番の原因は、やはりゼルダの体調が戻らなかった事だ。
婚約するはずだった男から婚姻を結ぶ前に操を奪われそうになって、ゼルダはますます塞ぎ込むようになった。
睡眠も十分に取らず、食事もろくにせず。そしてついには、医者からの警告を受けた。
このままの状態が続くのならば、やがては命を繋ぐ事さえも難しくなるだろう、と。
自分の命を保つ事すら難儀している女に、新しい命を紡ぐなどという大義が成せるはずもない。
かの婚約者の男でさえも、ゼルダの変わり果てた姿を見て顔をしかめたほどだ。
窪んだ瞳。痩けた頬。骨と皮だけしか残っていないような、細い手足。
見るも無惨な姫に、男は吐き捨てるように言った。
お前との婚約は、破棄させてもらう、と。
結局のところは皆、世継ぎしか望んでいない。
赤子を産めぬ女に、砂粒ほどの価値もないのだ。
ゼルダそのものを愛し、慈しんでくれる人間など…あの場所には、どこにもいない。
「リンク………」
呼んでも、例え声の限り叫んだとしても、決して届かぬ名を呟く。
もう、名を呼んでも…彼がゼルダの元に来る事はない。
自分が、声も拾えぬほどの遠くの地へ、彼を追いやったのだから。
それでも、生きてさえいてくれれば良いのだと、思っていた。
例え2度と会えなくてもそれでいいと、言い聞かせてきた。
でも…彼の事を忘れる事は、どうしてもできなかった。
いつも最後に呼ぶのは、彼の名ばかり。
孤独と寂しさに心潰れそうな夜も、恐ろしい夢にうなされ飛び起きる時も。
あの時、彼の名を呼ばなければ。彼は今この瞬間も側にいてくれたのだろうか…?
おとなしくあの男に抱かれていれば、彼は追い出されずに済んだかもしれない。
例え体は他の男のモノになったとしても、彼はずっとずっと側で、仕えてくれただろうか。
彼、ならば…姫としての価値がなくなった私でも、愛して…くれただろうか?
後悔してももはやどう仕様もない事ばかりが、脳裏に浮かんでは過ぎ去っていく。
そう、もう全ては手遅れなのだから。
彼は、行ってしまった。
うっかりと海の中に落としてしまった、美しくも大切な思い出の貝殻。
たった一粒の貝殻は広い海原を揺蕩い、もはや再び見つける事は叶わない。
ゼルダの手放してしまったものは、そういうものなのだ。
どれだけ想い続けても、宝物だった思い出はゼルダの手に戻る事はない。
でも、それでも。
(リンク…リンク………)
癒しと救いを喪い、姫としての存在意義もなくしたゼルダは、答えの返らぬ名を呼び続け。
輿の中でただゆらゆらと、揺れ続ける。
寺に入ってからも、ゼルダの生活は屋敷にいる時とほとんど変わらなかった。
体の調子が良い時は寺の者達の手伝いなどをすればよいと言われていたが、ゼルダはここに来てからずっと部屋の中で伏せったままだった。
最初こそは寺の女達も心配し、看病をしようとしたり医者を呼ぼうとしたが、これは持病のようなものであるので構わなくて良いと伝えれば、そのうち誰もゼルダの様子を気にする者はいなくなった。
定期的に食事が運ばれ、あとは生存確認をするため様子見に来る者が数人。
同じ部屋で、同じ事の繰り返し。
まるで、からくり人間のようだ。
この寺も、とんだ厄介者を預けられたものだと思う。
どこにいてもやる事は変わらないのならば、寺に迷惑など掛けずにそのまま屋敷に留まれば良かったのではないかと思うのだが。
責の果たせぬ姫が屋敷の中に居座ると、周囲からのやっかみが酷いのだ。だからゼルダは、この寺に送られてきた。
ここにいても、あの屋敷にいても。ゼルダを人権ある者として扱う人間はいない。
姫とは名ばかりの、ただそこにいるだけで害を成す生き物なのだ。
それでもインパなどはゼルダをとても心配し、自分の時間の隙間を見つけては、わざわざ会いに来てくれたりしていた。
でも、彼女だって忙しい。ゼルダの部屋に来る頻度が徐々に少なくなり、側にいてくれる時間が短くなっていくのに気付きながらも。
役目を全うできぬこの私のせいで、婚約候補に上がっていた豪族達との中継ぎや、これからのハイラル家のために日々翻弄する彼女を見ていると、寂しいと言う事など…できなかった。
ただ1人の姫である自分が子を産まねば、ハイラル家を継ぐ者はいなくなる。
家を存続させるためには、父であるロームが新たな妻を娶り子を産ませるか。あるいは誰か信頼できる者に、家を託すかだ。
父はリンクかインパの事を非常に信頼していた。
しかしリンクは屋敷からいなくなってしまった。そうなるとやはり有力候補として上がるのは、インパなのだろうか。
彼女は、もしかしたら。出来損ないの姫の身代りとして、ハイラル家のために子を産まされる事になるのかもしれない。
そう考えるととても気の毒で、悪い事をしたと謝りたくなるけれども。しかし自分にはもう、彼女に何かをしてあげられる力もない。
リンクもインパも、容易く未来を奪われてしまった。
姫に、ハイラルに仕えていたという、ただそれだけの理由で。
自分が一体どれほどのモノを喪ったのかも、もうよく分からない。
大切な人達も、姫としての尊厳も、帰る家も。自分という存在を世界に留めておくために必要だったモノは、もう全部。
自分は今まで何のために、生きてきたのだろう。
しかしそれさえも近頃は、どうでも良くなってきた。
徐々に、床から起き上がる力も失ってきている。
全ては、虚しい。
もう、いいでしょう?と、頭の中で誰かが囁いた。
そう…もう、いい。
あの人が、生きてさえいてくれれば、それで良いと思っていたけれど。
しかしゼルダが聞いたのは、リンクを死んだ事にするという情報だけで。彼が本当に生きているかどうかだなんて、ゼルダには知る術もない。
彼だって、本当は死んでしまったのかもしれない。
私がただいつまでも未練がましく想い続けているだけで。
もう、この世のどこにもいない人なのかもしれないではないか。
(だから、もう、いい)
ゼルダは、静かに瞳を閉じた。
このまま、眠ってしまおう。
例え…2度と目覚める事が、なくとも。
カタン…という音で、目が覚めた。
誰だろう…?また寺の女達が、ゼルダが息をしているのかどうかを確認をするために、部屋に訪れたのだろうか。
しかし、自分では目が覚めたと思っていたが。視界はひどく霞んでいて、一体誰がそこにいるのか、ゼルダには全く分からなかった。
時間の感覚などとうの昔に失くなっていたが、周囲が暗いから今は夜なのだろうか…?
それすらも定かな事なのか、ゼルダには判断できなかった。
のろのろと、首だけを横に向ける。
すると、先にある窓を背に、やはり誰かが立っているのが見えた。
外から差し込む月の光とぼんやりとした意識のせいで、ゼルダはそれをただの黒い影としか認識できなかった。
誰…?
声を出すのも億劫なゼルダの問いに、影は答えた。
「姫様……」と。
ドクン…ッと、心臓が跳ねる。
色も形も正しく映していなかったゼルダの世界に、急速に色彩と輪郭が甦り。
ドクンドクンと、しばらく巡る事を忘れていた血潮が全身を駆け回る。
起き上がるのも辛かった体を、肘をつき、必死になって起こした。
嘘…、嘘だ………
あり得…ない。
こんな所に、いるわけがない。
けれど、機能を取り戻したゼルダの網膜に焼き付き、瞬きを繰り返しても消えはしなかった人。
鈍く輝く黄金の髪と。冴え冴えと降り注ぐ月光に照らされた、蒼き瞳。
彼は、忍の装束でもなく。小姓の服装でもなく。
ゼルダが見た事もない、異国の衣に身を包んでいた。
「リン、ク………??」
もはやゼルダの中で影絵ではなくなった彼が、答えるために口を開くのが見える。
呼ばれた名に、返事をする。
「……はい、姫様」
忘れるはずもない、声。
忘れた事など、一時もなかった。
ずっとずっと、呼び掛けていた。いつか応えてくれるのではないかと、ずっと待っていたから。
(リンク、リンク!会いたかった、会いたかった…!)
「嘘……、だって、あなたがこんな所に…いるはずが、ない ……」
焦がれていた人にようやく会えて嬉しい気持ちと。
そんな事があるわけがない、という信じられない気持ちが。交互にゼルダの胸に押し寄せてきて、心は嵐のように吹き乱れていた。
無意識の内に、ボロボロとあふれてくる涙。
そうだ。こんな都合良い話があるはずがない。
これは、死にゆく私が最後に見る、幻なのだ。
もしくは、あるいは…
「ひょっとしたら、私はもう…死んで、しまったの…?」
冥土の旅立ちに迎えにくる死神が彼なのならば、神様は何と粋なことをしてくれるのだろう。
すると彼はこちらに近付き、私の冷たくなった手を取って包み込み、こう言ったのだ。
「はい、姫様」
リンクの微笑みは変わらず、穏やかだ。
優しく、心から安心できるその笑みの中に、寂しさを漂わせて。彼は言った。
「あなたは…ここで病に伏せられ、命を落とされます」
「え………」
突然伝えられた言葉の真意を呑み込めず、呆けた顔で聞き返す私に。彼は一瞬何かに耐えるように下を向き。それから意を決したように顔を上げ、言った。
「あなたは…姫でもなく、生きている人でさえ、なくなってしまった……だから。だか、ら…」
震える声。眉を歪め、今にもその頬に雫が伝うのではないかというような、泣きそうな顔をしているのに。
彼は無理やり笑って、私に告げる。
「だから、俺に……拐われて、くれませんか?」
「え………?」
拐う…?リンクが、私を…?
一体どう返事をすればいいのか分からなくて、しばらくの間固まってしまう。
けれど、じっと注がれる、切なくも必死な熱いリンクの視線を受けていると。体は勝手に動いた。
「嬉しい……」
リンクの首に両腕を回し、酔いしれるようにその耳に囁く。
「はい…私を、拐っていってください」
あなたになら、拐われたって構わない。
遠い、異国の地でも。例え、死の世界に…だったとしても。
肌の上を、最後の一粒の涙が滑り落ちる。
「ずっと、側にいてください。もう…どこにも、行かないで…」
その夜、蒼き光が照らす月の空に。1つの影が、飛んだ。
その腕の中に、宝物のように大切に抱えられた姫は。
幸せそうに微笑み。眠っていた。